Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 11

2013年12月07日 | Weblog
写真の固有性という名の呪縛
日本の新進作家展vol.10「写真の飛躍」(東京都写真美術館)
大森克己写真展「すべては初めて起こる」(ポーラ ミュージアム アネックス)

写真のデジタル化以降、写真の原点-アナログ写真の手法への回帰が目立っている。いわゆるピンホールカメラやフォトグラムといった手法を使った写真のことである。東京都写真美術館で開かれていた日本の新進作家展vol.10「写真の飛躍」も、そんな傾向をもった展示会の一つであった。今回の新進作家展では、60年代後半生まれの添野和幸や北野謙を筆頭に、70年代前半生まれの佐野陽一、春木麻衣子、そして80年代生まれの西野壮平の5人が紹介されていた。本来なら、個々の作家の作品について言及すべきだろうが、この新進作家展の狙いというか、写真の原点への回帰という問題について考えてみたい。その意味では、この展示のキュレーションそのものを問題の俎上に乗せることになるかもしれない。

本論に入る前に、この展覧会カタログの解説(「写真の飛躍-視覚の古層から」丹羽晴美)に、非常な違和感を覚えたことを書いておきたい。その冒頭に、「2011年3月11日以後、写真の意味が変質した」というようなことが枕言葉のように書かれている。しかし、誰が見ても明らかのように、ここで展示されている作家たちの作品と東日本大震災とは、いかなる関係もない。実際、彼らは東日本震災以前から同じような作品を制作している。「2011年3月11日」を引き合いに出すことで、あたかも何らかのアクチュアリティを得ることができるかもしれないという姿勢には、断固意義を差し挟みたい。仮に、東日本大震災以後、写真(あるいは作品)を見る“見方”が変化したと言いたいならば、鑑賞者の“まなざし”の変容と彼らの展示作品との関係に言及すべきだろう。ただ安易に東日本大震災と結びつけて作品を語ろうとする姿勢は、断固慎まなければならない。

さて、今回の新進作家展では、5人の作家たちが紹介されている。それぞれに共通しているのは、フォトグラム、コラージュ、ピンホールカメラ、多重露光、露出(オーバー/アンダー)といった、写真の技法を用いた作品であるということだ。これらの作品は、個々の作家たちの意図は置くとして、この展示を企画したキュレーターは明らかに、アナログ写真の技法をデジタルイメージに対置している。そこには、デジタル革命によって真のイメージ(?)が脅かされている、それに対抗するためにはアナログ写真がもつ特性(化学的感光過程)を対抗させなければならないというわけである。その根拠としているのが、「写真が日常の中で無意識に過ごしてしまう些細なものや言葉にできない感触、つかもうとしても指の間からこぼれ落ちてしまうような感覚を顕在化できるからだ。実はそういった砂粒のような現実に私たちの日常や記憶、認識といったものは支えられ、生成されている。そのことに気づかせてくれるメディア、それが写真なのである」ということらしい。それが何故、写真の原点に結びつくのか、分からない。この、いわば微細な知覚を顕在化してくれるのは、別にアナログ写真に限らないし、おそらくデジタル写真にも可能であるだろうし、いや言葉にさえ可能だろう。そうでないならば、“文学”とはいったい何であろう(笑)。いずれにしても、「日常の中で無意識に過ごしてしまう些細なものや言葉にできない感触、つかもうとしても指の間からこぼれ落ちてしまうような感覚を顕在化」してくれるのは、写真の専売特許ではないし、写真がその特権性を有しているわけでもない。むしろ、ジャック・ランシェールが正しく指摘するように、写真に先立ってバルザックやゾラ、フローベルらの写実主義文学こそが微細な知覚を描写しようとしたのではなかったか(ジャック・ランシェール「イメージの運命」を参照のこと)。

確かに、写真は肉眼では見えないものを見えるようにした。そしてそこに、モダニズム写真は裸の事物を、言葉を逃れる純粋な視覚を、表象を中断する知覚を見出した。もちろん、それだけではない。写真は空間的、時間的隔たりをも可視化し、現前化した。ベンヤミンの視覚的無意識、バルトのプンクトゥム・・・・・・。そしておそらく、ベンヤミンも、バルトも、その特権性を写真という技術的特性に還元したと言えるだろう。

ベンヤミンも、バルトも、そして展覧会カタログを書いた丹羽晴美氏も、写真という技術は見えないものを見えるように、あるいは意識を逃れるものを現前化したということであろう。そしておそらく、丹羽晴美氏はベンヤミンやバルトを踏まえた上で、写真の原点=化学的感光過程こそが、裸の事物を、純粋な視覚を具現化すると主張したいのであろう。確かに、西野壮平を除いて、添野和幸も、北野兼も、佐野陽一も、春木麻衣子も、化学的感光過程を主要なモチーフとしている。

(肉眼では)見えないものを見えるようにすること、あるいは言葉(意識)ではとらえられないものを可視化すること、そしてそれが得られるとすれば、メディウムの特性、固有性、つまりメディウムの純粋性に準拠する限りにおいてである。それこそがモダニズム写真、モダニズム絵画が求めたものであろう。しかし、モダニズム写真が求めた(とりあえず、モダニズム絵画については保留するが)裸の事物とは、あくまでも写真以前の視覚(絵画的視覚)に対する視覚、つまり相対的なものに過ぎないことはいまや明らかであろう。写真もまた一つの画像であり、裸の事物といったユートピアを実現するものではない。とするならば、写真の原点を求めることは、裸の事物といった、見えなかったものを実体化し、写真の客観性という神話を再び呼び戻すことにならないか。写真は、実は見えないものを見えるようにしたのではなくて、もし仮に写真にその固有な力を見出すとすれば、むしろ見えるものと見えないものの関係を撹乱したことではないだろうか。

今回の新進作家展vol.10「写真の飛躍」の意図は、写真の原点(=化学的感光過程)に、裸の事物といった真なるイメージ(イメージの他性)を求めているとしか思えない。しかし、北野兼や西野壮平の作品はむしろ、写真の原点という根拠にこそ、疑いを見出し、裏切ろうとしてはいないか。例えば、数十枚の肖像写真を多重露光して一人の人物の肖像写真にしている北野謙の作品は、反・ポートレート写真ではなかろうか。ポートレート写真はその機械の眼によって、絵画では得られない人物の特徴を抉り出す。しかし、北野謙の作品が提示しているのは、そのまったく逆の事態ではなかろうか。写真はある人物の個性を抉り出すどころか、反対にその個性を曖昧化し、凡庸化し、一般化してしまうことを語っているのではないか。

西野壮平の作品もまた、写真という断片的イメージが現実を全体化してしまうということに抗おうとしているのではないか。西野の作品は、自ら撮影した世界の都市の何千枚もの写真をコラージュし、古地図のようなマップに仕上げたものである。手作業によって一枚一枚コラージュされることによって、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルの絵画を思わせるグロテスクな都市の相貌が浮かび上がらせている。写真のコラージュという手法を使っているが、西野の作品だけが唯一、化学的感光過程とは外れたところで、写真を問題にしている気がする。いわば、写真を絵の具のように使った切り絵のようなものと言えるかもしれない。しかし、その絵の具とも言える写真は、自らが都市を回り、実際に撮影したものであり、身体的な記憶が刻まれたものである。西野のグロテスクな都市マップは、西野の身体的な介入による都市のデフォルメであり、写真の断片性が都市という表象の全体性を脅かしていると言えないか。

結論めいたことを書くつもりはないが、果たしていま、写真の原点(=化学的感光過程)にイメージの他性、あるいは真のイメージを求めることに意味があるのだろうか。というよりも、化学的感光過程を根拠にしたイメージに、イメージの他性(それをリアリティとい言葉に置き換えてもいいが・・・)というものがあるのだろうか。疑わざるを得ない。

「写真の原点への回帰」を回避することで、見えないものを見えるようにしようと試みているのが、大森克己写真展「すべては初めて起こる」ではなかろうか。その意味では、大森の試みにアクチュアリティを感じるし、その真摯さを評価したい気がする。

今回の大森克己の作品は、東日本大震災の被害を受けた福島を撮ったものである。大森克己は被災地の桜を撮ろうと思い立ち、被災地・福島に出向いたようである。ここで写されているのは、桜の咲いた住宅地であったり、山間であったり、きわめて平凡な桜のある風景が写しだされている。それに混じって、津波の爪跡を写した写真も紛れ込んでいる。しかし、これらの写真にはまるで心霊写真のようにピンク色をした光が写し込まれている。言うまでもなく、ピンク色の光の写し込みは、偶然的なものではなく、大森克己が意図して写り込ませたものである。とするならば、このピンク色の光こそが、今回の作品のキーとなろう。

ところで、大森克己は写真集『チェリーブロッサム』で、桜をモチーフにした作品を発表している。ここでもまた、山や森、住宅街・・・の、桜のある風景がとらえられている。この写真集では、目に見える桜に対して、桜が与える目に見えない微妙な知覚を可視化しようとしていたように思える。その意味では、先の丹羽晴美氏が語る「日常の中で無意識に過ごしてしまう些細なものや言葉にできない感触、つかもうとしても指の間からこぼれ落ちてしまうような感覚を顕在化」したものと言えるかもしれない。

しかし、今回の作品は、見えないものを見えるようにすることが本当にできるのか、という問題意識を前面に出しているように思える。言葉を変えて言えば、写真によって目に見えないものを見えるようにすることができるのか、ということである。おそらく、大森克己が真摯に向き合おうとしたのが、東日本大震災がもたらした、想像を絶する光景、そのあり様、あるいは被災者が受けた被害、さらには放射能という目に見えないものを可視化し、現前させることができるかということである。おそらく、大森克己は『チェリーブロッサム』では可能だったもの(微細なものの可視化等々)が、東日本大震災の悲劇の前では、不可能であると感じたのではなかろうか。写真による過剰な物質的現前がむしろ、今回の出来事の特異性を裏切ってしまう。あるいは写真的な現前が出来事の実存の重みを排除してしまう。テレビで流された続けた津波の映像がまさにそのことを証明している。

表象不可能性。おそらく(またおそらく、で申し訳ない)、大森克己はこの表象不可能性に対峙したのであろう。表象不可能なものに対峙した時、できることは「表象不可能である」と証言するしかない。それこそがピンク色の光-偽の桜色であり、カメラという装置の痕跡(影)を残すことではなかったか。今回の「すべては初めて起こる」は、写真表現の限界を提示しようとしているのではなかろうか。しかしわれわれは、「表象不可能性」や「写真の限界」ととらえることに異議を唱えたいと思う。むしろ、モダニズム写真が追求してきた、見えるものを見えるようにするという写真の固有性こそを問題にすべきではないだろうか。われわれは、大森克己の「すべては初めて起こる」をきわめて真摯な姿勢として高く評価しつつも、写真の限界と言うよりも、大森の写真に対する考え方の限界ととらえたい。それこそが、大森克己の試みに真摯に応えることになるのではないだろうか。


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