Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

現代アートにおける写真の論理

2007年09月11日 | Weblog
60年代の「美術のなかにおける写真」

1960年代以降、ポップアートやコンセプチュアルアートを始めとして、美術の分野で写真がさまざまな形で活用されるようになります。現在の多様化した写真の状況は、60年代以降に写真に起こったことと決して無関係ではないし、連続した状況にあると考えられます。また、60年代以降の美術側による「写真の使用法」を考察することは、写真を再考する上できわめて重要な問題点を提起してくれるはずです。

今回は60年代以降、なぜ、現代アートは写真を使うようになったのか、その際、アーティストたちは写真に対してどのような目を向けたのか、写真のどこに着目したのか、その使用法、論理とはどのようなものであったのか。以上のようなことを考察していきたいと思います。まずは、60年代以降における「美術のなかの写真」を、ポップアートやコンセプチュアルアート、さらには個々のアーティストにおける使用法には拘泥せずに、大きな視点からとらえてみたいと思います。

なぜ、写真に着目したのか?

第一の背景に挙げられるのは、モダニズム美術に対する反発と懐疑です。周知のように、当時のモダニズム美術は、その中心的な理論家であるクレメント・グリーンバーグのフォーマリズム批評の影響下で、きわめて厳格に規範化・制度化(アカデミズム化)されていきます(ここで簡単に、グリーンバーグのモダニズム理論をおさらいしておけば、絵画なら絵画の媒体-メディウムの本質を追求する中で、美あるいは質の水準を維持していくということでした。絵画という媒体にとって本質的でないものを除去し、絵画の純粋性を追求すること。そしてグリーンバーグは、絵画の本質的なメディウム性として「平面性」と「矩形性」を見出すわけです。しかし、グリーンバーグのモダニズム理論は、19世紀の中頃、大芸術が歴史上はじめて娯楽へと同化されるなかで、その下落の運命から逃れる方法として生まれたものだという認識を忘れてはなりません)。

モダニズム理論の当然の帰結として、モダニズム美術は現実の社会から遊離し、自閉していきます(モダニズム理論をさらに徹底していったのが、同じ60年代に登場してくる「ミニマリズム」と言えるかもしれません)。そうした美術の状況の中で、60年代のアーティストたちは、「アートと日常の関係」を模索し始めたと思われます。そのために着目されたのが「写真」だったと思われます。なぜなら「写真」はきわめて日常的なものとして流通していたからです。「写真」が持つ「通俗性」を利用することで、モダニズム美術を支えていた諸条件を破壊しようとしたと言えます。
ここで重要なことは、彼らが着目した「写真」が、いわゆる芸術写真(=モダニズム写真)と言われるものではなく、他の社会的文脈(司法、医学、家族写真、広告等々)で使われている「写真」だということです。モダニズム写真もまた、モダニズム美術にならい、フォーカスやディテール、フレーミング、パースペクティブ、シャッター速度、トーンといった、いわば写真を写真たらしめているメディウム性を追求していきました(例えば、写真のフォーマリズム批評の代表的な存在ともいえるシャーカフスキーは、写真を「モノそれ自体」「ディテール」「フレーム」「時間」「視点」という5つの分類から論じています)。確かに、こうしたモダニズム理論は、写真表現の質を高めたことは事実ですが、その一方で、「銀塩美学」とも呼べる画一化された価値感を形成してしまったことも確かです。

モダニズム写真が「美術史を背景とした写真」だとすれば、60年代のアーティストが着目した「写真」は、「社会史を背景とした写真」と言えるでしょう。もちろん、モダニズム写真もまた、モダニズム美術と同様に、一般に流布した「写真」を峻別・拒否することで、「芸術としての写真」を追求しようとしたことは確かです。ここで重要な問題となるのが、果たして「写真」は「絵画(または彫刻)」のような自律したメディアなのかどうか。「写真」が持つメディウムの特性はむしろ複数性(複製性とも密接に関係してきますが)にあるのではないかと言うことです。これはまさに、ベンヤミンが『写真小史』や『複製技術時代の芸術作品』のなかで考察したことでもあります。そしてもう一つが、「社会史を背景とした写真」の論理とはいかなるものか。モダニズム写真が排除してきた「写真の論理」のなかに、果たして写真表現の新たな地平が見出しえるかどうか、という問題になると思います。最近のヴァナキュラー写真〈特定の地域や日常生活に結びついた形で生み出された写真〉への関心もまた、「美術史を背景とした写真」とは別な文脈で使われる写真への関心と考えられます。

メディア(文化)批判としての写真の活用

60年代における写真の活用の背景として、まず「モダニズム美術への反発と懐疑」を挙げました。私見ですが、ポップアート、とりわけアンディ・ウォホールにおける、スキャンダラスな写真の使用法は、きわめてこの側面(モダニズムへの反発)が強いと思われます。コンセプチュアルアートは、モダニズムへの懐疑という側面から、モダニズム美術が排除してきた「再現性」「記述性」「記録性」を「写真」というメディウムに着目したと思われます。ポップアートとコンセプチュアルアートにおける「写真の使用法」に関しましては、後日、詳しく取り上げる予定です。

そして、60年代のアーティストたちが「写真」に着目していった、もう一つの背景と理由が、メディア批判としての写真の活用です。とりわけ60年代後半において、その傾向が顕著になると思われます。まず、その背景として挙げられるのが、マスメディアの台頭(テレビ文化の台頭)、写真というイメージの日常化(それはとりもなおさず、芸術写真の衰退でもあります)、イメージの飽和化(スペクタクル社会のファンタスマゴリア性)等々です。これはつまり、写真というイメージを美的対象でも、歴史的対象でもなく、メディア批判のための理論的な対象としたということです。

写真というイメージによる記憶とアーカイブ化の問題、イメージと被写体(ある/見る)との問題、イメージとテクストの問題、イメージの商品化(ジェンダー、あるいは見る/見られる関係)の問題、都市とメディアの問題、イメージと風景の問題等々、写真というイメージを通して、きわめて多様な問題群が浮上してきたということです。これもまた、写真の複数メデイァとしての特徴を表わしていると思われます。

上記したような状況を、とりあえず、写真における「モダニズムとポストモダニズム」の分岐点と考えたいと思います。もちろんこれは、暫定的な見方にすぎません。「モダニズム美術への反発と懐疑」「メディア批判としての写真の活用」。ここではこの二つを取り挙げましたが、60年代以降の「美術のなかの写真」にどんな側面が内在しているのか、この論点は今後とも考察する価値があると思われます。

アメリカの美術批評家ロザリンド・クラウスは、こうした60年代の「写真と美術の収斂」を、1920年代の「写真と美術の収斂」の再開ととらえています。次回は、1920年代における「シュールリアリズムとデュシャンにおける写真の使用法」を考察していきたいと思います。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。