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Civilizations and Impressions

文明と価値15(高齢少子化、財政赤字化、新産業革命)

2023-02-04 10:32:36 | 論文

 

    高齢少子化

 死亡率が低下し、出生率が低下することによって高齢者が増大し、子供が減少し、高齢者の割合が上昇していく現象。高齢者の増大の原因については医療関係技術の発展、子供の減少については独身者の増大、女性の社会進出による晩婚化が挙げられている。出生率の減少の背景には他にも多くの原因があるが、単純に出生率が上がればいいという問題ではない。「生産年齢人口」が適正な水準を保てなければ、高齢者と子供の「両方」を見なければならない、育児世代に大きな負担がかかってくるという問題もある。人口の問題はさまざまな社会状況に影響を与えつつあり、高齢者の増大は地方においては病院の問題などによって、地方における大都市への人口集中を促進している要因ともなっている(例えば北海道における札幌への人口集中など)。

 

 財政赤字化

 それぞれの年度を通じて収支を健全化するよう政府は目標を掲げた(プライマリーバランス)。しかしそのいっぽうで国内の経済成長を維持するために金融を緩和し、かつ様々な理由(バブル崩壊からコロナ禍まで)から財政支出を行ってきた。大量の国債を政府が発行し、それを日銀と日本の銀行が買ってきた。経済成長率が債務増大率より高ければ、税収の伸びで財政赤字は解消される。しかしその前提条件としてプライマリーバランスと債務の借り換えにかかる費用が債務増大率と等しくなることが条件となる。日本はデフレ状況にあり、物価上昇率は低い状況にあるため、国債を発行(名目金利を動かす)しても実質金利が上がらない状況※が続いてきた。日本の国債は大量に発行されてきたがその価格は上がってきた。このようなことが成立しうる背景には二十数年間続いてきた経常収支黒字の蓄積がある。しかし一方でオリンピックの延期、コロナ禍による緊急時における出費をこうした黒字から吐き出してもきた。日本の(海外進出している)民間企業には直接投資等からの収益があり、また国としても大きく外債に頼るまでにはなっていないという状況である。経済成長があってこそ税収が伸び、財政が改善されるのだが、日本においてデフレ経済改善の兆しは見られない状況が続いてきた。こうしたデフレ状況を「世界経済の中世化」とよぶ学者もいるが、海外からの収益の状況は日本国内で投資する意味がなくても、海外において投資することは意味があったということになるだろう。

 経済成長に対して高齢少子化は医療費や社会福祉費用の増大であり、義務的な経費が経済状況と変わらず増加していくという問題を抱えている。こうしてみてくると財政赤字の問題は国における資産の割りふり(ポートフォリオ)をどのようにするかという問題と関係しているようにも見えてくる。海外から得られた経常収支(国内的には人口増大が見込めないため、したがって乗数が低いため、海外に期待するしかない、しかしこの経常収支のバランスもくずれかけているといわれている)をどれだけ国内に回すのか,またはどのように活かすのかということである。ここで新産業革命(第4次産業革命)やグローバルサプライチェーンの再編成の問題が関係してくる。「国内的」に投資する意味もしだいに高まっているからだ。 

 

 新産業革命

 世間的には第4次産業革命と呼ばれている。しかし通常、第2次産業革命とよばれているものは動力源が石炭から石油に代わったものであり、第3次産業革命と呼ばれているものはコンピューター、インターネットに連なるものである。むしろ第1次産業革命と第2次産業革命を合わせ、第3次産業革命と第4次産業革命を合わせた方がいいのかもしれない。それぞれの革命の性質あるいは分類がより明瞭になるからだ。英語でいえばそれぞれIndustrial revolutionにgreatがつくといったところか。この用語法に基づくと第1次産業革命の本質は「機械による肉体労働の代替化」となる。それに対して第2次産業革命の本質は「機械による頭脳労働の代替化」となる。またこの第2次大産業革命の特徴としては新エネルギーの導入や機械とバイオテクノロジーの融合など、同時に多くの科学技術の融合的発展の可能性が見えてきていることが挙げられるだろう。

    しかしその一方で、こうした発展状況の背景には「技術的効率力」に「社会構造力」がついて行っていないという問題が依然として大きな課題として残っている。むしろその落差は拡大しているといっていい。第2次大産業革命の大きな特徴はこうした落差を埋めるために何をしたらいいか、この方面に対しどのようにして機械による頭脳の代替化を進めていくべきか、その方法論と深く関係が生じてくるように思われる。

    民主主義と全体主義の対立はひょっとしたら無意味なものになっていくのかもしれない。あるいは自然科学以上に社会科学に激震が走って、こうした状況は新しい民主主義、社会科学の創造につながっていくこともありうるだろう。

    また先進諸国においては人間の高齢化が進行している。しかしこうした状況も、第1次大産業革命において「機械」を構成する素材が「木材から鉄」へ変化していったように、「人材」を構成する素材が「知能から人工知能」へ変化させていく原因になるのかもしれない。日本のように急激に高齢少子化が先行しているところから、人間に代わる知力、またそれに結び付いた運動力の導入が広範に導入されていく背景となるのかもしれない。必要があるからであり、広範にとは都市、自治体、国全体として公共的な需要となりえるということである。かってイギリスの産業革命において、機械が導入されることができたのは、いろいろな摩擦があったが人間の労働力よりも必要性が優っていたためであった。

 財政赤字との関係では、海外からの収益を来るべき国内における新産業構築のために使うことが必要であろう。しかし現実には法律的な規制や社会習慣などによって困難な面が多いのかもしれない。こうした新しい試みも日本でなく、途上国の方で実験導入する方がコスト的に安く済むという問題もある。AI、ビッグデータ時代の新しい産業、社会科学、民主主義の形成は実は急がなければならない問題である。

 

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