昨日の朝の「終戦の年に生まれた兄の享年は67歳であった」には、姑のことを書いた。
終戦の年に生まれた亡兄のことを書いていたのだが、いつのまにやら、かつて私の恨みつらみの源であった姑のことにも気持ちが移って書いてしまった。
が、これは嫁の私からの言い分である。
姑には姑の言い分があったはずである。
私達が結婚した当時、団塊世代の私達女性には適当な年齢の男性は半分くらいしかいなかった。
だから、男性側からは選り取り見取りであった。
その中でも、高学歴、高身長、さらに美男子でもあった私の夫には、多くの候補者がいた。
その中から、よりにもよって当時から多少難聴でもあった私を娶ることなどなかったのだ。
姑の、その不満は大きくて、結婚してからも、いろいろ嫌味を言われた。
かてて加えて、私の母は、そのころから生け花の師匠として中四国、あるいは全国を飛び回っていて、娘の私のことなどかまっていられなかった。
私が熱を出して寝込んだときなどは、姑に頼まなくてはならなかった。
それが余計、姑の強気の原因にもなった。
という事情もあったのだ。
実際、姑には何度か急場を助けてもらった。
現代のように、連れ合いが奥さんの体調不良に仕事を休むということは考えられなかった時代だったから。
また、そういう時代であったとしても、仕事至上主義の夫は仕事を休んでくれなかったと思う。
それを思えば、姑には感謝しないといけないし、私達に対する無理難題も飲まなければならなかった。
子育てのさなかは義母に頼むしか術あらざれば頼みしことも
ところで、今回帰省して、母の実家にも行ったわけだが、母の実家は、現在、母の弟の奥さんが守ってくれている。
この義理叔母は、私が行くたびに、過去の苦労話をする。
それは、私の祖母が難しい人だったから苦労したという話だ。
私は、この義理叔母は、早世した叔父に代わり、よく祖父母に孝養を尽くしてくれたと感謝しているが、しかし、孫の立場から言わせてもらうと、祖母には祖母の言い分があったと思う。
というのが、この義理叔母の実家はサラリーマン家庭で、しかも6人兄弟だったため、嫁入りのときに、家具は持参してきたが、着物類はほとんど持参していなかった。
義理叔母の下に育ちざかりの5人の弟妹がいたから、そこまでの余裕はなかったのだろう。
母の実家は生糸工場を営んでいた事情もあって、知り合いには着物にうるさい人たちがいた。
それで、これも今では考えられない風習だが、結婚前は、その調度品の品定めに来たりした。
それで、祖母は大急ぎで、義理叔母のために着物をたくさん新調してあげた。
箪笥が空っぽでは笑われるからだ。
そういううるさい人たちに対する配慮でもあったと思う。
その後も、祖母は、私に着物を作ってくれるときなどは、必ず、この義理叔母にも着物を作ってあげたりしていた。
難しいことも言ったかもしれないが、祖母は祖母なりのやり方で、この義理叔母に尽くしていたと思う。
が、嫁の立場からすれば、難しいことを言われたことばかりが記憶され、過去の苦労話になっている、と思われる節も見られる。
この義理叔母のお父さんは転勤族で、他県の人であったことも、古い考え方の祖母には受け入れがたいところもあったかもしれない。
が、美人で賢く働き者の義理叔母は、叔父が惚れ込んで頼み込んで来てもらった人でもあった。
従弟は、早く亡くなってしまったが、医師になったし、その子供達三人は、一人は女医、一人は公立医大副学長の家に嫁いで、跡取り息子は獣医になったのも、この義理叔母が賢い人であったのが関係していると思う。
嫁姑は、お互い敵になりやすい。
姑側は、こんなにしてやったのにという思いがあるだろうし、嫁のほうは、こんな犠牲を払わされたという恨みを持ちやすいから。
私の実家も、現在、いろいろあるが、どちらにも言い分があると私は見ている。
こんなにもしてやつたとは姑の、こんなにもされてきたとは嫁の言ひ分
が、我が家の場合も、母の実家の場合も、私の実家の場合も、いずれも、その姑が孫をたいそう可愛がったという共通点がある。
姑も、私には厳しかったが、私の娘や息子は、これ以上ないくらい可愛がってくれた。
それを思えば、感謝しかない。
終戦の年に生まれた亡兄のことを書いていたのだが、いつのまにやら、かつて私の恨みつらみの源であった姑のことにも気持ちが移って書いてしまった。
が、これは嫁の私からの言い分である。
姑には姑の言い分があったはずである。
私達が結婚した当時、団塊世代の私達女性には適当な年齢の男性は半分くらいしかいなかった。
だから、男性側からは選り取り見取りであった。
その中でも、高学歴、高身長、さらに美男子でもあった私の夫には、多くの候補者がいた。
その中から、よりにもよって当時から多少難聴でもあった私を娶ることなどなかったのだ。
姑の、その不満は大きくて、結婚してからも、いろいろ嫌味を言われた。
かてて加えて、私の母は、そのころから生け花の師匠として中四国、あるいは全国を飛び回っていて、娘の私のことなどかまっていられなかった。
私が熱を出して寝込んだときなどは、姑に頼まなくてはならなかった。
それが余計、姑の強気の原因にもなった。
という事情もあったのだ。
実際、姑には何度か急場を助けてもらった。
現代のように、連れ合いが奥さんの体調不良に仕事を休むということは考えられなかった時代だったから。
また、そういう時代であったとしても、仕事至上主義の夫は仕事を休んでくれなかったと思う。
それを思えば、姑には感謝しないといけないし、私達に対する無理難題も飲まなければならなかった。
子育てのさなかは義母に頼むしか術あらざれば頼みしことも
ところで、今回帰省して、母の実家にも行ったわけだが、母の実家は、現在、母の弟の奥さんが守ってくれている。
この義理叔母は、私が行くたびに、過去の苦労話をする。
それは、私の祖母が難しい人だったから苦労したという話だ。
私は、この義理叔母は、早世した叔父に代わり、よく祖父母に孝養を尽くしてくれたと感謝しているが、しかし、孫の立場から言わせてもらうと、祖母には祖母の言い分があったと思う。
というのが、この義理叔母の実家はサラリーマン家庭で、しかも6人兄弟だったため、嫁入りのときに、家具は持参してきたが、着物類はほとんど持参していなかった。
義理叔母の下に育ちざかりの5人の弟妹がいたから、そこまでの余裕はなかったのだろう。
母の実家は生糸工場を営んでいた事情もあって、知り合いには着物にうるさい人たちがいた。
それで、これも今では考えられない風習だが、結婚前は、その調度品の品定めに来たりした。
それで、祖母は大急ぎで、義理叔母のために着物をたくさん新調してあげた。
箪笥が空っぽでは笑われるからだ。
そういううるさい人たちに対する配慮でもあったと思う。
その後も、祖母は、私に着物を作ってくれるときなどは、必ず、この義理叔母にも着物を作ってあげたりしていた。
難しいことも言ったかもしれないが、祖母は祖母なりのやり方で、この義理叔母に尽くしていたと思う。
が、嫁の立場からすれば、難しいことを言われたことばかりが記憶され、過去の苦労話になっている、と思われる節も見られる。
この義理叔母のお父さんは転勤族で、他県の人であったことも、古い考え方の祖母には受け入れがたいところもあったかもしれない。
が、美人で賢く働き者の義理叔母は、叔父が惚れ込んで頼み込んで来てもらった人でもあった。
従弟は、早く亡くなってしまったが、医師になったし、その子供達三人は、一人は女医、一人は公立医大副学長の家に嫁いで、跡取り息子は獣医になったのも、この義理叔母が賢い人であったのが関係していると思う。
嫁姑は、お互い敵になりやすい。
姑側は、こんなにしてやったのにという思いがあるだろうし、嫁のほうは、こんな犠牲を払わされたという恨みを持ちやすいから。
私の実家も、現在、いろいろあるが、どちらにも言い分があると私は見ている。
こんなにもしてやつたとは姑の、こんなにもされてきたとは嫁の言ひ分
が、我が家の場合も、母の実家の場合も、私の実家の場合も、いずれも、その姑が孫をたいそう可愛がったという共通点がある。
姑も、私には厳しかったが、私の娘や息子は、これ以上ないくらい可愛がってくれた。
それを思えば、感謝しかない。