旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

フットワークとネットワーク、そして“縁”ということ

2006-03-22 17:42:07 | 日々雑感
“犬も歩けば棒に当たる”とはよく言うけれど、確かに歩いてみないと“チャンス”に出会えない。
向こうから幸運が舞い降りてきてくれるなどというのはあるはずがない。
宝クジだって買わなければ当たらない。
何事も、自分の足で歩き回り、いろいろな人と出会って情報、知識、果ては知恵までももらい、それで自分が抱えている課題の解決の糸口を見つけることができたり、新たな可能性に挑戦する意欲も沸いてくる。
人的ネットワークこそが大事。
しかし、フットワークが悪ければ人的ネットワークを作れない。
やはり、足腰を健康に保ち、出歩くことを怠ってはならない。
億劫がっていては、“駄目”ということ。

ところで、仏教の教えに“縁”というものがあるそうな。
とかく私のような凡人は、「物事には原因と結果がある」と決め付けがちだが、そうではないらしい。
「池がある。池に波が立つ。」とは、原因と結果を言っているが、そこに“風”の力が作用しなければ波は立たない。
この“風”が原因と結果を取り持っている“縁”、縁が無ければ結果もないというのだそうだ。

「自分がいて、知人、友人がいる」というのは、原因と結果のようなものだが、「自分と知人、友人」を引き合わせてくれた、“縁”の仲介者に大いに感謝しなければならない。
残り人生の日にちを数える齢(よわい)になった今、心底そのように思えるようになってきた。


そうそう、「袖振り合うも“たしょう”の縁」を量的に「多少」と捉え、「マ、いっか。これも縁だから」などと疑っていなかった自分が情けない。

“たしょう”は「多生(他生とも書くが、正確には多生)」ということであり、何度も生をかえてこの世に生まれ出ることをいうことらしい。
確かに岩波書店の広辞苑では、「道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁による。すなわち、ちょっとした出来事もすべて宿世(すくせ)の因縁による。」と書いてあった。


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