Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 16

2013年12月12日 | Weblog

〝ベンヤミンのアジェ“をやり直す
トーマス・デマンド展(東京都現代美術)

奇妙な静かさをたたえた、無人の空間。人間的な痕跡が消し去られた、人間以前/以後の光景。直前までいた人間を消去してしまったような空間でもあれば、永遠に登場しない人間を待っている無時間的な空間のようでもある。デマンドが提示してみせる“場(空間)”の感覚は、どこかアジェの写真を思わせる。というよりも、アジェの世界をさらに徹底化する試みと言えようか。そこにこそ、写真の今日的問題、あるいは歴史的問題が潜んでいるかもしれない。結論を急ぐのはやめよう。とりあえずは、アジェを介入させることで、デマンドの意図の一端に迫ってみたいと思う。

周知のように、アジェの写真に“アウラの崩壊”の先駆性を見出したのはベンヤミンである-「対象をアウラから解放したことは、最近の写真家流派による、もっとも疑う余地のない功績だが、その口火を切ったのはアジェである」(『図説 写真小史』 久保哲司編訳 ちくま学芸文庫)。今更、ベンヤミンの“アウラ”について説明する必要はないだろうが、ベンヤミンの“アウラ”は事物の権威や重みを総括したものであり、写真以前の芸術がその価値の根拠としてきたものである。ベンヤミンは人気のないパリの街を撮ったアジェの写真に、「現実からアウラを掻い出す」機能を見出した。ベンヤミンにとっての“アウラの崩壊”は、従来の芸術的価値の崩壊を意味するとともに、近代的知覚の変容を示すものであった。ベンヤミンにとってその典型的な実例がアジェの写真だったわけである。

ベンヤミンはそこからどのような意義を見出そうとしたのだろうか。少なくとも一つ言えることは、何らかの媒介によって形作られる人間の知覚を相対化し、あるいはその条件を変える可能性があることを示唆していることだろう。同じ『写真小史』のなかで、ベンヤミンはアジェやザンダーの写真的効果を「こうした映像が与えるショックは、見る人の連想メカニズムを停止させる」と語っているが、このショックや停止こそが知覚の条件を変える契機となるということである。

もちろん言うまでもないことだが、ベンヤミンは自然が推移するように、写真の登場以後、われわれの知覚の条件も変容していくだろうと言っているわけではない。むしろ写真が秘めた力-知覚の条件を変える力が従来の芸術観によって歪められ、削がれてしまっていることを批判しているのだ。それが〝アウラの捏造“としてのレンガー・パッチュ等の写真への批判でもあった。おそらくここまでは、少しばかり写真論をかじっている者ならば、周知のことであろう。むしろ問題はその後、ベンヤミンが見出そうとした写真における弁証法的な力を実体化してしまったことにあるだろう。例えば、意味の覆いを剥ぎ取られ、むき出しになった街や顔。そこから裸形のモノや人間、ありのままの現実が出現すると。この考えは、写真を無言のパロールとみなしたバルトまで続いていくだろう。

おそらくデマンドは、ここから出発している。ベンヤミンがアジェに見出した写真の機能を徹底化してみようと、あるいはもう一度、やり直してみようと。改めて、デマンドの写真作品を見てみよう。冒頭に記したように、デマンドの写真を見る者は誰でもまず、デマンドが作り出す独特の〝場“の感覚を感じるだろう。この間化された空間は、アジェの写真に酷似しているが、アジェの写真が持っていたような現実の細部やモノの質感など、いわばノイズのようなものが一切ない。デマンドの写真ではモノが持つ表面のディテールが洗い流されているように思える。あらゆるノイズが洗浄された、無菌室のような空間。といっても、メタリックな質感というよりも、柔らかさのようなものさえ感じる。極めて抽象化された空間であると同時に、奇妙なリアリティを感じる光景。このいずれにもたどり着かない、宙吊りにされたような感覚こそが、アジェの写真との違いでもあり、アジェの間化された環境(場)をさらに徹底化したようにも思えるのだ。アウラの徹底的な清掃。

アジェの写真との相違、あるいは徹底化、その違いがどこから来るのか、もちろんデマンドはそのプロセスを隠しはいない。周知のように、デマンドの写真は紙によってほぼ実物大に作られた模型を撮影したものである。しかもその多くは、デマンドが見た、あるいは立ち会った現場を紙模型で再現したものではなく、雑誌や新聞、インターネットなどで流布した事件の現場のイメージを再現したものである。つまり一度画像化された現実を再現したものである。そして再び、紙模型で再現したイメージを写真にするという、二重の操作を行っている。なぜ、デマンドはこんな手の込んだ操作をするのか。そこにどのような意図があるのか。

まずわれわれはデマンドの写真が、一度画像化された現実=イメージを元にして作られていることに着目しなければならない。一度画像化された現実を紙模型によって再イメージ化すること。ここから現実と虚構の曖昧さといった観点から映像批判やメディア批判を見るのはたやすいが、そうとらえるとデマンドの意図を曲解することになるだろう。デマンドの意図は本来的な意味での批評-限界をあらわにすることで、その限界を超えることにあるのであって、批判(否定)することにはない。

デマンドの写真がインデックス機能として指し示しているのは、現実の場ではなく、あくまでも紙模型としての現実である。われわれの“アジェの徹底化”という仮説に従うならば、デマンドは写真によって「現実からアウラを掻い出す」のではなく、紙模型によって画像化された現実=イメージからアウラを掻い出し、再度写真にすることによってさらにアウラを掻い出しているということになるだろう。二重の操作によるアウラの掻い出し。ここには一般に流布している写真が“アウラを捏造”している、あるいは写真の機能を歪めているという、ベンヤミン的な問題意識もあるかもしれない。

しかし、この一連の操作から読み取るべきことは、デマンドが写真によって生の現実を指し示すことを巧妙に回避させていることである。それはつまるところ、「意味の覆いを剥ぎ取られ、むき出しになった街や顔。そこから裸形のモノや人間、ありのままの現実が出現する」というモダニズム写真の夢を回避することでもあるだろう。デマンドの意図には、アウラを掻い出すことによって、モダニズムが夢見たような純粋視覚や絶対知覚、知覚の根源の希求といったものはない。むしろ、知覚の条件を変えることによって、見えてくるもの、あるいは知覚可能になるものを問題にしているように思える。

デマンドの写真が現前化させようとしているのは、モノやモノの状態ではない。場所の知覚そのものを現前化させようとしているように思える。といっても、前述したように、純粋知覚とか、裸の知覚といったものではない。むしろ潜在的な知覚と呼べるようなものではなかろうか。

例えば、「浴室」と題された写真。この写真は、解説によれば、「1989年10月11日、スイスにあるホテルの一室で、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の元知事ウーヴェ・バーシェルが浴室で亡くなっているところが発見された。事件の4日間前から行方不明となっていた彼を発見したのは報道記者で、その記者は警察に通報する前に室内に違法に立入り、出版社にその場面を収めた写真を送った。『Stern』誌の表紙に掲載されたその写真は、激しい議論を生んだ」とあり、その写真を参照にして紙模型が作られ、撮影されたものである。もちろん、この写真に死体は存在しないし、参照にした写真が有していたであろう、現場の生々しさも臨場感もない。それでも、この写真から受ける奇妙な“場”の感覚はなんだろうか。この奇妙な“場”の感覚は、写真の再現描写的機能に由来するものでもなければ、物語や説明的文脈から導きだされたものでもない。そしてもちろん、この奇妙な“場”の感覚から、何らかの物語や説明が生じることもない。むしろ、奇妙な“場”の感覚だけが残ると言ってもいいだろう。

今回の展示の目玉ともなった「パシフィック・サン」は、同じく解説によれば「2008年7月30日、オーストラリアのクルーズ船「パシフィック・サン」号が太平洋沖で嵐に襲われ、42名の乗客・乗員が負傷した。船内にあるバーの後部に配置された監視カメラが、お大きく揺れる室内の様子を記録していたが、その映像は事件の2年後に動画共有サイト「YouTube」で公開され反響を呼び、多くの人の知るところとなった。本作品はその映像をもとに作られた。7つの波を受ける様子を、精確に配置を変えながら撮影した約100秒間のストップ・モーション・アニメーションである」とある。

この映像は現在でも簡単にインターネットで検索でき、見ることができる。元の映像には当然ながら、椅子に座る乗客やカウンター内にいるバーテンダーの姿も写っている。デマンドの作品では、あらゆる人間は消去され、椅子やモノが移動する様だけが再現されている。モノの移動する様だけを反復している“場”は異様でもあり、不気味ささえ感じる。しかし、この異様さや不気味さは、嵐という出来事に由来するものでもなければ、乗客の恐怖から生じるものでもない。デマンドの写真を見るわれわれの、感覚の作用そのもの由来する異様さや不気味さと言えないだろうか。

デマンドの作品は明らかに、芸術が持っている抽象作用の力に改めて焦点をあてている。しかし、その抽象の方法は、これまでとはまったく異なっているように思える。確かに、これまで抽象絵画を筆頭に、モダニズム美術は芸術のもつ抽象作用の力を最大限に引き出そうとしてきたし、一定の成果も挙げてきた。モダニズム写真もしかりである。それでもなお、その抽象性は十分ではなかったと言わざるを得ない。デマンドの作品は、モダニズム美術における抽象性の不十分さを、あるいは異なった抽象化の道を示唆しているように思える。

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