Yesterday never knows

Civilizations and Impressions

文明と価値19(新しい労働の形は古代ギリシャ化?)

2023-02-25 12:37:49 | 論文

 高齢少子化の状態は老若男女全員の労働力化として※1、日本経済における過渡期の状況として現れざるを得ない。労働力化による供給力が、医療費等の増大に追いつかなければ福祉、医療費の増大で財政赤字は増え続けていくのだろう。前者は「働き方改革」、後者は準市場体制※2でカバーするとはいえ、「公的負担は増加」せざるをえないであろう。公的負担は所得の再分配でもあり、内需を高めることもできれば、経済成長を維持することもできるが、医療費に流れる公的負担は、内需を高めることにはつながらないのかもしれない。

 

※1 老若男女全員の労働力化

 少子高齢化は、しばらくは労働力率を低下させる。この状況をカバーするために、ロボットの導入や移民が考えられるが、現時点からしばらくは老若男女全員の労働力化「一億総活躍社会」が図られる時期であろう。年金の支給開始時期との関係のためだが、移民の安易な導入は後に社会問題を残す恐れがある。むしろ外国からは能力ある人材が集まってくることが望まれ、そのような魅力が現在の日本には求められている。そうした魅了化の一つとして国連大学本部が東京にあることを活かし、国連大学を中心とした世界政策の学問の府を日本に建設することもあるだろう。

 ロボットの導入や移民の協力を得たとしても、すべての日本人の老若男女を労働力化するのは無理であろう。少子化からの回復に従い、年金支給開始時期があまりに遅くならないような形で、経済が回っていくようにしていくことが理想かもしれない。

 

 ※2 準市場体制

 医療保険や介護保険が高齢少子化社会ではおそらくは財政的にひっ迫してくる。労働力率に大きく依存しているからだ。これら保険制度は保険料と公的負担によって人工的に市場が創生されてきた業界である。保険料による負担が足らなくなるのであれば、公的負担によって支えることになるが、日本の場合、マクロ的な意味においては海外資産を持っている民間からの税(国債)の収集ということになってきた。しかし外国の影響力によって海外資産が失われたらそうしたこともできなくなるので、日本がいずれ(外交による安全保障関係を主にするにしても)軍事力を高めていくことはさけられないのかもしれない。そういうことを考えると国内にある程度、産業(特に製造業)が残っていることは重要であり、円高よりも円安の方が理想的なのかもしれない。医療や介護保険を支える準市場体制はあくまで実質的な市場体制の上に成立しているものだからである。それぞれ経済の一部を構成しているが、より本質的な経済基盤という概念があるべきなのであろう。

 

 こうした不安定性を大きく変える可能性があるのは「新産業革命」であり、これに成功すれば、あるいは労働力不要の経済にさらに近づくことになる※1。そのことによって、むしろ公務の内容が改めて問い直されることになるのかもしれない。現在、公務といわれている業務がワークシェアリングされる時代※2になっていくことも考えられるだろう。ベーシックインカムと公務、準公務のワークシェアリングである。その様相は、大まかには古代ギリシャ的なものになっていくのだろうか。

 

 ※1 労働力不要の経済

 AIが特殊汎用化、一般汎用化と進展していくにつれて民間にはC(creative)、M(management)、H(hospitality)以外の人材以外は不要になるという意見がある。そうなると産業に投入される要素は資本要素と技術要素のみということに近づくわけである。そうなると人間は生産要素から収益だけもらい、余暇を過ごすようになるという極端な仮説も生まれてくる。しかしそこまでにはならず、しだいになんらかのかたちでワークシェアリングが生まれてくることがむしろ予想されるのではないだろうか。労働も人間の欲求のひとつであるからだ。その一つの業種が公務もしくは公共的な業務だろう。

 

※2 公務という業務がワークシェアリングされる時代

 公務の多くの部分は高齢少子化の時代には医療保険や介護保険によって支えられた準市場によって制度設計される。しかしこれらは福祉も含めてしばらくは多くの部分を公的支出によって支えられなければならないのかもしれない。しかしそうした保険、福祉以外でも生活に身近な公務はたくさんある。そうした公務も現在においてもまだ比較的少数の人間によって担われている。(例えば15万人単位の都市で防災担当者が1~2名など)、まだまだ多く地域でボランティアが必要な状態である。その一方でボランティアという奉仕活動はめんどくさいだとか、しがらみがあったりするので、そうしたボランティア的なことも含めて公務あるいは公共的業務が職業としてワークシェアリングされていくのではないだろうか。北欧などを参考にして、公務というものを再定義して、業務としてワークシェアリングしていくことが必要になってくる、ベーシックインカム+ワークシェアリングで生活が成り立つ社会というわけである。

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文明と価値18(新しい学問と新しい憲法)

2023-02-19 08:12:56 | 論文

 一方で新しい学問とは、新しい民主主義とも関係があるが、「技術的効率力と社会構造力の落差を埋めるような学問」がその中心になってくるのではないかと思われる。

 それは別の角度から見ればAIの発展に対抗できるように、人間の知が結集できるような仕組みを作ることかもしれない。そうしたものの一つとして政治、行政の首都とは別の意味において「学問の首都をリアルとヴァーチャルを結合させて創出する」というようなことも考えられるだろう。

 あるいは国際機関としては地味な方ではあるが、日本には国連大学の本部がある。国連大学をさらに充実させて、政策の基礎となる学問を形成していく場となれば、日本の国際的な価値を高めるであろうし、国際的にも意味のあることかもしれない。世界から日本に優れた人材を集める契機にもなることだろう。

 

 新しい学問というとニューエネルギーやバイオテクノロジーあるいはそうした新しい科学の融合の方が注目されている。しかし今回の第2次大産業革命の中心にくるものは「頭脳の機械化」である。そしてその背後には、科学技術の発展に対して相当遅れをとっているであろう社会科学の進化の問題があるのではないだろうか。社会科学に総合性や特に力学の要素を採り入れることが重要であろう。社会科学と自然科学の発展の速さに大きな差が生じてきた大きな原因の一つが力学の考え方をとりいれたかどうかにあったように思われるからだ※。力学は古典力学から量子力学に発展し、その他の学問にも多大な影響を与えてきた(物理学帝国主義ともいわれてきたが)。

 

※社会科学と自然科学の発展の速さに大きな差が生じた大きな原因の一つが力学の考え方をとりいれたかどうかにあったように思われる

 社会科学においても力学的な考え方をとってきたように思われるジャンルも実は存在する。経済学がそうであろう。経済学でいうところの経済成長率、金利、物価、投資、貯蓄といった概念は数値、量としてとらえられてきたが、こうした概念は一つの力としてとらえることもできたのかもしれない。確かに経済学、特に古典派経済学は社会科学のジャンルの中で物理学帝国主義と同じような役割を果たしてきた。これには劣るかもしれないがマルクス経済学にも古典派経済学とは異なった力学が背景にあった。物理学の世界においても、統計学がその一角を占めるようになってきたが、統計学にその基礎を依存しなければならない社会科学においてもこのことは何らかの示唆を与えるものかもしれない。ある意味、物理学も偏った一つの世界観であるように、経済学も偏った一つの世界観にすぎない。しかしその世界観を現実の世界に実現しようとしたことこそグローバリズムだったのではないだろうか。そういう意味で我々の住む21世紀は共産主義が強い力をもっていた20世紀に引き続いて、今までのところ経済学帝国主義の時代であったといっていいだろう。それを克服するものとして「文明学」の時代が起こるのではないだろうか。

 

 このように、新しい民主主義、新しい学問が台頭してくるとしたら、今までの憲法改正論議だけではあまり意味がなくなる※1のかもしれない。ここらへんは他の国の動き※2も注視しておく必要があるだろう。

 

 ※1今までの憲法改正論議があまり意味をなさなくなる

 今までの憲法改正論議は日本の独立性、主体性を高める形で検討されてきたが、統治主体と国民の関係が間接的、意識的な民主主義から直接的、無意識的な民主主義に変わることが憲法改正の中心的な論点になってくると思われるからだ。そうした民主主義の理念のどちらをとるかによって平和主義の考え方にも影響があることだろう。大きくは平和という理念をとるのか、すでに大量に蓄積された海外資産(これは国内の財政状況と深い関わりがあるが)の防衛をとるのか、こうした戦前にも通じる問題も民主主義のフィルターの種類によって答えは変わってくることだろう。

 

※2 他の国の動き

 このような直接的、無意識的なアプローチを強権体制下で、構築していこうと意識的にやっているのが中国である。ただ中国は共産党支配という前提で進めているので、この新しい民主主義が技術的に可能になっても、強権支配の道具として利用される危険性が当然あるわけである。こうした理由のため、分権化という意味においてAIと対抗関係になる学問の府のようなものの新たな設置が考えられるわけである。価値が偏った一つの党にあるのか、価値が学問の府にあるのかということであるが、学問の府といっても現在の状況では不完全さが残る。あるいは現在の間接的な民主制も、部分として残っていくことも予想されるだろう。三権が分裂し、四権、五権分立になっていくわけである。

 

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文明と価値17(民主主義の進化について)

2023-02-12 09:47:39 | 論文

 まず新しい時代の文化とは、今までのそれとは異なった形による民主的文化のようなものになるのではないだろうか。すでにSNSが旧メデイアに対して大きな影響を及ぼし始めていることを、2021年のアメリカ大統領選からは感じられた。しかしおそらくそれはそのような影響にとどまるものではないだろう。現在の選挙のように間接的、意識的な民意集約※1ではなく、より直接的、無意識的に民意集約※2を図ることが可能になってくる。それはAI を中心とした ICT、ビッグデータによる新技術を基盤にする民主主義に近づいていくのではないだろうか。今までの民主主義は争点を単純化し、票のとりまとめにより、有権者の不満を回避していくという、いわば受け身の民主主義であった。それに対し、これからの民主主義では有権者の要望はある程度、コンビニのようにデータで回収される。そうしたデータをより説得力ある形で解読する者または機関が、行政と立法の間に立つというようなことになっていくのではないか。

 

 民主主義の性格が間接的、意識的なものから、直接的、無意識的なものに代わっていくことは、民主的文化の性格や内容をも変えていくことだろう。デモや演説といったパフォーマンス、政治的パフォーマンスの背景にある権力闘争といった劇場的な活動(政治家はある意味で演者である)はしだいに説得力を持たなくなっていく。それに代わって、例えば国民所得、金利といった数値(一種の力学的指標ともいえる)の変化に応じて、自動的に保険料率が変わる※3。あるいは政治を介さない、法律を減少させたような形※4の民主主義になっていくのかもしれない。

 

※1 現在の選挙のような間接的、意識的な民意の集約

 間接的とは、地域性から離れていくほど、つまりは国会議員になっていくほど、その代表性は擬制的なものになることをいっている。国会議員の代表性とは地域から選出されるにもかかわらず、それが全国民の代表であるとみなされているわけである。これを微調整するため比例代表制で政党を選択できるような仕組みも出てきた。これに対して意識的な民意の集約とは、市議、県議などの議員の活動が国会議員の票の積み増しに関係していくが、その過程で民意の取捨選択あるいは査定が行われることをいう。現代においては無党派層が多く、この面での機能低下は大きいのかもしれないが、政治のポピュリズム化と深い関わりあいのあるところだろう。無党派層の歓心を買うために政策を公表するわけであるが、本来必要とする政策ではなかったりすることもある。

 

※2 より直接的、無意識的に民意集約

 直接的とは、国民や住民の要望をデータで収集し、何が必要か判断するわけであるが、国民や住民のプライバシーが侵されるといった問題があるかもしれない。収集によるデータによっては無意識に必要としている要望まで把握することが可能になるかもしれない。国会議員の全国民の代表者という擬制よりも、国民や住民の要望はより効率的に、的確に算定することはできるかもしれない。プライバシーが侵されることによるデメリットは、それによって得られるメリットよりもおそらくは大多数の大衆には少ないのかもしれない。

 

 むしろ国家と有力な個人の権利の衝突が対抗関係になるのだろう。どちらかというと民主制の問題よりも個人主義との間により重要な問題が控えているのである。しかしこうした個人の人権の問題も憲法の規定によってそれぞれ保障の程度は決まっている(例えば内心の自由は行動の自由より保障されるとか、表現の自由は財産的な自由より保障されるだとか)。また違憲立法審査権がある限り、個人としての権利も保障することはできるわけである。例えば国家が国民のデータを収集して、それを憲法の規定と異なる形で利用した場合、国家は司法権によって裁かれるわけである。

 問題はAI、データ化時代にどのような憲法体系を持ち、その中で司法権なり立法権がどのような能力を持つのかということだろう。

 

※3 例えば国民所得、金利といった数値の変化に応じて、自動的に保険料率、税負担率が変わる

 AI、データ化時代に深く関係してくることは、人間社会の多くのことが数値によってより正確に把握できるようになってくることであろう。つまり今まで以上に制御可能なジャンルが増加していくということである。

 このことが特に比較的早く反映されてきたのは、経済の部門であった。久しくデータ化が進んできたジャンルといっていい。経済学は20世紀において、あるいは21世紀においても引き続き「資本」という概念を中心において独善的な世界観を築いてきたが、ここへきて変化も見せ始めている。グローバリズムとは資本、物、人の移動を自由にすることにより、資源の有効な活用を通じて世界に繁栄をもたらすと考えられてきた。しかし実際には格差社会が世界の隅々まで発生する結果となった。格差の是正は従来型の民主主義ではできなかったわけである。

 この問題には二つの論点がある。グローバル、文明、国家どのレベルに経済世界の単位を求めるべきかという問題がその一つである。そしてどうやら文明がそれになりそうな気配をみせつつあるということ。またこうした状況は中国やインドの台頭とも関係を持ってくるように思われる。中国、インドは国家にして文明という存在である。そういう状態であるから文明の分類の上でこの二つの文明はローカル文明に含めた。統合へと結びつけている要素が契約ではなく、家族文化的なもののように思われるからである。

 もう一つは従来型の民主主義を改良した制度は国家において採用される可能性があるということだろう。この改良型の民主主義は、議員の議論によって保険料率や税率が決定される社会ではない。国民所得や金利、物価上昇率といった数値によって自動的に保険料率や税率が調整されるような社会になっていくというわけである。国民の様々な問題を(国民が理解できない)複雑な法律によってではなく、いわば自動運転のように決定される社会が到来しようとしているのではないか。自動化されるのは車だけでなく、社会そのものでもありえる。この方向性はスマートシテイ化とも適合するし、世界経済的な調整についても、民主主義よりも解決方法として適合性を持っているように思われる。つきつめると調整者として政治家も公務員もいらない社会が到来し、税金もかなり少なくなりうる。しかし民間でも労働力は次第に不要になっていくので、民間と公務のせめぎあいの中で労働力の在り方が決まってくるのかもしれない。

 

※4 政治を介さない、法律を減少させたような形

 ヨーロッパ文明の躍進を生んだのは、民主主義の制度と産業革命だといわれている。とりわけ、イギリスの歴史は第一次産業革命の発端であるので、民主主義の発展と産業革命がどのように関係したか明瞭には見えにくいのであるが、それだけに第二次産業革命の発端について考えるにあたって、参考になるように思われる。第二次大産業革命が生じてくるにあたり、国家、政府に統制力があった方がいいのか、少ない方がいいのかという問題がある。国家、政府においては既得権の維持が統制に深く関わってきた。このため新技術へ移行していくには政治を介さない、法律を減少させた制度空間を意識的に構築した国が一時的に有利になることはありえるかもしれない。産業政策においてそのような瞬間が求められている貴重な時期ともいえる。

 しかしそれにとどまらず、技術的に民主主義を進化させることが可能な時期にさしかかっていることも指摘しておかなければならないだろう。民主主義は間接的なものから直接的なものへ、意識的なものから無意識的なものへと民意を吸収することが技術的に可能になってきている。法律は空白がいいのか、直接的、無意識的なものから民意をくみ上げ法律を形成した方がいいのか、民主主義においても規制と自由の問題が生じてくることだろう。

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文明と価値16(自然災害 外交(アメリカと中国の対立))

2023-02-12 09:20:34 | 論文

※4 自然災害の可能性(地震、コロナ、温暖化)

 日本における、不安定要素として全国どこにでも起こりうる地震がある。しかもこれらの地震は経済的拠点を大きく破壊する可能性がある(関東、南海トラフ)。また今回のコロナ禍や温暖化を原因とした自然災害(風水害)も増大してくることが予想されている。これら天災は、外部的要因であるとともに、ショック性が高いものであり、人間の力で容易に防げるものでもない。したがって日ごろから人災の側面を極力減らしていくことが重要となってくる。資金的には国内的な「ポートフォリオ」の問題であると同時に、第二次大産業革命のあり方とも関係してくる。また都市の将来性や高齢少子化の問題とも関係がある。地方においては県庁所在地などへの人口の集中化(都市部への集中)が見られるが、ある程度集中させた方が医療、防災施設の効率的な構築、維持はできるのかもしれない。ただ集中のさせ方の問題もあるだろう。コンパクトシティが取りざたされているが、環境や住居への影響(あるいは自動車産業への影響)を考えると総合的にはハブアンドスポークの考え方の方が有用性は高いように思われる。都市はどの程度の人口規模が望ましいのか、どのような集積の仕方が望ましいのか、新産業革命における都市のあり方とも関係してくる問題である。

 

※5 外交・軍事 アメリカと中国の対立

 現在の日本にとって外部的要因の中で最も大きなものがアメリカと中国の対立であろう。このため日本はアメリカと中国に目が注がれがちかもしれない。しかしこれから現れてくるのは中国の台頭だけに限られない。世界における文明単位での多極化的な発展であると思われるからだ。そして文明にはいろいろある。ここまで文明、準文明の種類について説明してきた。中国文明に限らず、インド文明、イスラム文明にも目を配り、あるいは他の多くの準文明にも注意を払い、それらを繋いでいくことによって、日本及び日本準文明の安全も保たれるのではないだろうか。そうした中でペリー来航から現在に至る日米関係のあり方について再確認する必要もあることだろう。この同盟関係は国家間の同盟に限定したものなのか、それ以上の何かでもあるのか問われるところである。

 

 新しい時代の文化、学問がまだ明確にならない中で、新社会秩序の青年期の勢力がおそらくは新しい時代の日本を構築するのであろう。新しい時代の文化が何であり、新しい学問がなんであるかがまずは気にかかるところである。

 

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文明と価値15(高齢少子化、財政赤字化、新産業革命)

2023-02-04 10:32:36 | 論文

 

    高齢少子化

 死亡率が低下し、出生率が低下することによって高齢者が増大し、子供が減少し、高齢者の割合が上昇していく現象。高齢者の増大の原因については医療関係技術の発展、子供の減少については独身者の増大、女性の社会進出による晩婚化が挙げられている。出生率の減少の背景には他にも多くの原因があるが、単純に出生率が上がればいいという問題ではない。「生産年齢人口」が適正な水準を保てなければ、高齢者と子供の「両方」を見なければならない、育児世代に大きな負担がかかってくるという問題もある。人口の問題はさまざまな社会状況に影響を与えつつあり、高齢者の増大は地方においては病院の問題などによって、地方における大都市への人口集中を促進している要因ともなっている(例えば北海道における札幌への人口集中など)。

 

 財政赤字化

 それぞれの年度を通じて収支を健全化するよう政府は目標を掲げた(プライマリーバランス)。しかしそのいっぽうで国内の経済成長を維持するために金融を緩和し、かつ様々な理由(バブル崩壊からコロナ禍まで)から財政支出を行ってきた。大量の国債を政府が発行し、それを日銀と日本の銀行が買ってきた。経済成長率が債務増大率より高ければ、税収の伸びで財政赤字は解消される。しかしその前提条件としてプライマリーバランスと債務の借り換えにかかる費用が債務増大率と等しくなることが条件となる。日本はデフレ状況にあり、物価上昇率は低い状況にあるため、国債を発行(名目金利を動かす)しても実質金利が上がらない状況※が続いてきた。日本の国債は大量に発行されてきたがその価格は上がってきた。このようなことが成立しうる背景には二十数年間続いてきた経常収支黒字の蓄積がある。しかし一方でオリンピックの延期、コロナ禍による緊急時における出費をこうした黒字から吐き出してもきた。日本の(海外進出している)民間企業には直接投資等からの収益があり、また国としても大きく外債に頼るまでにはなっていないという状況である。経済成長があってこそ税収が伸び、財政が改善されるのだが、日本においてデフレ経済改善の兆しは見られない状況が続いてきた。こうしたデフレ状況を「世界経済の中世化」とよぶ学者もいるが、海外からの収益の状況は日本国内で投資する意味がなくても、海外において投資することは意味があったということになるだろう。

 経済成長に対して高齢少子化は医療費や社会福祉費用の増大であり、義務的な経費が経済状況と変わらず増加していくという問題を抱えている。こうしてみてくると財政赤字の問題は国における資産の割りふり(ポートフォリオ)をどのようにするかという問題と関係しているようにも見えてくる。海外から得られた経常収支(国内的には人口増大が見込めないため、したがって乗数が低いため、海外に期待するしかない、しかしこの経常収支のバランスもくずれかけているといわれている)をどれだけ国内に回すのか,またはどのように活かすのかということである。ここで新産業革命(第4次産業革命)やグローバルサプライチェーンの再編成の問題が関係してくる。「国内的」に投資する意味もしだいに高まっているからだ。 

 

 新産業革命

 世間的には第4次産業革命と呼ばれている。しかし通常、第2次産業革命とよばれているものは動力源が石炭から石油に代わったものであり、第3次産業革命と呼ばれているものはコンピューター、インターネットに連なるものである。むしろ第1次産業革命と第2次産業革命を合わせ、第3次産業革命と第4次産業革命を合わせた方がいいのかもしれない。それぞれの革命の性質あるいは分類がより明瞭になるからだ。英語でいえばそれぞれIndustrial revolutionにgreatがつくといったところか。この用語法に基づくと第1次産業革命の本質は「機械による肉体労働の代替化」となる。それに対して第2次産業革命の本質は「機械による頭脳労働の代替化」となる。またこの第2次大産業革命の特徴としては新エネルギーの導入や機械とバイオテクノロジーの融合など、同時に多くの科学技術の融合的発展の可能性が見えてきていることが挙げられるだろう。

    しかしその一方で、こうした発展状況の背景には「技術的効率力」に「社会構造力」がついて行っていないという問題が依然として大きな課題として残っている。むしろその落差は拡大しているといっていい。第2次大産業革命の大きな特徴はこうした落差を埋めるために何をしたらいいか、この方面に対しどのようにして機械による頭脳の代替化を進めていくべきか、その方法論と深く関係が生じてくるように思われる。

    民主主義と全体主義の対立はひょっとしたら無意味なものになっていくのかもしれない。あるいは自然科学以上に社会科学に激震が走って、こうした状況は新しい民主主義、社会科学の創造につながっていくこともありうるだろう。

    また先進諸国においては人間の高齢化が進行している。しかしこうした状況も、第1次大産業革命において「機械」を構成する素材が「木材から鉄」へ変化していったように、「人材」を構成する素材が「知能から人工知能」へ変化させていく原因になるのかもしれない。日本のように急激に高齢少子化が先行しているところから、人間に代わる知力、またそれに結び付いた運動力の導入が広範に導入されていく背景となるのかもしれない。必要があるからであり、広範にとは都市、自治体、国全体として公共的な需要となりえるということである。かってイギリスの産業革命において、機械が導入されることができたのは、いろいろな摩擦があったが人間の労働力よりも必要性が優っていたためであった。

 財政赤字との関係では、海外からの収益を来るべき国内における新産業構築のために使うことが必要であろう。しかし現実には法律的な規制や社会習慣などによって困難な面が多いのかもしれない。こうした新しい試みも日本でなく、途上国の方で実験導入する方がコスト的に安く済むという問題もある。AI、ビッグデータ時代の新しい産業、社会科学、民主主義の形成は実は急がなければならない問題である。

 

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