旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

慶弔積立よりも「思い出の積み立て」を

2006-03-18 22:51:23 | 日々雑感
毎年3月の末になると、人事異動の内示がある。
今度、自分はどこに配属されるか、あの人はどこにいくか。
そんなことを思い巡らし、気がそわそわする。
内示が出てしまえば「ああ、そういうことか」となってしまうのだが、それまでの間はどうもいただけない。
これまでだって自分の期待するようにはならなかったことは重々承知の上とはいえ、ついいろんな思いを持ってしまうようである。

また、しばしば「偉くなった」という会話が交わされる。
これにはいつも不快にさせられる。たかだか、自分が所属する組織の中でのポストのこと。人間社会総体での位置づけでもないのだから、そこに「偉い」などという意識を持ち込むのはおかしい。
ポストが上がったことと「偉くなった」のを同義に扱う人を見ると、こちらまで乾いた気持ちになってしまいそうだ。
わが両親は、“働けど働けど貧しい暮らし”を送り、生涯を閉じた。
持った肩書きは、集落の中での「回り当番」くらいしかなかったであろう。
しかし私はいつも誇りに思っている。
わが父母は「小さな巨人」であると。

城山三郎さんの著作に『この日、この空、この私-無所属の時間で生きる』という本がある。
この中に、つい頷(うなず)いてしまうようなことが書かれている。

「慶弔積立金もいいが、それよりも、友人にまつわるよい思い出を互いに積み立てておきたい。人生にあぐらをかき、安定した話などは、どうでもよい。出世した話や金もうけの話は、ときに卑しくひびく。
 結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。
 よい思い出のためには、よいつき合いも要るが、よいつき合いとは何なのか・・・。学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。」

また、荻須高徳さん(画家)の次のような箴言(しんげん)が紹介されている。
「一日仕事をしないと、自分に見放され、二日仕事をしないと、先生に見放され、三日仕事をしないと、大衆に見放される」

そう、確かに慶弔積立金よりも、友人にまつわるよい思い出を互いに積み立てておきたい。
そのためにも、友人に見放されることなく、自分の役割をきちんと果たしていきたいものだ。


  『この日、この空、この私-無所属の時間で生きる』:城山三郎 著(刊:朝日新聞社)

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