Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2009年11月30日 | Weblog
スペクタクル時代における写真(イメージ)の活用法の一つは、見えないものを見えるようにすることよりは、見えるものを見せないことがより積極的な意義をもつだろう。そこであらわになるのは、現在の写真が機能している感覚/知覚の図式のようなものである。見えるものを忘却すること。忘却の写真論。

メディアの公的使用と個人的使用の区別を考えること。もちろん、メディアの個人的使用からの公的使用に対する批判-「大きな物語」への批判という、70年代前後に見られた姿勢・視点を考えるだけでは不十分なことは自明なことだ。たとえば、日本の近代(明治時代)において、個人が日記という個人的メディアを持つことで、どのような内面化という管理が始まったかを考えてみればいい。インターネット時代におけるメディアの個人化は、言うまでもなく公的/私的という境界をなし崩し的に流動化させている。

カントのかの有名な理性の使用に関する区別-「理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させられるべきものである」のパラドックスを参照にすること(そして、フーコーの「啓蒙とは何か」を)。

誤解してならないのは、カントの公的/私的区別が一般的な意味での公的/区別ではないということである。たとえば、会社員や役人において、仕事上の領域が公的であり、家族を中心とした私生活の領分が私的ということではない。カントが言う私的な領域とは、会社であれ、役所であれ、家族の中の父親であれ、それらはいずれも社会的関係における位置-つまり社会という機械の一個の部品としての役割である。それらの領域はすべて私的領域なのであり、それぞれの個別的な目的・役割に応じた理性の使い方をしなければならない。私的領域において、理性の自由な使用はないし、制約を受けざるを得ない。それに対して、公的な理性の使用とは、純粋に理性の使用のみにおいてこそ、理性の自由な使用が可能になり、使用すべきということである。では、純粋な理性の使用領域とは何か?おそらくあらゆる社会的有用性を排した、ただただ理性の目的のみにかなう領域ということだろう。このあたりは、ある物の有用性や感覚的な快適性を排した、純粋な対象としての物を美と定義したこととパラレルな関係にある。理性の目的のみにかなう領域とはどういうことだろうか?フーコーはそれを「自分の理性を使用するためにのみ、ひとが論議(推論)するとき、理性ある人類の構成員として、ひとが論議するとき、その時こそ、理性の使用は自由で公的なものとなる」(「啓蒙とは何か」フーコー・コレクション6 石田英敬訳)と言っている。社会的存在たる人間にとって、社会的条件を離れた純粋な理性人などはありえない(笑)。つまり、事実上、人間は私的領域に位置しているということである。しかし、権利上、公的領域を想定(仮設)することは可能である。

たとえば、人間という概念は抽象的な概念だ。誰もがある特定の社会、文化、歴史等々の諸条件の制約を受けている。抽象的概念である人間に純粋に該当する者は存在しない。つまり、カントが述べるような理性のみを目的とするような理性の使用-理性の公的使用(あるいは純粋な無関心の対象=美)は不可能なのだ。しかし、人間という抽象的概念を想定することで、制約の下にあるそれぞれの人間の社会的在り様-諸条件を照射することができる(しかし、ヒューマニズムのあやまりは、その人間という抽象的な概念を実体化してしまったことにある。なぜなら抽象的概念たる「人間」もまた歴史的・社会的条件の産物だからだ。実際、「人間」というが概念はフーコーが語るようにたかだか150年ほどのものでしかない)。これこそが超越論的視点である。したがって、現実の歴史的・社会的諸条件を照射する(あらわにする)というのみにおいて、理性の公的な使用が意義をもつのではないか。僕らが個人的にメディアを使用する意義があるとすれば、まさにこの一点においてではないか。日常生活のレベルでルールを無視する輩(無法者)は、公的な領域においてはしばしば保守的である(笑)。無法者のパラドックス。かつて「あらゆる犯罪は革命的である」と語った思想家がいたが、彼はこのカント的パラドックスを思考することができなかった(笑)。

絵画としての写真。写真としての絵画。「写真と絵画」の関係について再考すること。ボードレールは「現代生活の画家」において、19世紀後半(ボードレールが生きた時代)、それまでの画家に代わって現代生活を描く(描写する)挿絵画家コンスタンタン・ギースについて論じている。19世紀後半に時事的なニュースや流行を伝える存在としての挿絵画家や版画家が台頭し、活躍したことを想起せよ(挿絵・版画・写真)。言うまでもなく、ほどなくして挿絵画家や版画家の地位は写真家たちに奪われることになる。現代生活の画家としての写真家。

写真が現実から採取されたイメージのコレクションならば、個々の写真家たちによる分類法を問わなければならない。現実から採取されたイメージはもちろん、現実そのものではない。現実から分離・区別された(強調された)ものであり、すでにしてそれは実体のない靄のようなものである。実在なきイメージ-実在と特殊な関係を有した効果としてのイメージ=写真。現実から分離・区別されたものはいわば現実から採取された理念であり、ビス・イデアとも呼ぶべきものである。超越論的経験論。では、“何が”どのような方法で分離・区別されたのか。現実から引き出された理念であってみれば、それは「見る世界」ではなく、「物から見られる世界」である。見る前に実在している現実的対象。言語的把握以前の世界。しかしすでに、感覚も言葉に侵され、無意識もまた言語化されている。というよりも、言葉との関係性において感覚も、無意識も成り立っている。まずは視覚的分類法の歴史から学んでみようか。分類の技法としての写真。

「イメージは潜在的に自由の空間だ。それはモデルとしての対象という束縛を消滅させ、そこに思考の飛び立つような高揚感、想像力の果てしない彷徨を置き換えるのである。私としては、基本的な視点として、イメージはおそらく私たちに残された、聖なるものとの唯一の絆なのだと付けくわえたい。」(ジュリア・クリステヴァ著『斬首の光景』星埜守之ほか訳)

デジタル時代にあってイメージの背後/手前にあるものがすでにしてイメージならば、われわれはイメージの内部へと下りていかなければならない。イメージ内部の奥底へ。写真における”かつて”と”いま”、前と後の崩壊。もはやイメージに前後はない。とするならば、イメージと被写体(対象、現実)との関係というよりも、イメージとイメージの関係を問うべきなのだろうか。イメージの背後、手前ではなく、横を、傍らを、周辺を。フロイトのマジック・メモさらなが、イメージを引き剥がせばそこには無数のイメージの痕跡が渦を巻いている。

ではイメージとイメージはどのような関係にあるのか。その関係の中心となる表現的効果を探ること。それはどのような効果なのか。どのようなベクトル(力の方向)をもった効果なのか。誰のための、誰に向けての、何のための、どのくらいの効果なのか(誰を利し、誰に与し、誰を管理するための……)。表現動機のドラマ化。もちろん言うまでもなく、作者の表現動機や意図を問うことではなく、“表現”そのもの(表現上)の動機をドラマ化することである。

ところで、「事後性を現像する」ことと「事後性を捏造する」ことの違いはどこにあるのだろう?(笑)。事前性(撮るという経験的次元)を特権化することで、事後性を作り上げてきたのが森山大道ではなかったのか(違うのかな~?)。事後性を捏造すること、事前を裏切ることで。事後性と事前性のもつれ合い。まあ、それが写真だね(笑)。事前を裏切る事後性、事後を裏切る事前性。

現在、TARO NASUギャラリーで開催中の片山博文展「Exchangeable」と良知暁展「frames」の二人展は上記のテーマ(イメージの横、傍ら、周辺等々)をモチーフとした試みのように思えるが、いかがだろうか。二人が問題にしているのは、いわゆるイメージと現実の前後関係ではない。むしろ、イメージの横、傍ら、周辺ではないだろうか。あるいはイメージと現実の関係に対する伝統的な考え方それ自体を問いに付すこと。たとえば、片山博文の「Exchangeable」では、空港の搭乗口や荷物検査口、航空機の断片、空を飛ぶ航空機等々がトーマス・デマンド風なイメージで展示されている。そこにさしはさまれた幾枚かの不鮮明な写真。これら一連のイメージの並びは非常にゆるい形だが、一つの事件の経過を思わせる。しかし、見る者がこの展示から受けとる効果(分離・区別されたもの)は、一般的な写真が機能させる物語性や演劇性、記録性といったものとはまったく正反対のものである。トーマス・デマンドの作品がすでにして、ある事件のメディアによって映像化されたイメージを紙製の彫刻によって再構成することで、イメージ(写真)が与える物語性や演劇性、記録性に対して疑いをもたらすことであった。

こうした物語性、演劇性、記録性をもたらしているのが写真における光学的描写(虚構性)とインデックス性(リアル性)という、同一の方向性を担った二つの機能である(したがって、ぼくらはこの二つの機能の関係性を問わなければならない)。おそらく片山博文もまたデマンドと同じ問題を共有しているように思える。実際、解説を読むと、9.11のアメリカ同時多発テロ事件をモチーフにしたものだいう。おそらく、不鮮明な写真はこの事件を元に制作されたノンフィクション映画の画像から取られたものだろう。片山博文が問題にしているのは、写真におけるイメージと現実という伝統的な関係が否応なくもたらしてしまう効果-一つの事件(事実)に付加される物語性や演劇性、記録性ではないだろうか。その結果としての熱狂的な反テロリズムの高まり。

もちろん、写真におけるイメージと現実は一対一の関係にあるという考え方のみを批判しているわけではないだろう(「Exchangeable」=イメージの交換可能性というタイトルには、そうした批判も含まれているのかもしれないが。つまり、一つの現実に対してのイメージの交換可能性=複数性というよりも、イメージと現実との関係性それ自体の交換可能性である)。むしろ「Exchangeable」の意図は、現代のスペクタクル化社会を形成している重要な要素である物語的効果、劇的効果、リアルな(記録的)効果等々を脱色することであろう。イメージの漂白としての写真。良知暁の「frames」もまた、写真というイメージが成立する物質的な諸条件(フレームや展示空間、撮影場所等々=パレルゴン)をあらわにすることで、イメージのスペクタクル性を脱色させようという試みではないだろうか(マネの絵画が試みたような)。いずれにしても彼らの関心は、イメージの横、傍ら、周辺にあると言える。

もう一つ付け加えておけば、写真(イメージ)によるメディア/イメージ批判という内在的批判それ自体は決して目新しいことではない。例えば、70年代すでに多くの写真家たちがメディア(内在的)批判をするだろう。プロヴォークしかり。しかし、70年代のメディア/イメージ批判と片山たち(デマンドも含め)のそれは大きく異なる。片山たちのメディア/イメージ批判は、メディアが与える現実のイメージに対してもう一つのイメージ(現実)を対置することでもないし、身体的なものを介入させることで、イメージと現実の一義的な対応関係を暴力的に解体することでもない。片山たちの批判の身振りはきわめてクールである。80年代に登場した小林のりおたちが切り開いたような「過激な傍観者」的身振り(それは写真的リアルさへの懐疑でもあった)を継承している。いわばフーコー的な意味でのイメージの内在的な批判になっている。それはおそらく、デジタル時代における「実在なき(厳密に言えば、実在的関係性なき。ただし、「イメージなき実在=アナログ写真」という対立を見てはいけいない)イメージ」の世界に生きているという自覚からではないだろうか。それはまた、写真という優れて20世紀的イメージのリアリティ(モノ論)を解体することにあるだろう。

写真を「描写」という観点から論じること。17世紀オランダ絵画と写真(アルパースの『描写の芸術』を参照に写真における「描写と理性」について論じること。写真史における「記録と表現」はこのバリエーションにすぎない)。それは写真のリアリズム(写実主義)について再考することでもある。

アルパースは『描写の芸術』のⅡ「視覚はまた絵のごとく……」において、ケプラーを中心にダヴィンチ、プッサンにおける「見ること」「知ること」「描くこと」の相関関係を論じている。たとえば、ダヴィンチは「物語的芸術(イタリア絵画)」と「描写的芸術(オランダ絵画)」の間で逡巡している。「描写的芸術」は単なる眼にすぎない。絵画には理念(精神)=「物語的芸術」が必要であると。プッサンはそれを「外観(アスペクト)」と「眺め(プロスペクト)」に置き換える。「外観」とは単に見ることであり、事物を自然現象として受容することである。「眺め」とは事物を見分ける眼であり、視線、対象と眼の距離を決定することである。「外観」=裸眼というプッサンの論理。しかし、ケプラーは「外観」は決して自然現象ではない、この網膜上のイメージはすでに事物と同じものではない。ベルグソン的に言えば、「外観」はすでにして現実の事物から人間の有用性に基づいて縮減されたイメージなのである。

確かに、“物語的視覚=イタリア絵画”に比較して、“描写的視覚=オランダ絵画”は自然の事物に一歩近づいたように見える。写真のリアルさという神話。そこからイデアとリアルの逆転が起こる。それはまた科学思想の論理でもある。これこそがダヴィンチが恐れた「眼と世界の一体化」である(それはまた印象主義の誤りであり、セザンヌがモネについて語った「モネの絵は眼にすぎない。すばらしい眼ではあるが」のことでもある)。ここでわれわれはイデアの在り様の変化をとらえなければならない。イデアとはカント的言えば、超越論的領野なのであって、人間が言葉を持ってしまった以上、避けられない領域なのではないだろうか。とすれば、写真登場以後、イデア→リアルというイメージの図式ではなく、イデア→ビス(準)・イデアとも言うべき図式を考えなければならないのではないか。このビス・イデアとは言うまでもなく、物語的イデアのことではない。デジタル時代の写真(イメージ)はまさに、イデアからリアル(古典主義時代から近代)という図式そのものを問いに付すのである。

アルパースが『描写の芸術』(幸福輝訳)の序文で引用しているジョシュア・レイノルズの下記の文章は、そのまま写真について語ることの困難さにつながっている。

「オランダ絵画の価値はしばしば真実味のある表現そのものにあるので、たとえそれがどんなに賞賛すべきものだろうと、眼にどんなに喜びを与えるものだろうと、一度それを言葉で言い表わそうとするとどこか貧相なものになってしまうのである。オランダ絵画はひたすら眼にたいして訴えかける。視覚というひとつの感覚を満足させるために制作されたものがほかの感覚にあまりうまく適合しないのは、それゆえなんの不思議もないのだ。」

もちろん言うまでもなくレイノルズは、であるがゆえに、オランダ絵画における理性の、イデア(理念)の欠如を批判しているわけである。他方、アルパースが同様に引用するウージェーヌ・フロマンタンは、下記のようにいうことでオランダ絵画を賞賛する。

「オランダ絵画はオランダの外観を飾りたてることなく忠実に、正確に、完璧に、そしてそっくりに描きだしたオランダの肖像そのものであったりし、それ以外のなにものでもなかった。」

レイノルズもフロマンタンも、同じ観点からオランダ絵画を見ていることは確かである。しかし、その評価は分かれる。この評価の違いこそが「描写(表現)」の概念の変化にあるのではないだろうか。そして、「イデアから写真へ」というイメージの変化に。アルパースの『描写の芸術』における賭金もまた、この「描写(表現)」概念の変化にほかならないのではないか?ではどのような変化か?写真というイメージのインデックス記号の登場である。

アルパースはイタリア絵画の「物語的芸術」に対して、オランダ絵画の「描写的芸術」を対比させている。この「物語的芸術」と「描写的芸術」の対比は、そのまま演劇性(アルベルティ的イメージ)と反演劇性(反アルベルティ的イメージ)、具象と抽象、内容と形式、記録と表現(たとえば、この対比を「写真のリアルなイメージ」と「絵画のイデアルなイメージ」に敷衍して考えてもいいだろう)、シニフィエとシニフィアン、深層(意味)と表層、見えるものと言いうるもの、物と言葉……といった一連の二項対立の系を形成している。イメージ(写真)を形成している物質的諸条件と、そのイメージ(写真)の図像的(言語的)読解の関係。しかし、重要なことは、その一方の項に与することではない。実際、それぞれの項がすべて同じ下位の系をなすわけではないし、対をなす一方の項がまったく違った系列を形成することもある。ドゥルーズがフーコー論で語っているように、内容にも一つの形態と実体が、表現にも形態と実体があることを忘れてはならない。この4つの項のマトリックスから、内容と表現の関係を問うことである。

アルパースは『描写の芸術』のⅠ「コンスタンティン・ハイヘンスと「新しい世界」」のなかで、ハイヘンスの著作を参照にしながら、オランダ絵画とレンズ(望遠鏡、顕微鏡、拡大鏡等々)がもたらした「新しい視覚世界」との親近性について論じている。ここで論じられていることはそのまま写真について語られることに等しい。としても、言うまでもなく、ここで考察の対象となっているのは、写真が持つ原理の一つの側面、いわゆるレンズがもたらす効果-光学的描写である。写真が持つ光学的な原理は、モダニズム写真理論の論拠の中心をなしてきたものであろう。そしておそらく、60年代後半から70年代にかけては、写真のもう一つの原理-物理的痕跡(化学的定着)、いわゆるインデックス性が論拠と中心となっていくだろう。現在の写真理論の中心をなしているのも、このインデックス性のように思える。自戒をこめて言えば、現在の写真理論は写真のインデックス性を重視するあまりしばしば光学的側面を忘れてしまっているように思える(逆に言えば、もう一度、写真の光学的側面からのアプローチが必要であろう。というよりも、写真の二つの原理の交錯を思考すること。私見ではその試みをしているのが、ジェフ・ウォールの作品ではないだろうか)。それはさておき興味深いのは、アルパースがハイヘンスを論じながら語っている次の一節である。

「現実的外観をももちながらいくつかの点で偽りのものでしかない表象はまさしく現実と虚構との境に位置するものであろう……」

現実と虚構の境界線上にある表象(イメージ)としてのオランダ絵画、そして写真。ここにこそ、写真における描写的芸術の重要性がある。現実的外観を保証するのが物理的痕跡(インデックス性)にあるとするならば、写真の虚構性は光学的描写(レンズ)に帰することになるだろう。写真のインデックス性と光学的描写。

それは〈真理〉ないし〈現実〉によっても、〈フィクション〉の自由自在な〈至上権〉によってもおのれを権威づけない。純粋なドキュメンタリーとフィクションの間で、モデルもなく地図もなく、それはある通路を切り開く(『言葉を撮る』ジャック・デリダ+サファー・ファティ港道隆+鵜飼哲ほか訳)

現実と虚構の境界。それは決して曖昧さを意味するわけではない。むしろそこに積極的な機能を見出すべきだろう。競合という機能を。対象とイメージの競合。対象とイメージの類似関係や対応関係を見るのではなく、競合関係を見ること。ジャン=リュック・ナンシーに倣って、representation(代理=再現)のreを再現ではなく、強調のreととらえること。

けっきょく、ロラン・バルトのプンクトゥムとは、写真における過剰なインデックス性が光学的な描写を裏切ることではないのか?

デジタル写真においては、インデックス性と光学的描写の関係はどのようなものになるのか? デジタル時代の光学的描写とは何か? フィルム写真との違いは何か? デジタル時代の写真の活用法の一つは、対象(モデル)から自律した光学的描写が写真のインデックス性を裏切ることにあるのではないだろうか?

ロザリンド・クラウスの「風景」と「建築」の二つの項をクラインの群を用いて提示した「展開された場としての彫刻」のカテゴリー表に倣って、写真における「インデックス性」と「光学的描写」を展開したならばどのような風景が見えてくるだろうか(笑)。この「インデックス性」を「現実(痕跡)」に、「光学的描写」を「絵画」に置き換えてもあまり大差はないようにも思えるが……(これまた大笑)。しかし、あくまでラフな試みであり、遊びの範囲にとどまるものだが…。

「インデックス性」と「光学性(光学的描写を簡略化して)」の組み合わせに対して、「非-インデックス性」と「非-光学性」が対応するだろう。「非-インデックス性」+「非-光学性」の組み合わせはどのようなものになるのだろうか。クラウスは「非-風景」と「非-建築」の組み合わせを中性的ととらえ、つまり風景でも建築でもないものとして、モダニズム彫刻としている。とすれば、写真においてはインデックス(現実の痕跡=記録)でも、光学的描写(絵画)でもないもの、そのいずれにも還元できないものとしての「モダニズム写真」そのものということになろうか。

「インデックス性」と「光学性」の複合的な組み合わせはいわば「広告写真」に該当するだろう(クラウスのそれとはややずれるが、家族写真や記念写真等々も含めていいかもしれない)。バルト的に言えば、人工的なものを自然化する写真の機能である。「インデックス性」+「非-光学性」の組み合わせはいわゆる「記録写真」となろうか。「非-インデックス性」+「光学性」は言うまでもなく「芸術(表現)写真」となろう。ちなみに付け加えておけば、これまでの写真史で問題とされてきたのは、上記の三つの組み合わせである。厳密に言えば、最初の組み合わせは無視され、後者の二つの組み合わせが問題とされてきたと言えるだろうか。そう、「記録と表現」というあれである(笑)。

しかしもちろん、「インデックス性」+「非-インデックス性」及び「光学性」と「非-光学性」という組み合わせも成り立つ。これら二つの組み合わせは写真における内在的な批判を形成することになる。クラウスは「風景」+「非-風景」の組み合わせを「印付けられた場所」とし、他方の「建築」+「非-建築」の組み合わせを「公理構造」(建築の現実空間に対する何らかの干渉)としている。風景と建築の複合的組み合わせは、場所-構築と呼んでいる。これら三つの現代彫刻がモダニズム彫刻以降の展開された彫刻ということになる。

さてぼくらの写真のカテゴリー表で言えば、前者が場所と写真のかかわり、あるいはイメージが成立する物質的諸条件を問題とする写真や「サイト・スペスフィック」な写真。後者はメディアやイメージそのものを内在的に批判する写真と呼べようか。非常にラフな言い方をすれば、良知暁展「frames」の試みが前者であり、片山博文の「Exchangeable」の試みが後者ということになろうか。いずれにおいても、そこで思考されていることは宙吊りとしてのイメージである。裏切りのバラードとしての写真(大笑)。