Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2010年05月31日 | Weblog
ぼやき-もういいかげん、ニッポンの漫画やアニメ、いわばオタク文化に依拠したアートというものを批判的に見直す時期に来ているんじゃないのか。若手の美術批評からそんな奴が出てきて欲しい気がする。けっきょく、グローバル・アート・マーケットにおけるオタク文化って、「フジヤマ・ゲイシャ」の世界じゃないの?(笑)。

写真のデジタル時代にあって、今更、写真の真性性をテーマとするような作品が面白いとは思えない。たとえば、ファッション(広告)写真がフォトジェニックな効果によって、偽のイメージを捏造していることを告発すること、あるいは暴露すること。相変わらずの“本物と偽物”という図式。そもそもこうした作品は時代認識がまったくずれている。現代の消費者(イメージの享受者)にあっては、ファッション(広告)写真が偽のイメージであることを自覚している。自覚しながら偽のイメージを楽しんでいるのだ。その心性こそが論点になるべきなのだ。たとえば、小林美香氏がScribdというサイトhttp://www.scribd.com/doc/10934193/Looking-at-Photographs-Digital-Layer
で紹介しているダニエーレ・ブエッティの作品などは、すぐさまファッション写真が応用し、広告写真に回収されてしまうだろう。こうした作品は、眼を刺激するものとしてファッション写真に受け入れられ、その批評性なんぞは簡単に乗り越えられてしまうのだ(笑)。もはや偽のイメージか、本物(リアル)のイメージかが問題ではない。そもそもイメージとはすべて偽のイメージであるということから出発しなければならない。問題はどのような偽のイメージを作っているかだ。誰に向けて、何のために、どんな方法で。

twitter考-まったく見知らぬ人間と公的なコミュニケーションを行うこと。この場合の公的とは理性を理性の目的のみにおいて使用するということである。

短期間のtwitter経験。この急き立てられる感じがどうも馴染めない。自分がいま何をしているかを公表することにどうしても違和感を感じる。自分の意見を不特定多数に向けて発言するといっても、この“急き立て”においては思考が存在しない気がする。下記にも書いたが、同好の士同士の相互掲示板、あるいは意見交換といったところがtwitterのとりあえずの使い方か。意見交換といっても、同じ価値観・考え方の人たちの再認・追認の交換であって、特異な意見は浮いた(無視される)ものになるようだ(笑)。まあ、しばらくは模様眺め。

twitterというのは、フォローされるよりも、フォローする方に意味があるような気がする。土足で人の家に上がり込むようなものではあるが…(笑)。

今更ながらなのだが、われわれが「痕跡の美学」として批判してきたのは、記憶に回収されてしまう記憶(記憶の補助としての写真の記録性=追認と再認)であり、記録に回収されてしまう記録(物語としての記録)なのだ。写真における「痕跡の美学」の回避とは、記憶に還元されない記憶、最も古い記憶であり、記録に回収されない記録、記録を裏切る記録を奪還することなのだ。ありえなかった記憶と記録。けっきょく、バルトの写真論(『明るい部屋』とは、写真というイメージ(光の痕跡)から、“存在者“と“存在”を区別したのだ(ハイデッガーを参照)。つまり、バルトの“存在”とは、記憶にも、記録にも還元できない光の痕跡ということである。

twitterを始めてみたが、正直、どう使っていいかわからない。最も多い使われ方は、同好の士たちの相互掲示板のようだ。もちろん、同好の士たちの集まりがつねに開かれている(見知らぬ人同士が、ある趣味や傾向という一点で集まったり、離散したりする)というのが特徴だが。オープンな掲示板(告知も兼ねた)というところか。心情を吐露するにしても、おそらく、同じような心情をもった人たちが反応(リツィート)するのだろう。自分の意見を公に発言していくという点ではやはり、ブログの方が相応しい気がする。が、140文字の思考というのもあるかもしれない。ニーチェに倣ってアフォリズムでも展開してみようか。

twitterを試してみる。カント的な意味での公的つぶやきを目指して(笑)。

荒金直人の『写真の存在論』を読む。バルトの『明るい部屋』をきわめて的確かつ正当に解読した本だと思う。バルトの写真が与える「存在の経験」(それはかつてあった)は、記憶でも、記録でもない。いわば時間(この場合の時間とは時間そのもの、持続する時間のことだ)の露出そのものである。バルトの存在論的写真論への関心の一つは、「では、身体はどこに行ってしまうのか」ということだ。なぜなら、バルト的「存在の経験」においては、とりあえず身体を括弧に入れることでもあるだろうからだ。おそらく、バルトの写真論における身体は、唯一、写真の触覚性(光に触れる)によってかろうじてつながっているのかもしれない。とすれば、デジタル化以降の写真は? バルトの存在論的写真にしたがえば、デジタル写真はさらに、その「存在の経験」を純粋化すると言えないか。なぜなら、過去の実在性によって、“いま、ここ”の「現存在」が括弧に入れられることによって、バルトの「存在の経験」が開かれるとすれば、デジタル化以降の写真においては、その過去の実在性そのものの信憑性が崩れているのだ。しかし他方で、デジタル写真というイメージが現前していることは明白である。とすれば、デジタル化以降の写真というイメージにおける時間は実在性なき時間である。しかし、このいわば“偽の時間”はある意味で純粋な時間の露出につながる可能性も秘めているのではないか(超越論的時間?)。もちろん、バルトは否と答えるだろう。荒金直人も指摘するように、実はまさに「存在の経験」における、その“存在”そのものの意味が異なっているのだ、おそらく。そこがデジタル化以降における写真への新たな問いであり、イメージの存在論となるだろう。一つ、方法があるとすれば、「存在の経験」を“いま、ここ”に不断に逆流させることではないか。バルトの存在論的写真論がいまだ有効だとすれば、そこにあるような気がする。もう一つの感想は、写真がこれまで記録という側面に大きな比重が置かれてきたのは何故かという問いだ。これまで使われてきた記録という概念はけっきょく、「存在の経験」の不安を回避・無化するために、映画における物語化のように、記録という近代的な物語に回収することではなかったのか。記憶と記録、そのいずれにも回収されない写真を志向すること(これは長年、言い続けてきたことだが…)。そこに、写真経験のどのような可能性が秘めているか。

カメラの身体化とは「事実的自我(フッサール)」における意識をエポケー(括弧入れ)することであり、身体のカメラ化とはその一方の身体をエポケーすることである。前者によって見出された身体の知覚とはけっきょく、ある一定の有用性に基づいた知覚にすぎないのではないか。後者のエポケーされた身体はまさに空っぽの肉の塊そのものであろう。身体と意識のパラドックス。ところで、この二通りのエポケーによって括弧から逃れるもの(余剰、余分)とは何か。それは同一のものか。

誰かがどこかで「新しい技術というものは、突然出現するものである」と言っていたと思うが、つまり、新しい技術の出現はあらかじめ使用目的があって、あるいはその必要に要請されて生まれてくるものではないということだ。むしろ技術者は小型化とか、高速化とか、コスト削減といった、いわば技術的領域における要請から生まれてくるということだ。むしろ、その使用法は、その技術が普及し、一般化するなかで、大衆の欲望に沿って決定されていくものだろう(ハイデッガーが『技術への問い』で論じた論点の一つがこれである。技術の本質が手段-目的という因果性のうちにあるのか、という問いである。つまり、手段-目的といった因果性は、結果=使用法から事後的に見出されたものにすぎないということだ)。当然、そうした大衆の欲望は、既存の(古い)技術によって形作られた欲望の、あるいは文化領域の延長上にあるに違いない。こうした新しい技術の世俗化、物語化によって、何が取り逃がされてしまうのか。おそらく、新しい技術が持っていた潜在的な使用法ではないか。逆に言えば、新しい技術は紋切り型の感じ方や考え方を覆す潜在性をもっているということだろう(実際、“芸術”という領域こそが、新しい技術の出現に対して、そうした立場-潜在性の探求を取ってきたのではないか。新しい技術の世俗化・物語化への抵抗等々も含め。例えば、ドゥルーズ的に言えば、映画が物語に回収されていくのはまさに、映画と言いう新しい技術の世俗化の現れの一つである。同様に、写真の記録への回収もまた?)。ということは、新しい技術に対する肯定、否定いずれでもない、第三の立場から考察することが重要になるだろう。あるいは新しい技術を肯定する者は、どのような動機からそうした立場をとっているのか、どのような立場に立脚しているのか。その反対に否定する者の動機、立場、立脚点は何かを探ることも重要であろう。写真、あるいはデジタル化以降の写真に関しても同様であることは言うまでもない。

Ustreamというのが流行しているらしい。インターネットによって誰もが一つのメディアを獲得したように、いまや誰もがテレビ局をもったわけだ。当然、ここで流れる映像は、いま、この時の、世界の非決定的な断片の連なりである。かつてのメディアであれば、その“誰?”というのが問題になるとしても、一つのイデア的総合(いわゆる編集者、あるいはその他もろもろの関係者)の機能を果たす“誰か”が介在していたわけだ。しかしもはや、その役割を果たす者はいない(このブログもまた、原則的には誰の介在も経ることなく垂れ流されているわけだが…)。この個人化された無数のテレビ局(メディア)は、ある傾向(文化的な趣味)によって共有され、“見る””見られる”関係を形成する。世界の無数の断片化。この非決定的な瞬間(の連なり)は確かに、その使い方によっては何者かによって中心化された世界の再現(あるいは記号化された世界)に対してのオルタナティブな視点を用ち得るかもしれない(写真における非決定的瞬間=非中心化された視覚、あるいは世界の断片化がある意義を持ちえたとすれば、それはありえたかもしれない過去の存在に思考をうながすためであった。たとえば、プロヴォーク-中平卓馬)。しかし一方で、これら分散(断片化)された世界の再現は、個々人の想像的世界と直結することで(それが一つの趣味の傾向としての村社会、島々だ。極論してしまえば、各村社会や島々から流れるものは、実はそのほとんどのものが既存のメディア・コンテンツを模倣した情報-文化趣味にすぎないということだ-笑)、現実・世界(社会)・私の諸関係を誤らせることになるだろう。あたかも断片化された世界が現実そのものであるかのように、つまり、介在する世界(社会)はすでになく、われわれは現実(=世界)と直結しているかのように(ベルナール・スティグレールが言う「象徴の貧困」というやつだ。つまり、諸断片が全体なるものをどう規定するかという問いが欠如しているということだ)。なんと恐ろしい世界(社会)だろう!(大笑)。

「そうした錯覚の再現は、或る意味でその錯覚の修正でもあるということにはならないだろうか。手段が人為的であるということから、結果も人為的であると結論してよいのだろうか」(ドゥルーズ『シネマ1‐運動イメージ』財津理他訳)

演出された(あるいは加工された)写真は、人為的であるがゆえに批判される。あたかも本来の写真が自然的知覚であるかのように。確かに、写真は自然的知覚に類似している。ただし、二つの知覚とも“錯覚”という資格において。同じように、デジタル写真は人為的(偽物)であるがゆえに批判される。あたかもアナログ写真が自然的知覚であるかのように。確かに、アナログ写真は自然的知覚に類似している。ただし、二つの知覚とも”錯覚”という資格において。演出された(あるいは加工された)多くの写真が、あるいは多くのデジタル写真が批判されるべきなのは、あまりにも裸眼(肉眼)という自然的知覚に似すぎているがゆえに批判されるべきなのだ。

森山大道が写真においてその“質”よりも“量”を重要視するのはなぜか。“質”はポーズに由来し、“量は”写真における「任意の瞬間」に由来する(この任意の瞬間を“視覚的無意識”ととらえてはならない。ベンヤミンは写真=カメラの眼による切り取りを“無意識”と言うことで、写真の知覚を心理化してしまったと言えないだろうか。つまり、カメラの眼が裸眼の奥底に潜む知覚をあらわにしたと。ここからカメラの眼が「生きた経験」による純粋知覚という誤解が生じることになった)。特権的瞬間(=ポーズ)から任意の瞬間へ。決定的瞬間から非・決定的瞬間へ。森山大道の“量”への関心はまさに、運動を捉え、再構成する方法の“超越的総合”と“内在的分析”の違いを語っているのである。つまり、森山大道における写真による現実(対象・被写体)の切り取りは、“超越的総合”による選択ではなく、まさに現実の実在的運動の“内在的分析”による選択-非・決定的瞬間からの選択であり、現実(運動)の修正なのである。

表現、あるいは芸術の役割を「見えないものを見えるようにする」と述べる多く言説は、おそらくデリダが下記のように語ることに集約できそうに思える。

「…あなたをいわゆるテクスト-外なるものへと慌てて閉じこめてしまうのだ。知覚という前-テクスト、生きたことばという前-テクスト、素手という前-テクスト、生きた創造という前-テクスト、現実の歴史という前-テクストなどなどといったテクスト-外なるものの中へと」(デリダ『絵画における真理』阿部宏慈訳)

不用意にも“不特定多数”という言葉を使ってしまったが、TWITTERも含め、ネットにおけるコミュニケーションとは、実は不特定多数に開かれたメディアではないのだ。むしろ、きわめて限定された-つまり、同じ趣味、同じ関心、興味、嗜好等々の仲間たちに向けて(限定されたあて先)発信されるメディアなのだ(このブログもしかり!)。同じ匂い・臭いを探し求めて、さ迷い、漂う情報。インターネット・メディアとは公的なもの=普遍性の喪失のメディアなのであって、小さな共同体への分散、回帰なのかもしれない。インターネットによって作り出される無数の村社会。かつての村-共同体が血(出自)と大地のコードによって制御されていたとすれば、インターネット時代の村社会は、階級でもなければ、貨幣(富)でも、知識(教養)でもない、“文化(趣味)”というコードによって制御されているのだ。もはや誰も普遍性(公的なもの)などは求めていない。であるならば、ドゥルーズが言うごとく、電子技術時代に問題となるのは匂い・臭いの発信元とあて先である(笑)。誰が、誰に向けて、何の目的(意図、あるいは関心でから)で、いつ、どこで発信しているのか(もちろん、このブログは公的な時空に向けて発信しているつもりだ。お前はまだ公的なものの存在を信じているのか、と言われようが…)。コミュニケーションのドラマ化。

物・商品(道具)・芸術
ご存知のように、ハイデッガーの『芸術作品の根源』は芸術とは何かを解明するにあたって、単なる物・道具・芸術作品の区別から出発する(つまり、これらの“物”が経験上あらかじめ峻別されてあることを前提にする)。芸術作品は単なる物や道具といかに峻別することができるのか、と。しかし、われわれはあらかじめ物や道具と芸術作品が区別される時代に生きているのだろうか。むしろわれわれはこれらの“物”が峻別できないことから出発しなければならないのではないか(もちろん、ハイデッガーにおいても、従来の物概念-実体〔主体〕/属性〔述語〕、感覚的なもの/思考的なもの、質料〔内容〕/形相〔形式〕といった対概念によって、これらの“物”が区別されていないがゆえに、物・道具・芸術作品を峻別することから出発すべきだと主張するわけだが…)。たとえば、ハイデッガーは道具と商品の区別を考慮していないような気がする(『芸術作品の根源』に登場するゴッホの絵画“靴”をめぐるデリダの論考「返却」は、ある意味では道具と商品の区別に関する考察の一ヴァリエーションではないだろうか)。現代芸術にあっては、単なる物・商品・芸術作品はいかに区別されるのだろうか。実際、19世紀後半頃から、道具は芸術作品に近づき(道具の商品化)、芸術作品は単なる物に接近していく(芸術作品の物化。マネの絵画がオブジェ-物質としての絵画を志向したことを想起せよ)。もともと芸術作品は道具(有用性)から分離していったものではないか。芸術の非有用性(芸術の無用性化・無償化)。道具のパレルゴンとしての芸術(装飾の芸術化)。あたかも、道具は引き剥がされていった芸術を追うように芸術作品を目指し、芸術作品はそこからさらに逃れようと単なる物になろうとしているようである(そして芸術は単なる物を目指すことによって、その追求を“美から真理へ”の転換を果たすだろう。あるいはイデアからイメージへ)。もちろん、こうした図式はきわめて乱暴なものだが、ここに何か近・現代における“芸術”のあり方を読み解くヒントのようなものが見え隠れする。写真というイメージにおけるインデックス性の強調も決してこのことと無関係ではないだろう(いわく“物としての写真-イメージ”)。ここであらかじめ断っておけば、ハイデッガーにおける物・道具・芸術作品の区別も決して単純なものではない。例のゴッホの“靴”の絵を例に述べる下りは三つの区別が奇妙な絡み合いを演じている。ハイデッガーはゴッホによって描かれた“農婦の靴(?)”がその道具としての有用性をあらわにしたがゆえに芸術作品足りえていると示唆している。ゴッホによってあらわにされた“靴”のむき出しにされた有用性(道具性)。何故、ゴッホの絵は道具の有用性をむき出しにしているのか。それは“農婦の靴”が使い捨てられ、むしろその有用性が摩滅したからこそなのだ。ゴッホの“農婦の靴”にあるのは、“靴”と大地との関わりのなかで“使われた時間”の痕跡である。いわば、道具がその有用性を剥奪され、単なる物になろうとしている状態をゴッホの絵は描いているということだろう。道具は使い捨てられてこそ、その道具性があらわになるということである(この論理はいわゆる骨董という道具に似ている。骨董を愛でる人たちは、その質や技、あるいは他者の欲望を愛でるのであって、道具の有用性を引き離すことのなかに価値を見出す。それでも骨董趣味の基盤には有用性-生活道具という使用価値がなkればならない)。ゴッホはそれを描いた。道具の道具性の開示-存在の真理の開示、それこそが芸術というわけである。ハイデッガーは芸術作品は一つの道具よりも単なる物に近いと言っている。現代の商品において有用性(使用価値)は二次的なものである。商品の価値はその使用価値ではなく、交換価値による。もちろん、使用価値が消滅したというわけではない。商品においてはその価値が交換価値によって規定されるということである。いわば、使用価値が二次的なものとされ、前面にはないということだ(50年代頃から世界同時的に起こった美術の潮流-日本の具体やフランスのヌーヴォー・レアリズム、イタリアのアルテ・ポーヴェラ等々はまさに、むき出しされた有用性への志向と言えるだろう。後に、ジェフ・クーンズらのように商品自体もむき出しにされることになる…)。しかしもはや商品という概念さえ過去のものと言われそうだ。そうだ、商品に代わる情報の概念。交換価値から情報価値へ(笑わざるを得ないな~)。物・情報(道具→商品→情報)・芸術。

TWITTERを覗く。“つぶやきコミュニケーション”。書き手のつぶやきからその人間の(といっても、多くの場合はその人間がどのような人物かは知らないのだが…)日常生活や一日の行動パターンが分かる。もちろん、書き手の日常生活についてのつぶやきに限らず、不特定多数の人間に対して、自らの意見(?)を表明するTWITTERもあるのだが…。こうしたつぶやきに対して、不特定多数の人間が(しかし、多くの場合は何らかの接点-つながりがあるみたいだが…。それでも不特定多数の人間に開かれているというのがインターネットのしくみとしての大前提だろう)反応し、またつぶやくというコミュニケーションのようだ(メールはあくまでも指定されたあて先、限られた人間に対する発信である)。この“つぶやきコミュニケーション”とは何なんだろう?自分の意見(つぶやき)を不特定多数の人間に発信するというのはまだ何となく理解できる。まあ、それがつぶやきという形態をとるのはなぜかという問題は残るが(このブログにしても、同じような形態なのだから)。しかし、自らの日常生活に関することをつぶやき、それを不特定多数の人間に対して発信するというのはなかなか理解するのが難しい。プライバシーの侵害どころか、自らプライバシーを公表しているわけだから。この日常生活のつぶやきの発信は、誰かとつながりたいという“コミュニケートすることの欲望”ではない気がする。なぜなら、たとえ自らのつぶやきに対しての反応がなくても、おそらくつぶやき続けるだろう(まあ、このブログもそうなのだが…)。むしろ、自分が“ここにいる”という自己(存在)確認の行為のように思える(写真を撮ることにおいて、“いま・ここ”における存在確認をするように)。“俺はここにいて、生活してるぜ!”“俺は、私はいま、ここにいる!”の発信。いわば、インターネット時代における“実存”の一形式なのかもしれない。これは自らの意見の発信における“理念”の喪失でもあるのではないか。なぜなら、意見(発言)になる前の“つぶやき”を発信することで良しとするわけだから。ここに“理念的な総合”はない。「今、俺は何を食ってるぜ」「俺はこれこれをしてるぜ」等々。それに対して、「俺は、私はこうした」と答え、反応する。“お宅コミュニケーション”がここまできたわけだ。もちろん、TWITTERを批判しようというわけではない。このコミュニケーションのあり方はいかなるものなのだろうという問いかけに過ぎない。実際、TWITTERを新たなコミュニケーション形態として使用する可能性がないわけではないだろう、おそらく。それにしても、何故にこれほどまでにプライバシーを公表するのだろうか(親しい人の間で私的なことがらを吐露することは理解できる。それは親しみの共有であり、円滑なコミュニケーションをするための一つの方法なのだから。例えば、食卓を囲んだコミュニケーション-語りあり、議論あり、冗談がある)。しかし、不特定多数の人に向けて、プライバシーを吐露するというのはなかなか理解しがたいものだ。このプライバシーの公表にはいかなる欲望が作動しているのだろうか(もちろんこのブログを含めて。ただ、前にも書いたことがあるが、このブログの使用法はあくまでも公的領域に向けての個人の発信という自覚があることだけは付け加えておきたい。つまり、公的なものから個人的なものを奪い取り-引き剥がし、それを公的な領域に送り返す行為。インターネット・メディアにおけるプライベートな使用法とは、メディア=公的なものから個人的なものを奪い取ることであって、私的なことがらを吐露することがメディアのプライベート化ではない気がするのだが…。しかし、メディア=公的領域では決して取り上げることがない私的ことがらを述べることは、公的なものから私的なものを奪い取ることではないのか。そんな反論があるかもしれない。確かに、過剰なほどの私的ことがらは公的な領域を脅かす。実際、ネット上のプライベートといっても自己規制がなされたほどほどのばかりには違いない)。


写真における真理

2010年05月28日 | Weblog
-ジャック・デリダに倣って、誰かが、私ではない誰かがやってきて、次のような問いを発したとする。「私は写真の区別のされ方に関心がある」と。
-写真の区別?つまり、報道写真、広告写真、家族写真、記念写真、建築写真、医学写真、記録写真、風景写真、人物写真……といったもろもろの「…写真」として分類される写真のことか。
-確かに、「…写真」として分類される、その分類法にも関心がないわけではない。しかしすでに君が並べて見せた「…写真」の分類には、その分類法に混同があるように思える。被写体による分類なのか、写真の使用法における分類なのか……。
-写真の使用法とその被写体には不可分な関係があるのではないのか。被写体の選択が写真の使用法を決めるのか、写真の使用法が被写体を限定するのか……。
-……。「写真の区別のされ方」という問いにおいて着目してみたいのはむしろ、「…写真」と言われる写真と「写真」と呼ばれるものの区別なのだ。
-「…写真」と「…写真」と呼ばれない写真の区別のことか。
-写真史を紐解いてみればお分かりのように、写真装置の登場以来、写真というイメージの使用において、さまざまな領域が存在したことは明白だろう。その一つに当然ながら、“芸術としての写真”もあった。初期写真においてはとりわけ、「肖像写真」において“芸術としての写真”が追求されたことは周知の事実だろう。しかし、写真の黎明期における「肖像写真」は言うまでもなく「肖像画としての肖像写真」であった。つまり、絵画的カテゴリー、あるいは従来の美的(芸術的)カテゴリーに倣った「写真」ということだ。それに対して当然ながら、写真固有の表現性が見出されるなかで“写真としての芸術”が志向されることになる。この場合の“芸術”とは、言うまでもなく従来の絵画的、あるいは美的カテゴリーに収まらない“芸術”ということになろう。
-しかし、それでもなお、それを“芸術”と呼ばざるを得なかったのはどうしてなのか。
-“写真としての芸術”と呼ばざるを得なかった「写真」をとりあえず「モダニズム写真」と呼んでおこうか。
-“写真としての芸術”と「モダニズム写真」をイコールで結ぶのはどうしてなのか。
-“写真としての芸術”が従来の“芸術”とは異なる位相で“芸術”を求めたと同時に、他のあらゆる「…写真」とは異なる写真を求めたことでもあるからだ。
-その論理は「モダニズム美術-絵画や彫刻」が絵画や彫刻以外の何ものにも依存しない、還元できない絵画や彫刻を求めたことと同じであるということか。つまり、「モダニズム美術」が絵画あるいは彫刻における固有言語(イディオム)を求めたように、写真における固有言語を求めたということか。
-「…写真」から「…」を限りなく排除することで、いわば純粋な「写真」を求めたということだ。
-ということは、写真におけるあらゆる社会的使用を排除しようとしたということになるのか。
-つまり「モダニズム美術」と「モダニズム写真」は同じ論理を有しているということだ。
-しかし、60年代後半から70年代にかけて、“写真としての芸術”は一般社会で使われる写真を積極的に取り入れていくようになるだろう。「プライベート写真」しかり、「家族写真」しかり、「医学写真」しかり……。
-しかも、美術側-絵画や彫刻につらなるアーティストたちが積極的にそうした「…写真」を“現代美術”に導入していくことになる。もちろん、写真家たちおいても。つまり、またつまりだ、「モダニズム写真」以後の写真(とりあえず、「ポストモダニズム写真」と呼ぼう)は、写真の固有言語を放棄したということだ、おそらく。
-もはや、それらは“写真としての芸術”とも呼べないものではないのか。
-確かに。しかし、それらの写真を「…写真」とも呼ぶこともできないだろう。
-「…写真」と呼べない「…写真」なのか。
-「…写真」の使用法を真似がなら、「写真」そのものを志向すること。これはいったいどういうことなのか。その区別はいかになされるべきなのか。それが問題の核心だ、おそらく。
-また、おそらくか。「…写真」でもなければ、“芸術”でもない写真。「写真」そのものとしての「写真」。しかしその「写真」は、社会一般で使われる「写真」の使用法を真似ることで「写真」そのものになろうとする。あなたに倣って言えば、つまり、写真における固有言語は、社会一般における写真の使用法の側にあったということか。果たしてわれわれはこの矛盾を引き受ける必要があるのだろうか。別な問題の立て方はないのか。
-確かに、われわれは先を急ぎすぎているのかもしれない。
-一つ確かに言えることは、「ポストモダニズム写真」における、写真の社会的使用法の導入の多くの事例は、美学的なアプローチというよりも、その写真の使用法そのものの機能を主題にしていることだ。つまり、ある領域での写真の使用法がどのように作動しているか、それを批判的にあらわにしようというわけだ。
-しかし、そうした写真の使用法における内在的な批判は、グリーンバーグが語ったモダニズムの論理と同じことではないか。いわく「モダニズムの本質は、ある分野を批判するためにこの分野に特徴的な方法を用いることにあるが、それはこの分野を破壊するためではなく、その権能の領域内にこの分野をより強固に確立するためである」と。
-まさにカント的批判だ。しかし、「ポストモダニズム写真」は、当該の分野を破壊=批判するために「写真」を用いていると言えないか。なぜなら、「ポストモダニズム写真」は、写真の社会的使用という、モダニズム的立場からすれば、「写真」に付随する本質外の機能を問題にするのだから。
-写真的視覚への批判ということか。つまり、「ポストモダニズム写真」は写真の社会的使用法、とりわけマスメディアににおける誤った使用法を内在的に批判するということか。本来的な「写真」を奪還するために、あるいは写真の正しい使用法を求めて…。
-しかし当然ながら、写真の正しい使用法があらかじめあるわけではない。したがって、写真に対する内在的批判は永遠に繰り返されることになるだろう。
-あなたが言う、もう一つの美学的アプローチとはどういうことか。
-感覚次元での拡張ということだ。例えば、「モダニズム写真」における物に関する物質的な相の追求、あるいは幾何学的構図に基づくフレーミングといった…。
-「ポストモダニズム写真」は、“見ること”そのものを主題化するということか。
-メディア批判から、視覚そのものまでを主題化するということだ、おそらく。
-また、おそらくか。あなたはあなたの発言に確信が持てないわけだ。それでは、「ポストモダニズム写真」の「モダニズム写真」に対する批判的側面はどこにあることになるのか。
-「モダニズム写真」が写真の社会的使用を排除し、美学的アプローチに制限されていくなかで、一つは言うまでもなく、アカデミズムの中で形骸化していくだろう。と同時に、それと反比例するかのように、写真の社会的使用はますます拡大していくだろう。「モダニズム写真」が切り開いた美学的効果を徹底的に利用しながら。われわれはその最大の成果を広告写真に見ることになる。
-ところで、同じ「ポストモダニズム写真」と重なる時期に登場する、グルスキーやシュトゥルートといった、いわゆるドイツ・デュッセルドルフ派の写真はどうなのか。彼らの写真は彼らの意図がどうであれ、けっきょくは美学的なカテゴリーに分類できるもの、あるいは回収されてしまったのではないか。
-ドイツ・デュッセルドルフ一派をひと括りにするわけにはいかないが、確かに彼らの写真は美学的カテゴリーに納まるものだろう。もちろん、彼らの細密なディテール表現に基づく巨大なフォーマット・イメージは、「モダニズム写真」が求めた知覚の拡張とは異なるものだが。
-実際、彼らの写真がグローバルな市場を獲得した要因には、巨大なフォーマット・イメージというのがあるんじゃないのか。ちまちました「写真」よりは価値がありそうに思える。
-(笑)。それはそうだろう。写真の登場以来、視覚的驚きというものは、一般大衆が最も好むものなのだから。しかし、その点だけを捉えて論じては、あまりにも了見が狭いというものだ。実際、デジタル以降の「写真」(とりあえず、「ポスト・フォトグラフィ」と呼ぼう)は、新たな美学的アプローチによる「写真」が大勢を占めるようになるわけだから。そこに何がしかの意義がないわけではないだろう。
-たとえば、グルスキーにおける現代の建築環境という、新たな風景写真のことか。
-確かに、ティモシー・オサリヴァンやヘンリー・ジャクソンが地形測量学的アプローチにより、アメリカの自然に新たな風景写真(眺めという美)を生み出したとすれば、グルスキーは現代の建築空間に崇高な風景を見出したことになるだろう。
-話は飛躍するかもしれないが、90年代に登場する日本のいわゆる「ガーリーフォト」と呼ばれる写真はどう位置づけられるのか。
-「ガーリーフォト」をどう定義するか分からないが、身近なことがらを自らの感覚にしたがって切り取った写真とすれば、「モダニズム写真」と相反するという意味で「ポストモダニズム写真」と呼べるかもしれない。しかし、前述した「ポストモダニズム写真」(その多くの事例は欧米にあるのだが)とは大きく異なるだろう。
-では、なぜ、「ガーリーフォト」は評価されたのか。
-そこにも、「…写真」と「写真」の区別のされ方の問題が横たわっているのではないか。またおそらくを使って申し訳ないが、「ガーリーフォト」を評価した人たちが70年代に登場してきた写真家、あるいは評論家たちだと言うところに問題の核心があるのだ。70年代に登場してきた写真家たちの多くは、写真を内在的に批判する形で「モダニズム写真」と一線を画そうとした写真家たちだ。その一つの方法として、彼らは形式化・美学化する「モダニズム写真」に対して、私の「生きた経験」を重視するだろう。この「生きた経験」というのは言うまでもなく現象学に由来するものだ。あらゆる意味を、表象性を引き剥がし、「私」という純粋な知覚をあらわにしようと。当然、ここにもモダニズムにおける「否定の論理」が働いているわけだが。その帰結として、「素直さ」「素朴」「直接性」「リアリティ」「身体」といったタームが氾濫することになる。彼らが「ガーリーフォト」を評価するのは当然だろう。「ガーリーフォト」は彼らが到達したところから出発するのだから。しかし、彼らは大きな誤解をしている、おそらく。70年代に登場してきた写真家たちが写真の知覚を身体化しようとしたのに対して、「ガーリーフォト」の身体はすでにして写真化されている(された知覚)ということだ。「ガーリーフォト」における「素直さ」「素朴さ」「リアリティ」「身体」とはカメラ化された身体(感覚)なのであって、前世代の写真家たちが求めた「生きた経験」はもはやここにはないのだ。ここに大いなる誤解がある。「写真の身体化」と「身体の写真化」。ついでに言えば、「ガーリーフォト」が多くの“女の子”の間に登場したことを「男性原理と女性原理」から説くことにも賛成できない。「ガーリーフォト」を体現したのが“女の子”だったのはあくまでも社会的制度(あるいは社会的状況)によるものなのであって、「性の原理」とはいささかも関係がない(なぜなら“女の子”たちは社会や現実と直接向き合う必要のないモラトリアムを生きているのだから)。
-とすると、「マスメディア化された写真」を本来の「私」に奪還しようとした70年代の写真家たちに対して、「ガーリーフォト」は「マスメディア化された私」をあらわにしたということか。メビウスの出会い。
-(笑)。皮肉なことにも…。ところで、70年代に登場した写真家たちの間違いは、「モダニズム写真」が抽象的がゆえに、撮る次元における「生きた経験」を対置したわけだが、「モダニズム写真」が批判されるべきなのはむしろ、十分に抽象的でないがゆえに批判されるべきなのだ。
-あなたはもちろん、「ガーリーフォト」に対して批判的なスタンスをとっていると思うのだが、「身体の写真化」に対しても批判的な見方をしているのか。
-「身体の写真化」あるいは「身体の機械化」に関しては、そう単純ではないと思う。かつてのヒューマニズムのように批判するわけにはいかない。「写真化あるいは機械化された身体が何をなしえるか、まだ誰も知らない」のだから(笑)。おそらく、この問題は「ポストフォトグラフィ」の話になるだろう。
-「ポストフォトグラフィ」か。それはデジタル化以後の写真ということなのか。
-おっしゃるとおりだ。
-先ほどあなたがおっしゃったように、先を急がず、堂々巡りを恐れず、反復を避けることなく、もう一度「写真の区別のされ方」にこだわってみようではないか。とりあえず、「モダニズム写真」「ポストモダニズム写真」「ポストフォトグラフィ」と大きな時代区分のタームが出揃ったのだから。それぞれの区別のされ方をもう一度考えてみようではないか。「モダニズム写真」、「ポストモダニズム写真」は何故に何から何をどのような方法で区別しようとしたのか。「ポストフォトグラフィ」は何故に何から何をどのような方法で区別しようとしているのかと。
-私を区別してくれ、愛する人よ。他の多くの人から私だけを区別してくれ、愛する人よ。そもそも「区別するとはどういうことか。愛されるために区別されることか。
-愛することはすでにして区別することではないのか。
-ジャン=リュック・ナンシーはその著『イメージの奥底で』のなかで、分離されたもの、距離をおかれたもの、切り取られたものは、聖なるものだと語っている。そしてイメージとは聖なるものであると。
-あなたはこれから語る「区別」について、ジャン=リュック・ナンシーが言う「区別するの力としてのイメージ」と重ねて「区別」という概念を考察してみようというわけか。
-表象(re-presentation)、表現(expression)、抽象(abstraction)等々とからませながら。これらの語句はすべて区別・分離に関わっている。肖像画(por-trait)、特徴線(trait)、ある意味では接頭語de(分離して)との関連においてデザイン(de-sign)もまた。もちろんここで、ナンシーについて語りたいわけでも、イメージについて論じるつもりもない。19世紀に登場した写真というイメージを区別してみたいのだ。
-写真というイメージを何から区別しようというのか。
-もちろん言うまでもなくまずは絵画的イメージからだろう。それがまた「モダニズム写真」が区別しようとしたことそのものではないのか。
-絵画的イメージと写真的イメージの区別ということか。
-初期写真において当然ながら写真的イメージは、初期の肖像写真のなかにその典型性が現れているように絵画を模倣するだろう。ベルグソンを引いてドゥルーズが言うように、新しいものはつねにそれ以前のものを模倣せざるを得ない、あるいは関連づけて自らの固有性を表にするほかはない。マクルーハンも言っていた、映画が演劇を模倣し、テレビが映画を模倣するように、新しいメディアはつねに古いメディアを模倣すると。新しいものがその固有性において力を発揮するのは、ある種の展開(時間の流れ)が必要なのだ。しかも初期の写真は技術的にも固定された不動の視点から被写体をとらえたものだ。被写体もまた不動であることを強いられた。絵画的イメージを模倣するのは当然の帰結だろう。したがって、「モダニズム写真」の第一の使命は、いかにして絵画的イメージから離れるかに求められることになるだろう。「近代写真の父」と言われるスティーグリッツが求めたことは誰もが周知のことだ。スティーグリッツは絵画的イメージから写真的イメージを引き離す(区別する)ことで「写真としての芸術」を求めたわけだ。「芸術としての写真」から「写真としての芸術」へと。
-「芸術」と「写真」の位置が倒置されることによって、何が起こっているのか。
-この言葉を使う人たちは、「芸術」と「写真」の位置・順番を倒置することによって、「芸術」という概念の変化を表しているとともに、写真的イメージこそが新たな芸術の中心となることを暗に主張しているだろう。
-しかし、初期写真の肖像写真を単に肖像画の模倣ととらえるだけではあまりにも狭すぎないか。
-もちろん、おっしゃるとおりだ。初期写真の肖像写真がその表象システムにおいて肖像画を模倣していたにしろ、肖像写真を見る多くの人たちはそこにただならぬ恐怖を感じてもいただろう。亡霊としての死者たちの存在を。後にバルトが指摘することになるように、ここには「時間の過剰な露出」という、明らかにわれわれの時間意識を変える秘密がひそんでいる。おそらく「ポストモダニズム写真」はこの点も問題にしていくだろう。
-ということは、逆に「モダニズム写真」は「写真としての芸術」を求めるあまり、写真本来の機能を取り逃がしてしまったということか。
-そこが問題なのだ。もう少し、「モダニズム写真」の「区別」にこだわってみようではないか。「写真としての芸術」を求めた「モダニズム写真」が写真に見出したのは、一言で言えば、その知覚の過剰さであろう。切断された瞬間を引き伸ばすことであらわになるディテールの過剰さ。切断された瞬間-静止画の拡大によってもたらされた物質的な相。こうした物質的な次元の現前は、被写体が人物であれ、物であれ、風景であれ、絵画的イメージによるもたされる再現描写とは異なるものだろう。絵画的イメージがイデア的総合による再現描写だとすれば、写真的イメージはイデア的な理解(事物の把握)を逸脱する。
-ベンヤミンが視覚的無意識といったり、スペクトル外の知覚と言ったことか。
-ただここで、一つの混乱が生じていることも確かだろう。というのも、西洋絵画はルネサンス絵画以来、いわゆる遠近法に見られるように、自然的知覚に近づこうとしてきたことだ(もちろん言うまでもなく、遠近法もまた一つの抽象化された知覚にすぎないわけだが)。そして写真はそのルネサンス絵画をルーツとし、ルネサンス絵画が追求した自然的知覚をさらに進化させたものととらえられてしまう。自然的知覚、絵画(ルネサンス絵画)的知覚、写真的知覚という、三つの知覚の絡み合い。つまり、写真的知覚を自然的知覚の延長ととらえる見方と、絵画的知覚及び自然的知覚と断絶した知覚ととらえる見方だ。
-「モダニズム写真」は言うまでもなく、後者の立場をとったわけだ。
-非常に乱暴な言い方をすれば、社会一般での写真の使い方は前者の見方に基づくものだ。「モダニズム写真」は「写真としての芸術」を求めたわけだから、当然、一般の写真との区別を志向するだろう。実はここに「モダニズム写真」をめぐるもう一つの混乱が生じることになるだろう。いわゆる「記録と表現」と言うアポリアであり、「写真のリアリズム」をめぐる混乱だ。
-確かに、記録としての写真も、写真としての芸術を求めた「モダニズム写真」のように、写真の写真的使用を求めた結果ではあるだろう。絵画的イメージとは異なる写真的イメージを追求したということで。しかし、当然ながら、この二つの写真的イメージは異なるものではないか。
-「写真としての芸術」が求めた写真的イメージが知覚の過剰さという現前性にあるとすれば、記録としての写真は記憶を補完するものとしての視覚的資料であり、事後的に見出された客観性(証拠)である。つまり、ある一枚の写真が記録的価値を持つとすれば、それはある出来事の総体(閉じられた全体)から事後的に見出されたものだ。出来事の総体性を前提にすることで、一枚の写真が記録的価値を持つことになる。つまり、記録的写真とは追認であり、再認にすぎないということだ。
-しかし、一枚の写真が記憶を修正するということもあるだろう。
-確かに、記憶の修正はありえるかもしれない。修正というのはやはり、基本的に記憶(あらかじめの経験の経験)が前提されているわけで、その前提自体の枠組みを崩すわけではない。
-現前性と記録性(あるいは記憶性)。あなたは大きな枠組みとしての近代写真における写真的使用法(絵画的イメージとは区別された)を現前性と記録性に分割するわけだ。あなたがおっしゃる「写真としての芸術」を求めた写真はストレートフォトを典型とするアメリカ派の写真に言えるとしても、ヨーロッパ系の写真、たとえば、主観主義的写真はまた別な系譜に位置づけられるのはないか。
-アメリカ派が写真における現前性(知覚)の引き伸ばしに着目したとすれば、たとえば、ドイツ系の写真は、モホリ=ナギにその典型が現れているように、光を造型的な視点からとらえることで、美術化していった気がする。
-美術化?
-光によってもたらされる造型性、あるいはアングルによる構図やパースペクティブ、その使用法は絵画のカテゴリーから逸脱することはない。いわば写真におけるフォトジェニックな領域を絵画的カテゴリーでなぞり直す。
-フォトジェニックな領域でのさまざまな試みは、ある物の存在様態をその光の効果によって、変質させる、あるいは裸眼とは異なる位相から照射するということにならないのか。
-確かに、そうした側面はあると思うが、われわれの結論から言えば、写真の写真的使用というよりも、やはり美学的(絵画的)使用ということになる気がするのだが…。
-写真による新たな美的体制の構築ということか。バルト流に言えば、「写真の狂気」を回避するための美的(芸術的)使用ということか。