以下はある講義原稿の一部です。非常にラフに書かれていますが、ご興味・ご関心ある方はご一読ください。
■イメージ・表現・写真
「イメージ・表現・写真」についてお話をしたいと思います。イメージとは何か、イメージはどんな機能を持っているのか、私たち人類にとってイメージの役割とは何か。そして表現とは何か。イメージと表現の関係とはどのようなものか。さまざまなイメージが存在するなかで、写真というイメージにはどのような機能があり、写真以前のイメージとは異なるどのような論理が潜んでいるのか。さらに写真による表現とはどういうものか。イメージがデジタル化されるなかで写真というイメージは、デジタル以前とどのような違いが起こってくるのか。おおよそ、そのようなことについてお話をしていきたいと思います。
●イメージとは何か?
イメージとは何でしょうか?一言でイメージといいましても、非常に広い範囲のものを指しています。日本語においても、心のなかに浮かぶ像や想像的な対象-「心像」、思考的な対象-「表象像」をイメージと言いますし、具体的なさまざまな画像もイメージと呼びます。さらに音響的イメージ、言語的イメージというのもあります。イメージについては、古代ギリシア時代以来、さまざまな学問がその分析を行ってきましたし、現在も行われています。哲学的、認識論的、知覚論的、記号論的、文化人類学的、精神分析学的、社会学的、メディア論的……。それだけ、私たち人類にとってイメージがもつ役割の重要性を物語っていると言えるでしょう。したがいまして、ここではイメージの全容を解明することも、明確な定義をすることもできませんし、その力量もありません。本講義ではイメージについてのいくつかのテーゼを指摘することにとどめ、さらに皆さんがイメージについて考察するきっかけになればと思います。
第一のテーゼ-「イメージとは対象の分身である」
まず私たちがイメージと言う場合、「これは……のイメージだ」、「……からこんなイメージを思い浮かべる」とか、つねにイメージはイメージとは別の存在-「……」を想定しています。「これはリンゴのイメージだ」「これは愛のイメージだ」等々、具体的な物や人物、場所などを指し示す場合もあれば、感覚的な印象、観念的・抽象的・想像的な対象を指し示めす場合もあります。いずれにしても、私たちがイメージという場合、もう一つの対象を想定しているということです。
イメージとは想定された対象の「分身」としてある、あるいは対象から分離・区別されたものとしてある。いわば「亡霊(スペクトル)」のようなものといっていいかもしれません。「鏡と性交は人間の数を増やすがゆえに忌まわしいものだ」と言ったのはボルヘスというアルゼンチンの作家ですが、いずれにしてもイメージは1(対象)が2(分身)に分割されたものとしてあるということです。ですから、西洋絵画では鏡をモチーフにした絵が数多く描かれてきました。いわばイメージという機能の増殖性がもたらす不思議さ、あるいはボルヘスが言うような忌まわしさに多くの画家が魅せられたということかもしれません。
古代ギリシアではイメージをある対象の似姿(似像)を与えてくれる「絵」のようなものととらえられていました。想像や想起(記憶)など心で描く心像も、心の眼で見る「似姿」というわけです。哲学者のプラトンは、かのソクラテスを主人公に多くの対話集を書いた人ですが、「イメージはイデア(真実の存在、本質、形相)の感覚的な似姿にすぎない」として蔑みました。実際、当時、プラトンは画家を最も低い存在とみなしていました。といいましても、プラトンはイメージの存在を否定したわけではありません。言ってみれば、イメージのヒエラルキー(価値の順番)とも呼ぶべきものを構築したのです(紀元前4世紀頃に書かれた、プラトン晩年の作『国家』を参照)。まず最上位にイデアがあります。イデアとはつねに変わることのないもの、無時間的なもの、普遍的なもの、いわゆる本質(観念)と呼ばれるものです。次にイデアに基づく似姿であるコピーがあります。たとえば、家具職人が椅子を製作します。この場合、椅子というイデアに基づいて椅子を作り出す。この椅子がコピーというわけです。画家はこの椅子のコピーをさらに視覚的なイメージとして作り出す。つまりコピーのコピーが視覚的イメージであるというわけです。プラトンはこれを「模造(シミュラークル)」と呼びました。したがいまして、イメージ(絵)は、コピー(家具)のコピーであり、イデアから最も遠のいたイメージ(模造)として蔑まれたわけです。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、このプラトンのイデアをめぐるヒエラルキーを、父・娘・求婚者たちになぞらえています。父とはイデアのことです。娘とは父のイデアを分有するもの-コピーです。求婚者たちとは、我こそが娘に相応しい婚約者、つまり父(イデア)に相応しいイメージ(似姿)を持った者だと、主張する者たちというわけです。当時、シミュラークルを弄する輩がソフィスト(私設教師)と呼ばれる存在で、プラトンは彼らを論敵にしていました。ここではイデアとは何かといった哲学的な話には入ることはしませんが、プラトンのイデアはイメージの序列をめぐっての争い、競技(アゴーン)、あるいは基準づくりであったということです。
イメージに対する蔑み、劣ったものという見方、考えは、現在でも私たちが共有するものです。「そんなものはイメージにすぎない」「イメージではなく本質を」「イメージではなく現実を見なければ」等々。こうした言説には、イメージは本質や実体、現実から分離された表層的なものという観念が込められています。私たちはギリシアのプラトン以来、それほど変わっていないというか、むしろプラトンの考え方に束縛されているというべきか。しかし実は、イメージにあってはこの分離・区別こそが重要な機能を担っているのではないでしょうか。これについては「表現」についてお話をする際に述べたいと思います。
第二のテーゼ-「イメージとは不在のものである」
イメージの一つ目のテーゼとして、「イメージとは分身である」と指摘しました。ある対象の「分身」としてのイメージ。フッサールの現象学では、この「分身」を「志向性」とも呼んでいます。つまり、「意識(心的イメージ)とはある何ものか(対象)の意識である」ということです。しかし、分身、亡霊としてのイメージのオリジナルとも言うべき、この何ものか、対象とは、私たちがイメージを目の前に(心に)している場合、「不在」のものです。イメージが現前している場合、あるいはイメージを見ている場合、その何ものか(対象)は知覚できない、見ることができない「不可視」のものということです。ここでイメージの第二のテーゼとして、「イメージとは“不在のもの”である」ということが言えます。今、別れたばかりの愛する人を、あるいは友人を思い浮かべたり、思い出したり、写真で見たりする場合、今、目の前に愛する人、友人はいません。私たちがイメージと対峙している時、何ものか(対象)はつねに「不在」なのです。
ここでちょっとイメージがなぜ生まれたのか、文化人類学的な視点からのものと、精神分析学的な視点からのもの、二つをご紹介したいと思います。といっても二つとも、とても特異な解釈です。この二つのアプローチとも、いわゆる正統な解釈とは言えないかもしれません。しかし、絶対、真実な解釈というものはあるのでしょうか。誰も知りえません。それこそ、原始人その人に尋ねても解決できるとは思えません。問題なのは何が正しいかではありません。その答え、真理とは、誰にとっての真理かを見極めることです。真理とは何かではなく、誰にとっての真理か、誰のための心理か。つまり真理の動機を探り、その正当性を判断することです。
文化人類学的アプローチ-ジョルジュ・バタイユ
一つはフランスの20世紀を代表する作家・思想家、ジョルジュ・バタイユ(『ラスコーの壁画』参照)という人が述べていることです。文化人類学ではしばしば、人類が道具をもったことを、動物や類人猿から人類を分かつメルクマールとしています。いわゆる、ホモ・ファーベル(作るヒト)が「人類の誕生」というわけです。キューブリックという映画監督の『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク原作)という映画には、その冒頭に類人猿が骨をもち、それを振り上げ、骨が道具になるシーンが描かれています。しかし、人類以外にも道具を使う動物はよく知られています。チンパンジーはその代表でしょう。それでも道具をもったことには、大きな意味があることは確かです。
道具とは何でしょうか。まず道具とはヒトの身体的能力の延長と考えられます。手が発揮する力の延長、筋肉の運動の延長。その意味で道具は身体と密接(直接的)な関係を有しています。いわば身体的能力を代替・代理したものと考えられます。その意味で道具もまたイメージのようなものととらえることも可能かもしれません(道具、機械、電子機械をイメージ論的に考察してみることも一計かもしれません)。
ところで、道具を持つことで人類にどのような変化が起こったのか。道具を使うことは、未来における生産物(制作物)-いまだ存在しないものを想定することにほかなりません。つまりホモ・ファーベル(作るヒト)とは、現在時において、未来に分岐する時間を獲得したヒトと言えます。しかし、ジョルジュ・バタイユは、その著『ラスコーの壁画』の中で、ホモ・ファーベルはいまだ十分にホモ・サピエンス(知恵のヒト-現在の人類の祖先)ではないと言っています。つまりわれわれ人類と同類ではないと。バタイユは「芸術(洞窟壁画)」を有したことをもって、われわれと同類の人類の誕生とみなしています。どうしてでしょうか。
バタイユによれば、ヒトはいまだ存在しないものを想定する未来の時間を獲得したことで、すでに存在したものの喪失に思いが至ったと言っています。現在時が過去に分岐する時間。かつて在ったものがいまはない。喪失への恐怖(虚無感)と畏敬。この喪失への恐怖・畏敬が、死者の代替・代理物(イメージ)としての埋葬や墓を生み出すことになります。バタイユは、この恐怖感は極度に「未来の時間=作ること=生産的時間」を脅かし、破壊するものであったと考えています。したがって、埋葬や墓(死者の記号)は聖なるものと同時に、禁止されるべきもの、触れてはならないもの(汚辱、穢れたもの)と見なされていきます(この禁止されるべきものには、死とともに性の問題もからんできます。性行為が種の保存、生殖性にあるとすれば、人間の性には快楽というものがつきまといます。生殖=生産に反する快楽。ここでは性に関しては詳述しませんが、芸術と性の問題にも大きな関わりがあると思われます)。そして、禁止されるべきもの、触れてはならないものに接近し、「未来の時間」を侵犯する時間として生み出されたのが、いわば死への恐怖を緩和するものとしての遊びの時間=芸術(供犠、祝祭など)であると、バタイユは言っています。この聖なるもの、禁止されるべきもの、触れてはならないもの、この一連の語彙には、第一テーゼの分離や区別との関係してくる事柄です。
ホモ・ファーベルに対立するものとしてのホモ・ルーベンス(遊ぶヒト)。その意味で、遊び=芸術の時間とは、過去と未来の時間を中断し、宙尻りにする時間、識別不可能にする時間とも言えるかもしれません。したがって、バタイユにとって、芸術=遊ぶ時間は有用なものを作り出すという「未来の時間」を脅かすという意味合いも持っていることになります。生産物を無に付す蕩尽の時間でもあるわけです。たとえば、お祭りというのは、日常的な秩序を転倒させ、それまでの蓄積物を消費する時間もありますね。このことは現在に伝わる多くの祭りに見られる現象です。
こうした人類学的なアプローチが、言葉あるいはイメージの誕生とどのような関係があるのか分かりませんが、一つだけ確かなことは「不在の意識」が誕生したということです。「不在」を存在させること、不在のイメージ化、記号化。数学におけるゼロ記号の誕生のようなものです(数学におけるゼロの役割等々)。未来(生産)としての不在と過去(喪失)としての不在。
精神分析学的アプローチ-ジャック・ラカン
そしてもう一つ、精神分析学的なアプローチ。精神分析学者ジャック・ラカンの教えるところによれば、乳児は母親との関係のなかで、いわゆるミラーステージ(鏡像段階-誕生から3歳頃まで)を経て、象徴界(言葉の世界)に入っていく、つまり言葉を獲得していくとされています。言葉を獲得する以前の乳児とはどのような存在なのでしょうか。人間は他の動物と違い、未成熟な状態で生まれてくると言われています。たとえば、馬などは生まれてすぐ立ち上がる姿をご覧になった方もいると思います。ところが乳児は誰かの助けに全的に依存しなければ生存も危ぶまれる存在です。寄る辺のない存在-乳児にとって母親という存在(あるいはそれに準じた存在)はきわめて重要になるわけです。全面的に母親に依存する存在、乳児。と同時に、この段階の乳児は自らのさまざまな器官(口、排泄器官等々)を通して生きています。母親に依存しながら、いわば寸断された身体(感覚)として、自己という統一化された人格を持たずに生きているわけです。
やがて乳児は鏡に映った自らの身体を通して、分断された自らの身体を統一し、主体(自己)を形成していくことになります。つまり、ミラーステージ(鏡像段階)とは、鏡の像(イメージ)を通して自己を形成していくということです。しかし、鏡の像とは現実そのものではありません。いわば想像的な像にほかなりません。ラカンはこうしたミラーステージを想像界とも呼んでいます。乳児の主体(人格)が形成される途上において、母親はその生存権を握る、きわめて重要な存在です。とりわけ、乳児の口と母親の乳房は、独特な関係をもっています。乳児にとって母親の乳房は、生存のために不可欠な存在であるとともに、そこには乳房への従属とある種の快楽が生まれます。その際の乳児の快楽は、触覚的なものであることは注目していいかもしれません。精神分析学では、それを口唇性とか、触覚的ナルシシズムと呼んでいます。が、乳児は徐々に、母親の乳房から引き離されていきます。口と乳房に距離が生じるとともに、乳児は見ること=言葉を獲得することになります。触覚から視覚へ。それはまた、見ることを通しての言葉の獲得でもあります。ここに、視覚情報と言葉は不可分の関係があると言えるかもしれません。いわゆる俗に言う、乳離れといわれるものです。鏡に写った自らの像を通して、統一された主体(人格)を形成するとともに、全的に依存していた母親の「不在」=恐怖を言葉とイメージ(視覚情報)を獲得することによって納得していくということです。「いない、いない、ばー」という幼児のゲームがありますが、これは母親の不在を記号化(象徴化)することで、その不在の恐怖をイメージ(言葉)によって回避していく行為と言えるかもしれません。
見ること。それはまさに、母の乳房に触れることを禁止されることでもあるわけです。ここに、幻想としてのイメージが生まれます。イメージとはまさに、不可触な存在(乳房)の代償・代補であるとともに、その不可能性を自覚しつつ、不断に魅惑され続ける幻想でもあるわけです。ここにもバタイユに話しのなかで触れた性(セクシュアリティ)の問題が関わってくることがお分かりでしょう。さらに詳しいことを知りたい方は、ぜひ、それぞれの著作をあたってみてください。これらのイメージの「不在」をめぐるさまざまなドラマ。ここにこそ、ある意味、イメージの謎があると言えるかもしれません。
第三のテーゼ-「イメージとは不可視のものである」
第一のテーゼ「イメージは“分身”である」、第二のテーゼ「イメージとは“不在のもの”である」。この二つのテーゼから、もう一つのテーゼが必然的に派生してきます。「イメージとは不可視のものである」という、イメージを見ることの不可能性です。私たちはイメージ自体を見ることはできない、あるいは困難である。私たちがイメージを見る場合、イメージそのものを見ることができないということです。え、私たちは明らかにイメージを見ているではないか。確かに、私たちは目の前のイメージ、写真なら写真の、絵画なら絵画の、イラストならイラストのイメージを見ているはずです。しかし、私たちがイメージを見る場合、イメージの向こうにある不在のもの=被写体を見ているのではないでしょうか。あるいは不在の対象に還元してしまう。つまり、イメージそのものを見ているのではなくて、イメージが指し示す被写体(不在の対象)を見ているということです。イメージを見ることの不可能性、困難さ。この第三のテーゼは、とりわけ写真について多くの問題を投げかけると同時に、反対に写真固有の力ともなるもです。この写真を見ることの困難さと力については詳述することにします。
一つの例をもとに、イメージの不可視性について考えてみたいと思います。19世紀美術から20世紀美術、そして現代美術は、ある側面においてイメージを見ることの不可能性をめぐる戦いであったと言えるかもしれません。たとえば、マネの絵画を見てみましょう。マネ以前のルネサンス絵画は、イメージを指し示す世界が自律して見られることを意図していました。それはイメージとして描かれた世界が透明な窓を通して見られた世界ということです。つまり、絵画であることを忘却させることです。遠近法や光の扱い方、タッチの問題など、ルネサンス絵画が目指していたのは、絵画がキャンバスに描かれたものであること、絵の具によって描かれたものであること等々、さまざまな物質的な存在を隠蔽・偽装し、絵画が置かれた現実の空間を排除し、イメージ世界(表象された世界)そのものものを出現させることを追求しました。
マネの絵画はこうしたルネサンス絵画に徹底的に逆らっています。まずマネの絵画を一目見れば、誰でもそこにある種の息苦しさを感じます。この息苦しさはどこからくるのでしょうか。それは遠近法の回避です。マネはつねに背景に壁のようなものを描くことで、遠近法をを回避し、閉じられた空間を描いています。さらに、マネの絵画はあたかもキャンバスの縦横をあらわにするかのように、垂直と水平の線で構成されています。マネの絵画を見る私たちは否が応でも、キャンバスの縦横を意識するようになります(後の画家、セザンヌにも同様な傾向が見られます。キャンバスという矩形性の露出)。そしてもう一つ、光の扱い方があります。ルネサンス絵画では光源がどこにあり、事物をどう照らしているかが歴然としています。光の秩序を完璧なままに表現したとされる、カラバッチョの絵画を見ると、その意図がよく分かります。ルネサンス絵画の光は、イメージの中にあり、イメージの世界の中で自律しています。ところが、マネの絵画における光は、とても奇妙です。マネの絵画における光は、イメージの内部にあるのではなく、現実の空間にあることを示唆しています。いわばマネの絵画は絵画の裏地を露呈させるかのような絵画です。
以上のことを要約すれば、マネの絵画は、イメージが成立する条件となる現実的、物質的なものをあらわにしたということです。いわばマネの絵画は「オブジェ(物)としての絵画」ともいえる絵画なのです。つまり、イメージが成立する物質的な条件をあらわにすることで、ルネサンス絵画の「イメージの自律性」を覆したわけです。しかしここで一つの疑問・難問に突き当たります。「オブジェ(物)としての絵画」-確かに絵画はさまざまな物質的諸条件によって構成されている。しかし、絵画(イメージ)をさまざまな物質的諸条件(物)に還元してしまっては、絵画を見ることはできないでしょう。やはり私たちが見ているのはキャンバスの布地ではないし、絵の具ではない。イメージとは物そのもの、物質ではない。つまり、絵画(イメージ)を見るとは、さまざまな物質的諸条件によってもたらされた効果を見ているということです。しかもその効果は被写体を通して見ているのです。効果そのものを実体化することはできません。効果とはいわば霧や靄、いや空気のようなものです。したがって、私たちはイメージそのものを見ることはできない、被写体を介在することにおいてしかイメージを見ることができないということです。その結果、効果があたかも被写体そのものであるかのように思わせてしまう危険性もあるわけです(これは写真というイメージに関して、とりわけ重要な問題となっていくでしょう)。イメージのパラドックス。
マネの絵画(あるいは近代絵画)は、単にルネサンス以来の絵画の幻想性(イリュージョン)を告発したのみならず、イメージの仕組みをあらわにしたのです。フランスの哲学者フーコーは、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに(つまり、見えるものに見えない本質を見えるようにすることではなく)、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ(見えるものに見えない本質が何故に見えないのか、どれほど見えないのか、その仕組みを見えるようにすること)」と語っています。つまり、イメージを問うことは被写体(イメージの対象)と物質的諸条件(効果)の関係を問うということでもあるです。現代美術のある一部はまさに、この課題を背負っていくことになります。
イメージをめぐる三つのテーゼ、①「イメージとは分身である」②「イメージとは不在のものである」③「イメージとは不可視のものである」。イメージの機能をひじょうにラフなまとめ方をすれば、①分離・区別する力、②生成・現前する力、③露呈(アレーテイア)する力、という三つの力を指摘することができるのではないでしょうか。この三つのテーゼ、三つの力(機能)は、表現という次元においてどのような機能を発揮することになるのか。それが次なる課題です。
(番外編・2に続く)
■イメージ・表現・写真
「イメージ・表現・写真」についてお話をしたいと思います。イメージとは何か、イメージはどんな機能を持っているのか、私たち人類にとってイメージの役割とは何か。そして表現とは何か。イメージと表現の関係とはどのようなものか。さまざまなイメージが存在するなかで、写真というイメージにはどのような機能があり、写真以前のイメージとは異なるどのような論理が潜んでいるのか。さらに写真による表現とはどういうものか。イメージがデジタル化されるなかで写真というイメージは、デジタル以前とどのような違いが起こってくるのか。おおよそ、そのようなことについてお話をしていきたいと思います。
●イメージとは何か?
イメージとは何でしょうか?一言でイメージといいましても、非常に広い範囲のものを指しています。日本語においても、心のなかに浮かぶ像や想像的な対象-「心像」、思考的な対象-「表象像」をイメージと言いますし、具体的なさまざまな画像もイメージと呼びます。さらに音響的イメージ、言語的イメージというのもあります。イメージについては、古代ギリシア時代以来、さまざまな学問がその分析を行ってきましたし、現在も行われています。哲学的、認識論的、知覚論的、記号論的、文化人類学的、精神分析学的、社会学的、メディア論的……。それだけ、私たち人類にとってイメージがもつ役割の重要性を物語っていると言えるでしょう。したがいまして、ここではイメージの全容を解明することも、明確な定義をすることもできませんし、その力量もありません。本講義ではイメージについてのいくつかのテーゼを指摘することにとどめ、さらに皆さんがイメージについて考察するきっかけになればと思います。
第一のテーゼ-「イメージとは対象の分身である」
まず私たちがイメージと言う場合、「これは……のイメージだ」、「……からこんなイメージを思い浮かべる」とか、つねにイメージはイメージとは別の存在-「……」を想定しています。「これはリンゴのイメージだ」「これは愛のイメージだ」等々、具体的な物や人物、場所などを指し示す場合もあれば、感覚的な印象、観念的・抽象的・想像的な対象を指し示めす場合もあります。いずれにしても、私たちがイメージという場合、もう一つの対象を想定しているということです。
イメージとは想定された対象の「分身」としてある、あるいは対象から分離・区別されたものとしてある。いわば「亡霊(スペクトル)」のようなものといっていいかもしれません。「鏡と性交は人間の数を増やすがゆえに忌まわしいものだ」と言ったのはボルヘスというアルゼンチンの作家ですが、いずれにしてもイメージは1(対象)が2(分身)に分割されたものとしてあるということです。ですから、西洋絵画では鏡をモチーフにした絵が数多く描かれてきました。いわばイメージという機能の増殖性がもたらす不思議さ、あるいはボルヘスが言うような忌まわしさに多くの画家が魅せられたということかもしれません。
古代ギリシアではイメージをある対象の似姿(似像)を与えてくれる「絵」のようなものととらえられていました。想像や想起(記憶)など心で描く心像も、心の眼で見る「似姿」というわけです。哲学者のプラトンは、かのソクラテスを主人公に多くの対話集を書いた人ですが、「イメージはイデア(真実の存在、本質、形相)の感覚的な似姿にすぎない」として蔑みました。実際、当時、プラトンは画家を最も低い存在とみなしていました。といいましても、プラトンはイメージの存在を否定したわけではありません。言ってみれば、イメージのヒエラルキー(価値の順番)とも呼ぶべきものを構築したのです(紀元前4世紀頃に書かれた、プラトン晩年の作『国家』を参照)。まず最上位にイデアがあります。イデアとはつねに変わることのないもの、無時間的なもの、普遍的なもの、いわゆる本質(観念)と呼ばれるものです。次にイデアに基づく似姿であるコピーがあります。たとえば、家具職人が椅子を製作します。この場合、椅子というイデアに基づいて椅子を作り出す。この椅子がコピーというわけです。画家はこの椅子のコピーをさらに視覚的なイメージとして作り出す。つまりコピーのコピーが視覚的イメージであるというわけです。プラトンはこれを「模造(シミュラークル)」と呼びました。したがいまして、イメージ(絵)は、コピー(家具)のコピーであり、イデアから最も遠のいたイメージ(模造)として蔑まれたわけです。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、このプラトンのイデアをめぐるヒエラルキーを、父・娘・求婚者たちになぞらえています。父とはイデアのことです。娘とは父のイデアを分有するもの-コピーです。求婚者たちとは、我こそが娘に相応しい婚約者、つまり父(イデア)に相応しいイメージ(似姿)を持った者だと、主張する者たちというわけです。当時、シミュラークルを弄する輩がソフィスト(私設教師)と呼ばれる存在で、プラトンは彼らを論敵にしていました。ここではイデアとは何かといった哲学的な話には入ることはしませんが、プラトンのイデアはイメージの序列をめぐっての争い、競技(アゴーン)、あるいは基準づくりであったということです。
イメージに対する蔑み、劣ったものという見方、考えは、現在でも私たちが共有するものです。「そんなものはイメージにすぎない」「イメージではなく本質を」「イメージではなく現実を見なければ」等々。こうした言説には、イメージは本質や実体、現実から分離された表層的なものという観念が込められています。私たちはギリシアのプラトン以来、それほど変わっていないというか、むしろプラトンの考え方に束縛されているというべきか。しかし実は、イメージにあってはこの分離・区別こそが重要な機能を担っているのではないでしょうか。これについては「表現」についてお話をする際に述べたいと思います。
第二のテーゼ-「イメージとは不在のものである」
イメージの一つ目のテーゼとして、「イメージとは分身である」と指摘しました。ある対象の「分身」としてのイメージ。フッサールの現象学では、この「分身」を「志向性」とも呼んでいます。つまり、「意識(心的イメージ)とはある何ものか(対象)の意識である」ということです。しかし、分身、亡霊としてのイメージのオリジナルとも言うべき、この何ものか、対象とは、私たちがイメージを目の前に(心に)している場合、「不在」のものです。イメージが現前している場合、あるいはイメージを見ている場合、その何ものか(対象)は知覚できない、見ることができない「不可視」のものということです。ここでイメージの第二のテーゼとして、「イメージとは“不在のもの”である」ということが言えます。今、別れたばかりの愛する人を、あるいは友人を思い浮かべたり、思い出したり、写真で見たりする場合、今、目の前に愛する人、友人はいません。私たちがイメージと対峙している時、何ものか(対象)はつねに「不在」なのです。
ここでちょっとイメージがなぜ生まれたのか、文化人類学的な視点からのものと、精神分析学的な視点からのもの、二つをご紹介したいと思います。といっても二つとも、とても特異な解釈です。この二つのアプローチとも、いわゆる正統な解釈とは言えないかもしれません。しかし、絶対、真実な解釈というものはあるのでしょうか。誰も知りえません。それこそ、原始人その人に尋ねても解決できるとは思えません。問題なのは何が正しいかではありません。その答え、真理とは、誰にとっての真理かを見極めることです。真理とは何かではなく、誰にとっての真理か、誰のための心理か。つまり真理の動機を探り、その正当性を判断することです。
文化人類学的アプローチ-ジョルジュ・バタイユ
一つはフランスの20世紀を代表する作家・思想家、ジョルジュ・バタイユ(『ラスコーの壁画』参照)という人が述べていることです。文化人類学ではしばしば、人類が道具をもったことを、動物や類人猿から人類を分かつメルクマールとしています。いわゆる、ホモ・ファーベル(作るヒト)が「人類の誕生」というわけです。キューブリックという映画監督の『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク原作)という映画には、その冒頭に類人猿が骨をもち、それを振り上げ、骨が道具になるシーンが描かれています。しかし、人類以外にも道具を使う動物はよく知られています。チンパンジーはその代表でしょう。それでも道具をもったことには、大きな意味があることは確かです。
道具とは何でしょうか。まず道具とはヒトの身体的能力の延長と考えられます。手が発揮する力の延長、筋肉の運動の延長。その意味で道具は身体と密接(直接的)な関係を有しています。いわば身体的能力を代替・代理したものと考えられます。その意味で道具もまたイメージのようなものととらえることも可能かもしれません(道具、機械、電子機械をイメージ論的に考察してみることも一計かもしれません)。
ところで、道具を持つことで人類にどのような変化が起こったのか。道具を使うことは、未来における生産物(制作物)-いまだ存在しないものを想定することにほかなりません。つまりホモ・ファーベル(作るヒト)とは、現在時において、未来に分岐する時間を獲得したヒトと言えます。しかし、ジョルジュ・バタイユは、その著『ラスコーの壁画』の中で、ホモ・ファーベルはいまだ十分にホモ・サピエンス(知恵のヒト-現在の人類の祖先)ではないと言っています。つまりわれわれ人類と同類ではないと。バタイユは「芸術(洞窟壁画)」を有したことをもって、われわれと同類の人類の誕生とみなしています。どうしてでしょうか。
バタイユによれば、ヒトはいまだ存在しないものを想定する未来の時間を獲得したことで、すでに存在したものの喪失に思いが至ったと言っています。現在時が過去に分岐する時間。かつて在ったものがいまはない。喪失への恐怖(虚無感)と畏敬。この喪失への恐怖・畏敬が、死者の代替・代理物(イメージ)としての埋葬や墓を生み出すことになります。バタイユは、この恐怖感は極度に「未来の時間=作ること=生産的時間」を脅かし、破壊するものであったと考えています。したがって、埋葬や墓(死者の記号)は聖なるものと同時に、禁止されるべきもの、触れてはならないもの(汚辱、穢れたもの)と見なされていきます(この禁止されるべきものには、死とともに性の問題もからんできます。性行為が種の保存、生殖性にあるとすれば、人間の性には快楽というものがつきまといます。生殖=生産に反する快楽。ここでは性に関しては詳述しませんが、芸術と性の問題にも大きな関わりがあると思われます)。そして、禁止されるべきもの、触れてはならないものに接近し、「未来の時間」を侵犯する時間として生み出されたのが、いわば死への恐怖を緩和するものとしての遊びの時間=芸術(供犠、祝祭など)であると、バタイユは言っています。この聖なるもの、禁止されるべきもの、触れてはならないもの、この一連の語彙には、第一テーゼの分離や区別との関係してくる事柄です。
ホモ・ファーベルに対立するものとしてのホモ・ルーベンス(遊ぶヒト)。その意味で、遊び=芸術の時間とは、過去と未来の時間を中断し、宙尻りにする時間、識別不可能にする時間とも言えるかもしれません。したがって、バタイユにとって、芸術=遊ぶ時間は有用なものを作り出すという「未来の時間」を脅かすという意味合いも持っていることになります。生産物を無に付す蕩尽の時間でもあるわけです。たとえば、お祭りというのは、日常的な秩序を転倒させ、それまでの蓄積物を消費する時間もありますね。このことは現在に伝わる多くの祭りに見られる現象です。
こうした人類学的なアプローチが、言葉あるいはイメージの誕生とどのような関係があるのか分かりませんが、一つだけ確かなことは「不在の意識」が誕生したということです。「不在」を存在させること、不在のイメージ化、記号化。数学におけるゼロ記号の誕生のようなものです(数学におけるゼロの役割等々)。未来(生産)としての不在と過去(喪失)としての不在。
精神分析学的アプローチ-ジャック・ラカン
そしてもう一つ、精神分析学的なアプローチ。精神分析学者ジャック・ラカンの教えるところによれば、乳児は母親との関係のなかで、いわゆるミラーステージ(鏡像段階-誕生から3歳頃まで)を経て、象徴界(言葉の世界)に入っていく、つまり言葉を獲得していくとされています。言葉を獲得する以前の乳児とはどのような存在なのでしょうか。人間は他の動物と違い、未成熟な状態で生まれてくると言われています。たとえば、馬などは生まれてすぐ立ち上がる姿をご覧になった方もいると思います。ところが乳児は誰かの助けに全的に依存しなければ生存も危ぶまれる存在です。寄る辺のない存在-乳児にとって母親という存在(あるいはそれに準じた存在)はきわめて重要になるわけです。全面的に母親に依存する存在、乳児。と同時に、この段階の乳児は自らのさまざまな器官(口、排泄器官等々)を通して生きています。母親に依存しながら、いわば寸断された身体(感覚)として、自己という統一化された人格を持たずに生きているわけです。
やがて乳児は鏡に映った自らの身体を通して、分断された自らの身体を統一し、主体(自己)を形成していくことになります。つまり、ミラーステージ(鏡像段階)とは、鏡の像(イメージ)を通して自己を形成していくということです。しかし、鏡の像とは現実そのものではありません。いわば想像的な像にほかなりません。ラカンはこうしたミラーステージを想像界とも呼んでいます。乳児の主体(人格)が形成される途上において、母親はその生存権を握る、きわめて重要な存在です。とりわけ、乳児の口と母親の乳房は、独特な関係をもっています。乳児にとって母親の乳房は、生存のために不可欠な存在であるとともに、そこには乳房への従属とある種の快楽が生まれます。その際の乳児の快楽は、触覚的なものであることは注目していいかもしれません。精神分析学では、それを口唇性とか、触覚的ナルシシズムと呼んでいます。が、乳児は徐々に、母親の乳房から引き離されていきます。口と乳房に距離が生じるとともに、乳児は見ること=言葉を獲得することになります。触覚から視覚へ。それはまた、見ることを通しての言葉の獲得でもあります。ここに、視覚情報と言葉は不可分の関係があると言えるかもしれません。いわゆる俗に言う、乳離れといわれるものです。鏡に写った自らの像を通して、統一された主体(人格)を形成するとともに、全的に依存していた母親の「不在」=恐怖を言葉とイメージ(視覚情報)を獲得することによって納得していくということです。「いない、いない、ばー」という幼児のゲームがありますが、これは母親の不在を記号化(象徴化)することで、その不在の恐怖をイメージ(言葉)によって回避していく行為と言えるかもしれません。
見ること。それはまさに、母の乳房に触れることを禁止されることでもあるわけです。ここに、幻想としてのイメージが生まれます。イメージとはまさに、不可触な存在(乳房)の代償・代補であるとともに、その不可能性を自覚しつつ、不断に魅惑され続ける幻想でもあるわけです。ここにもバタイユに話しのなかで触れた性(セクシュアリティ)の問題が関わってくることがお分かりでしょう。さらに詳しいことを知りたい方は、ぜひ、それぞれの著作をあたってみてください。これらのイメージの「不在」をめぐるさまざまなドラマ。ここにこそ、ある意味、イメージの謎があると言えるかもしれません。
第三のテーゼ-「イメージとは不可視のものである」
第一のテーゼ「イメージは“分身”である」、第二のテーゼ「イメージとは“不在のもの”である」。この二つのテーゼから、もう一つのテーゼが必然的に派生してきます。「イメージとは不可視のものである」という、イメージを見ることの不可能性です。私たちはイメージ自体を見ることはできない、あるいは困難である。私たちがイメージを見る場合、イメージそのものを見ることができないということです。え、私たちは明らかにイメージを見ているではないか。確かに、私たちは目の前のイメージ、写真なら写真の、絵画なら絵画の、イラストならイラストのイメージを見ているはずです。しかし、私たちがイメージを見る場合、イメージの向こうにある不在のもの=被写体を見ているのではないでしょうか。あるいは不在の対象に還元してしまう。つまり、イメージそのものを見ているのではなくて、イメージが指し示す被写体(不在の対象)を見ているということです。イメージを見ることの不可能性、困難さ。この第三のテーゼは、とりわけ写真について多くの問題を投げかけると同時に、反対に写真固有の力ともなるもです。この写真を見ることの困難さと力については詳述することにします。
一つの例をもとに、イメージの不可視性について考えてみたいと思います。19世紀美術から20世紀美術、そして現代美術は、ある側面においてイメージを見ることの不可能性をめぐる戦いであったと言えるかもしれません。たとえば、マネの絵画を見てみましょう。マネ以前のルネサンス絵画は、イメージを指し示す世界が自律して見られることを意図していました。それはイメージとして描かれた世界が透明な窓を通して見られた世界ということです。つまり、絵画であることを忘却させることです。遠近法や光の扱い方、タッチの問題など、ルネサンス絵画が目指していたのは、絵画がキャンバスに描かれたものであること、絵の具によって描かれたものであること等々、さまざまな物質的な存在を隠蔽・偽装し、絵画が置かれた現実の空間を排除し、イメージ世界(表象された世界)そのものものを出現させることを追求しました。
マネの絵画はこうしたルネサンス絵画に徹底的に逆らっています。まずマネの絵画を一目見れば、誰でもそこにある種の息苦しさを感じます。この息苦しさはどこからくるのでしょうか。それは遠近法の回避です。マネはつねに背景に壁のようなものを描くことで、遠近法をを回避し、閉じられた空間を描いています。さらに、マネの絵画はあたかもキャンバスの縦横をあらわにするかのように、垂直と水平の線で構成されています。マネの絵画を見る私たちは否が応でも、キャンバスの縦横を意識するようになります(後の画家、セザンヌにも同様な傾向が見られます。キャンバスという矩形性の露出)。そしてもう一つ、光の扱い方があります。ルネサンス絵画では光源がどこにあり、事物をどう照らしているかが歴然としています。光の秩序を完璧なままに表現したとされる、カラバッチョの絵画を見ると、その意図がよく分かります。ルネサンス絵画の光は、イメージの中にあり、イメージの世界の中で自律しています。ところが、マネの絵画における光は、とても奇妙です。マネの絵画における光は、イメージの内部にあるのではなく、現実の空間にあることを示唆しています。いわばマネの絵画は絵画の裏地を露呈させるかのような絵画です。
以上のことを要約すれば、マネの絵画は、イメージが成立する条件となる現実的、物質的なものをあらわにしたということです。いわばマネの絵画は「オブジェ(物)としての絵画」ともいえる絵画なのです。つまり、イメージが成立する物質的な条件をあらわにすることで、ルネサンス絵画の「イメージの自律性」を覆したわけです。しかしここで一つの疑問・難問に突き当たります。「オブジェ(物)としての絵画」-確かに絵画はさまざまな物質的諸条件によって構成されている。しかし、絵画(イメージ)をさまざまな物質的諸条件(物)に還元してしまっては、絵画を見ることはできないでしょう。やはり私たちが見ているのはキャンバスの布地ではないし、絵の具ではない。イメージとは物そのもの、物質ではない。つまり、絵画(イメージ)を見るとは、さまざまな物質的諸条件によってもたらされた効果を見ているということです。しかもその効果は被写体を通して見ているのです。効果そのものを実体化することはできません。効果とはいわば霧や靄、いや空気のようなものです。したがって、私たちはイメージそのものを見ることはできない、被写体を介在することにおいてしかイメージを見ることができないということです。その結果、効果があたかも被写体そのものであるかのように思わせてしまう危険性もあるわけです(これは写真というイメージに関して、とりわけ重要な問題となっていくでしょう)。イメージのパラドックス。
マネの絵画(あるいは近代絵画)は、単にルネサンス以来の絵画の幻想性(イリュージョン)を告発したのみならず、イメージの仕組みをあらわにしたのです。フランスの哲学者フーコーは、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに(つまり、見えるものに見えない本質を見えるようにすることではなく)、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ(見えるものに見えない本質が何故に見えないのか、どれほど見えないのか、その仕組みを見えるようにすること)」と語っています。つまり、イメージを問うことは被写体(イメージの対象)と物質的諸条件(効果)の関係を問うということでもあるです。現代美術のある一部はまさに、この課題を背負っていくことになります。
イメージをめぐる三つのテーゼ、①「イメージとは分身である」②「イメージとは不在のものである」③「イメージとは不可視のものである」。イメージの機能をひじょうにラフなまとめ方をすれば、①分離・区別する力、②生成・現前する力、③露呈(アレーテイア)する力、という三つの力を指摘することができるのではないでしょうか。この三つのテーゼ、三つの力(機能)は、表現という次元においてどのような機能を発揮することになるのか。それが次なる課題です。
(番外編・2に続く)