Yesterday never knows

Civilizations and Impressions

文明と価値23(日本準文明にとって価値)

2023-03-27 09:16:59 | 論文

 価値について、それがどのように形成されるかについて考えてきた。外部的な力によって形成される価値と内部的な力によって形成される価値とに分けて考えてきた。そしてその考察の場は日本に限定してみた。そこから得られたイメージは日本社会において新社会勢力が旧社会勢力を乗り越えようとしているというイメージであった。そして社会科学の在り方自体が変わろうとしているというイメージもあった。つまり日本固有の事情と世界全体の大まかな流れとが重なって現れている状況だろう。

 

 日本固有の事情として、五つの項目を挙げた。1高齢少子化、2財政赤字化、3新産業革命、4天災(地震、気象変動、感染症)、5外交(アメリカと中国の対立)がそれだが、特に中心となって影響力を持ち始めるのは、新産業革命だと思われる。新産業革命の本質はそれが知力の機械化と深く関係していることである。ITC、ビックデータ、AIといった分野ではアメリカが最先端を進んでいるが、中国が追いつこうとしている。自動車も自動運転化へ進もうとしているが、こういった流れが究極まで進んだ時、何が起こってくるのだろうか。もしかしたら政治、行政の自動運転化がそれではないか。しかしそこへ至るためには、その前に社会科学の進化が前提となってくるように思われる。社会科学の進化とは社会科学で設定された諸概念を力学的に捉えることによってはじめて構築されるものであろう。新産業革命は他の四項目とも深く関わっている。関係あるデータ群のピックアップとそれらの数字が持つ力とがどのように関係しているか、そして問題を解決するためには何が必要かが、それぞれ四項目にも答えを出してくれるだろう。

 

 政治、行政の自動運転化の問題はアメリカも中国も実は手が出しにくい問題である。アメリカには民主主義の理念があり、中国には共産主義の理念がある。中国における共産主義とは共産党が国家を支配するということであるが、アメリカも中国もそういう意味では「価値」を明確に持っている国ということができるだろう。

 

 それに対して、日本はその中空構造を利用したしなやかな政治、行政の自動運転化を志向するのがいいのかもしれない。アメリカや中国のように硬質な価値を持たずに、資本主義が逐次もうかるところに資本が流れていく経済システムであるように、価値も時代ごとに変更し、流れていく価値システムであるのが望ましいのではないだろうか。

 

 『文明の研究』の中では「五つの力」について触れてきた。1価値、2技術的効率力、3社会構造力、4反作用力、5外部力・環境力がそれであったが、価値がそれ以外の四つの力に影響を及ぼすとしていた。しかも価値がそれぞれ様々であり、それ自体が広がり、空間を持っていた。

 

 思い返せば、1991年以降の30年間とは日本がそれ自体で価値を持てなかった時代ではなかったか。中空構造である真ん中に「価値」がはいらず、舵をとられることもなく漂流していた時代だったのではないか。それは日本人にしてみれば違和感はなかったのかもしれない。元々日本人は雑種的な民族だともいわれてきた。

 

 しかしそうした違和感のない中で先の四項目、高齢少子化、財政赤字化、災害(地震、気象変動、感染症)、外交はだんだん深刻な状況になってきた。こうした現実の問題に対して、どういう価値で臨み、5つの力を活用していくかということであるが、硬直的な価値を持つのではなく、日本準文明のプロトタイプを簡潔なモデルとして理解することがまずは大事なのではないかと思う。そういう意味で今となっては異世界であるといってもいい江戸時代を見つめなおすことはこれからの日本人にとって、日本人であるだけに必要になってくるのではないだろうか。まぎれもない私たちの価値がそこにあったわけだから。

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文明と価値22(新しい学問及び大世界史編纂)

2023-03-20 05:48:33 | 論文

 問題の本質は社会構造力の進化にあり、それを技術的効率力の発展のスピードに近づけることにある。社会構造力と AI、ビッグデータ、ICT、ロボット、電気あるいは水素による自動運転、新エネルギー等がどのように結びつくか。スマートシテイ、スマートステイト※となりえるか。自動化されるのは自動車の運転だけではない。政治、経済、社会それ自体が一部、自動化していくことなのではないだろうか。それらが新産業革命の内容の豊かさを最終的には裏付けるものとなることだろう。

 

※スマートステイト

  スマートシテイとは狭義においてはICT、AI、ビッグデータを結合させたデータによる都市運営ということができる。そのような都市が生まれ、都市国家群が成立し、やがて国家が成立するように、ヨーロッパ文明的な形でスマートステイトが成立するのか。それとも中国のように国家による上からの形でスマートステイトが成立するのか。その発展の形は様々だろう。スマートシティで評判が高いのはコペンハーゲン、アムステルダム、ストックホルム、スマートステイトではエストニアなどである。かってのハンザ同盟の地理的な範囲と近い感じで興味深い。スマートステイトは都市連合か、国家によって上から強権的に新技術をとりいれるかでその社会の雰囲気を大きく異なるものにするだろう。

 

 また内面的な価値のより簡潔な事例として江戸時代の心性について、少々詳しく見てきた。それは社会秩序の心性の変化の特徴を見るためであった。しかしそれだけでない。西洋的な知識もさることながら、今の日本人には自分自身、特に江戸時代を振り返り、深く観察してみることが必要なのではないだろうか。自分自身のルーツを知らずして、そもそも価値のなんたるかもわかるはずもない。我々が時代を漂流しているのもそんなところにも理由があるのだろう。新しい学問とは内向的な価値と外向的価値の発見およびそれらの融合を図るための学問ともいえるのではないだろうか。

 

 文明と価値というテーマで書いてきたが、諸文明をそれぞれ生命体と考え、あえて分類する作業は今の時代のSDGsやESGの考え方と合わないのかもしれない。これらの概念はグローバル経済における一般理念の掲示のように思われるからだ。気象変動の問題もある。全体として対応しなければならない問題であろう。しかし一方で文明間における生き残りをかけた対立はなくなりそうもない。中国が民主化されなければ、産業のデカップリングは不可避であろう。これは日本にとっては新大産業革命を迎えるにあたってチャンスではある。けれども中国が分裂しないで、民主化を進めることが長期的には極東地域にとって望ましいことだろう。それはEUのように長い道のりを経た共同市場でなく、いわば比較的早期にCU(china union)という共同市場を設置することにもつながっているからだ。しかし中国が新疆、チベット、内モンゴルでやっていることを見ると今までの同化政策の域をでないもののようである。これらの地域と中国との歴史には長い経緯がある。また大地主、大商人、官僚が長く統治していた中国文明としては、中華人民共和国とは新しい文明といっていいものであろう。

 集団指導体制に戻ることはあっても、民主化されることはないのかもしれない。

 したがって経済的には深い関係を持つが、政治的には対立が続く、このため日本は太平洋、インド洋の諸文明、準文明と協力していかなければならないのだろう。まずはもっとこれらの文明群に親しむことが必要であり、こうした文明群の価値を理解することが必要であろう。アメリカの世界戦略に乗っているだけでは厳しい時代になりつつあるののかもしれない。太平洋諸国、インド洋諸国の情報が集まり、それに基づいてアメリカに提言できることが望ましい。そういう意味では国連大学の拡充はそうした契機の一つになるかもしれない。SDGs、ESGをもっと地域化することを目指すのだが、その反面、一方で普遍化する研究機関が日本にあることは日本にとってもいいことであろう。徳川光圀が大日本史を編纂したように、大世界史を編纂することも、それがその後、日本に影響を与えたように、世界においていい影響を与えるかもしれない。そしてこれは太平洋諸国、インド洋諸国の情報を収集する上で大きな力となっていくことだろう。

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文明と価値21(民主主義に基づく、ハード、ソフトの公的生産力のあり方)

2023-03-12 10:42:18 | 論文

 一方で民間にはC(創造的業務)、M(経営的業務)、H(福祉的業務等)が残るが、それに携わるのは少数のプロフェッショナルな人たちであるといわれている。どちらかといえば、民間ではH(福祉的業務)において多くの人が携わる状態になっていくのかもしれない。公共部門にもC、M、Hは一部残るが、多くの人々は市民という立場で公務をワークシェアリングしながら、それぞれ仕事をもつようになるのではないだろうか。

 

 中国のような国では、共産党によって生産力の公有化のあり方が主張されることになるのであろう。しかし民主主義国家においてはプロセス的には生産力の公有化の前に民主化があるべきということになるのであろう。しかし中国においても、発展途上の開発独裁国家ならともかく、すでにある程度の発展を遂げ、国際経済の最前線に到達した社会において、その国のオーナーが国民でなく、一つの党であるという主張はしだいに詭弁でしかないと受け取られるようになっていくのではないだろうか。それは国家を発展させられるのは国民か党かという命題にも通じるかもしれない。またどの文明間でこうしたモデルが共有できるかという問題も生じてくることだろう。

 

 新しい民主主義、新しい学問、それは技術的効率力に社会構造力がついていけなかったがために生じていた落差※を埋めるための「応戦」であり、回答である。どうして社会科学の立ち遅れはここまでになってしまったのか問うこと※、そのことが新しい時代の価値を探すことにつながっていく。それは時代の挑戦に対する応戦の中身でもあり、その内容を豊かにするものだろう。

 

※社会科学の立ち遅れはここまでになってしまった。

 社会科学の立ち遅れは、それぞれの国がやがて対立状態になること、そしてそれが紛争を引き起こし、戦争が再び繰り返されることに象徴されているように思われる。民主主義国家でいえば、ポピュリズムがその国の問題を本当の意味で解決できないこと、既得権の問題が速やかに解決できないところに見られるのかもしれない。独裁的な国家においても、時間と共に強権的支配ができなくなってくるところに現れてくるのかもしれない。民主主義国家、強権国家においても時間と共に現れてくるのは、総合的な力の劣化であろう。劣化を防ぐ意味で軍事力が強調される事態が生じはじめ、やがては戦争状態に進行していくのである。

 しかしそもそも我々は総合的な力が何によって生まれてきたのか、また総合的な力を支える諸力が何なのか理解しているわけでもない。それを構成している部分として意見を主張し、行動しているにすぎないわけである。そうした部分の主張が整理、調整できないのは、部分の力の主体であるところそれぞれに「権力者たち」がいるからである。総合的な力の劣化とはこうした(部分的な)権力者たちと大衆との関係性が難しくなっていることが挙げられるだろう。特に後者の権力者たちと大衆の関係性は民主制と強権制とでは「フィルター」の違いとして現れてくることになる。

 その一方で両者に共通することとして、政治、社会のガバナンスが恣意的に決定されるよりも、状況に応じて自動的に決定されるようになっていくことの方が望ましいということがある。状況が放置されて、最終的には調整ができなくなり、戦争に至るよりはましではないだろうか。このような考え方が、「新しい社会科学」の考え方の重要な一面になってくるかもしれない。

 

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文明と価値20(古代ギリシャの再生:機械奴隷制、形而上学の復活)

2023-03-06 12:55:18 | 論文

 自然災害、すなわち天災は現時点ではコントロールすることは不可能であり、人的な要因による災害を最小化できるかどうかにとどまるのだろう。外交については文明論の中で考えたように、準文明として独自の文明を保存していくためには大国ではない準文明同士が協力することが必要になってくるだろう。一種の連合体になっていくのが望ましいのかもしれない。

 

 しだいに明らかになってくる、新しい民主的文化と新しい学問という状況の下で、人的資本の同権化※1が進行していく。それと同時に、世代バランスも人工的な均等化※2に向かっていくことだろう。長期的には民間産業における必要な労働力はしだいに減少していくのかもしれない。それだけに公務におけるワークシェアリングが人の実存の意味づけと深く関係してくるように思われる。もしかしたら新しい民主主義が生産力の公有化のあり方を決定する※3というある意味「不思議な結末」が待っているのかもしれない。

 

※1 人的資本の同権化

 新しい民主的文化は直接的、無意識的に世論を収集するから間接的、意識的に世論を収集する選挙よりも過激に主張をせず、必ずしも高齢者寄りの世論にはならなくなり(表面的に自己の利益を主張するより、長い意味での調和を志向すると仮定して)、その結果、老若男女からなる人的資本の同権化が進むのではないだろうか。また新しい学問はそうした新しい民主的文化の土台となりうる知見とならなければならないだろう。

 

※2 世代バランスも人工的に均等化

 直接的、無意識的世論をくみ上げるだけではだめで、それらを総括することによって総合的に望ましい姿が発見される。それにより、最終的には世代を通したバランスが図られるのだろう。

 

※3 新しい民主主義が生産力の公有化のあり方を決定する

 新しい民主主義が直接的、無意識的に世論を集めるとすると、最終的に人々はどういう労働形態を趣向するのだろうか。おそらくは公的な機関に雇用を保障されて、その上で適度な量の仕事を望むのではないか。

 今までは人間が必要とする消費財、公共財を生産するために「労働」が必要であった。もしそれら頭脳、肉体労働の代わりの多くを機械が行うようになるとすれば、機械あるいは機械を操作するものに対して自分たちが支配されないような自治組織を作ればいいということになる。

 

 そうした社会はいわば、かっての奴隷が機械に代わったようなもので、古代ギリシャのポリスのようなものになっていくのかもしれない。

 

 古代ギリシャのイメージはそれだけにとどまらない。それは総合性との関わりにおいて形而上学の復活につながっていくのかもしれない。AIの出現によって、多少合理性や、実験性に裏付けがなくとも総合性、全体性をイメージする学問、形而上学が見直されてくるのかもしれない。なぜならAIは全く予想のつかない概念同士を結び付けることができるからであり、人間がそれに追いついていくためには、人間自身がより直観的に概念を結合できる能力を高めていかなければならないからだ。

 

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