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Civilizations and Impressions

準文明の研究10(融合型準文明 東南アジア型)U

2022-06-26 09:23:05 | 論文

2 東南アジア

 

  東南アジアの形成は2~3世紀におけるこの地域におけるインド文明の浸透から始まった。インドの南部、サターヴァーハナ朝との交易を介して、インドシナ半島沿岸部に港市国家が成立した。マレー半島の港市や扶南やチャンパーといったものがそれである。インドの進んだ物品は現地有力者に重宝され、勢力の誇示に使われ、港市社会形成に役立った。7~8世紀になるとインドの文化、ヒンズー教や仏教がパッラバ朝やチョーラー朝を介して入ってくるようになった。

 

 2世紀における交易はローマ帝国と漢を結ぶ、7,8世紀はイスラム文明と唐を結ぶ交易の始まりであり、その中で東南アジアは物産の集散、中継地として繁栄してきた。またそうした航路帯の沿線ではたびたび文化が移り変わってきた。インドネシアのバリ島では、その島だけヒンズー文化が残ってきた、ジャワ島の真ん中には大乗仏教によるボロブドウールが残ってきたが、そうしたものは過去に繁栄した文化の名残であり、現代インドネシアの全域はイスラム教の国となっている。それはインドネシアの島々がシュリーヴィジャといった仏教王国、マジャパヒトといったヒンズー王国、その後、マタラム等といったイスラム王国によって支配されてきた経緯による。

 

 

 マレー半島においては港市国家によってそれぞれ宗教は異なっていたかもしれないが、15世紀中頃、マラカという港市が中心となり、東南アジア群島部一帯にイスラム教が広がる契機となった。マラッカ海峡の航路が最初に開かれ、マレー半島は長らくインド、中国間の交易の中継地点であったが、さらに南に位置するスンダ海峡の航路はインド、中国間をより直通で行くための、あるいは海賊を避けるための航路となった。

 

 東南アジアから中国にかけては扶南(1~3世紀)やチャンパー(2~17世紀)が古くからの港市として栄えたが、それから後には内陸部にクメール帝国が建設され長く繁栄した。アンコールワット、アンコールトムが有名であるが、周辺一帯には巨大な貯水池が建設され、灌漑がなされ稲作が行われた。クメール帝国は大乗仏教とヒンズー教を中心にしてアンコール朝の栄華を作り出した。

 

 東南アジアの内陸側の土地は熱帯であり、大河川が多く、初期の頃は開拓が難しかった。港市国家の発展にともない、港周辺地域での耕作が進むにつれ、クメール帝国(カンボジア)のように農業国家として港市の後背地に王国を築き、勢力をなした国家も現れた。

 

 また一方でベトナムのように中国文明の影響を受けて南進してきた国もあった。紅河デルタでの灌漑、科挙による官僚制度、中国による支配を受けていた期間も長かったが、ベトナムはそれをはね返してきた。じわじわと南進し、チャンパーと対立し、これを滅ぼしたが、北と南に長くのびた国となり、二つに分かれて対立するようになった(20世紀にも同じことが繰り返されたが)。

 

 航海民族と内陸民族の対立は東南アジアではしばしば見られたが、先のチャンパーはベトナムに侵攻されても、他の港市国家に一時的に拠点を移すことができるため、すぐには滅びず、17世紀まで生き延びてきた。ベトナムは南進を続け、陳朝の時代には元帝国の侵攻を撃退し、黎朝、阮朝と続いた。しかし13世紀における元の東南アジアへの侵攻は北から南へ大規模な民族移動をもたらし、ビルマのパガン朝が滅び、タウングー朝が生まれ、タイにはスコータイ朝、その後アユタヤ朝が生まれ、カンボジア王国(クメール帝国)はビルマ、タイ、ベトナムの三方から侵食されるようになっていった。その後、この三国は互いに侵入を繰り返した。ビルマ、タイはクメール帝国とは異なり、上座仏教を国教とした。タイではアユタヤ朝の後、ラタナコーシン朝が成立し、ビルマではタウングー王朝の後、コンバウン朝が成立したが、やがてビルマはイギリスによって、ベトナムとカンボジアはフランスによってそれぞれ支配を受けるようになり、タイは緩衝地帯として独立国としてかろうじて生き残った。

 

 少し先まで来てしまったが、群島部に戻ろう。ムラカをイスラム勢力が拠点とし、東南アジア群島部にイスラム教が広まっていったが、次はそこにポルトガルが入ってきた(1511年)。ポルトガルは交易航路を維持しようとしたが、オランダに敗れ(1641年)、次に入ってきたオランダの時代には、香料貿易の価値が下がっていったこともあり、また清が広東を開港(1684年)したため、東南アジアの中継貿易地としての役割が低下し、東南アジアは商業の時代から開発の時代へと変わっていった。このためオランダはジャワを交易地、点としてでなく面、領域的に支配するようになり、コメやコーヒーを生産するようになっていった。一方フィリッピンは中国とメキシコの中継地としてスペインが支配していたが、ジャワに少し遅れてこちらも商業の時代から開発の時代へ移っていった。商業時代にオランダに敗北したイギリスはインドに新拠点を築き、綿織物やアヘンといった商品を掌握し、清との交易をおこなった。またマレー半島を交易航路として支配していき、シンガポールを建設し、アヘン戦争で勝った後には香港を建設した。

 

 東南アジアを融合型準文明とするのは、単に浸透されただけでなく、四方からの影響が融合していったからだが、インド文明、中国文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明、こうした四文明の全てが影響力を融合してきた、世界で最も稀有な地域といっていいかもしれない。またここも東欧と同じく多民族、多言語、多宗教であったが、「上部」文明が介入してくるケースは東欧よりも少なかったかと思われる。それはインド文明、中国文明がローカル型文明であったためであろう。イスラム文明、ヨーロッパ文明も関係したが、文明の本拠地が遠方にあったためか、東南アジアには深くは介入できない時代が続いたが、交通機関の発達もあり、ヨーロッパ文明は19世紀からは本格的に介入するようになっていったが、それは開発の時代と重なることとなった。

 

 東南アジアは当初、自然環境のため内陸では開発が難しく、港市国家として発展し、インド文明の影響を受けながら航海民族が国や文化を形成したが、しだいに内陸開発と関係してクメール帝国(カンボジア)が繁栄するようになっていった。東南アジア群島部には北から中国文明、西からはインド文明(シュリービジャヤ、マジャパヒト)、後にはイスラム文明、ヨーロッパ文明が到来し、活発に商業活動が行われ、やがて開発も行われるようになった。13世紀の元による侵攻以降はベトナム、タイ、ビルマといった諸民族もインドシナ半島を南下しはじめ内陸国家が成立し、クメール帝国(カンボジア)を浸食し、その後は三者で対立するようになった。ビルマはイギリス、ベトナムとカンボジアはフランスの植民地となり、タイが緩衝国家となって対立は抑制された。

 

 第一次世界大戦後、東南アジアにおいて独立運動が起こってきたが、第二次世界大戦の時に東南アジアはほぼ全域を日本によって占領されることとなった。日本の敗北後、旧宗主国は植民地に戻ろうとしたが、それぞれ独立運動によって阻止された。旧フランス領ではベトナム戦争、カンボジア内戦が生じた。それに対し、旧イギリス領は先に書いたように過激な勢力を制圧して、穏健派で憲法をつくらせ財産権を守らせたので比較的安定的に独立がなされた。イギリスとフランスの中間型がオランダからのインドネシアの独立だろう。

 

 独立はしたが、これらの地域でも南米と似たように軍部が重要な働きをすることがいまだに見られる。タイの軍政などがそうだ。過激なポピュリズムによって民主主義が動く場合、軍がしばらく政権を持って、落ち着いたら民主主義に戻すというやり方であるが、それを何回か繰り返していくうちに民主主義が定着(インドネシアやフィリッピン)したケースもあった。しかし相変わらず同じようなことを続けているところもある(タイ、ミヤンマー)。

 

 東南アジアは四文明と深い関わりがあったように、その立地によって、経済発展の可能性があるのだが、シンガポールというセンターを中心にASEANを結成し、緩やかな連帯を続けてきた。この形はなかなかユニークな地域の組織化といえるであろう。シンガポールという「小国」が頭脳、先頭を行くハブとして存在し、異なる政体の国々が参加し、それぞれの国が個別に安全保障政策を保っている。でもそこにはある程度の共通点がある。それは「財産権は保障されなければならない」ということであろう。軍の民主主義への介入もそういう意味合いで許されているともいえる。中国と接近しているようなところがあってもそういう線引きはあるようだ。東南アジアは複雑な融合を①小さな中心、②政体の相違を認める緩やかな連帯、③財産権の保障という形で行っているのではないか。これは準文明諸国による連帯を強めていくうえでも参考となる考え方だと思われる。

 

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準文明の研究9(融合型準文明 東欧型)U

2022-06-18 06:21:41 | 論文

第四章 融合型準文明

 【1 東欧型 】 

 

 融合型準文明の特徴は四方、多方面から文明や準文明などの影響を受けるが、自らの準文明以外に複数の文明の影響が重なり、融合する形で成立しているところにある。そういう文明として、「東欧」や「東南アジア」が挙げられる。こうした場所では、多民族、多言語、多宗教が成立することが多かった。ここではそうした融合型文明のうち、東南アジアと比べてよりシンプルと思われる東欧から考え、次に東南アジアについて考えていこう。

 

 まず東欧から見ていくが、この地域は6世紀ごろ、スラブ民族が侵入することによって、その基礎が築かれたといわれている。当時ヨーロッパはビザンチン帝国、ローマ教会、フランク王国とわかれていて、侵入者はどれかに属さないと、攻撃される状況にあった。

 

 スラブ民族は西スラブ、南スラブ、東スラブと分かれており、今でいう西スラブはポーランド、ボヘミア、スロバキア、クロアチア、スロヴェニア、南スラブはセルビア、ブルガリア、ギリシャ、東スラブはウクライナ、ロシアとなり、これ以外にマジャール系のハンガリー、ラテン系のルーマニア、アルバニアとなるが、宗教で見れば、西スラブはカトリック、南、東スラブはギリシャ正教となる。この他、ハンガリーはカトリック、ルーマニアはギリシャ正教となっていった。

 

 こうした宗教分布は、それぞれ個人の信仰によって成立したのではなく、国の支配者の意向によって決まったのであり、ビザンチン帝国、フランク王国、ローマ教会の勢力争いと関係していた。西スラブについてはフランク王国とローマ教会の勢力争い、南、東スラブについてはビザンチン帝国の勢力が強かった。しかしこのヨーロッパ文明の三勢力も力関係が時代によって変わり、9世紀にはフランクとローマ教会は統合された。変化する状況の中でスラブ、東欧諸国はそれぞれ勢力拡大を図ってきた。まずはブルガリアが勢力を拡大した。ビザンチン帝国は東方をササン朝ペルシャ、その後はウマイア朝、アッバース朝他に圧迫されただけでなく、西方からはブルガリアによって圧迫されていた。一方で西ではローマ教会とフランク王国が結合し、その後、神聖ローマ帝国となり、ローマ教会に密接なポーランド、はじめギリシャ正教を選ぼうとしたがカトリックを選んだボヘミアが成立した。そしてビザンチン帝国と関係の深かったセルビア、マジャール人の国であったハンガリーが成立し、東スラブではキエフ公国が設立され、ギリシャ正教をとり入れた。

 

 これら東欧諸国は一進一退で膨張、衰退を繰り返したが、東からモンゴルやオスマントルコの侵攻、西からはドイツ人による植民活動の影響を受けながら、状況に合わせ東欧の諸国は連合、分立を繰り返してきた。外部からの侵略は経済に対する圧迫となり、国内産業の発展と深い関係があったドイツ人の植民活動は、東欧諸国の中央集権化を妨げる原因ともなって、後の西欧による東欧支配に大きな影響を与えた。

 

 ビザンチン帝国は第四次十字軍でフランス、ベネチアによって制圧され弱体化が進んでいたが、1453年、ついにオスマントルコによって滅ぼされた。これより前、オスマントルコはすでにバルカン半島深く侵出しており、南スラブではイスラム化が進んでいた。現在のサラエボやアルバニアはその名残である。オスマントルコは南スラブの居住地やハンガリーを制圧し、1529年にはウイーンを包囲した。

 

 東スラブではモンゴルに攻撃されてキエフ公国は滅び(13世紀)、モンゴルはポーランドまで攻め込んだ(1241年)。その後、東スラブでは、キエフ公国から分派したモスクワ公国を発祥とするロシアが台頭することとなった。

 

  東でビザンチン帝国が滅び、西で神聖ローマ帝国が衰退していく中、西欧が次第に勃興してきたのだが、この過渡期の間、一部の東欧諸国が台頭した。ポーランド、ボヘミアそして北欧諸国の勢力が高まった。これらの国の台頭には鉱物資源の開発が関係していたが、西欧のような中央集権化に成功することができないまま、諸侯の力が強く残っていた。こうした諸侯は西欧市場と結びついており、グーツヘルシャフト(再販農奴制)※によって東欧は西欧の世界システムに組み込まれていき、東方では中央集権化に成功したロシアによって圧迫されるようになっていった。ボヘミアやハンガリーはオーストリアに組み込まれた。

 

 19世紀になると、オスマントルコの衰退により、まずはギリシャが独立(1830年)し、南スラブやルーマニアをめぐってオーストリアとロシアが対立するようになった。露土戦争(1877年)により、バルカン諸国が独立すると、この両国の対立はさらに深まり、第一次世界大戦のきっかけとなっていった。

 

 東欧諸国の特徴として中央集権化が進みにくかったことが挙げられるだろう。それは複雑な民族、言語、宗教の分布があり、頻繁に内部対立があったこと、そしてそれを常にその時代の「上位」の国家、ビザンチン帝国、神聖ローマ帝国、モンゴル帝国(キプチャクハン)あるいはロシア、オーストリア、オスマントルコが介入してきたところにこの準文明の特徴はあったといえる。複雑に融合する融合型準文明はS・ハンチントンのいう「フォルトライン」を方々に形成しやすくし、上位国家が介入しても解決をさらに困難にし、かえってエスカレートさせることが多かった。

 

  第一世界大戦後、ヨーロッパ文明は容易にはまとまらないこの東欧地域の多くに民主制を導入し、東欧をある程度一体化させると同時に、これらをフランスに指導させたが、第二次世界大戦では再びドイツに占領され、ドイツの敗北後はソ連に支配かつ指導されることとなった。冷戦の終了後、ユーゴスラビアでは国家が倒壊、激しい内戦が生じた。これに西欧諸国、ロシア、イスラム諸国が介入した。旧ユーゴスラビアの内戦はS・ハンチントンの著作「文明の衝突」に大きな示唆を与えた紛争であった。その後、ほとんどの東欧諸国は西欧につくようになり、ロシアといくつかの国を除いてEU、NATOに加入した。

 

 

   こうしてみてくると、東欧諸国は周辺にあった諸文明の状況によってふりまわされてきた準文明ということができるだろう。近年ではドイツ、ロシア(ソ連)によって振り回されてきたが、こうした歴史がEUの中においてどのように活かされていくのか、あるいは同じように、しかしもっと複雑な融合型準文明といっていい東南アジアがASEANとして順調に発展してきたのを見て、どのように考えているのか興味のあるところである。おそらくは東欧諸国(辺境型準文明である北欧諸国も含めて考えた方がいいかもしれないが)はEUの中であっても、その中でさらにASEANのように連携していくことが望ましいのかもしれない。そしてそのことが、ドイツ、フランスとは異なる、別の新しいヨーロッパを生み出す原動力となっていくことになるのかもしれない。そういう意味で東欧と東南アジアは興味深い地域といえる。

 

 

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準文明の研究8(辺境型準文明 極西型(イギリス・北欧)U

2022-06-12 13:30:02 | 論文

【2 極西型(イギリス、北欧)】

 

 イギリスの歴史は前55、54年ローマのカエサルのイギリス征服から始まったといってもいいだろう。ローマの文明が伝わったのだが、その後、ゲルマン民族の西ヨーロッパへの進出はヨーロッパ大陸に混乱をもたらし、5世紀には西ゲルマンに属するアングロサクソンがイギリスに侵入した。その後6世紀、グレゴリウス1世により、イングランドにカトリック文化が植えつけられ、ヨーロッパ大陸が混乱する中でラテン文化が誇る学芸は、ここイングランドで保存された。フランク王国のカール大帝はカトリックやラテン文化の復興をアルクインに任せたが、アルクインはイングランドの出身だった。このように極東における日本や朝鮮と比べて、極西におけるイギリスの役割は文化的にさらに強いものがあったといえる。これは辺境型準文明の一つの特徴を示すものであろう。辺境型準文明は時に「避難所」としての役割を果たすことがあった。日本においても唐時代の建築文化が、現在まで奈良に保存されたりした。ただイギリスのそれは広くヨーロッパ文明、カロリングルネッサンスのラテン文化復興の基礎を準備しただけでなく、それが修道院、中世ヨーロッパ文明の教会支配に続いていったところなど、その影響力はかなり大きく、異なっていたかもしれない。

  

 北欧については7、8世紀から12世紀頃にかけて生じてきたノルマン人によるヨーロッパ文明への侵入が挙げられる。こちらも大きな影響を与えた。北はロシア(ノブゴロド王国)、西はノルマンジー公国、南では両シチリア王国の誕生という具合に、中世ヨーロッパの農村社会を破壊し、商業社会を構築する刺激ともなったといわれる。ノルマン人はイギリスにも侵入し、ノルマン朝を立て、これがプランタジネット朝へ続いていった。ジョン王の時にはフランス領の多くを失い、貴族たちによってマグナカルタ(1215年)を立てられた。その後、王を制約する議会の力が強まった。

 

 イギリスと北欧はヨーロッパ文明の辺境ではあるが、たびたび似たような行動をとることがあった。ノルマン人のヨーロッパ進出はそのはじまりであった。

  

 プランタジネット朝は西フランスに領土を持っていたので、大陸の政治にしばしばまきこまれた。百年戦争(途中でランカスター朝に代わる)はフランドル支配をめぐりイギリスとフランスの間で戦われたが、最終的にはフランスが国家として確立、イギリスは島に閉じ込められることとなった。このことはイギリスの王権が多くの税収を失ったことを同時に意味していた。しかし百年戦争が終わった2年後の1455年、バラ戦争という貴族同士の戦争が起こり、その結果、貴族勢力は衰え、テューダー朝が成立した。

 

 テューダー朝は王権が集中化していった時代であり、ヘンリー8世はローマ教会から離れてイギリス国教会を作り、カトリック財産を王室に収容した。収容された土地はすでに新しく台頭していた地主層に売却され、イギリスが封建的農業でなく、企業的農業に変化していく大きな原因となり、これがジェントリの台頭となった。エリザベス女王の時代になると海にも進出し、アメリカにヴァージニア植民地を形成、海賊に海軍を兼業させたりしたが、1600年、東インド会社を他国に先駆けて立ち上げた(それより前、1555年にはモスクワ会社を立てていた:株式共同資本で交易した最初の法人)。かっての王権の税収喪失の記憶が王権を中心とした事業創出につながっていったのかもしれない。

 

 イギリス王室は百年戦争でフランス領を喪失し、税収を大きく減少させたため、中央集権を図りつつ、王室自ら事業参加することが多く見られた。国教会の創設、海賊の活用、植民地開拓、弱小国家イングランドはテユーダー王朝時代には事業成果もあり、社会全体が比較的安定していたためテューダー朝の間は王権が議会と揉めることは少なかった。しかしエリザベス女王に後継者がなかったため、スコットランドからジェームス1世を迎えてから、王と議会は対立するようになっていった※。次代チャールズ1世の時には清教徒革命(1640~1660)が起こった。クロムウエルは王党派や議会派の長老派を追い出して共和制を布いた。またアイルランドを制圧し、航海条例を布いてオランダとの戦争を遂行した。クロムウエルの独裁は短期間で終わり、王政復古となった。

 

 ※王と議会は対立するようになっていった。

 スチュワート王朝はカトリックの影響が強く、王権神授説をとっていた。事業主体としての王朝は特許として一部の商人に利権を与え、このため多くの商人が不満を持ち始めていた。王朝自体が、商人的な価値観を持っていたテューダー朝時代と異なり、スチュアート朝は貴族的、教会的な価値観に回帰した時代であり、「反作用力」的な時代であった。

 

 チャールズ2世、ジェームス2世と復活したスチュワート王朝は続いたが、この過程でイギリスは統治をしていくうえで後々最も重要となることを学びつつあった。ピューリタン革命を経て、共和独裁から穏健な王政に回帰したイギリスであったが、政治の安定が得られない中でしだいにこう考えるようになっていった。

 

「最も重要な争点とは財産をめぐる争いであり、財産という観点からすれば、右、左に関係なく過激な主張をする勢力をまずは抑えこむ、それによって、妥協の政体が形成される」。

 

 名誉革命への過程がそれであった。 「右であれ、左であれ過激な勢力を抑制したうえで、憲法を成立させる」という手法は後にイギリスが大英帝国を解体して植民地から撤退する際にも出てくるので覚えておいてもいい。ただし一方、英国の憲法が成文憲法でなく非成文憲法であることも同時に記憶にとどめておくべきだろう※1。

 

 ※1 イギリスは他国に自国の財産権を守らせるために成文憲法を作らせて枠にはめるのに対して、自らは成文憲法を作らず、法の理念はあるが、枠にははまらないのである。こうした国風は新自由主義の改革の時にも影響があったことだろう。

 

 名誉革命によってイギリスは対外的にはオランダと結び、海洋帝国として進路を確定し、オランダから資本を投入することとなった。イングランド銀行が設立されたのもこのころだ(1694年)。先の妥協の了解の上で党派性も考慮し、イギリスはトーリー(保守)、ホイッグ(自由)の二大政党に分かれたが、経過の中※1で議院内閣制が自然と出来上がり、7年戦争、産業革命の時代はホイッグ、ナポレオン戦争とその後の時代はトーリー、自由貿易時代はホイッグ(後に自由党)へと続いたが、18世紀以降は帝国と産業の発展と共に選挙法の改正、階級問題を中心に二大政党は進んでいった。第一次、第二次世界大戦を通してイギリスは国力を消耗し、帝国の利権をできるだけ残すためイギリス連邦をかかげるとともに、同時に福祉国家を目指したが、経済は停滞し、サッチャーの新自由主義※2で経済の再活性化を図り、これに成功した。

 

 ※1 経過の中で

 イギリスが議院内閣制になったのは、ジョージ1世(ハノーバー出身)が英語を話せず、閣議に出席しなくなったためで、議会に王が介入することがなく、議会の多数党の代表(ウオルポール)に政治の主導権を与えたところから成立した。

 

※3 サッチャーの新自由主義

 イギリスは第二次世界大戦後、労働党内閣の下で福祉国家を目指すようになり、産業国有化が進展したが、経済は停滞し、「英国病」といわれるようになった。そこに現れたのがイギリス最初の女性首相サッチャーであった。自助努力を訴え、労働組合に激しい攻撃を加え、「小さな政府」を掲げ、国有産業の民営化やロンドン株式市場を変革(ビッグ・バン)した。ヨーロッパ統合には懐疑的であった。

 

 辺境型準文明としてイギリスを見てきたが、イギリスはこの準文明をして世界帝国を建設したのだが、その成功の最大要因として挙げられるのは「名誉革命」であろう。イギリスは右であれ、左であれ過激勢力を抑えた後、妥協のルール(憲法)に落とし込むことで、常に(人間の問題の根幹といってもいい)財産すなわち利権をめぐる争いを解決してきた。この伝統的手法はサッチャー時代にいたるまで目に見えない財産となってきたのではないか。

 

 またこの時、幸運だったのはルイ14世と対抗するため、オランダという海洋、資本主義国家と結合できたことであろう。これに産業革命というハプニングが続いた。その後も中庸と妥協は常に繰り返されたが、経済と技術が階級社会の中では、継続して発展できなかったことが、この準文明の欠点だったかもしれない。

 

 長くイギリスを見てきたが、北欧を見ていこう。ここには別の辺境型準文明の姿があった。北欧スウェーデンやデンマークが台頭してきた時期は三十年戦争(1618年~1648年)の頃であり、イギリスのピューリタン革命(1646年~)と同じ頃であった。イギリスや北欧諸国の台頭には鉄の産出量と関係があったといわれるが、スウェーデン、デンマークといった国は三十年戦争では新教側として戦争に介入した。その後スウェーデンはロシアと戦争をして敗れ、デンマークはプロイセンと戦争をして敗れ、それ以後イギリスとは異なり、海外進出を図らなくなっていった。スウェーデンは1809年に立憲君主制成立、デンマークは1849年に立憲君主制が成立した。ノルウェーはデンマークとスウェーデンの間を行ったり来たりしたが、最終的に1905年スウェーデンから独立した。第一次世界大戦の時には、三国とも結束して中立を保った。

 

 第二次世界大戦の時には、デンマークとノルウェーはドイツに占領されたが、スウェーデンは中立を貫き、国力を温存した。イギリスのように中庸と妥協のルールを尊重しながらも、財産と外交をイギリスとは異なり、内向きの形で処理してきたケースのように思われる。中立だとか平和主義ということであるが、戦後のEFTAでは北欧諸国はイギリスと歩調を共にしていたし、逆にイギリスは北欧のように戦後は社会福祉国家を目指すようになった。

 

 北欧諸国は戦争に敗北して後、海外進出を本格的に望まなくなり、国内の福祉の充実を志向するようになっていったが、現在においても、スマートシティや新技術といった、経済や産業に明るいといったところがある。もしかしたら、ここから新しい産業革命(東欧と共に)が起こるのかもしれないし、こうした福祉国家も辺境型文明の一つの可能性としてあるのかもしれない。海によって遠く隔たれた日本もそうかもしれないが、日本は人口が多すぎるのが難点かもしれない。アイスランド、フィンランド、バルト三国もそのような個性を持っているかと思われる。アイルランドは島であるが、イギリスとの歴史やカトリック信仰からして、ヨーロッパ文明と固く結合しているところがあった。朝鮮と似ているような感じもあるが、朝鮮の中国文明に対する感情とアイルランドがヨーロッパ文明に対する感情とでは異なっていて、どちらかというと好意的なのではないか。ただこのアイルランドも、イギリス同様、世界に向かっていったということも忘れてはならないところである。

 

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準文明の研究7(辺境型準文明 極東型(日本・朝鮮))U

2022-06-12 13:24:15 | 論文

第3章 辺境型準文明

 

【1 極東型(日本、朝鮮)】

  辺境型準文明とは、その片側に強力なモラルシステムを持つ文明が隣接している準文明である。極東型の場合、それは中国文明ということになる。一見、日本、朝鮮は独自にそれぞれの歴史を形成してきたかのように見えるかもしれないが、中国文明の状況に大きく左右されたことが多かった。特に朝鮮半島はそうであった。中国の戦国時代の頃から、その住民の一部は朝鮮に逃れ、秦の時代には日本に来た者もいたという※1。前漢の時代、武帝の時には朝鮮には楽浪郡他が設置された。朝鮮では高句麗、百済、新羅としだいに小国から大国の形成が進み、高句麗は楽浪郡を滅ぼした。また朝鮮半島南部にあった加羅諸国は、日本と深くかかわりがあったが、新羅によって滅ぼされた。朝鮮の国家統一にあたって唐が新羅、日本が百済を支援して行われた白村江海戦(663年)があり、日本が敗れた。唐と新羅は高句麗を滅ぼし(668年)、その後、新羅は唐から離れて朝鮮半島においてはじめて統一国家を形成した。日本では壬申の乱を経て、律令国家(奈良朝)成立となった。

 

 ※1 日本に来た者

  秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて、徐福を日本に派遣したという。

 

 中国文明、唐は科挙に基づく律令政治を行ったが、それ以前までの貴族政治から官僚政治への過渡期にあった。それに対して新羅、日本(奈良朝)は儒教でなく鎮護仏教を導入し、都を中心とした貴族政治を定着させていった。新羅は骨品制度※1を布き、都在住の(律令)貴族を尊重したが、やがて地方からの反乱※2をまねくようになった。日本はしだいに(律令)貴族、藤原氏に権力が集中(平安時代)していったが、これも地方からの反乱※3が起こり、武士が台頭してきた。

 

 ※1 骨品制度

 中国、魏の九品官人制度に似た、生まれによる身分と官職を結合させた制度。ただし新羅の場合、こうした族人秩序は都、慶州に限定していた。朝鮮半島統一に合わせて、新羅は身分制であった外位制を廃止し、京位制を地方人にまで拡張したが、都を中心とした貴族制から離れることはなかった。

 

 ※2 地方から反乱

 金憲昌822年と張弓福846年の反乱

 

 ※3 地方から反乱

 平将門と藤原純友の乱 935~941年、この時点で朝鮮と100年の時間差があった。朝鮮、日本とも、地方と海洋交易を根拠地とする勢力による中央権力に対する反乱であったところが共通していた。

 

 朝鮮半島では地方の反乱をうけて、地方豪族の力を基に高麗が成立(918年)した。その後、中国では宋が成立(960年)。士大夫が台頭していた宋は科挙を発展させ、本格的な官僚国家が成立した。高麗においても科挙が導入され、文班と武班のコースができた。地方豪族を両班制度に組み入れて、官僚制度を整えたが、しだいに中国同様、文官の地位が高くなったが、社会情勢は悪化した。こうした中で実力を蓄えた武官が台頭してきた。元が朝鮮半島に攻め込んできた時、文官はいち早く降伏したが武官は長く抵抗を続けた。その後、元は高麗や南宋のこうした抵抗勢力を利用しながら日本へ侵攻した。

 

 日本においては、武士は貴族から権力を奪い、貴族の根拠地、京から離れた鎌倉に武士による統治機構「幕府」(1192年)を形成した。ここらへんから、日本は中国文明や朝鮮と異なる歴史を歩み始めることとなった。朝鮮(高麗)は中国と日本の中間形態ともいえたが、元の後半には科挙が復活し、中国において官僚政治が復活していった。明の成立(1368年)と共に、朝鮮では明と結びつく形で李氏朝鮮が成立(1391年)した。明の鎖国政策の影響を受けながら、李氏朝鮮の時代には儒教と科挙に基づく、中国と似た政治形態(両班体制)をいっそう深化させた。一方で明の影響を抑えるため、世宗はハングル文字を作るなど独自の文化政策も行った。しかし明末と同様、党論争は李氏朝鮮にも現れ、政治的混乱が生じがちになり、日本の朝鮮出兵、女真族の侵入を招いた。

 

 日本は元寇の後、中国のように文官の復権に向かうような動き(建武の新政)もあったが、武士による集団合議制で政治を再開した(室町幕府)。しかしやがて分裂していき、戦国時代となっていった。明の鎖国のため、倭寇は東シナ海を暴れまわっていたが、この間、極東諸国が分裂状態の日本に介入することはなかった。日本は自力で再統一し、逆に文官政治の弊害で政治的混乱が生じていた明、李氏朝鮮に侵攻した。日本は朝鮮出兵の失敗後、関ケ原の戦いを経て江戸幕府(1603年)を形成した。

 

 その後、明と李氏朝鮮は女真族に侵入され、中国は清となり、李氏朝鮮は生き残った※1。日本も李氏朝鮮もしだいに商品経済が発展し、社会変動が生じてきたが、日本は武士の支配、朝鮮は官僚の支配※2という点で違いがあったかもしれない。日本では地方の下級武士から経済や政治の改革が生じてきて、最終的にはアメリカの圧力(外部力)で改革運動がさらに激化した結果、西洋列強と同じような社会体制へ移行(明治維新:1868年)した。

 

朝鮮では欧米の圧力や清や日本の動向もあったが、開化派、儒学派、東学派(農民反乱)と分かれていた。支配層間での党争が止まない中、農民反乱が始まり、清と日本から軍事的介入を招くこととなった。そうした中で日清戦争が起こり、日本が清に勝ち、その後、朝鮮を狙っていたロシアとの戦争に勝った日本は朝鮮を自らの市場、原料供給地とし、朝鮮を併合(1910年)、中国への足掛かりとするようになった。

 

 ※1 李氏朝鮮は生き残った

 李氏朝鮮は国内において党争を続けていたが、清に対してすぐ降伏したため、滅ばずにすんだ。

 

 ※2 官僚の支配

 李氏朝鮮は文化的な統治を行い、社会変動に併せて税制を変えたり、実学を重んじ、社会変動に対応したりした。しかししだいに改革派(実学から開化)、儒教派(衛生斥邪)、農民闘争派(東学)と分かれていった。農民等による反乱が高まりをみせる中で、支配層は党争に明け暮れていた。また儒学が官僚に重んじられたほどには、実学は高くみられていなかった。こうした背景には両班体制があった。そしてその軍隊は傭兵に近いものであった(兵役はお金を払うことで回避することができた)。

 

 第一次世界大戦後、ヨーロッパ列強が極東から後退していくにつれ、イギリスがインドを拠点として世界展開したように、日本は中国を世界戦略のための拠点にしようと考えるようになっていった。中国進出は当時の軍人の昇進意欲と重なるものだった※1。日本は第一次世界大戦後、アメリカとの協調時代を間に挟みながらも、こうした帝国主義政策に近づいていった。

 

 ソウルの極東における位置※2はとりわけ重要であっただろう。朝鮮半島はヨーロッパでいえばベルギーに相当する場所にあたり、そこで党争(李氏朝鮮時代からの傾向)のような、政治的混乱が生じれば日本は介入※3 することが多かった。また地政学的要所であることからインフラ投資も行ってきた。日本の朝鮮統治の失敗はそれが経験不足※4からだけでなく、重要な場所であるだけに、強く抑え込もうとしたこともあっただろう。

 

 ※1 軍人の昇進意欲と重なるものだった

 戦争機会がある方が、軍人(幹部)は昇進機会を得ることができ、軍需産業は利益を得ることができる。軍部と独裁政権の問題点はここにある。済南事変以降の連続的な軍部暴走は、軍人間の競争と、日本における重工業化の波と深い関係があった。

 

 ※2 ソウルの極東における位置

 ソウルを中心に円を描くと、大阪と名古屋の間、ウラジオストク、ハルピン、北京、上海が周上となる。ソウルは極東における中心であり、ハブとなりえる場所であり、シンガポールのようになりえる位置にある。しかし第二次世界大戦後、北朝鮮のあり方が大きな不確定要因となってきた。一つの考え方として、北朝鮮をマレーシア、韓国をシンガポールのように考えてみるのもいいかもしれない。

 

 ※3 日本は介入

三・一運動、文化政治、皇国臣民化といったように、状況に応じて日本の朝鮮に対する介入の仕方は変わっていった。三・一運動は日本による利権接収に対する朝鮮人による大規模な反乱であり、反乱の代表者はかっての改革派、儒教派、農民闘争派であったが、当初は穏健な請願であった。すでに党争的な感じは弱くなっていたが、逆に大衆に対するコントロールは利かなくなり、大規模な反乱となっていった。こうした状況に対し、言論弾圧をやや弱め、利権を一部朝鮮人に認めることにより分断を図ったのが文化政治であった。いわば日本はイギリス的な手法で朝鮮を統治しようとしたわけである。イギリスは財産権を基礎とし、極端な右派と左派を排斥し、穏健派による妥協を作り出すことを常としたが、朝鮮の場合、この時点での極端な右派が上海で大韓民国臨時政府を組織し、後に韓国となり、極端な左派が大衆闘争を激化させ、満州での抗日パルチザン闘争に発展し、後に北朝鮮となっていった。文化政治の後は戦争の時代となり、軍部による同化政策が進められたが、あえてハングルを作った歴史を持つ朝鮮人にとって屈辱的なことであり、日本人の致命的なところが出てしまった政策といえるかもしれない。穏健な朝鮮人は日本人に対して面従腹背で通してきた。

 

※4 経験不足

明確に民族的精神を形成していた、歴史の流れからいえば兄弟といっていい準文明国家、朝鮮を支配し、統治することは日本にとって未知の経験だっただけでなく、予想以上に困難な事業であったといえるであろう。教科書通りに植民地支配を行おうとし、それが障害にぶつかると、イギリスのやり方をまねた。しかし軍部支配時代には、日本国内と同様、政治はなかった。

 

 朝鮮の日本からの解放後、北と南に帰ってきて政権を形成したのは、かっての過激勢力であった。そして穏健な朝鮮人はこの二つの政権の間で再び朝鮮戦争という動乱に巻き込まれることとなった。朝鮮人が考えていることは日本人から見ていて分からないことが多いように思われるが、特に分かりにくいのは、エリートでなく、右でも左でもない穏健な人々が考えてきたことなのかもしれない。日本の文化政治の時代から最近まで、仮面をつけて(素顔を隠しながら)生きてきたのではないだろうか。

 

 ジャック・アタリはもし韓国が南北問題に巻き込まれなければ、21世紀は韓国の時代になるだろうと書いていた。韓国、北朝鮮はそういう重要な場所の一つなのだが、歴史的に起こりがちであった政治的混乱を鎮静化する工夫が必要なのかもしれない。「穏健な朝鮮人」の生活を高める、政治意思を組み上げるような社会構造力が必要だろう。

 

  日本は第二次世界大戦で敗れ、中国市場を失ったが、冷戦下でアメリカに依存しながら、経済成長をとげた。韓国では李承晩政権後は軍による開発独裁の中で財閥が成長し、ソウルオリンピックを契機に再び民主化されたが、財閥支配の経済運営は変わらず、日本の大正デモクラシーの時と状況が似ているのかもしれない。北朝鮮では軍による開発独裁が継続しているがこちらはもっぱら軍事一筋といったところである。ドイツ統合の結果、ドイツ国内で東独出身者は二級市民と自嘲していると聞かれる。国家連合をつくり、互いの得意部分を活かすという統合の仕方もあるかもしれないが、ドイツのようなやり方は現在の韓国には難しいだろう。お金がかかりすぎるからだ。また北朝鮮の政府は現在もなお穏健な朝鮮人でなく、韓国に都合よく妥協できる相手でもないように見える。当分は韓国だけで極東のハブ、シンガポールを目指す環境をつくり、北朝鮮がマレーシア、韓国がシンガポールとして共生し、ともに力をつけていくのが現実的であり、その間、政治的混乱を極力抑え、少しでも穏健な韓国人が素顔で暮らせるような社会を築いていく方がいいのではないか。

 

 一方日本だが、日本の歴史からすると、第二次世界大戦から、自己充填の期間が70年経過し、しだいに海外展開を再開しようとしている時代にきているのかもしれない。70年間かけて信頼関係を築き上げてきた日米安全保障条約を尊重することが基礎となるが(日米関係は双方にメリットがあるから続いてきた)、もっと多方面(アメリカ、ヨーロッパ文明だけでなく)に目を向けることが、経済、外交で日増しに重要になってきているようだ。現在の日本はアメリカと中国の覇権争いに目を奪われがちだが、そうした視野の狭さは辺境型文明の弱点といえそうなところかもしれない。しかし実はそういったところをそれぞれのやり方で見事に克服していったのが、次に述べる極西型準文明(イギリス、北欧)といえるだろう。

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準文明の研究6(浸透型:ユーラシア型(ロシア型))U

2022-06-12 13:19:15 | 論文

【2 ユーラシア型(ロシア型)】 

  ここから突然、南半球から北半球へ飛ぶこととなる。

 

 アフリカと同様に広大な自然が残されているのが、ユーラシア(ロシア)である。ロシアはヨーロッパ文明にも含まれているが、シベリアという広大な地域はアジアに属しており、浸透型準文明に含めた。自然環境はアフリカ大陸と比べ平坦であり、寒帯、亜寒帯にほぼ属している。遊牧民族の興隆が多く見られ、東から西への浸透が、最初の頃は多く見られた。秦、漢の中国統一と匈奴の力関係により、匈奴の移動が開始され、環境変化の影響なども受けて西の方ではゲルマン民族、スラブ民族をはじめ、その他諸民族の移動が開始された。その後も突厥の移動、モンゴル民族の移動といったように遊牧民族はユーラシアを通り道として東から西へ浸透し、ゲルマン民族、スラブ民族はヨーロッパに定着した。こうした流れは遊牧民族の騎馬戦術にまさる戦い方、火砲による戦術が農耕民族によって発明されるまで続いた。

 

 ユーラシア東部(北アジア、中央アジア)はシャーマニズムや仏教※を「モラルシステム」として取り入れたが、7世紀以降、イスラム文明が拡張してくると、通商の掌握や多文化を掌握する統治手法としてこれを多く採用した。モンゴル帝国も大破壊の後だが、イスラム文明を採用し、イル汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国を経てイスラム教が浸透していった。したがって大まかにいうとユーラシアは、東は仏教、中央はイスラム教そして西はキリスト教(ギリシャ正教)というモラルシステムによって浸透された準文明といえるかもしれない。

 ※ユーラシア東部はシャーマニズムや仏教

 北魏の時代に仏教は東漸し、唐、遼の時代を経て、元の時代はラマ教が盛んであった。仏教以外ではユーラシア東部(北アジア、中央アジア)の遊牧民族の宗教はシャーマニズムが多かった。

 

 ここでギリシャ正教が出てきたが、ビザンチン帝国の成立自体は相当古い。4世紀前半にコンスタンチノープルは建設され、この帝国が最終的に滅びたのは1453年、15世紀であり、ビザンチン帝国は文字通り千年王国であった。この時モスクワ公国のイヴァン3世がビザンチン最後の皇帝の姪と再婚したので、ロシアがビザンチン帝国の継承者、モスクワが第3のローマといわれるようになった。

  

 大分さかのぼること9世紀、ノルマン人の力を借りてウラジミールはキーウに君臨したが、この時代にはじめてキリスト教はロシアに受容された。このロシア(キーウ公国)はモンゴル人の侵攻によって滅びた。現在ではこのキーウ公国はロシアではないと、ウクライナ人によって主張されている。それに対して、モスクワ公国はイヴァン3世の時代より前にはキプチャク・ハン国の属国であり、これに税金等を納入していた。政治的にはモンゴルに従属していたわけだが、モンゴル支配のもとでもロシアはギリシャ正教の信仰を守ってきた。ロシア人はヨーロッパ人ではないという意見が出ることが今でもあるが、ロシアのヨーロッパ性を示している史実ともいえるだろう。

 

 イワン3世、4世(雷帝)時代からは西から東へユーラシアへの浸透が始まった。ヨーロッパとの交易するための商品として毛皮の確保、逃亡農民の捕獲、コサックの新天地への移動などいろいろ膨張原因はあったが、銃、火器の使用により遊牧民族に対して優位に立てるようになったことが大きいだろう。ピョートル大帝の登場は東への浸透によって培われた富に基づいて西側や海に対して挑戦がはじまったことを意味していた。こうしてロシアは西、東、南に浸透を図る国となったのであり、東は容易に掌握できるようになったが、南はオスマントルコと対立しため、海軍や港が必要であり、そのためには西(オランダ、イギリス)との交易が重要となっていった。バルト海へ進出しようとした結果、当時の大国ポーランド、強国スウエーデンと戦争を行った。ピョートルはこの戦いに勝ち、狭いながらも海に面したペテルスブルグを建設して、ここに首都を構えた。こうした国土の周縁部に首都を置いたことからもピョートルが何を一番重視していたかが分かる。西欧との通商を通して得られる技術を最も必要としていたのだ。この流れは保たれたが、エカチェリーナ2世の時代には女帝がドイツ出身(ドイツのシュテッティンのアルハルト・ツェルプスト公の娘)だったこともあり、政治や文化の吸収ということになっていったが、プガチョフの乱(18世紀ロシアの農民戦争1773~75年)で逆コースを歩むこととなった。

 

 ユーラシアの浸透型準文明を見てきたが、プガチョフの乱が出てきた。ここらへんで少し立ち止まって「農奴」について考えてみる必要があるかもしれない。

 

 先にアフリカにおける浸透型文明を見てきたが、ここユーラシアでも「農奴」という奴隷のようなことばが出てきた。浸透型文明に共通する要素として遊牧や部族があり、人間も家畜と同じように位置づけられる社会があった。ユーラシアにおいては、トルコ人の一部は奴隷として売られ、マムルークとなり、その中からは王朝をつくる者も現れてきた。同じくアフリカにおいても部族間の争いで敗れた者は奴隷に売られた。「浸透した者」で勝ったものが、支配者となったのであり、負けたものが奴隷となったのだが、マムルークは労働力が不足気味であったイスラム文明圏に売られ、西・中央アフリカの黒人奴隷は南北アメリカの労働力として売られた。 

 

 ならばロシアの「農奴」とはどういう存在だったのだろうか。ロシア帝国にはコサック部隊はあったが、ロシアは遊牧民の国家ではない。東欧と同じくスラブ民族、農業民族であり、こうした人間がタタールといった征服民の財産となったこともあっただろう。ロシアの農奴は東欧のグーツへルシャフト(再販農奴制)とは異なり、ユーラシアの奴隷の存在により近かったのかもしれない。

 

 東欧における再販農奴制は西欧の世界システムに東欧が編入された結果、生じてきたものであったが、ロシアにおける農奴制はモスクワ大公と有力貴族(多くの農奴を所有する)との対立関係の中で、大公の部下である士族に封土を与え、そこへ強制的に農民を配置するために生じてきたものであり、西欧の世界システムに組み込まれて発生したものではなかったであろう。

 

 ロシアはピョートルの時代に東への浸透をほぼ達成し、清との協定(ネルチンスク条約)を行った。エカチェリーナ2世の時代にはオーストリア、プロイセンと協定を繰り返しながらじわじわと西への浸透を続け、南への浸透も図ろうとしたが、プガチョフの乱でつまずいた。また西への浸透を終えたと思っていたところにフランス革命、ナポレオン戦争が起こり、ロシアそのものがナポレオンによって征服されようとしたが、なんとか勝利し、ウイーン体制で西への防壁を築いた。そのうえで南へ再浸透を図ろうとしたが、イギリスとフランスに阻止された。

 

 もうこのころになるとロシアの東への浸透は盤石であった。中国文明もイスラム文明も弱体化しつつあり、南への浸透が問題であったが、どこから進出しようとしてもロシアはイギリスによって妨げられた。ロシアの興味深いところは、自国の農民を農奴として支配してきたが、征服した人民をイスラム文明や西欧諸国のように国外に奴隷として売り飛ばさなかったことだろう。このため中央アジアは現在もイスラム文明の一部として存在しているし、揉めることもあるが、ある程度ロシアとの連携を続けてきた。中国のチベット、新疆と比較してみても大きく違うところである。ロシアは国土が広く、シベリアが未開発で残っていたので奴隷を売り飛ばすどころでなかった、こうした事情のためヨーロッパ文明やイスラム文明のような発想がなかったのかもしれない。

 

 またロシアの歴史を見て感じられることは、スターリンの弾圧にしろ、第一次世界大戦、第二次世界大戦での自国民の消耗にしろ、人命が軽視されることが多かったことだ。ロシアは南への浸透をどこからやるか試行錯誤を重ねるうちに、再びバルカン半島に介入していったが、これによって第一次世界大戦に巻き込まれ、農奴解放(1862年)から56年後にかって農奴であった人民によって革命が起こり、ロシア帝国は打倒されソ連が成立(1918年)した。

 

 ソ連時代は東、西、南への浸透力が最も高まった時代であった。中国と協力関係にあり、またスプトーニクの打ち上げが成功した時代がソ連の最盛期であったが、中国が独自路線を歩み始め、フルシチョフからブレジネフに変わってからソ連は技術革新に取り残され、凋落し始めた。1989年に冷戦が終了すると、ソ連は崩壊し、ロシアが復活したが、西からは逆にヨーロッパ文明から浸透され、EUに東欧諸国のほとんどが参加し、ウクライナ、ベラルーシでさえ、もめているところだ。東については中国と協定を結んではいるが、今では経済的な浸透力は中国の方がはるかに勝っている状況だろう。南についてはシリアなどで浸透を図っているが、まだ共産主義イデオロギーが実力をもっていたソ連時代とは全くその影響力は異なるものだろう※。

※1 共産主義イデオロギーの力

 共産主義の経済が躍進していた時代は、ソ連は第三世界にも、西側諸国にも大きな影響力を持っていたが、ブレジネフ時代の官僚政治とアフガニスタン戦争の失敗で経済に停滞が見え始めた。それに対して、中国は外資導入と市場化で経済を成長させた。ロシアは市場化の前に政治の民主化を行ったが、経済は停滞したままである。中国は市場化を先に行ったが、民主化は現在に至るまで行っていない。ひょっとしたらロシアが中国との協力関係を築いているのは西側諸国とのバランスをとるためだけではないのかもしれない。中国に共産主義の復活を期待しているのだろうか。中国流共産主義と第4次産業革命がどのようにマッチングさせられるかが中国とロシアの今後の関係性に大きな影響を与えていくことだろう。

 

 現在のロシアはプーチンの強権政治でなんとか踏みとどまってはいるものの、西、東、南から逆に浸透されつつあり、このうちいずれか、あるいはそれ以外の文明との協力関係を築くことが求められてくるのではないか。

 

 浸透型準文明としてアフリカとロシア(ユーラシア)を見てきたが、アフリカに原住民がいるのに対し、ロシア(ユーラシア)は原住民の比重は低く、むしろ遊牧民族の移動の場であったといえるのかもしれない。しかしアフリカ、ロシア共に「奴隷」というキーワードがあった。ヨーロッパ文明やイスラム文明は奴隷つまりは「人」をも商品として、貿易の中で取り扱ってきたが、ロシアはそういう価値観を持たず(ロシアの広大な国土自体が国内で奴隷のような存在を必要としていたのかもしれない(シベリア開発のために日本人捕虜を抑留したように)、また自国民をむやみに消耗してきたが、これはアフリカでも同じことがいえるのかもしれない。つまり浸透型準文明では「人権が尊重されない」傾向があるということだが、そこでは社会なり部族なりの維持が第一にあり、個人はそれに従属しなければならないという強い習慣があったことによるのだろう。あるいは常にこちらから浸透しなければ自分たちが浸透される、そういう「強迫観念」や「恐怖」のようなものが、この浸透型準文明にはつきまとっているのかもしれない。

 

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準文明の研究5(浸透型準文明:アフリカ型)U

2022-06-12 13:09:10 | 論文

第二展示室 浸透型準文明

 

【1 アフリカ型】 

  アフリカ大陸の特徴は大まかには北部が大砂漠、中央部が熱帯雨林、南部が乾燥した草原、砂漠であり、全体として大きな卓状となっているところだろう。またマラリア蚊など自然の影響もあり、北部やニジェール川周辺を除いて大きな文明が形成されることは少なく、また他の文明が浸透するにも困難が伴い、時間がかかった。しかし人類発祥の地といわれて、ナイル川を中心としたエジプト文明は最古の文明の一つであり、そのピラミッド群の巨大な威容や周辺が著しく砂漠化が進行してきたことから、ここにはかって大文明のようなものがあったことも考えられるだろう。エジプト文明の後には、ギリシャ、ローマ文明が伝わり、アレキサンドリアは、ヘレニズム、ローマ時代を通して世界の交易、文化の中心の一つであり続けた。その名残としてコプト教徒(キリスト教)が今でもエジプトに残っている。 

 7、8世紀におけるイスラム文明の浸透は急速なものであった。もともとイスラム教は商人の宗教であり、通商網を掌握するために他宗教の信者も税金を払えば被保護民として扱ったので、イスラム文明はいわば新しい「社会構造力」を発明したといってもいいだろう。なかでも北アフリカは急激にイスラム文明の一部に入っていった。ウマイア朝、アッバース朝といった大帝国の時代を過ぎて、ファーテイマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマントルコ。あるいはムラービト朝、ムワッヒド朝。という具合に、王朝は変わり、細かく分かれていったが、イスラム文明はコスモポリタンな文明であり、その中心であるメッカ、メジナには様々な国からウラマー(法神学者)の遊学者がやってきた。北アフリカのムラービト朝やムワッヒド朝はそういうウラマーらにより指導され、発展していった王朝であった。

 

 イスラム文明はイスラム教という「モラルシステム」と「通商」でもって進出していった文明であり、東アフリカには船によって紅海やインド洋を航行して、西アフリカには隊商でサハラ砂漠を通行してじわじわと浸透していった。アフリカの中央部は、自然環境のため外部から入りにくいこともあり、大小さまざまな部族社会が形成されていたが、その中には、例えばニジェール川周辺ではいくつかの大文明※の興亡があった。

 ※ニジェール川周辺の大文明

 古来、ニジェール川流域にはガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国など王国文明が発達し、ジェンネ、ガオなどの交易都市を発達させた。

 

北部のイスラム諸王国から西アフリカにくる商人はアフリカ中央部における熱帯環境に対応するために、その外縁に根拠地をつくった。一方で東アフリカではザンジバル島のようないくつかの港町をつくり、そこを拠点として内陸部へ進出していった。西アフリカでは現地の王国をしだいにイスラム化していった。イスラム文明はカイロを中心として世界的な通商ネットワークを持っていたので、これらアフリカ中央部の王たちとは西アフリカでは金と岩塩の交易を行い、東アフリカでは奴隷や象牙等を取引した。西アフリカでは原住民の王国がイスラム化していったが、イスラム商人が金の産出地に入ることは禁じられていた。それに対して中央アフリカは人が入り込みにくい複雑な地形であり、そのことが集団形成を遅らせてもいた。しかしイスラム文明は少しずつ内陸部へと浸透していった。

 

 15世紀の終わりごろになると、スペインがアメリカ大陸に到達し、ポルトガルが喜望峰を経由するインド航路を開拓した。しかしそのころにはすでに東アフリカはイスラム文明の通商網に入っていたので、ヨーロッパ文明が浸透していった地域は、西アフリカの海岸部、南アフリカということになった。それにはコンゴ川などの河川も含まれていた。

 

 ヨーロッパ文明は現地の諸民族に武器や綿布他を提供し、西アフリカ及び中央アフリカは奴隷他を提供した。奴隷は大西洋を渡り、北アメリカ、南アメリカの労働力となった。奴隷貿易による人的資源の大損失がその後のアフリカの発展を大きく歪めていったのだが、こうした奴隷市場がなぜ成立しえたのだろう。またそうした人的資本の枯渇が短期間で生じなかったのはなぜか。

 

 もしかしたら中央アフリカは一部の密林を除いて、自然に恵まれ、社会の高度化なくして人口が増える環境があったのかもしれない。大社会が形成されなかったため、諸部族が大きくならない形で多く残存し、それらがその後それぞれ自己主張して対立した。諸部族はそれぞれ勝つために武器が必要となる。このような部族間の仲の悪さはインド文明におけるラージプトの争いや、日本の戦国時代にも見られた現象であるが、そもそもヨーロッパ文明が武器を与えて異教徒同士対立させ、同時に通商目的も遂げるという、軍事産業と通商を組み合わせたビジネスモデルを最初に「発見」した地こそ、ここ西アフリカと中央アフリカだったのではないか。これに比べるとイスラム文明による東アフリカの奴隷貿易は武器売買の代物ではなく、それ以外の商品との交換であり、奴隷としてもある程度丁重に扱われたことだろう。イスラム教には奴隷の扱いについてきまりがあるからだ※1。

 ※1 コーランにおける奴隷の規定

 コーランはムハンマドが孤児だったこともあり、孤児、女性、奴隷に対して、人権の観念こそなかったが、扱い方について細かく定めていた。

 

 さらにヨーロッパ文明はポルトガルを先頭にアフリカ南部に浸透していった。その先端ケープ植民地に、初めに浸透したのはオランダ人であった(1652年)。南アフリカは交通上の要衝であったため、中継地として植民を進めたが、後から入ったイギリスに突き上げられる形でオランダ人は北へと浸透していった。しかし金、ダイヤモンド等が産出されることが分かり、イギリスとボーア人との間で戦争(1899年~1902年)が始まった。

 

 少し先に進みすぎたが、19世紀前半頃には、イスラム文明、オスマントルコやマグリブ諸国の衰退により、ナポレオンのエジプト侵略、フランスによるアルジェリア制圧、ムハンマド・アリーのエジプト近代化政策※1、アラブのワッハーブ運動など、北アフリカでは変化の時を迎えていた。

※1 ムハンマド・アリーのエジプト近代化政策

ナポレオンのエジプト侵略に抗戦、1805年エジプト太守となった。国内統一に成功し、行政、産業、教育、軍事の近代化を急速に進めた。非ヨーロッパ国家による殖産興業化の第一号といっていいだろう。

 

アルジェリア制圧(1842年)はイスラム文明が盛んであった地にフランスが浸透するきっかけとなった。西アフリカはネオスーフィズム運動により混乱しており、フランスはそれに乗じてアフリカ北西部に進出した。ワッハーブ運動はムハンマド・アリーによって鎮圧され、オスマントルコとエジプトはヨーロッパ文明を一部採り入れ、それぞれ改革を試みたが、そろって財政破綻※1 する結果となった。なおネオスーフィズムの影響を受けてスーダンではマフデイの乱が起こったが、イギリスとエジプト連合軍によって鎮圧された。

※1 オスマントルコとエジプトの財政破綻

1875年にオスマントルコ帝国財政が破産し、1876年にエジプト国家財政が破産した。

アフリカ北部、西部におけるヨーロッパ文明とイスラム文明との闘いはイスラム文明の足並みの悪さや思想的混乱により、ヨーロッパ文明の勝利となったが、中央アフリカ、南部アフリカにおいては北部アフリカのような抵抗勢力は少なく、ヨーロッパ列強同士による浸透となり、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦争はそうした戦争の最大のものとなった。

 

 こうしてアフリカ西部、中央部、南部から浸透してきたヨーロッパ文明によって最終的には、20世紀初頭にはほぼアフリカ全大陸が支配されることとなったが、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、ヨーロッパ文明の諸国が共倒れとなったため、1957年、ガーナを初めとして、アフリカ諸国は次々と独立していくことになった。イギリスは、過激な独立分子を弱体化した上で、穏和な勢力同士で妥協させ、そのうえで憲法を作らせ、その枠の中で自らの資産をできるだけ守ろうとしてきた。一方でフランスはわりと植民地に自治を任せていたので、植民地側の自主性を認めてきたのだが、フランス人の入植がかなり進んでいたアルジェリアなどではそのようにいかず、動乱が生じた。また白人の入植が進んでいた植民地、南アフリカはイギリス撤退の後、ボーア人(アフリカーナ)がアパルトヘイトを長期間、布くこととなった。

 

その他、資源が豊富なベルギー領コンゴでは独立後、民族抗争が生じ、その背後ではヨーロッパ諸国やアメリカ、ソ連が関係することもあった。「植民」や「資源」の存在が独立後の発展を妨げてきたのだが、冷戦が終了し、植民による問題も長い時間の中で「多文化主義」の問題へと移行しはじめた。資源問題についていえば、ヨーロッパ文明だけでなく、現代においては中国文明等のアフリカへの浸透が、違った形で問題を生じさせてきている状況であろう。

 

また民族抗争については、北、西アフリカにおいて根強いイスラム文明の影響が残っており、これがこのまま中央アフリカ、南アフリカへ南下していくのか、予断を許さないところである。北半球から眺めるとそうなるが、南半球から眺めると、オーストラリア、南米のように多文化主義的な文明圏の一部になっていくのかもしれない。南アフリカ、中央アフリカがイスラム文明化していくのか、それとも多文化主義を採り入れていくのか、その分岐がどこらへんかが今後重要になってくることだろう。将来においてはイスラム文明と多文化主義が混合していくこともありえるかもしれない。

 

 浸透型準文明のアフリカ型を見てきたが、植民型との違いは「原住民の比重が大きい、独自の強い文明があった」という点である。それに対して複数の文明(モラルシステムを持つ文明)が浸透したが、その浸透が後に述べる融合型文明と異なり、深く重なっていないというところもまた浸透文明の特徴といえるであろう。

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準文明の研究2(植民型準文明:南米型)U

2022-06-12 13:02:48 | 論文

 【2南米型】

 

 南米においては、原住民インディオが文明(アステカ文明、マヤ文明、インカ文明)をすでに築いていた。そこへ入植してきた白人(スペイン人)が強制労働や持ちこんできた病原菌によって、かなりの数の原住民を死亡させ、アステカ文明、インカ文明を滅ぼしてしまった。

 

 こうしたこともあって、スペイン本国は政策として原住民と共存しようと図かるようになっていった。労働力として必要であったからだ。一方、ブラジルはもともと労働力が少なかった。南米大陸はスペインとポルトガルによって分割、統治されたが、主だった地域を支配したのはスペインだった。メキシコやボリビアで銀が産出されたからだが、スペインはブラジル以外(ブラジルはポルトガルが支配した。最初の頃は北部が中心であったが、しだいに南部へ中心が移っていった)の南米大陸を副王制度によって統治し、スペイン人入植者に勝手なことをさせなかった。それは南米大陸との通商をスペイン本国が支配しようとしていたことと関係があった。スペイン帝国の経済は中継貿易※1で成り立っていたからだ。これに対してポルトガル本国(再独立後※2)はしだいにイギリスとの関係を強めていった。

 

  ※1 スペイン帝国の経済は中継貿易

 スペイン本国の工業は発展せず、特許商人に交易権を与えることで、本国は収益を得ていた。工業地としてのフランドル(ベルギーの一部)の台頭はこれと関係がある。また一般商人の参入への要求も高まっていった。またスペイン植民地には独自の工業の発展の芽もあった。

 

※2 再独立後に

1580~1640年のスペインとの同君連合期に、ポルトガルは多くのアジアの拠点を失い、1640年の再独立後は対イギリス従属が進行した。

 

 スペイン植民地の白人入植者はいわば自力で武力を蓄え、大地主になっていく者も出てきたが、しだいに副王による統制が煩わしくなり、これと対立する者が現れた。スペイン以外のヨーロッパ諸国との通商を統制されることに対しても不満が高まっていった。そうした中でヨーロッパではナポレオン戦争が起こり、スペイン本国、ポルトガル本国はそれぞれナポレオンによって征服され、スペイン国王は拘束され、ポルトガル国王はブラジルに逃亡し※1、その後、ブラジルで帝政を布いた(1822年)。

 

 ※1 ポルトガル国王はブラジルに逃亡

 1807年、ポルトガル国王はイギリス艦隊の護衛のもとに、植民地ブラジルにのがれた。

 

 スペイン本国が占領される中でスペイン植民地は独立し、先進的な民主憲法を作ったが、議会をうまく運営することができず※1、しばしば武力介入する大地主(カウディリヨ)による政治支配が生じたが、スペイン植民地はしだいに分裂を重ね、産業革命を経たイギリスの自由貿易体制にそれぞれ組み込まれていくこととなった。この間、アメリカとは輸出品(農産物)で競合することが多かったため、南米はもっぱらヨーロッパとの関係を強くしていった。一方でブラジルは大地主が地域で割拠していたが、スペイン植民地と比べて大地主間で協力する政治を行ったので分裂せずにすんだ。ブラジルの国土が大きいまま残ったのはこのためである。このようにスペイン植民地とポルトガル植民地とでは対照的な展開をしてきた。

 

 ※1議会をうまく運営することができず

スペイン植民地の自治は市単位であり、広域的に自治を行う経験が欠けていた。このため議会は紛糾し、スペイン植民地は徐々に分裂していくこととなった。

 

 親玉政治であれ、大地主協調政治であれ、イギリスによる自由貿易体制の中で、南米諸国はしだいに発展してきたのだが、都市の発展と共にしだいに都市問題、労働問題が生じてきた。これには19世紀後半に移住してきた南欧、中東欧からの移民も関係があった。それと同時に19世紀後半からはしだいにイギリスが衰退してきたのに対し、アメリカが興隆してきた。アメリカは南米に帝国主義の欧州列強が入ってくるのを嫌い※1、また1914年にアメリカによって完成されたパナマ運河の防衛も加わり、南米諸国に対し、棍棒外交を行うようになった。

 

 ※1 南米の中でもメキシコは独特な状況であった。独立当初から農民層と大地主層とが対立し、大地主層はスペイン本国勢力と再び結びついたり離れたりした。また大地主層はアメリカとも領土問題(テキサスやカリフォルニア)で対立してきた。サンタアナは大地主層の力を背景に親玉政治を行ったが、テキサス戦争(1846~1848年)でアメリカに敗れ、その後メキシコでは自由主義者ファレスが政権を握ることとなった。しかし混乱の中で再び軍人ディアスが大地主の力を背景に政権を握り(1877年)、大地主層の支配が続いたが、ついには1911年に革命が起こり、大地主層の支配はひっくり返った。

 

 自由貿易体制は南米産業の一次産品化を進め、1929年の大恐慌で決定的な破局を迎えた。それ以前から自由貿易体制下で都市問題、労働問題が発生しており、南米政治ではポピュリズムが進行していたが、ここへきて輸入代替産業の育成を図るため、また同時にポピュリズムの要求にも応えるため、軍人の活動が目立つようになってきた。自由貿易体制から輸入代替産業育成への変化は外資に対する不信もあったが、北アメリカの成功への対抗心もあっただろう。少なくともアメリカ合衆国は国内市場を育成することで大きな成功を収めつつあった。南米の支配層はどちらかというと長い間、ヨーロッパに親しみを感じてきたのだが、そのヨーロッパが傾きはじめていた。

 

 南米では昔から、軍人の影響力が大きかったが、ポピュリズムの潮流の中でしばしば軍人は緩衝材の役割を果たしてきたともいえる。過激な大衆民主主義に走りがちなポピュリズムに対し、軍が介入し、より穏健な形にした上で政治を正常化するという流れが往々にして生じた。大地主支配から一種の開発独裁に姿を変えてきたともいえるが、第二次世界大戦後しばらく持ちこたえたが、やがて経済成長は止まった※1。

 

 ※1 大衆民主主義への対応は賃金や福祉向上につながったが、国際競争力を低下させることにもなり、南米は1900年頃には経済繁栄を誇っていたが、その後しだいに衰えていった。

 

 第二次世界大戦中、アメリカは南米に対して善隣外交を行ったが、戦後は冷戦のため、アメリカの資金投入は北半球に集中、南米については共産主義化しないように効率的にその行動を抑制しようとした。そのためアメリカは大地主層と大衆運動とのバランスを図ろうとする軍部を南米では重用してきたが、そうした抑圧のひとつからキューバ革命が生じた。キューバ革命(1959年)は他の南米諸国に大きな動揺を与えた。(南米政権では東アジアのような外資主導による輸出促進による経済成長策をとることはできなかった。)

 

 1973年の第一次石油危機のオイルマネーは欧米の銀行を経由して南米に還流し、外資による南米市場の活性化が図られたが、これはニクソンショック(1972年)後の先進諸国の停滞に対して新しい刺激となる可能性もあったのかもしれない。しかし1979年の第二次石油危機(イラン革命)は南米諸国に経常収支の悪化をもたらし、累積債務問題を生むこととなった。これ以降は新市場主義※に基づいて経済成長を図るようになっていった。

 

※新市場主義による経済成長

 南米諸国は国家が経済に介入する形で、輸入代替産業育成を図ってきたが、累積債務問題でそれが不可能となった。新機械を購入する前に借金返済をしなければならず、借金の金利は世界的インフレ、スタグフレーションのため、高金利、不況となり、IMFの規制下で新市場主義による経済回復を図ることとなった。

 

 こうして見てくると、植民型の準文明といっても、南米とオーストラリアとではかなり違っていたことが感じられる。南米は白人及びクリオール(スペイン、ポルトガル系)、インデイオ、メスティーソ、黒人(ムラート)と多様であり、民主主義もあるが、大衆による過剰な反応のために武力介入によって強制的に修正されることがよくあった。

 

 スペイン人に征服された地域にはアステカ、インカなど高度な文明を築いた種族があった。スペイン人はインディオを鉱山や農園で使役し、その間両者の混血が進んだ。ラテンアメリカの多くの国ではインディオおよび混血人口が大きな割合を占める。

 

 また南米は海外の影響(外部力)を受けることも多かった。例えばナポレオン戦争、世界恐慌、石油ショック等(特に第二次)。こうした中でもポピュリズムによって過激になりがちであった主張と軍による力の行使が特徴的だった。またそれ以外にも政策が出される「間の悪さ」も感じられるところである。イギリスによる自由貿易体制の時代に、アメリカのように輸入代替政策を進めていればどうだったか(スペイン統治時代には現地産業発展の芽もあった)。戦後世界貿易の発展時(1950~60)に一次産品だけでない、また輸入代替でなく輸出主導型政策をとれなかったのか(おそらくはポピュリズム政治のため、アジア諸国より賃金コストが高くてできなかったのだろう。またアメリカの北半球での戦略の影響もあったかもしれない)。またオイルショックで世界が不況の時に、オイルマネーで過剰な投資を行い、累積債務問題に陥ったり、支配層の経済政策判断の悪さ、民衆の理解力不足のため、説得が難しく、解決策が暴力的になり、またそれが「日常的」なことのように南米ではなってしまったことも問題だっただろう。

 

 こういうポピユリズムと緩衝材としての軍の役割は他の文明でもよく見られることである。しかし南米文明の場合、支配層がどれだけ長期的な意味で合理的になれるか。あるいは多文化主義である大衆がどれだけ理性的に政策形成を進められるかが重要だと思われるが、南米の場合、特にどれだけラテンアメリカ独自の力で文明を形成できるかにもかかっているのかもしれない。そのためには半ば本能的に北米をいくらかでもラテン化していこうと試みるかもしれないし、長期間保障される貿易体制の形成を、自らの経済建設のために求めることであろう。

 

 南半球から植民型準文明、オーストラリア、南米と見てきた。同じ南半球で共通した特徴は多文化主義に至ったということであろう。オーストラリア、南米は広くはヨーロッパ文明に含められるが、原住民、移民等の接触度からして、また多文化主義をも考慮して、それぞれモラルシステムの中心にある「四文明」とは区別し、「準文明」に含めて考えてきた。また「文明の研究」の中では四文明の中にアメリカ合衆国を含めて考えてきたが、北米文明はオーストラリア同様、植民型の準文明に入るのかもしれない。こうしたことは後の辺境型準文明で極西型としてイギリスを論じるときにも関係してくるが、北アメリカを準文明として描くのは、今回は差し控えたいと思う。

 

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準文明の研究3(植民型準文明:オセアニア型)U

2022-06-12 12:57:18 | 論文

第三部 準文明博物館

 

 ここからそれぞれ個別に準文明を見ていくことになるが、比較的簡単なものから複雑なものへと廻っていこうと思う。と同時に南半球から北半球へと見ていくことにもなる。モラルシステムである四文明(ヨーロッパ文明、イスラム文明、インド文明、中国文明)がいずれも北半球に集中して存在している状況に対して、これらに対するバランサーとして準文明群を位置づけてみたらどうなるだろうかということも併せて考えてみたいテーマである。それは後ほど出てくるが、南半球から北半球を眺めてみると、また違った世界が見えてくることだろう。この点にも注目したい。

 

 第一展示室 植民型準文明

 

【オセアニア型(オーストラリア、ニュージーランド)】

 

  ヨーロッパ諸国の中でオーストラリア、ニュージーランドを初めに発見したのはオランダだといわれている。イギリスによる領有はキャプテン・クックの領有宣言(1770年)に始まり、それはオーストラリア大陸に対するフランスの介入を排除するためのものであって、イギリスは初めから積極的にオーストラリアを開拓しようとしたわけではなかった。ニュージーランド島の方がイギリス人の居住には適していたし、マオリ人(ニュージーランド原住民)は文化的な原住民であった。

 

 

 そういうわけでイギリスは、オーストラリアでは今のシドニーあたりで、軍人による指揮の下、イギリス本国の囚人を入植させた。アメリカのプリマス植民地の場合とは異なっていたわけだ。どこか日本の北海道の屯田兵と似ていたが、この軍人たちが本国からの物資やラム酒の専売を通して、あるいは囚人を使った開拓を通して、しだいに財を成し、こうした中から大牧羊業者として成功する者も出てきた。

 

 しかし無法はびこる兵団であったため、イギリス本国から厳格な総督マックオーリおよび交代の兵団が要員として送り込まれることとなった。マックオーリ総督はシドニーの西にある「ブルーマウンテン」を越える探検を行い、内陸部の広大な牧草地帯を発見した。こうしてオーストラリアの本格的な開拓時代が始まった。

 

 

  開拓の方法については、自ら入植する者もいれば、事業を行うため入植を募る者もいた。西オーストラリアではイギリス首相をやったローバート・ピールの親戚トマス・ピールによって開拓事業が進められたが定着せず、南オーストラリアではウェークフィールドという経済理論家により事業が進められたがこれも開拓にはつながらず、土地売買をめぐる投機的状況に留まっていた。西オーストラリア、南オーストラリア方面の開拓はあまり進まなかった。事業の失敗に対する総督グレーの努力(オーストラリア現地における緊縮財政)によって、ようやくイギリス本国から救済が得られることでどうにか立ち直る状況であった。ちなみにこのウェークフィールドはニュージーランド開拓にも関係し、原住民であるマオリとの対立を引き起こした。

 

 1850年代にはヴィクトリア州等でゴールドラッシュが始まった。また19世紀半ばにおけるイギリス本国での政治運動(チャーチスト運動、アイルランド独立運動)は、政治活動家のオーストラリアへの流入をもたらし、その流刑地としての役割を見直す動きも強まってきた。こうした政治活動家の流入はオーストラリアの民主化をイギリス本国以上に活発化させる結果ともなった。普通選挙の成立※は本国イギリスよりも早く、労働運動の成果が出たのも本国よりも早かった。

※普通選挙の成立   1856年 南オーストラリア州、1857年 ヴィクトリア州、1858年 ニューサウスウェールズ州で成立。

 

 経済は南のヴィクトリア州において軽工業が発展し保護貿易が主張されたのに対し、北のニューサウスウェールズ州では従来からの羊毛や穀物の自由貿易が主張された。産業の発展に伴い、移民(特に中国人)が増えたが、先の労働運動の影響もあり、白豪主義が高まった。

 

 1901年にはオーストラリア連邦が成立、その後、二度の世界大戦を経て国家意識は高まっていった。大戦時、オーストラリアとニュージーランドはかなりの人数をイギリス本国のために派遣したが、第一次世界大戦ではドイツ、第二次世界大戦では日本に対する国防という意味もあったことだろう。戦後、食料や鉱物資源の輸出等で経済的に発展したが、労働力必要のため移民も増えて、白豪主義から多文化主義※へと転換していった。

※多文化主義  オーストラリアは労働力として、また経済の発展のため、多文化主義を許容せざるをえない状況があったが、積極的に認めてきたわけではない。選挙制度の先進性も当初、白人に限定したものであり、先住民族や有色人種の排斥と表裏をなすものであった。南アフリカや南米同様、多文化主義と人種主義のバランスの状態は国の経済状況に大きく依存していたといえるかもしれない。多文化主義を許容できる経済状況にあることが必要であった。

 

 ニュージーランドは農業や酪農に適しており、原住民マオリは文化が高くもあり、入植者はマオリと共存しながら、「自由植民地」として国造りを進めてきた。オーストラリアと似たような経緯もあったが、根本的な違いは、ニュージーランドは流刑地ではなく、また人種意識が先鋭化することなく、緩やかに発展してきたということだろう。

 

 南半球の興味深いところは、オセアニア、南米、南アフリカ、紆余曲折を経ながらも人種主義から多文化主義へ移行してきたところである。それは労働力不足からきていたのだが、それぞれ移民が何世代かけて定着していくのとあわせて多文化主義へと移行してきた。しかしそれでも人種主義が火を噴くことがある。またこれらの地域の経済が長く一次産品に立脚していたところも共通していたところかもしれない。そうした中でオーストラリア、ニュージーランドはさほどの混乱に見舞われることがなかったのは、島国で孤立していたため、北半球の騒乱に巻き込まれることも少なく、人口も過小気味であり、資源、食料があるため、安定的に発展することができたからであろう。

 

 もっとも忠実なイギリス連邦(コモンウエルス)構成員としてオーストラリアとニュージーランドはイギリス本国に尽くしてきたが、それは本国に経済的、軍事的に依存していたからであった。第二次大戦後、それはイギリスからアメリカに変わったかもしれないが、日本のようにアメリカ一国に依存している状況とも異なっている。

 

 植民型準文明の一例として、オーストラリア、ニュージーランドを見てきたが、原住民やイギリス人以外の移民が比較的少なく、勢力が弱かった事例といえる。イギリス本国以上に「先進的側面」があったということも特徴として忘れてはいけない点であろう。しかしその先進性も人種主義と背中合わせのものであったことも忘れてはならないことである。

 

次に見ていく南米はどうだろう。

 

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準文明の研究2(準文明とは何か)U

2022-06-12 12:50:47 | 論文

第二部 準文明とは何か。

 

【準文明の定義】 

 

 準文明とは、文明のように「国際的に影響力を持ちうるモラルシステム」を構築した文明ではなく、「ほぼ一国的な意味において独自なモラルシステム」を構築した文明であり、また程度こそ異なるがある程度、四文明のどれかの影響下にもあった、「衛星的な要素」をも持つ文明である。

 

 そうした、より小型の文明である準文明は四文明に影響を受けながら衛星のように生存することもあったため、準文明とよぶのであるが、空間的な意味における存在のあり方として、大きく四つの型に分類することができるかと思われる。①植民型、②浸透型、③辺境型、④融合型がそれである。

 

【準文明の四つの型について】

 

 シンプルなものから、複雑なものへ準文明の型を並べると①植民型準文明、②浸透型準文明、③辺境型準文明、④融合型準文明となる。植民型準文明としては、オーストラリア、南米、北米が挙げられ、浸透型準文明としてはアフリカ、ユーラシア(ロシア)が挙げられる。また辺境型準文明としては極東(日本や朝鮮)、極西(イギリスや北欧)が挙げられ、融合型準文明としては東欧や東南アジアが挙げられる。

 

【準文明、四つの型の特徴】 

 

 それぞれの準文明の特徴について、考えていこう。

 

 植民型準文明とは、北米やオセアニアのような、植民者が原住民に比較的大きな抵抗を受けずして、自らの理念に基づいて築かれた文明、または南米のように、原住民との接触や奴隷貿易など通して植民者が原住民及び奴隷と共存する形で築かれた文明とに大別される。

 

 浸透型準文明とは、アフリカ大陸のように北部及び東部からイスラム勢力によって、西部及び南部からヨーロッパ勢力によって原住民が制圧されていった文明や、ユーラシア(ロシア)のように西部からヨーロッパ勢力、東部からトルコ、モンゴル勢力によって原住民が制圧されていった文明が挙げられる。

 アフリカもユーラシアも奴隷貿易の発祥地であったし、そのためにその周辺にあった「文明」の支配を受けることになったが、アフリカは原住民が文明の中心に戻るとともに、多様性を認める文明を形成しようともしてきている。こうしたことは植民型の南米と似たアプローチといえるだろう。

 それに対してユーラシア(ロシア)は原住民による復活はごく最近まで弱く、トルコ、モンゴル勢力が支配した時代の後、ロシア勢力が支配する時代が来た。トルコ・モンゴル、ロシア両者とも原住民の支配は比較的ゆるやかなものだったかもしれない。

 

 辺境型準文明とは極東(日本、朝鮮)のように中国文明の辺境にあって、その文明に多大な影響を受けたがまた、地理的に辺境あるいは孤立していたため、ある程度、独自の文明を自生させることもできた文明である。

同様に極西(イギリス、北欧)もヨーロッパ文明の辺境にあって、その文明に多大な影響を受けてきたが、極東と同じく、ある程度、辺境あるいは孤立していたため、独自の文明を自生させることができた文明であった。中心となる文明からの距離や位置によって個性に差が生じることとなった。また極西準文明がヨーロッパ文明に与えた影響は極東準文明が中国文明に与えた影響よりもかなり大きなものであったろう。そしてこの準文明には海の要素も大きく関係していた。

 

 融合型準文明とは東欧のように西欧(ヨーロッパ文明)、イスラム文明、ロシア準文明に囲まれた文明や、東南アジアのようにインド文明、中国文明に挟まれた文明であり、東南アジアはそれだけでなくイスラム文明やヨーロッパ文明によっても影響を受けた準文明であった。多様な民族、言語あるいは宗教を混在させた最も複雑なタイプの文明といえるだろう。時代によって影響を受けた文明も異なり、団結力についても周辺からの影響を頻繫に受けることから弱かった。現在、東欧はEUやNATOに加入し、西欧の影響下に入ったが、東南アジアは団結することにより、中国文明やインド文明に対して独自の勢力となって対峙している状況である。そのことは反面、東欧がロシア準文明やイスラム文明に対して閉鎖的な姿勢を示しているのに対し、東南アジアが中国文明やインド文明に対して開放的な姿勢を作り出しえていることを、逆に説明しているようにも思われる。すなわち融合文明において独自の団結の程度が近隣文明への開放の許容性の幅を逆に示唆しているともいえる。

 

 植民型準文明、浸透型準文明、辺境型準文明、融合型準文明それぞれ準文明の個性について簡潔に見てきた。分類の便宜上の観点からこうした概念を創ってみたが、植民型準文明と浸透型準文明とは似ているところもある。共に進出してくる植民が大きな意味を持っていたし、奴隷貿易の要素が大きな影響を持っていた地域でもあった。この二つの文明を分ける要素としては「原住民の抵抗力の強弱」があったかと思われる。植民型準文明は弱く、浸透型準文明は強かった。

 

 また辺境型準文明と融合型準文明は原住民の力がそもそもから強かった、自立していた文明といっていいかもしれない。しかし辺境型準文明は辺境であるがゆえに独自の文明として強力でありえたし、危機回避や僥倖にも恵まれたのに対し、融合型準文明は原住民の力はあったが、準文明内における内部対立も激しく、そのことが危機を招き、不運も多かった文明であったように思われる。

 

 準文明はこうした個性を持っているが、忘れてはならないことがある。いずれの準文明もそれぞれ主要な文明である四文明、中国文明、インド文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明のモラルシステムに大きな影響を受けてきたということである。すなわち、近隣にある大文明によって準文明は「属人的な支配」を受けることもまた多かった。準文明の中では、文明における価値観の影響を大きく受けた一部勢力の支配力が強かったこともあった。しかしそうした影響を受けながらも自らの準文明を築き上げてきた。

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準文明の研究1(文明の研究を振り返って)U

2022-06-12 12:41:18 | 論文

準文明の研究

 

第一部  文明の研究を振り返って

 

 先の「文明の研究」の中では四つの文明、中国文明、インド文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明について考えてきた。その際、それぞれの文明の特徴やそうした文明の命の源のようなものを描いてきた。そしてこの四つの文明を、地球を支える四つの柱ではないかと考えてきた。

 

 しかしながら、実際にはこの四文明の他にも多くの文明が存在し、活動してきたし、活動している。今回テーマとするのはそうした文明たちである。そしてこうした諸文明をこの研究では「文明」とは区別し「準文明」と名づけ、四文明と同じぐらい重要なテーマとしてとりあげていくこととなる。またこうした準文明の集まりが、四つの柱である四文明を束ねる役割を果たすようになっていくかどうかについて考えていきたいと思っている。本題である準文明について検討する前にまずは「文明の研究」で考えてきたことを簡単にふりかえってみよう。

 

【四つの文明とは】 

 

 「文明の研究」の中で考えてきた四つの文明、中国文明、インド文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明が、地球という神殿の柱であるとしたのは、こうした文明がそれぞれ「国際的に影響力を持つモラルシステム」であったことによるといえる。モラルシステムとは「倫理体系」ということであり、コンピューターで例えればオペレーティングシステムのようなもの※でそれぞれの文明を動かしてきた「倫理体系」ということができるだろう。この倫理体系の許容範囲の広狭により、利害関係の広狭も規定されてくる。

 

「国際的に影響力を持つモラルシステム」であるところの文明同士間の境界では、ハンチントンがいったようなフォルトライン紛争※が生じ、紛争の原因となることもあった。国際的に影響力を持つモラルシステムすなわち文明とは例えば日本というひとつの国でいうところのモラルシステムとは異なり、いくつかの国にまたがっており、そういうものをこの研究では特に「文明」とよび、日本のようなひとつの国だけでおさまっている文明についてはあえて「準文明」と呼び、区別する。

 

【文明における二つのタイプ、ローカル型文明とコスモポリタン型文明】

 

 「文明の研究」の中では第三章の文明と空間のところで、四つの文明を「ローカル型文明」と「コスモポリタン型文明」とに分けてし、中国文明とインド文明を「ローカル型文明」、イスラム文明とヨーロッパ文明を「コスモポリタン型文明」とに分類した。

  ローカル型文明とはどちらかというと農耕社会を基礎とした、政治または文化を基軸とした中央集権的な文明であり、コスモポリタン型文明とはある程度共通の価値を基軸としているが、交易によってさまざまな地域を連結することにより成立した、分立的な文明としていた。

 

【コスモポリタン型文明同士の関係性の中から資本蓄積のモデル、資本主義が生じた。】

 

「文明の研究」の中では、資本主義はコスモポリタン型文明同士、イスラム文明とヨーロッパ文明間における、交流と対立の中から生まれてきたとした。モンゴル帝国やオスマントルコの躍進がヨーロッパを航海に向かわせ、思いがけない新大陸の発見等がフランドルやネーデルランドを中心とした資本蓄積につながり、最終的にオランダの地において本格的な資本主義が成立したというわけである。

 

【文明と時間に介在する五つの力の原理】

 

文明の分類から議論を始めたが、それぞれの文明の生命を起動していく力についても「文明の研究」の中ではふれていて、そうした力が大きく分けて五つあるとした。こうした五つの力を時間と絡めながら説明し、 ①価値、②技術的効率力、③社会構造力、④反作用力、⑤外部力、環境力を最少限のものとして掲げ、そうした力がおおよそどういうものであるか歴史から例をとりながら説明し、それぞれの文明の命の流れの中でそうした力の存在してきたか事例のようなものをざっくりと指摘してきた。またそうした力は準文明においても存在し、関係しており、それぞれ準文明の特徴を説明する際にもこうした力の概念が生かされてくることがあることだろう。

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