旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

”山川草木悉有仏性”を思いながら松の鉢植えを捨てた

2006-10-09 00:22:52 | 日々雑感
久々に庭の植木鉢の手入れをした。
水遣りはしてしても、長いことほったらかしにしておいたので、枝先は皆ボウボウの状態。
特に、松の木はひどい有様になっていた。

盆栽の良さは、「一に根張り、二に立ち上がり、三に枝」という。
根は八方に張り、立ち上がりはシッカリとした太さに始まり、上に行くに従って細くなるといういわゆる“コケ順”が良いこと。
枝は、同じところから左右にはるという閂(かんぬき)状態ではなく、しかも懐枝(ふところえだ)がシッカリと残り、枝先まで密になっていること。
枝が最後とは、接いて形を作ることができることから。

しかし、我が家の盆栽は、まさに凡才の作。
根張りは良くても後は駄目。
特に、今年は手入れをサボってきたのでなお更である。
手の施しようの無くなった松の鉢植えを3つほど捨てることにした。

1本は、五葉松。
我が家に来てから30年は経つ。
それ以前から木肌が荒れて年代がのっていたので、かれこれ50年木にはなるだろう。

他の2鉢は、赤松の寄せ植え。
こちらは約20年生。赤松林の風景を創ろうと、実生の幼い木を寄せたもの。

これらを捨てるのは何とも忍びがたいが、この先の可能性の薄さを思えば仕方が無い。


盆栽は、木の個性を伸ばして育てるものだという。
無理に剪定したり、針金で整姿したりするものではないということ。

この理屈に立てば、姿かたちが崩れているとしても我が家の駄盆栽もそれぞれ個性があり、それを生かされてしかるべきというものなのだろう。
それを怠り捨てるとは、大いに反省が必要か。


鉢植えと人間を同列に扱うことには少々無理があるとしても、同じく命を持つもの。
“山川草木悉有仏性” とも言うではないか。

となれば、己の意に沿わないからといって、抹殺してしまうのはやはり変だ。
50年も生きてきたことを思えばなお更のこと。

わが人生もいつかはこうやって捨てられていくのではないか。
そんなことを思いながら、3鉢の木々を庭の隅に捨て置いた。

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