Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

痕跡と間隔化・1

2007年09月17日 | Weblog
シュルレアリスムと写真

今回はシュルレアリスムとマルセル・デュシャンにおいて「写真の論理」がどのように働いていたかをお話していきます。

デュシャンもシュルレアリスムに深く関わっていますが(とりわけシュルレアリスムの代表的な写真家の一人マン・レイとは多くの共同制作を行っています)、まずはシュルレアリスム運動における写真の位置づけを考察し、その後にデュシャンの場合を見ていきたいと思います。なお今回の考察は、アメリカの美術批評家ロザリンド・クラウスの論考に深く依存しています。

まずシュルレアリスムですが、ご存知のように、シュルレアリスムは、第一次世界大戦後、いわゆるアプレ・ゲール(戦後の意)といわれた時代に、フランスを中心にヨーロッパで展開された(1924年「シュルレアリスム宣言」の発行)芸術・文化運動です。その理論的主導者がアンドレ・ブルトンという詩人・文学者です。後には「帝王」とまで呼ばれ、シュルレアリスム運動に君臨していきました。シュルレアリスム運動については、多数の文献が邦訳されていますので、興味・関心のある方はご覧になってください。

シュルレアリスムは芸術・文化運動と言われるように、文学から絵画、写真、演劇、映画まで、きわめて広範囲なメディアを駆使し、各ジャンルで多くの優れたアーティストを輩出しています。ここでは写真というメディアがシュルレアリスムのなかでどんなポジションにあったのか、シュルレアリスムは写真というメディアにどのような機能や論理を見出したのか、写真というメディアに的を絞ってお話をしたいと思います。ただし、ロザリンド・クラウスは、シュルレアリスム理論のなかで、写真はきわめて中心的な役割を果たしている指摘しています。

シュルレアリスムといいますと、「超現実主義(フランス語でSur-réalisme。英語のsuperにあたります)」と訳され、現実を超えた非現実の世界、幻想や空想の世界と思われがちですが(現在の「シュール」という一般的な使い方は、非現実的とか、幻想的とかの意味で用いられるケースが多い)、実は度を超した現実、過剰な現実を意味しています。むしろ理性や再現=表象を媒介としない「直接的な現実の経験」を求めたと言えます。

シュルレアリスムは、とりわけ視覚的なものに大きな関心を寄せました(ブルトンは『シュルレアリスムと絵画』のなかで、「視覚的イメージは、音楽には決してできなことを達成する」と言っています)。19世紀後半の象徴主義や20世紀の抽象芸術は、「音楽」に芸術の至上性(理想)を見出しましたが、それと好対照をなすところが興味深いところです。なぜなら、一般的には、音楽こそが理性や再現=表象を媒介としない、直接的な経験をもたらすと思えるからです。この矛盾については後述します。

シュルレアリスムに関係する写真家には、マン・レイを始めとして、ブラッサイ、ボワファール、ケルテス、モーリス・タバールなど数多くいます。またシュルレアリスムは多くの宣言書や雑誌を出版しましたが、そこでも視覚的資料として写真を多用しました。


視覚の直接性と画像(ピクチャー)

現実の直接的な経験を求めたシュルレアリスムは、どうして視覚的なものを重要視したのでしょうか。視覚的イメージとはそもそも現実が再現=表象されたものではないか。そこには必ず理性や悟性(知性)が介在するではないか。とりわけ写真は現実の再現=表象そのものではないか。とすれば、音楽よりも視覚的なものに「直接的な現実」を求めたシュルレアリスムには矛盾がありはしないか。

シュルレアリスムが視覚的イメージに求めたのは、視覚の「直接性と透明性」、理性や経験的な知が介在しない知覚、いわゆる「知覚的オートマティスム」と呼ばれるものでした。オートマティス=自動筆記法(無意識の連想に基づいて詩や文章を構成していくこと。このオートマティスムはフロイトの精神分析学における臨床方法に基づいています)と呼ばれる方法は、シュルレアリスム理論のなかでもきわめて重要な位置を占めています。当然ながら、ここで言われている「オートマティスム=自動性」は、写真の機能がもつ機械的自動性に何らかの影響を受けていることは明らかでしょう。

シュルレアリスムは絵画的な画像(ピクチャー)を徹底的に攻撃しました。シュルレアリストの一人ピエール・ナヴィルは「巨匠たちよ、役立たずの巨匠たちよ、君たちのキャンヴァスを塗りたくって台無しにしたまえ」と言って、その敵意をあらわにしています。つまり、従来の絵画的なイメージは、理性に汚されている。それに対して、シュルレアリスムは「野生の眼」や「視覚的未開性」を視覚的イメージに求めたというわけです。画像(ピクチャー)に対立するものとしての視覚の直接性。
シュルレアリスムが写真に見出したのも、こうした理性が媒介されない「視覚の直接性」だったのでしょうか。つまり、写真という視覚的再現は、その自動性(オートマティスム)ゆえに、被写体(対象)への「直接性と透明性」を有していると考えたからでしょうか。

こうした写真に対する考えは、今ではきわめて一般的です。ですから、これまでの写真論においてはしばしば、「表現(媒介性-ここでいう表現は明らかに、再現=表象を指したものと考えます)」に対して「記録(直接性と透明性)」という概念を対立させることで、写真固有のメディア性を強調してきたわけです。しかし、この「記録と表現」という対立概念はきわめて疑わしい。写真における恣意性や操作性は、現在では常識的な見解ですし、一方で写真こそ最も再現性の高い媒体であることは明らかです。したがって、「記録と表現」は対立としての「と(同時性)」ではなく、「そして(遅延)」に言い換えなければなりません。もう一つ指摘しておけば、記録と表現という二項対立を考える場合、たとえ表現次元を重要視する写真の場合でも、あくまでも記録(つまりは被写体)に重点を置いていることです。つまり、被写体との遭遇という経験的な次元を再現すること(経験を再現すること)のために表現するということです。被写体への従属。

これについてはまた後述しますが、ベンヤミンもまたブレヒトの「クルップ工場やAEG電気の一枚の写真は、これらの施設についてほとんど何も明らかにしない……。それ故、何かが、積極的に構築されなければならない。人為的な何か、組み立てられた何かがである」を引用して、写真という記号の、記録としての曖昧性を指摘しています。

写真は再現性の高さという意味では、きわめて現実主義的な媒体に他なりません。とすれば、シュルレアリスム理論にとって、写真は明らかに唾棄されるべき存在なはずです。

パロールとエクリチュール

ここで、ちょっと迂回して、「再現=表象(媒介性)」と「記録(直接性と透明性)」について、文脈を変えて考察してみたいと思います。「再現=表象」というのは、オリジナルなもの(現実の対象)が記号に媒介されて再現(現前)されたものを言います。一方の「記録」は、そうした媒介を経ない、オリジナルなものと直接結びついた、透明なイメージとしての対象を指すというわけです。

こうした媒介性に対する敵意と、直接的なものを真理とする考えは、プラトン的な西洋文化の伝統につながるものです。プラントンは絵画を低級の芸術として退けました。西洋文化の伝統においては、知覚こそが現実(対象)に直接通じているもので、「再現=表象」は代替物(記号)によってのみ現実(対象)を現前させるにすぎないと。この現実からの距離ゆえに、再現=表象は偽物(コピー)としての嫌疑をかけられるわけです(話は逸れますが、プラトン的秩序においては、コピーは本物があってのコピーであり、オリジナルに対する2番目のものとして位置づけられ、さらにオリジナルから遠ざかるコピーのコピーとしてのシミュラークルが最も唾棄すべきものと考えられています)

ジャック・デリダはこれをパロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)に置き換えて語っています。パロールは自然的であり、少なくとも思考の自然的表現(直接的な現前)であるのに対して、エクリチュールは代理として付加されたもの(再現=表象、記号)で、自然なものではないということです。これがデリダいうところの、西洋における「パロール中心主義」です。これをもっと通俗的に言いますと、西洋文化の構造には必ず「野性的なもの」と「文明化されたもの」という二項対立があり、理性を重んじる一方で、「野性的なもの」への憧れがつねに持続しています。

シュルレアリスム理論における、再現=表象や記号への蔑視と、知覚の直接的なものへの希求は、西洋文化の伝統を決して転覆するものはないように思えます。実際、ブルトンにおける再現=表象への反感は一貫していない。ロザリンド・クラウスは、「視覚と再現=表象、現前性と記号の優位性に関するこの矛盾は、シュルレアリスムの理論のうちにあるもろもろの混乱の典型」であると言っています。


痕跡としての記号

実際、シュルレアリスム的実践では、絵画にしろ、写真にしろ(シュルレアリスムにおける写真の形態は、絵画同様、きわめて多様な種類があります。きわめて凡庸なイメージから、ストレート写真、オブジェの記録写真、ネガティヴ・プリントの多用、モンタージュ効果を生み出すための多重露光やサンドイッチ・プリンティング、鏡を使った操作-ケルテスの「ディストーション」、マン・レイのソラリゼーションとレイヨグラフ、フォトモンタージュ等々。このリストはクラウスの著に挙げられているので参照のこと)、きわめて多様な作品が生み出されています。ミロの抽象性からマグリットやダリのリアリズム性まで、従来の美学的コードではとらえられない多様性があります。それゆえに、シュルレアリスムは、これまでの様式概念(形式的統一性)ではとらえきれず、美術史のなかではつねに邪魔者扱いされてきました。

しかしクラウスは、実はこの矛盾、混乱、多様性のなかにこそ、記号論的なアプローチによって、「知覚と再現=表象」「現前性と記号の優位性」「オリジナルとコピー」といった二項対立を無効化し、さらには従来の美術の論理を逸脱する、新たな芸術の論理としての写真の論理を見出すわけです。

前述しましたように、シュルレアリスムにおける写真の形態は、きわめて多種多様です。しかしクラウスは、シュルレアリスムにおける写真の使用法に、ある共通の機能を見出していきます。それが「物理的痕跡としての記号」という機能です。

写真は光の痕跡として、現実と物理的なつながりをもっています。クラウスはパースの記号論(パースは記号をその対象との関係から3つに分類した。1・類似〈イコン〉記号-類似性にもとづく記号、2・指標〈インデックス〉記号-現実の物理的、時間的、概念的近接性によって関係づけられた記号、3・象徴〈シンボル〉記号-現実の対象と直接の関係はなく、ある習慣性や傾向性によって関係づけられた記号)によって、指標〈インデックス〉記号と考えます。

写真(というイメージ、記号)は、現実の対象そのものではないが、足跡や指紋のように、物理的つながりによって、その対象を指し示すというわけです。写真はまさに現実の転写なのです。とはいえ、写真もまた現実の対象を代理(簒奪)する記号であることに変わりはありません。つまり、鋳型としての痕跡。したがって、写真はオリジナル(対象)に対するコピー、二重像であり、文字通り物影であり、映像なわけです。そこにはつねに、オリジナルの後からくるものとしての「遅延」「差延」の効果がともなっています。デリダはこれを「間隔化」と呼んでいます。

クラウスは、シュルレアリスムの写真には、この「間隔化」と「二重化」にもとづく、さまざまな操作が働いていると言います。むしろ、シュルレアリスムの写真は、「現実の間隔化と二重化を登録することを目論んでいる」ととらえます。その典型的な例が、二重露光やソラリゼーション、レイヨグラフなどです。

では、シュルレアリスムは、「間隔化」と「二重化」の登録を目論むことで、何をなそうとしたのでしょうか。この「間隔化」や「二重化」という、写真の論理にどのような意味があるのでしょうか。

フォトモンタージュとシュルレアリスムの写真

まずシュルレアリスムの写真における「二重化・間隔化の登録」とはどういうことか。クラウスはダダやバウハウス系のフォトモンタージュとの比較を通して、シュルレアリスムの写真における「二重化・間隔化の登録」の意味を明らかにしていきます。

ダダやバウハウス系のフォトモンタージュとしては、ラウル・ハウスマンやジョン・ハートフィールド(彼らによって始められたと言われている)を始めとして、ハンナ・ヘッヒ、日本では木村恒久が有名です。フォトモンタージュとは写真を使ったコラージュ、いわゆる合成写真のことです。通常は写真を切り張りしたり、入れ替えたり、二重露光をしたりすることで、イメージを合成します。実際に写真を撮らずに、印刷物を切り張りすることもあります。さてフォトモンタージュの論理とはどういうものでしょうか。

フォトモンタージュは、切り張り(断片化)された写真〈イメージ〉を言語記号の単語のように扱い、それらを再構成(モンタージュ-ここには映画におけるエイゼンシュテインの「モンタージュ理論」との関連を指摘できる)しています。つまり、フォトモンタージュの意図は、イメージを合成(再構成)することで、新たな意味を生み出すことにあります。いわばイメージの統辞法とも言えます。その際に写真のイメージを多用(ピカソやブラックのコラージュとの違い)したのは、写真が現実(の対象)を直接的・透明的に指し示すところにあったと思われます。われわれが現実に見ていることは、メディア(媒介となる視覚的な伝達形式)によって曇らされている(操作されている)、ならば、現実の直接的なイメージを再構成することによって「正しいメッセージ」を伝えよう、というわけです。フォトモンタージュがしばしば社会風刺を意図したことは、その論理から当然の帰結と言えます。

フォトモンタージュの論理(の限界)は、写真が直接、透明に現実の対象を指し示すという考えにあると思えます。そしてその写真の直接・透明な記号を言語に還元することで、新たな意味の創出を図るというわけです。つまり、フォトモンタージュというイメージ構成の下には、必ずテクスト(言語)が存在しているのです(バウハウスの一員でもあったモホリ=ナギは、写真を「新しい光の言語」と言っている。造形言語としてであれ、ニュービジョンとしてであれ、写真記号を「言語」になぞらえていたのは明らかだと思われる)。

それに対して、シュルレアリスムはあまりフォトモンタージュを好まなかったと言われています。シュルレアリスムのレイヨグラフ(フォトグラム)やソラリゼーションは、イメージの再構成というよりも、写真というイメージの分裂、二重化そのものをマップしています(写真とテクストの使い方にも、そのズレを狙っていると思われる)。

フォトモンタージュも、シュルレアリスムの写真行為も、画面を一つの意味生成の場ととらえていることは確かです。「解釈や意味作用の群がる世界」としての「表現」。しかし、そこにはおきな違いがあります。フォトモンタージュが「対象の透明な記号」としての写真を前提にしているのに対して、シュルレアリスムの写真行為は写真という記号がもつ特性そのもの(二重化・間隔化)を画面上にマップしようとしていることです。

シュルレアリスムの美的経験

写真がもつ対象への「直接性」と「透明性」。それはまたシュルレアリスムが写真に求めたことではなかったか。確かに、シュルレアリスムは理性や知性を媒介しない「直接的なもの」を求めました。しかし、シュルレアリスムの「直接性」は、対象への「直接性」や「透明性」とはやや異なるように思えます。例えば、シュルレアリスムは筆記的(カーシヴ)なもの、書き物的(スクリプトリアル)なものを、重要視しました(アンドレ・マッソンのオートマティックなドローイングはその代表的な例。ブルトンは「それ自身の運動、それだけに心を奪われた例の手」とマッソンについて書いている)。つまり、シュルレアリスムにとっての「直接性」や「透明性」とは、対象を直接、透明に表象するということではなく、「リズム」や「運動」といった直接的な経験であり、その経験を受容する心に対する透明性なのです。

ブルトンはシュルレアリスム美学を「痙攣的な美」と定式化しています。「痙攣」とは何でしょうか。「痙攣」とはおそらく、どちらにも判断できない、いわば宙ぶらりんの状態に陥ったときに生じる状態と言えないでしょうか。判別不可能性、識別不可能性の不安。シュルレアリスムは自らをあらわすバイブルの一つとして、19世紀の詩人ロートレアモンの「手術台の上での蝙蝠傘とミシンの出会い」を引用します。この言葉は「蝙蝠傘」と「ミシン」という異質の物の出会いだけではなく、その出会いの場(コンテクスト)となる「手術台」の異質性も露にしています(ミシェル・フーコーの『言葉と物』の序文で有名な、ボルヘスのエッセー「ジョン・ウィルキンズの分析言語」の「シナのある百科事典」と同様の問題と言えるだろう)。異質な場での異質な物どうしの出会い。これはまさに何かに固定されない宙吊りの状態そのものと言えます。

シュルレアリスム写真における「二重化・間隔化の登録」とは、現実と記号(イメージ)の亀裂そのものの体験を表しているように思えます。シュルレアリスムにとっての写真とは、現実が記号に変換される際の、宙吊りの体験、まさに痙攣を記録することであったのではないか(ベンヤミンはその『写真小史』のなかで、見る人の連想メカニズムを停止させる、写真が与えるショックについて語っている。この停止のショックこそ、ここでいう「宙吊り」状態のことである)。「フォトモンタージュにおけるように、現実を解読しつつそれを解釈するもの」ではなく、「かたちづくられ、コード化され、書かれた現実そのものの現前」ということです。
(つづく)

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