Yesterday never knows

Civilizations and Impressions

文明と価値14(日本の漂流と第4次産業革命)

2023-01-29 08:32:15 | 論文

    現代日本は外部力の影響のため、文化的思想を江戸時代ほどには明確化できずにやってきたし※1、現代の新学問も、かって江戸時代に西洋の学問が当時そうであったようには明確化されていない状況なのであろう。したがって現代日本は江戸時代と比べても、文化的に、学問的に不明確、曖昧な状態の中で応戦してきた状況※2といっていいかもしれない。応戦するための道具が定まっていない、このため日本は漂流しているように見えるのではないかというわけである。

 

 ※1 現代日本は文化的思想を江戸時代ほどには明確化できずにやってきた。

    江戸時代は鎖国の影響もあり、比較的シンプルな形、あるいは土着的な形で文化的思想は変化してきたと思われる。それに対し、第二次世界大戦より前の時期はヨーロッパ、第二次世界大戦より後の時期はアメリカ、ソ連の影響もあり、複雑な形、理念的な形で文化的思想は変化してきた。このため文化的思想は江戸時代のようには明確化されることにはならなかったし、現在もまた舵が取れないで漂流しているような状況といえる。現代の日本が明治維新のようにはならないできた理由の一つである。このことは現代日本が明治維新とは異なる形で改革が行われることを予想させているのかもしれない。

 

※2 現代日本は江戸時代と比べても、文化的に、学問的に不明確な状態の中で応戦している状 況

    江戸時代の幕末には、西洋科学が文化的に、学問的に新しい明確な形で方法論としてあった。文化的には後に後退していくが、科学技術の有用性が比較的明確に判明しやすいのに対して、文化、社会科学の有用性は明確に判明するわけではない。それにもかかわらず、現代においても西洋のそれに依存しすぎているところが多いのではないかと思われる。

 

    日本の漂流は次にきている「第4次産業革命の本質が何であるか」という問題とも深く関係してくることであろう。AIや新エネルギーがもたらす新しい価値もあるが、「社会的構造力と技術的効率力とのギャップ(落差)を埋める」※という場面において、来るべき第4次産業革命の最も重要な意義があるのであり、新しい価値の創造が行われるのではないかと思われるからだ。

 

※ 社会的構造力と技術的効率力とのギャップ(落差)を埋める

 社会的構造力とはある価値に基づいて、社会組織の発展によって生活を改善していく力のことであり、技術的効率力とはある価値に基づいて、技術の発展によって生活を改善していく力のことである。そして価値には広がり、すなわち価値空間がある。技術的効率力の前提にあるものは、自然科学であり、この自然現象を把握する方法論は確実な発展をとげてきた。情報科学、物理学、生物学他さまざまに発展をとげ、それらがクロスオーバーしていく段階に達しつつあるように思われる。しかしこうした自然科学の発展の根底にあったものは何であったのだろう。それは力学(物理学)だったのではないだろうか。力を数字で表現し、利用することによって、生産や移動の能力が大きく高まった、あるいはまだ高まろうとしているといえる。このことは「物理学帝国主義」ともいわれていた。そうした技術的効率力の急激な発展に対して社会的構造力ははたしてついてきたといえるのだろうか。社会的構造力が対象とする分野は政治と行政それに企業組織を含めて考えることができるかもしれない。社会的構造力が技術的効率力より劣っている理由の一つには、それが力学的表現に適していない分野と考えられていたからであり、必ずしもそのような形で構築されてこなかったからのように思われる。

 

 マックス・ウェーバーは近代化の概念として経済については資本主義、政治・行政については民主主義や官僚制を挙げていた。しかしある意味で資本主義の方が数値化され、多分に力学化(金利、物価、経済成長率も数量で表される、これらがある種の力と、とらえれるとすれば)されてきたのに対して、民主主義や官僚制の数値化は難しかったこともあり、それほどの進化は遂げてこなかった。また民主主義と官僚制はしばしば衝突してきたし、いまだに衝突しているともいえる(縦割りの度合いなど特にそうかもしれない)。そうした状況下で、ここへきて民主主義と官僚制が技術的な観点においても数値化が行われ、力学化される可能性が見えてきた。情報化、AI化がそれを可能にしつつあるからだ。

 

 それに対して、外面的な価値については、挑戦の内容を理解することである程度、新しい価値の内容を推定することはできるのかもしれない。現在、日本の抱えている外面的な問題は大まかには以下のとおりだろう。

 

   挑戦の内容

 1 高齢少子化

 2 財政赤字化

 3 新産業革命

 4 自然災害の可能性(地震、コロナ、温暖化)

 5 外交・軍事 アメリカと中国の対立

 特に考えられるべきはこの五つであり、それらの外面的な意味についてそれぞれ検討していこう。

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文明と価値13(外部からの力と内部からの力)

2023-01-22 06:48:50 | 論文

 

第三部 日本準文明の未来についての考察

 

 シュペングラーのいう民族の生命、運命という概念を西洋史でなく、より身近に感じてもらうために江戸時代の日本人の心性を例に説明してみた。ここからは、今まで考えてきた文明論と価値論を踏まえたうえで、日本の未来について、それをひとつの素材として考えていきたいと思う。日本準文明と、外部的価値論及び内向的価値論を見ていくわけであるが、それによって「文明と価値」というテーマについて考えていくわけである。

 

 文明論で得られた印象は、文明の問題とは突き詰めれば諸文明の「配置」の問題ではないかということ、そして日本という国についていっても、私が提起した五つの力で説明すると、「外部力」の問題といえるだろう。外圧を最も少なくする、跳ね返すためにはどこと組めばいいかという問題と結びつくわけである。

 

 また価値論で考えられた社会秩序における心性の変化でいえば、今の日本人の心性はどこにあるのか。また現在、日本が置かれた歴史的挑戦の内容とは何であるのか。私たち日本人が歴史的挑戦の下で醸成しようとしている価値とは何であり、それに対してどのように応戦しようとしているのかといったことになるだろう。

 

 価値とは外部からの挑戦と応戦、または内部における生命現象によって生じてくるものと考えてきた。このため、まずは日本が現在、挑戦されている内容(外部、内部かまわず)の多くを列挙してみるところから始めてみようと思っている。

 

 そしてその次に日本人の内部の生命現象は今どのあたりにあるのかを考えていくことにする。とはいえ、現代日本人の心性にはさまざまな外部力も大きく加わっているので、江戸時代ほどに明瞭に説明することは難しいかと思われる。しかし現在の日本の社会秩序の心性は第4期(旧支配秩序の心性が老年期、新支配秩序の心性が青年期)のパターンに該当しているのではないだろうか。

 

 江戸時代における心性の研究の中で、新支配秩序は本来、文化的な思想を「政治化」させるとともに、「新時代の学問」をバックボーンとして台頭してきたと少し触れていた。

 

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文明と価値12(明治維新以降~東京時代の心性について)

2023-01-15 10:02:52 | 論文

 明治維新以降から現在までは東京時代※1と呼んでいいのではないかと思うが、黒船よりもさらに大きな外部力がかかってきた時代といっていいだろう。いずれもその中心にあったのは、アメリカ、イギリス※2だったであろう。また逆に日本から外部力が加えられたのは中国、朝鮮※3だったのかもしれない。東京時代についても、社会秩序における心性変動を考えていくことも必要かもしれないが、外部力(アメリカ、イギリス、朝鮮、中国、ロシア)の影響で大変複雑となり、その本質が逆に見えにくい※4ので、江戸時代(閉鎖モデル)によってシンプルな形で日本人の心性の特徴をとらえたところで、価値と内向型モデルについての考察はここでいったん終えることにする。

 

※1 東京時代

 東京時代は明治から現代にいたるまでの時代をいっている。この時代はまだ継続している。社会秩序でみていくと見た目では東京時代は二つに分かれるかもしれない。明治憲法時代と日本国憲法時代に分かれるからだ。社会秩序で見ていくと明治体制内で四区分、日本国憲法時代で四区分といったぐあいに機械的に区分するのは問題があるだろう。なぜなら日本の場合、第二次世界大戦における敗戦で半ば強制的に社会秩序が変更されたという経緯があるからだ。明治から令和までに一貫していえるのは官僚が統治してきたということだろう。戦前は軍官僚も強力であった。戦後は経済官僚が強力であったという違いがあった。社会秩序でいうと軍を中心とした社会秩序の半分あたりから、経済官僚を中心とした社会秩序が成長をはじめ、経済官僚による社会秩序が成熟期を過ぎて、衰退に向かっているのが現在の日本の姿なのかもしれない。ならば経済官僚の全盛期頃に新しい社会勢力が登場しているはずであるが、将来的にはおそらくそれは「情報官僚」とよばれる勢力かもしれない。情報官僚はその組織の母体をまだ確立していないのかもしれない。

 

※2 アメリカ、イギリス

 外部力ということで最も影響力があったのはアメリカ、イギリスであろう。ペリー来航でアメリカによって、日本は開国された。しかしその後、日本はアメリカよりもむしろイギリスの世界戦略の上に乗ることとなった。明治時代においては他の西洋諸国からもいいとこ取りをしたので、多元的な外部力を受けていたといっていいだろう。第一次大戦後、日英同盟は終わった(20年ほど継続)。その後しばらく日本は独自路線をつきすすんだ。第二次世界大戦後、日米安全保障条約の下でアメリカの世界戦略の上に乗った。そしてそれが現在も続いている(77年間継続)。第二次世界大戦後と明治維新後との違いは、第二次世界大戦後は圧倒的にアメリカの影響下にあったということだろう。しかしそれも安保闘争後のことかもしれない。日本が独自路線をとっていた時代とは日本自体が世界戦略を持っていた時代といえるかもしれないが、日本が定めようとした価値観は普遍性をもったものではなかった。このため独自性を持った時代とはある意味、日本人という意味で江戸時代と連結したところがあったのかもしれない。明治憲法時代と日本国憲法時代を二つの異なる社会秩序の時代ととるか、一つの連続した社会秩序ととるかで日本の捉え方は大きく変わってくることだろう。現代においては二つの異なる社会秩序でとらえられることが多いのかもしれない。しかし無意識的なところでは一つの連続した社会秩序であるようにも思われる。こうした一つの連続した社会秩序が老年期を迎えていて、東京時代が終わりを迎えつつあるのではないかというのが私の印象である。

 

※3 中国、朝鮮

 現代日本はアメリカと中国の間に立たされようとしているわけであるが、中国や朝鮮からも外部力は長期的に受けてきたといっていいだろう。しかしこちらの方は長く日本からの方がより中国や朝鮮に対して外部力を加えていた期間が長かったかもしれない。それは長いこと日本の方が軍事的に、経済的にこれら二地域に対して優勢であり、影響力を持ち続けたことが背景にあった。それが変わりつつあるのは1990年代以降のことである。中国、台湾、韓国、北朝鮮はそれぞれ発展し(北朝鮮は核戦力に限定されるが)、日本に影響を及ぼす側にしだいにシフトしてきた。それに対して日本の社会秩序は先に述べたように東京時代の老年期にあるわけである。そうした外部力の中で日本はアメリカと中国の間にある。東京時代の老年期からこれからどうやって新しい社会秩序を構築していくかが内部的価値としても重要になっていく。外部的価値としてはアメリカの世界戦略に乗る形で、台湾、韓国をこちら側に結び付けていくことが日本にとって重要なことになっていくだろう。宣伝、文化、宗教もそういう路線でしぼられてくるのではないだろうか。

 

※4 その本質が逆に見えなくなる恐れ

 内向的価値変容を見ていくために閉鎖型モデルとして江戸時代をみてきた。それに合わせて簡単に開放型モデルとして明治時代以後を東京時代としてとらえ、ここでは明治憲法秩序と日本国憲法秩序を一つの社会秩序ととらえる考え方をとった。それに対して、一方でイギリス、アメリカの世界戦略が外部力として日本に影響力がかかってきたこと、近年では東京時代の社会秩序が老年化を迎える中、中国、朝鮮の外部力が高まってきており、この間に日本は挟まれつつあるとみてきた。簡単にだが開放モデルについて骨格のようなものを述べてきたが、日本準文明の生命力を考えていくにあたっては、より本質であるのは内向的価値変容ではないかと考えている。このためひとまず外部力の問題はいったん脇において日本準文明の未来について考えていこうと思う。

 

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文明と価値11(江戸時代の心性2)

2023-01-09 11:31:49 | 論文

 思想家発生の時期を見てみると、第一期については朱子学の官学化と戦国武士的エートスの陽明学による吸収の状況が中江藤樹に見られ、新社会秩序の幼年期と旧社会秩序の成熟期が重なっていることが熊沢蕃山からもうかがわれる。成熟を示す現象は多様な価値を受け入れる状況に示されている。しかし陽明学は第二期には勢力を失った。山鹿素行などは朱子学も陽明学も否定し、(儒教)古学の祖となると同時に武士道の体系家として後世に大きな影響を残したことは旧社会秩序の価値の思想的結実といえるのではないだろうか。またこの時期、例外的状況として契沖が国学の祖となる活動を行っていた。

 

 それに対して第二期は朱子学の成熟化とそれに対する反発の現象が見られる。朱子学の成熟化は貝原益軒や新井白石による格物致知の追究に見られるが、主流となる現象は成熟化であり、形式化した朱子学に対する人間主義的な反発であろう。伊藤仁斎や荻生徂徠らの古学が第二期の特徴をなしており、青年期といえる。同時に朱子学からの強烈な反応もあり、それが山崎闇斎である。官学との論争は荻生徂徠をして社会秩序側に押し上げ、江戸時代の思想は頂点を迎えた。古学と同じ理由から成長をはじめた国学は賀茂真淵に見られるように少しずつ成長していった。例外的状況としては安藤昌益の思想が生まれた。またこの時期は社会の安定により、経済が成長したことを裏付けるかのように、主な思想家が支配階級であった武士ではないところにも注意を払う必要があるだろう。伊藤仁斎、山崎闇斎、賀茂真淵、安藤昌益は武士でなく、大衆への思想普及といえる石田梅岩の心学は大衆への思想の到達という側面ももっていたといえる。

 

 第三期は荻生徂徠から流れ出した。客観世界としての自然解釈は外されたが、人間社会については経学が生まれ、太宰春台、本田利明に引き継がれた。成熟を示す批評精神は富田仲基、山片蟠桃に現れた。徂徠の射程範囲外であった自然解釈については三浦梅園によって始まり、新社会秩序の幼年時代としての蘭学の発展は翻訳から始まった。杉田玄白や前野良沢らの活動が挙げられるが、この時期、蘭学は学問的、経学的関心にとどまっていた。第三期は商人的思想が武士階級に波及していく時期にもあたり、海保青陵の人間関係の解釈にその現象が見られる。

 

 また、古学が荻生徂徠で大成し成熟を迎えたのに遅れて、国学が本居宣長により大成を迎えた。この現象は例外的現象ゆえであろう。第二期の安藤昌益、この時期の三浦梅園も例外的現象であったが、辺境であったため後継者が育たず、引き継がれることがなかった。第四期は蘭学を学んだ者の中から実学、兵学の大家が現れる。それと同時に政治的イデオローグとして情動的な平田篤胤や吉田松陰といった指導者が現れた。

 

 閉鎖的なモデルとして、日本の「江戸時代」における社会秩序の質的な心理変動について、特に「心性の四期」の例として考えてきた。シュペングラー的な内向型の価値変容について江戸時代を例として見てきたが、こうした表面的な動きの背後に、この時代における日本人の価値、その生命あるいは運命のようなものを観照することができるかもしれない。これに黒船といった外部力が加わって、日本人は「明治維新」という応戦を行うこととなった。

 

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文明と価値10(江戸時代の心性)

2023-01-03 06:27:35 | 論文

江戸時代の社会勢力と心性

 

 以上の社会秩序ないし社会勢力の考え方を仮説モデルとして、鎖国政策によって閉鎖モデルの典型的な事例となった日本の「江戸時代」を見ていきたいと思う。歴史でいうと江戸幕府成立から、大政奉還までが社会秩序として成立していた江戸時代であり、1603年から1867年がその存続期間ということになる。しかしこの仮説モデルでいうところの四つの期間における第一期はすでに1603年以前より始まっており、第四期は1867年以後に終わるということになる。

 

 大きな流れを説明していこう。第一期、これは江戸幕府成立前から始まっていた時期である。戦国武士の価値観、一向宗、日蓮宗、キリスト教の影響力が強く、死後の価値が高かったことがあげられるだろう。それと同時に藤原惺窩※1による懐の広い朱子学の普及の始まりが見られた。それは林羅山※2による朱子学の教学化へ続いた。旧社会勢力と新社会勢力の摩擦の産物としては中江藤樹※3、熊沢番山※4、山鹿素行※5が挙げられる。国学の発生として契沖※6が挙げられる。

 

※1 藤原惺窩の学風は単に朱子学というよりは陸王の学も排せず、老荘・仏教もとりいれた包容力ある学風で、むしろ明の心学の流れの上にあったとされる。

 

 ※2 林羅山は朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となった。

 

 ※3 中江藤樹は陽明学者。孝経を重んじ、その徳化の及んだ農民は彼を近江聖人と呼んだ。

 

 ※4 熊沢番山は朱子・陽明両学の長所を採り、政治を実際的な武士の立場からとらえ、時、処、位の三を知って実情に応じた方策を立てるべきだとした.

 

 ※5 山鹿素行は朱子学や陽明学に反対して孔子の原理への復帰を主張する古学派の祖の一人であるとともに、武士道の体系家として後世に影響を与えた。

 

 ※6 契中は真言宗の僧で国学の基礎を築いた。古典注釈、国語学に業績が多かった。

 

 第二期には朱子学の教学化に対する反作用として古学が発生した。日本における人文主義の発生ともいえるかもしれない。伊藤仁斎※1、貝原益軒※2、荻生徂徠※3らがそれだが、体制としての朱子学からの反作用も山崎闇斎※4、新井白石が挙げられるだろう。また人文主義的影響は儒学に限らず、国学の発展にもつながり、賀茂真淵※5の活動が挙げられる。また大衆への朱子学の影響は石田梅岩※6の心学の発生に見られる。朱子学の反作用として安藤昌益※7の革命的民主主義のような思想もあった。

 

※1 伊藤仁斎は生涯仕官せず、市井の儒者としてすごした。朱子らの注釈は孔孟の古義にそむくとしりぞけ、直接、原典論語、孟子について聖人の道を求めよと主張した。古義学派の創始者である。

 

 ※2 貝原益軒は朱子学派であるが、著作の範囲は医学、博物学に及ぶ。晩年、朱子学への批判を展開し、理気説に対して理気一元論を展開した。朱子学における格物致知が外部に向かったケースといえる。

 

 ※3 荻生徂徠は古文辞学派の祖。六経の正確な理解を通じて、新たな儒教体系の確立を目指した。古学派最大の思想家で、公私の分離を説き、経学への道を開いた。

 

 ※4山崎闇斎は吉田神道と朱子学を合わせた垂加神道を創唱した。

 

※5新井白石は朱子学者であるが、格物致知が歴史研究に向かったケース。その著西洋紀聞は洋学興隆の端緒となった。

 

※6賀茂真淵は万葉集の研究を通じ、古道を復活させようとした。国学の基礎を築いた。

 

 ※7石田梅岩は朱子学を基本に神道、仏教、老荘などを取り入れ、社会的職分を遂行するうえでは商人も武士に劣っていないと説き、商業道徳の確立を主張した。

 

 ※8安藤昌益(医師)は上層農民の出だが、身分制社会と儒仏思想を全面的に否定し、全ての人が自ら労働して生活する理想社会を提唱した革命的思想家。

 

 第三期は、第二期に発生した古典主義、科学思想、公私の分離と経学の発展という現象が見られた。ただし、儒教における古典主義はあまり見られなくなり、国学が本居宣長※1で成熟期を迎えた。科学思想については三浦梅園※2、蘭学者が多く登場するのも第三期の特徴であり、杉田玄白※3、平賀源内※4、前野良沢※5司馬江漢※6が挙げられる。蘭学はこの時期、幼年期であり、学問として普及を開始した※6。またこの時期は荻生徂徠の公私分離の影響から経学の発展も見られた。太宰春台※7、海保青陵※8、本多利明※9らが、挙げられる。鋭い批評精神として比較文化人類学的思想家として富永仲基※10や山片番桃※11がいた。

 

※1 本居宣長は日本古典の真意を言語学的、文献学的方法によって究明し、儒教仏教の道学的な世界観をはげしく批判し、もののあわれの強調によって人間性を肯定した。新しい市民意識を反映しているが、その神国思想、尊王観念は復古神道にうけつがれることになる。

 

 ※2三浦梅園は、儒学の他、天文学や洋学をおさめ、一種の自然哲学としての条理の学、反観合一を提唱した。経験科学の方法的自覚として先駆的であった。

 

 ※3杉田玄白は医学者、蘭学者で解体新書を訳述、蘭学の基礎を築いた。

 

 ※4平賀源内は発明家、博物学者、戯作者、浄瑠璃作者。多才にして世に受け入れられなかった。

 

 ※5前野良沢は医学者、蘭学者で解体新書訳業の中心だった。

 

 ※6司馬江漢は洋風画家、蘭学者。

 

 ※7太宰春台は荻生徂徠の経世的側面を受け継いだ。

 

 ※8海保青陵は漢学者、経済思想家。武士の人間関係を経済関係でとらえた。

 

 ※9本田利明は経世家。蘭書で地理を学ぶ。貿易の必要と商業の重要性を説いた。

 

 ※10富永仲基は神儒仏の経典に通じ、宗教や倫理の形骸化を批判。比較文化人類学的思想家として知られる。

 

※11山片番桃は商人として成功。仏教の信仰や神道の神話に容赦のない批判を行う。無神論者。

 

 第四期は、第三期に発生した蘭学の担い手が医者や農学者から兵学者へ変わった。国学も政治化した。平田篤胤※1、藤田幽谷※2の水戸学が挙げられる。著しいのは儒学の政治化であり、佐久間象山※3、横井小楠※4吉田松陰※5が挙げられる。経学としては、絶対主義的国家像を考えた佐藤信淵※6、農政家である二宮尊徳※7が挙げられる。そして、蘭学の担い手が、西洋の自然科学のみならず、社会科学を受け入れる担い手となり、明治を牽引する人物を生み出した。福沢諭吉※8、西周※9、加藤弘之※10、などが挙げられる。また儒学の政治化は教育勅語や民法典への影響に、国学は大日本国憲法へ影響を及ぼしたといえるだろう。

 

 ※1 平田篤胤は実証主義を重んずる師とは異質な説により、国学を宗教化した。平田学派は地方の豪農層・神官に広がり、幕末の尊王運動に大きな影響を与えた。

 

 ※2 藤田幽谷は後期水戸学の創唱者。大日本史の編纂につくすが、対外的危機を受けとめて尊王攘夷論を唱えた。

 

 ※3佐久間象山は東洋道徳、西洋芸術観念の提唱者。

 

 ※4横井小楠は実践的朱子学グループ実学党の中心。人類対等の思想に立つ独自の開国論を唱えた。西洋の民主主義を儒学の王道主義から評価した。

 

 ※5吉田松陰は松下村塾で明治維新の功労者たちを多く育成。

 

 ※6佐藤信淵は海外侵略と産業の国家統制、強固な民衆支配といった国家像を提示し、明治国家を先取りした。

 

※7二宮尊徳は農政家、農村復興の指導者。

 

 ※8福沢諭吉は明治の洋学者、啓蒙家。和魂洋才的理解でなく、資本主義文明を、それを生み出した精神から理解しようとした。儒学に代わる実学の必要を主張した。

 

 ※9 西周は明治啓蒙期の哲学者。日本に西洋哲学を紹介。

 

 ※10 加藤弘之は幕末、明治の国法学者。佐久間象山に兵学、洋学を学ぶ。明治に入り、天賦人権説を主張するが、自由民権運動の高揚に対して、反対の立場をとった。明六社同人。

 

 以上、事例として江戸時代を社会秩序の理論により、四期で考えてみたが、人物登場の時期は大雑把だが、その人物の一生の半分の年でとらえている※1。思想家の名前、活動時期の中点、活動内容と出生地をリストにしてみた。

 

太宰春台 1680 1747 1713.5

山片蟠桃 1748 1821 1784.5

 

 ※1 その人物の一生の半分の年でとらえる

 ある人物がどの時代に属するかは、その人の業績と関係することで、年齢とは関係のないことかもしれない。後半生において業績が現れる人もあれば、前半生で業績が現れる人もあるだろう。ただしその人物の歴史への登場に社会的背景があるものとしてとらえてみればどうであろう。その歴史的人物の年齢の半分で特徴を捉えるという原則を設定する方が、他の人物の登場をとらえるにあたり都合がいい。シュペングラーは政治、経済、社会、文化、特に芸術や数学に時代を特徴づける心象のようなものがあるとしていた(しかしここでは江戸時代の思想のようなものにしかふれていないが)。すなわちあらゆるジャンルの背景もしくは深層に横たわる共通する心象を把握するためには、こうした方法がもっとも恣意的でなく自然ではないだろうか。

 

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