「ダニを見るのだ、この動物を賞賛するのだ」
-『対話』ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ(江川隆男・増田靖彦訳)
レディ・メイドとは何か
1923年、マルセル・デュシャンは木製椅子の上に一輪の車輪を固定し、その回転する影を眺めるという妙案を思いついた。数ヵ月後には風景画の複製を購入し、その地平線上に二つの点-一方に赤を、他方に黄色の点をつけ加え、「薬局」と名づけた。1915年、ニューヨークに渡ったデュシャンは、金物屋で一本の雪掻きシャベルを買い、「折れる腕に備えて」というキャプションを記した。この頃、デュシャンはこうした表現形式を「レディ・メイド(既製品)」と名づけた*1。1917年には逆さまに置いた磁器製の男性用小便器を「噴水(泉)」と題し、R. Muttという匿名て展示。そして1919年には、デュシャンの作品のなかでは最も名高い、モナリザに髭を書き加えた「L.H.O.O.Q(フランス語の発音でElle a chaud au cul―彼女の尻は熱い=彼女は性的に興奮しているの意味)を制作した。
レディ・メイドが誕生しておよそ100年。レディ・メイドとは何だったのか。誕生100年を機に改めて考えてみようというのが、本公演を企画したそもそも始まりだった。もちろん、レディ・メイドについては、多くの批評家たちがすでに優れた解釈を行っている。今さら、つけ加えるべきことなどあるのかというのが大方の見方だろう。確かにそのとおりだ。したがって、本舞台の意図はレディ・メイドの解釈でも、いわんやデュシャン論でもない。
われわれなりにレディ・メイドの作品構造をなぞりながら、他のさまざまなことがらと接続してみようという試みにすぎない。たとえば、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」*2と。ここでわれわれは、デュシャンがモナリザに書き加えた髭は、「進歩の強風」によってもがれてしまった天使の翼に違いないと考えた。あるいは同じくベンヤミンの「脱文脈化された対象」や「複製可能性」という概念*3と。さらには、ボルヘスの『「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」』やベケットの『クワッド』や『幽霊トリオ』と。その他、多くのテクスト、あるいはテクストのみならず映像、音響、身振り……と。
もちろん、このような言明は奇をてらったペダンチックな羅列にすぎない。そうならないためにも、屋下に屋を架すことになるがレディ・メイドについてわれわれなりの見方を示し、いくつかの接続例をあらかじめ説明しておくのが賢明というものだろう。
デュシャンのレディ・メイドは、きわめてシンプルなものである。既製品-その多くは工業品を一つ選び、ある場所-その多くは美術館やギャラリーと呼ばれる場所に置き、キャプション(=タイトル)をつけるだけである。モノ(選ばれた既製品)、場所(展示空間)、テクスト(タイトル)。レディ・メイドはこの三つの要素からなっている。レディ・メイドについてしばしば指摘されることは、芸術という展示空間に既製品を持ち込むことで、反-芸術、非-芸術を試みたというものである。確かにそのとおりであろう。デュシャンもまたレディ・メイドの選択について、「趣味(美)の欠如」を語っている*4。レディ・メイドがベンヤミン言うところの伝統的な芸術概念、創造性や天才性、唯一性、永遠の価値等々にことごとく反していることは明らかである。しかし、こうした伝統的な概念は、あくまでも近代的な芸術(美=感性)概念であり、レディ・メイドを反-芸術、非-芸術と一般化するわけにはいかない。オクタビオ・パスも指摘するように*5、デュシャンは決して芸術を否定したわけではない。デュシャンが否定しようとしたのは、あくまでも近代的な美(趣味)である。
われわれとしてはレディ・メイドについて、あまり反-芸術、非-芸術を強調したいとは思わない。デュシャンは、美とは習慣化された麻薬であり、その種の汚染からレディ・メイドを守りたいとも語っている*6。おそらく、デュシャンの最大の敵は、習慣に違いない。
習慣からの離脱、脱文脈化
習慣(あるいは習慣化された感性)という観点からレディ・メイドを眺めてみると、いくつかのことが分かってくる。美術館やギャラリーといった展示空間に既製品を置くことは、その既製品が使われる日常性(習慣)から切り離すことであり、逆さまに据えることは下に流れる小便を受けとめるという便器の常識(重力の法則)を覆し、上に噴き上げさせることである。そして「噴水」という言葉による地口の介入。
ベンヤミンもまた「複製技術時代の芸術作品」の異稿のなかで、「文脈から対象を引きずり出す」という知覚行為について書いている。『歴史の概念について』のなかでも、過去の特定の文脈から自由に取り出して提示することを、過去の「呼び戻し」と呼んでいる。*7
特定の文脈(日常性)から切り離されたレディ・メイドは、その有用性を引きはがされ無意味化され、モノそのもの、あるいは事物の外部を晒し出す。もちろん、レディ・メイドという対象だけではなく、それが展示された場所(芸術という文脈)も何らかの変容を余儀なくされるだろう。脱-文脈と再-文脈。ベンヤミンにおける歴史のとらえ方も、脱-文脈と再-文脈の相互作用のなかで、一瞬きらめく出来事、あるいは諸事物の相貌をとらえることであった。
ボルヘスの『「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」』においても、ほぼ同じことが試みられている。この短編は架空の作者ピエール・メナールが書いた『ドン・キホーテ』を論じたものだ。メナールの『ドン・キホーテ』は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』のいくつかの章を一字一句そのまま転写したもの(『ドン・キホーテ』の第1部第9章、第38章、さらに第22章の断片からなる)である。たとえば、セルバンテスが「……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告」(第1部第9章)*8と書いたものを、メナールの『ドン・キホーテ』では「……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告」と書く。ボルヘスは次のように論じる。「セルバンテスのテクストとメナールのテクストは文字どおり同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである」と。
なぜ、ボルヘスは一字一句同じ文章であるにもかかわらず、セルバンテスよりもメナールの文章のほうが「豊か」だと言うのであろうか。答えは簡単だ。時代という文脈が異なるからだ。実際、メナールは17世紀のスペイン語の用法を切り捨て、断章の周到な選択を行っていると、ボルヘスは言う。17世紀に書かれた作品を一字一句そのままに20世紀に書くこと(メナールの『ドン・キホーテ』は1934年に書かれたと想定されている)。つまり、特定の文脈(17世紀という時代の文脈)から切り離し、新たな文脈(20世紀という時代の文脈)を再導入することで、セルバンテスの同一の文章が豊かに蘇る、あるいは言葉が外部に晒される。
アルバムなきコレクション
再び、問おう。なぜ、ボルヘスはオリジナルよりもコピーを「豊か」と言うのだろうか。
なぜ、文脈を変えることが「豊かさ」につながることになるのだろうか。
われわれはここで、ディヴィッド・ヒュームという18世紀のイギリスの哲学者を召喚したい。ヒュームはフランシス・ベーコンに始まるイギリス経験論の完成者と言われる哲学者である。ヒュームの経験論は「連合説」を唱えたことで知られている。ヒュームはその著『人間本性論』のなかで、人間の精神は印象と観念からなっていると書いている。ヒュームの精神について、ジル・ドゥルーズはヒューム論『経験論と主体性』のなかで、ひじょうに分かりやすい解説を行っている。少し長いが引用する。
ヒュームは、精神と想像と観念が同一であるということを絶えず肯定する。精神は自然ではない。精神には自然が備わっていない。精神は精神のなかの観念と同一である。観念とは、与えられるものという意味での所与であり、経験である。精神は与えられるものなのである。精神は諸観念のコレクションであって、まだシステムではないのだ。そこで、前述の問をつぎのように表現してよいだろう-ひとつのコレクションは、どのようにしてひとつのシステムに生成するのか。諸観念のコレクションが想像と呼ばれるのは、想像が能力をではなく、ひとつの総体を指し示すかぎりのことであって、ここで総体というのは、語のもっとも漠然とした意味での諸事物、すなわち現れでしかない諸事物の総体である。たとえば、アルバムなきコレクション、劇場なき劇、あるいは諸知覚の流れである*9。
ここでドゥルーズが言う「システムの生成」とは、諸知覚の流れでしかない印象や観念が継起の反復や習慣によってむすびつけられ、原因-結果という因果性のシステムが確立されていくことである。手が氷に触れれば、冷たいという経験が反復されることで、原因-結果の因果性が確立される。つまり、因果性は諸知覚がむすばれる関係性の結果として生じたものなのだ。意味のない所与のコレクションから、因果性による意味づけの連合システムへ。われわれの主体という精神も、この連合システムの結果-効果から生じたものにすぎない。
ヒュームの連合説を逆にとらえれば、あらゆる出来事の因果性は単なる習慣の結果にすぎず、いかなる根拠(自然性)もないことになる。たとえば、「空想とは想像力がそれの観念を入れ替えたり変化させたりする自由をもつこと」*10であり、詩や物語に見られる作り話のなかでは「自然の秩序がまったく混乱させられ、話に出てくるものといえば、翼をもつ馬や、火を吐く竜や、とてつもない巨人といったものばかり」になる。
もちろん、われわれはこの習慣による連合がなければ、日常生活に支障をきたすことになり、「ある時は赤く、ある時は黒く、ある時は重く、ある時は軽い辰砂」*11というカント的悪夢に苛まされることになるだろう。ある種の精神病患者が見舞われる状況とも言えるかもしれない。
しかし、他方でアルバムなきコレクションとは、バラバラの諸知覚が自由な関係(接続)をなし得ることであり、われわれの主体、精神も変わり得るということである。アルバムがまずあって、それによってコレクションが集められるというのがカントの超越論的立場だとすれば、ヒューム的立場はまずあるのは諸知覚のコレクションであって、アルバムはいかようにも作られるということになる。
豊かさと貧しさのパラドックス
ボルヘスが言う「豊かさ」とは、継起の反復や習慣によって排除された、諸知覚の多様なむすびつきを指しているのだろうか。だとすれば、空想力を駆使して奇想天外な話を語ればいいことになる。実際、スペクタクル化された現代の文化とは、そのようなものの一つと言えるかもしれない。習慣からのつかの間の離脱。真夏の夜の夢。残念ながらこれでは、非日常と日常、ハレとケという二項対立から抜け出すことはできない。
ドゥルーズはそのベケット論『消尽したもの』のなかで、可能性を「実現すること」と、「消尽すること」の違いについて書いている。「可能なことの実現は排除によって行われる」*12。複数ある可能性から排他的に選択される(排他的選言命題)のが「実現」である。空想力による奇想天外な話-諸知覚の法外なむすびつきといえども、そこではやはり選択と排除が行われているということだ。そこでは「さまざまに変化する選択や目的を前提とし、これらはいつも先行する選択や目的にとってかわる」。
では、消尽するとはどういうことか。「消尽することは、これ(実現)とはまったく別である。あらゆる選択の順序や目的の組織化、あらゆる意味作用を放棄するという条件で、われわれは一つの状況の変数の総体を組合せる」。訳者の宇野邦一はその解説で次のように書いている。「消尽することは、ドゥルーズが「思考のイメージ」と呼んだような、思考に強いられるさまざまな前提や表象や媒介や拘束から、思考が離脱し、思考をうながすものに思考がじかに触れるような過程でもあるに違いない」。つまり、われわれの思考を触発するバラバラな諸知覚にじかに触れることである。それはある意味、内部化されない絶対的な外部とも言えるかもしれない。ここに豊かさと貧しさのパラドックスがある。法外な空想力は一見、より豊かに思えるが、ドゥルーズに言わせれば、それは可能性のいくつかを実現しているにすぎない。真の豊かさとは諸知覚に直に触れることであり、「可能なことにおいて実現されないものを、消尽する」ことである。
ところで、ドゥルーズは「ユクスキュルのダニ」*13をしばしば引用し、多くの著作のなかで触れている。たとえば、
「彼(ユクスキュル)はこの生物を三つの情動から規定する。まず光に反応する情動(木の枝の先端までよじのぼる)、第二嗅覚的な情動(哺乳動物が枝の下を通るときにその上に落下する)、第三に熱に反応する情動(毛がなく、熱の高い部位を探す)。広大な森に起こるさまざまなこと、そのすべてのなかにあってたった三つの情動から成り立っている世界。満腹してほどなく死んでいくダニ、またきわめて長期間空腹のままでいられるダニ、この動物のもつ触発される力は、こうして最高の強度閾、最低の強度閾をもつ」*14
「この三つがダニのもつ情動のすべてであり、それ以外の期間、ダニは眠っているのだ。ときには何年間も眠り続け、広大な森で起きていることにはいっさい関心をもたない。ダニが示す力能の度合は、たらふく血を吸ってから死ぬときの最良の上限と、飢えて待ち続けるときの最悪の下限という二つの限界のあいだにすっぽり収まっている」*15
ダニがもつ「環世界」は、ハイデッカー流に言えば、きわめて貧しい世界*16である。その諸知覚の組み合わせ(関係)もきわめて限られたものだ。なぜ、ドゥルーズはこんなダニを賞賛するのか。ドゥルーズがここで述べる「最高と最低」「最良と最悪」の「強度」「力能」とは何のことなのか。触発されることをひたすら待ち続けるダニの緊張感(強度)。しかも、三つの情動しかないダニにとって、可能なことにおいて実現されるものはきわめて少ない。逆に言えば、ダニは自らが感知できない未知の出来事によってつねに脅かされていることでもある。たとえば、千葉雅也はそれを次のように的確に書いている。「貧しい環世界は、その貧しさゆえに、無関心な外部に接する。そこでは、無関係のとしての他者の他者性が、剥き出しになっている」*17。つまり、ここには可能なことにおいて実現されないもの、絶対的に非知なるもの、不可能なものが満ち溢れているということだ。
思えば、ベケットも、デュシャンも、まるでダニのようなきわめて限られた「環世界」=沈黙の生を生き抜いた人たちではなかったか。われわれもまた、本舞台「髭を生やしたモナリザ」を鑑賞する皆さんに、ダニのような待ち続ける緊張感を与えられればと思っている。
注
*1・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*2・ヴァルター・ベンヤミン著『歴史の概念について』(鹿島徹訳)を参照
*3・ヴァルター・ベンヤミン著『ベンヤミン・コレクション1』所収「複製技術時代の芸術作品」(浅井健二郎編訳)を参照
*4・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*5・オクタビオ・パス著『マルセル・デュシャン論』(宮川淳・柳瀬尚紀訳)を参照
*6・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*7・ヴァルター・ベンヤミン著『歴史の概念について』(鹿島徹訳)を参照
*8・J.L.ボルヘス著『伝奇集』(鼓直訳)を参照
*9・ジル・ドゥルーズ著『経験論と主体性』(木田元・財津理訳)を参照
*10・同上
*11・ジャン=クレ・マルタン著『ドゥルーズ/変奏』(毬藻充他訳)を参照
*12・ジル・ドゥルーズ著『消尽したもの』(宇野邦一訳)を参照
*13・ユクスキュル著『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)を参照
*14・ジル・ドゥルーズ著『スピノザ 実践の哲学』(鈴木雅大訳)を参照
*15・ジル・ドゥルーズ著『千のプラトー』(宇野邦一他訳)を参照
*16・ハイデッガー著『形而上学の根本諸概念』(川原栄峰他訳)を参照
*17・千葉雅也著『動きすぎてはいけない』を参照
-『対話』ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ(江川隆男・増田靖彦訳)
レディ・メイドとは何か
1923年、マルセル・デュシャンは木製椅子の上に一輪の車輪を固定し、その回転する影を眺めるという妙案を思いついた。数ヵ月後には風景画の複製を購入し、その地平線上に二つの点-一方に赤を、他方に黄色の点をつけ加え、「薬局」と名づけた。1915年、ニューヨークに渡ったデュシャンは、金物屋で一本の雪掻きシャベルを買い、「折れる腕に備えて」というキャプションを記した。この頃、デュシャンはこうした表現形式を「レディ・メイド(既製品)」と名づけた*1。1917年には逆さまに置いた磁器製の男性用小便器を「噴水(泉)」と題し、R. Muttという匿名て展示。そして1919年には、デュシャンの作品のなかでは最も名高い、モナリザに髭を書き加えた「L.H.O.O.Q(フランス語の発音でElle a chaud au cul―彼女の尻は熱い=彼女は性的に興奮しているの意味)を制作した。
レディ・メイドが誕生しておよそ100年。レディ・メイドとは何だったのか。誕生100年を機に改めて考えてみようというのが、本公演を企画したそもそも始まりだった。もちろん、レディ・メイドについては、多くの批評家たちがすでに優れた解釈を行っている。今さら、つけ加えるべきことなどあるのかというのが大方の見方だろう。確かにそのとおりだ。したがって、本舞台の意図はレディ・メイドの解釈でも、いわんやデュシャン論でもない。
われわれなりにレディ・メイドの作品構造をなぞりながら、他のさまざまなことがらと接続してみようという試みにすぎない。たとえば、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」*2と。ここでわれわれは、デュシャンがモナリザに書き加えた髭は、「進歩の強風」によってもがれてしまった天使の翼に違いないと考えた。あるいは同じくベンヤミンの「脱文脈化された対象」や「複製可能性」という概念*3と。さらには、ボルヘスの『「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」』やベケットの『クワッド』や『幽霊トリオ』と。その他、多くのテクスト、あるいはテクストのみならず映像、音響、身振り……と。
もちろん、このような言明は奇をてらったペダンチックな羅列にすぎない。そうならないためにも、屋下に屋を架すことになるがレディ・メイドについてわれわれなりの見方を示し、いくつかの接続例をあらかじめ説明しておくのが賢明というものだろう。
デュシャンのレディ・メイドは、きわめてシンプルなものである。既製品-その多くは工業品を一つ選び、ある場所-その多くは美術館やギャラリーと呼ばれる場所に置き、キャプション(=タイトル)をつけるだけである。モノ(選ばれた既製品)、場所(展示空間)、テクスト(タイトル)。レディ・メイドはこの三つの要素からなっている。レディ・メイドについてしばしば指摘されることは、芸術という展示空間に既製品を持ち込むことで、反-芸術、非-芸術を試みたというものである。確かにそのとおりであろう。デュシャンもまたレディ・メイドの選択について、「趣味(美)の欠如」を語っている*4。レディ・メイドがベンヤミン言うところの伝統的な芸術概念、創造性や天才性、唯一性、永遠の価値等々にことごとく反していることは明らかである。しかし、こうした伝統的な概念は、あくまでも近代的な芸術(美=感性)概念であり、レディ・メイドを反-芸術、非-芸術と一般化するわけにはいかない。オクタビオ・パスも指摘するように*5、デュシャンは決して芸術を否定したわけではない。デュシャンが否定しようとしたのは、あくまでも近代的な美(趣味)である。
われわれとしてはレディ・メイドについて、あまり反-芸術、非-芸術を強調したいとは思わない。デュシャンは、美とは習慣化された麻薬であり、その種の汚染からレディ・メイドを守りたいとも語っている*6。おそらく、デュシャンの最大の敵は、習慣に違いない。
習慣からの離脱、脱文脈化
習慣(あるいは習慣化された感性)という観点からレディ・メイドを眺めてみると、いくつかのことが分かってくる。美術館やギャラリーといった展示空間に既製品を置くことは、その既製品が使われる日常性(習慣)から切り離すことであり、逆さまに据えることは下に流れる小便を受けとめるという便器の常識(重力の法則)を覆し、上に噴き上げさせることである。そして「噴水」という言葉による地口の介入。
ベンヤミンもまた「複製技術時代の芸術作品」の異稿のなかで、「文脈から対象を引きずり出す」という知覚行為について書いている。『歴史の概念について』のなかでも、過去の特定の文脈から自由に取り出して提示することを、過去の「呼び戻し」と呼んでいる。*7
特定の文脈(日常性)から切り離されたレディ・メイドは、その有用性を引きはがされ無意味化され、モノそのもの、あるいは事物の外部を晒し出す。もちろん、レディ・メイドという対象だけではなく、それが展示された場所(芸術という文脈)も何らかの変容を余儀なくされるだろう。脱-文脈と再-文脈。ベンヤミンにおける歴史のとらえ方も、脱-文脈と再-文脈の相互作用のなかで、一瞬きらめく出来事、あるいは諸事物の相貌をとらえることであった。
ボルヘスの『「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」』においても、ほぼ同じことが試みられている。この短編は架空の作者ピエール・メナールが書いた『ドン・キホーテ』を論じたものだ。メナールの『ドン・キホーテ』は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』のいくつかの章を一字一句そのまま転写したもの(『ドン・キホーテ』の第1部第9章、第38章、さらに第22章の断片からなる)である。たとえば、セルバンテスが「……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告」(第1部第9章)*8と書いたものを、メナールの『ドン・キホーテ』では「……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告」と書く。ボルヘスは次のように論じる。「セルバンテスのテクストとメナールのテクストは文字どおり同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである」と。
なぜ、ボルヘスは一字一句同じ文章であるにもかかわらず、セルバンテスよりもメナールの文章のほうが「豊か」だと言うのであろうか。答えは簡単だ。時代という文脈が異なるからだ。実際、メナールは17世紀のスペイン語の用法を切り捨て、断章の周到な選択を行っていると、ボルヘスは言う。17世紀に書かれた作品を一字一句そのままに20世紀に書くこと(メナールの『ドン・キホーテ』は1934年に書かれたと想定されている)。つまり、特定の文脈(17世紀という時代の文脈)から切り離し、新たな文脈(20世紀という時代の文脈)を再導入することで、セルバンテスの同一の文章が豊かに蘇る、あるいは言葉が外部に晒される。
アルバムなきコレクション
再び、問おう。なぜ、ボルヘスはオリジナルよりもコピーを「豊か」と言うのだろうか。
なぜ、文脈を変えることが「豊かさ」につながることになるのだろうか。
われわれはここで、ディヴィッド・ヒュームという18世紀のイギリスの哲学者を召喚したい。ヒュームはフランシス・ベーコンに始まるイギリス経験論の完成者と言われる哲学者である。ヒュームの経験論は「連合説」を唱えたことで知られている。ヒュームはその著『人間本性論』のなかで、人間の精神は印象と観念からなっていると書いている。ヒュームの精神について、ジル・ドゥルーズはヒューム論『経験論と主体性』のなかで、ひじょうに分かりやすい解説を行っている。少し長いが引用する。
ヒュームは、精神と想像と観念が同一であるということを絶えず肯定する。精神は自然ではない。精神には自然が備わっていない。精神は精神のなかの観念と同一である。観念とは、与えられるものという意味での所与であり、経験である。精神は与えられるものなのである。精神は諸観念のコレクションであって、まだシステムではないのだ。そこで、前述の問をつぎのように表現してよいだろう-ひとつのコレクションは、どのようにしてひとつのシステムに生成するのか。諸観念のコレクションが想像と呼ばれるのは、想像が能力をではなく、ひとつの総体を指し示すかぎりのことであって、ここで総体というのは、語のもっとも漠然とした意味での諸事物、すなわち現れでしかない諸事物の総体である。たとえば、アルバムなきコレクション、劇場なき劇、あるいは諸知覚の流れである*9。
ここでドゥルーズが言う「システムの生成」とは、諸知覚の流れでしかない印象や観念が継起の反復や習慣によってむすびつけられ、原因-結果という因果性のシステムが確立されていくことである。手が氷に触れれば、冷たいという経験が反復されることで、原因-結果の因果性が確立される。つまり、因果性は諸知覚がむすばれる関係性の結果として生じたものなのだ。意味のない所与のコレクションから、因果性による意味づけの連合システムへ。われわれの主体という精神も、この連合システムの結果-効果から生じたものにすぎない。
ヒュームの連合説を逆にとらえれば、あらゆる出来事の因果性は単なる習慣の結果にすぎず、いかなる根拠(自然性)もないことになる。たとえば、「空想とは想像力がそれの観念を入れ替えたり変化させたりする自由をもつこと」*10であり、詩や物語に見られる作り話のなかでは「自然の秩序がまったく混乱させられ、話に出てくるものといえば、翼をもつ馬や、火を吐く竜や、とてつもない巨人といったものばかり」になる。
もちろん、われわれはこの習慣による連合がなければ、日常生活に支障をきたすことになり、「ある時は赤く、ある時は黒く、ある時は重く、ある時は軽い辰砂」*11というカント的悪夢に苛まされることになるだろう。ある種の精神病患者が見舞われる状況とも言えるかもしれない。
しかし、他方でアルバムなきコレクションとは、バラバラの諸知覚が自由な関係(接続)をなし得ることであり、われわれの主体、精神も変わり得るということである。アルバムがまずあって、それによってコレクションが集められるというのがカントの超越論的立場だとすれば、ヒューム的立場はまずあるのは諸知覚のコレクションであって、アルバムはいかようにも作られるということになる。
豊かさと貧しさのパラドックス
ボルヘスが言う「豊かさ」とは、継起の反復や習慣によって排除された、諸知覚の多様なむすびつきを指しているのだろうか。だとすれば、空想力を駆使して奇想天外な話を語ればいいことになる。実際、スペクタクル化された現代の文化とは、そのようなものの一つと言えるかもしれない。習慣からのつかの間の離脱。真夏の夜の夢。残念ながらこれでは、非日常と日常、ハレとケという二項対立から抜け出すことはできない。
ドゥルーズはそのベケット論『消尽したもの』のなかで、可能性を「実現すること」と、「消尽すること」の違いについて書いている。「可能なことの実現は排除によって行われる」*12。複数ある可能性から排他的に選択される(排他的選言命題)のが「実現」である。空想力による奇想天外な話-諸知覚の法外なむすびつきといえども、そこではやはり選択と排除が行われているということだ。そこでは「さまざまに変化する選択や目的を前提とし、これらはいつも先行する選択や目的にとってかわる」。
では、消尽するとはどういうことか。「消尽することは、これ(実現)とはまったく別である。あらゆる選択の順序や目的の組織化、あらゆる意味作用を放棄するという条件で、われわれは一つの状況の変数の総体を組合せる」。訳者の宇野邦一はその解説で次のように書いている。「消尽することは、ドゥルーズが「思考のイメージ」と呼んだような、思考に強いられるさまざまな前提や表象や媒介や拘束から、思考が離脱し、思考をうながすものに思考がじかに触れるような過程でもあるに違いない」。つまり、われわれの思考を触発するバラバラな諸知覚にじかに触れることである。それはある意味、内部化されない絶対的な外部とも言えるかもしれない。ここに豊かさと貧しさのパラドックスがある。法外な空想力は一見、より豊かに思えるが、ドゥルーズに言わせれば、それは可能性のいくつかを実現しているにすぎない。真の豊かさとは諸知覚に直に触れることであり、「可能なことにおいて実現されないものを、消尽する」ことである。
ところで、ドゥルーズは「ユクスキュルのダニ」*13をしばしば引用し、多くの著作のなかで触れている。たとえば、
「彼(ユクスキュル)はこの生物を三つの情動から規定する。まず光に反応する情動(木の枝の先端までよじのぼる)、第二嗅覚的な情動(哺乳動物が枝の下を通るときにその上に落下する)、第三に熱に反応する情動(毛がなく、熱の高い部位を探す)。広大な森に起こるさまざまなこと、そのすべてのなかにあってたった三つの情動から成り立っている世界。満腹してほどなく死んでいくダニ、またきわめて長期間空腹のままでいられるダニ、この動物のもつ触発される力は、こうして最高の強度閾、最低の強度閾をもつ」*14
「この三つがダニのもつ情動のすべてであり、それ以外の期間、ダニは眠っているのだ。ときには何年間も眠り続け、広大な森で起きていることにはいっさい関心をもたない。ダニが示す力能の度合は、たらふく血を吸ってから死ぬときの最良の上限と、飢えて待ち続けるときの最悪の下限という二つの限界のあいだにすっぽり収まっている」*15
ダニがもつ「環世界」は、ハイデッカー流に言えば、きわめて貧しい世界*16である。その諸知覚の組み合わせ(関係)もきわめて限られたものだ。なぜ、ドゥルーズはこんなダニを賞賛するのか。ドゥルーズがここで述べる「最高と最低」「最良と最悪」の「強度」「力能」とは何のことなのか。触発されることをひたすら待ち続けるダニの緊張感(強度)。しかも、三つの情動しかないダニにとって、可能なことにおいて実現されるものはきわめて少ない。逆に言えば、ダニは自らが感知できない未知の出来事によってつねに脅かされていることでもある。たとえば、千葉雅也はそれを次のように的確に書いている。「貧しい環世界は、その貧しさゆえに、無関心な外部に接する。そこでは、無関係のとしての他者の他者性が、剥き出しになっている」*17。つまり、ここには可能なことにおいて実現されないもの、絶対的に非知なるもの、不可能なものが満ち溢れているということだ。
思えば、ベケットも、デュシャンも、まるでダニのようなきわめて限られた「環世界」=沈黙の生を生き抜いた人たちではなかったか。われわれもまた、本舞台「髭を生やしたモナリザ」を鑑賞する皆さんに、ダニのような待ち続ける緊張感を与えられればと思っている。
注
*1・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*2・ヴァルター・ベンヤミン著『歴史の概念について』(鹿島徹訳)を参照
*3・ヴァルター・ベンヤミン著『ベンヤミン・コレクション1』所収「複製技術時代の芸術作品」(浅井健二郎編訳)を参照
*4・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*5・オクタビオ・パス著『マルセル・デュシャン論』(宮川淳・柳瀬尚紀訳)を参照
*6・ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン著作集』(北山研二訳)を参照
*7・ヴァルター・ベンヤミン著『歴史の概念について』(鹿島徹訳)を参照
*8・J.L.ボルヘス著『伝奇集』(鼓直訳)を参照
*9・ジル・ドゥルーズ著『経験論と主体性』(木田元・財津理訳)を参照
*10・同上
*11・ジャン=クレ・マルタン著『ドゥルーズ/変奏』(毬藻充他訳)を参照
*12・ジル・ドゥルーズ著『消尽したもの』(宇野邦一訳)を参照
*13・ユクスキュル著『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)を参照
*14・ジル・ドゥルーズ著『スピノザ 実践の哲学』(鈴木雅大訳)を参照
*15・ジル・ドゥルーズ著『千のプラトー』(宇野邦一他訳)を参照
*16・ハイデッガー著『形而上学の根本諸概念』(川原栄峰他訳)を参照
*17・千葉雅也著『動きすぎてはいけない』を参照