Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

番外編・1

2009年04月26日 | Weblog
以下はある講義原稿の一部です。非常にラフに書かれていますが、ご興味・ご関心ある方はご一読ください。

■イメージ・表現・写真
「イメージ・表現・写真」についてお話をしたいと思います。イメージとは何か、イメージはどんな機能を持っているのか、私たち人類にとってイメージの役割とは何か。そして表現とは何か。イメージと表現の関係とはどのようなものか。さまざまなイメージが存在するなかで、写真というイメージにはどのような機能があり、写真以前のイメージとは異なるどのような論理が潜んでいるのか。さらに写真による表現とはどういうものか。イメージがデジタル化されるなかで写真というイメージは、デジタル以前とどのような違いが起こってくるのか。おおよそ、そのようなことについてお話をしていきたいと思います。

●イメージとは何か?
イメージとは何でしょうか?一言でイメージといいましても、非常に広い範囲のものを指しています。日本語においても、心のなかに浮かぶ像や想像的な対象-「心像」、思考的な対象-「表象像」をイメージと言いますし、具体的なさまざまな画像もイメージと呼びます。さらに音響的イメージ、言語的イメージというのもあります。イメージについては、古代ギリシア時代以来、さまざまな学問がその分析を行ってきましたし、現在も行われています。哲学的、認識論的、知覚論的、記号論的、文化人類学的、精神分析学的、社会学的、メディア論的……。それだけ、私たち人類にとってイメージがもつ役割の重要性を物語っていると言えるでしょう。したがいまして、ここではイメージの全容を解明することも、明確な定義をすることもできませんし、その力量もありません。本講義ではイメージについてのいくつかのテーゼを指摘することにとどめ、さらに皆さんがイメージについて考察するきっかけになればと思います。

第一のテーゼ-「イメージとは対象の分身である」
まず私たちがイメージと言う場合、「これは……のイメージだ」、「……からこんなイメージを思い浮かべる」とか、つねにイメージはイメージとは別の存在-「……」を想定しています。「これはリンゴのイメージだ」「これは愛のイメージだ」等々、具体的な物や人物、場所などを指し示す場合もあれば、感覚的な印象、観念的・抽象的・想像的な対象を指し示めす場合もあります。いずれにしても、私たちがイメージという場合、もう一つの対象を想定しているということです。

イメージとは想定された対象の「分身」としてある、あるいは対象から分離・区別されたものとしてある。いわば「亡霊(スペクトル)」のようなものといっていいかもしれません。「鏡と性交は人間の数を増やすがゆえに忌まわしいものだ」と言ったのはボルヘスというアルゼンチンの作家ですが、いずれにしてもイメージは1(対象)が2(分身)に分割されたものとしてあるということです。ですから、西洋絵画では鏡をモチーフにした絵が数多く描かれてきました。いわばイメージという機能の増殖性がもたらす不思議さ、あるいはボルヘスが言うような忌まわしさに多くの画家が魅せられたということかもしれません。

古代ギリシアではイメージをある対象の似姿(似像)を与えてくれる「絵」のようなものととらえられていました。想像や想起(記憶)など心で描く心像も、心の眼で見る「似姿」というわけです。哲学者のプラトンは、かのソクラテスを主人公に多くの対話集を書いた人ですが、「イメージはイデア(真実の存在、本質、形相)の感覚的な似姿にすぎない」として蔑みました。実際、当時、プラトンは画家を最も低い存在とみなしていました。といいましても、プラトンはイメージの存在を否定したわけではありません。言ってみれば、イメージのヒエラルキー(価値の順番)とも呼ぶべきものを構築したのです(紀元前4世紀頃に書かれた、プラトン晩年の作『国家』を参照)。まず最上位にイデアがあります。イデアとはつねに変わることのないもの、無時間的なもの、普遍的なもの、いわゆる本質(観念)と呼ばれるものです。次にイデアに基づく似姿であるコピーがあります。たとえば、家具職人が椅子を製作します。この場合、椅子というイデアに基づいて椅子を作り出す。この椅子がコピーというわけです。画家はこの椅子のコピーをさらに視覚的なイメージとして作り出す。つまりコピーのコピーが視覚的イメージであるというわけです。プラトンはこれを「模造(シミュラークル)」と呼びました。したがいまして、イメージ(絵)は、コピー(家具)のコピーであり、イデアから最も遠のいたイメージ(模造)として蔑まれたわけです。

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、このプラトンのイデアをめぐるヒエラルキーを、父・娘・求婚者たちになぞらえています。父とはイデアのことです。娘とは父のイデアを分有するもの-コピーです。求婚者たちとは、我こそが娘に相応しい婚約者、つまり父(イデア)に相応しいイメージ(似姿)を持った者だと、主張する者たちというわけです。当時、シミュラークルを弄する輩がソフィスト(私設教師)と呼ばれる存在で、プラトンは彼らを論敵にしていました。ここではイデアとは何かといった哲学的な話には入ることはしませんが、プラトンのイデアはイメージの序列をめぐっての争い、競技(アゴーン)、あるいは基準づくりであったということです。

イメージに対する蔑み、劣ったものという見方、考えは、現在でも私たちが共有するものです。「そんなものはイメージにすぎない」「イメージではなく本質を」「イメージではなく現実を見なければ」等々。こうした言説には、イメージは本質や実体、現実から分離された表層的なものという観念が込められています。私たちはギリシアのプラトン以来、それほど変わっていないというか、むしろプラトンの考え方に束縛されているというべきか。しかし実は、イメージにあってはこの分離・区別こそが重要な機能を担っているのではないでしょうか。これについては「表現」についてお話をする際に述べたいと思います。

第二のテーゼ-「イメージとは不在のものである」
イメージの一つ目のテーゼとして、「イメージとは分身である」と指摘しました。ある対象の「分身」としてのイメージ。フッサールの現象学では、この「分身」を「志向性」とも呼んでいます。つまり、「意識(心的イメージ)とはある何ものか(対象)の意識である」ということです。しかし、分身、亡霊としてのイメージのオリジナルとも言うべき、この何ものか、対象とは、私たちがイメージを目の前に(心に)している場合、「不在」のものです。イメージが現前している場合、あるいはイメージを見ている場合、その何ものか(対象)は知覚できない、見ることができない「不可視」のものということです。ここでイメージの第二のテーゼとして、「イメージとは“不在のもの”である」ということが言えます。今、別れたばかりの愛する人を、あるいは友人を思い浮かべたり、思い出したり、写真で見たりする場合、今、目の前に愛する人、友人はいません。私たちがイメージと対峙している時、何ものか(対象)はつねに「不在」なのです。

ここでちょっとイメージがなぜ生まれたのか、文化人類学的な視点からのものと、精神分析学的な視点からのもの、二つをご紹介したいと思います。といっても二つとも、とても特異な解釈です。この二つのアプローチとも、いわゆる正統な解釈とは言えないかもしれません。しかし、絶対、真実な解釈というものはあるのでしょうか。誰も知りえません。それこそ、原始人その人に尋ねても解決できるとは思えません。問題なのは何が正しいかではありません。その答え、真理とは、誰にとっての真理かを見極めることです。真理とは何かではなく、誰にとっての真理か、誰のための心理か。つまり真理の動機を探り、その正当性を判断することです。

文化人類学的アプローチ-ジョルジュ・バタイユ
一つはフランスの20世紀を代表する作家・思想家、ジョルジュ・バタイユ(『ラスコーの壁画』参照)という人が述べていることです。文化人類学ではしばしば、人類が道具をもったことを、動物や類人猿から人類を分かつメルクマールとしています。いわゆる、ホモ・ファーベル(作るヒト)が「人類の誕生」というわけです。キューブリックという映画監督の『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク原作)という映画には、その冒頭に類人猿が骨をもち、それを振り上げ、骨が道具になるシーンが描かれています。しかし、人類以外にも道具を使う動物はよく知られています。チンパンジーはその代表でしょう。それでも道具をもったことには、大きな意味があることは確かです。

道具とは何でしょうか。まず道具とはヒトの身体的能力の延長と考えられます。手が発揮する力の延長、筋肉の運動の延長。その意味で道具は身体と密接(直接的)な関係を有しています。いわば身体的能力を代替・代理したものと考えられます。その意味で道具もまたイメージのようなものととらえることも可能かもしれません(道具、機械、電子機械をイメージ論的に考察してみることも一計かもしれません)。

ところで、道具を持つことで人類にどのような変化が起こったのか。道具を使うことは、未来における生産物(制作物)-いまだ存在しないものを想定することにほかなりません。つまりホモ・ファーベル(作るヒト)とは、現在時において、未来に分岐する時間を獲得したヒトと言えます。しかし、ジョルジュ・バタイユは、その著『ラスコーの壁画』の中で、ホモ・ファーベルはいまだ十分にホモ・サピエンス(知恵のヒト-現在の人類の祖先)ではないと言っています。つまりわれわれ人類と同類ではないと。バタイユは「芸術(洞窟壁画)」を有したことをもって、われわれと同類の人類の誕生とみなしています。どうしてでしょうか。

バタイユによれば、ヒトはいまだ存在しないものを想定する未来の時間を獲得したことで、すでに存在したものの喪失に思いが至ったと言っています。現在時が過去に分岐する時間。かつて在ったものがいまはない。喪失への恐怖(虚無感)と畏敬。この喪失への恐怖・畏敬が、死者の代替・代理物(イメージ)としての埋葬や墓を生み出すことになります。バタイユは、この恐怖感は極度に「未来の時間=作ること=生産的時間」を脅かし、破壊するものであったと考えています。したがって、埋葬や墓(死者の記号)は聖なるものと同時に、禁止されるべきもの、触れてはならないもの(汚辱、穢れたもの)と見なされていきます(この禁止されるべきものには、死とともに性の問題もからんできます。性行為が種の保存、生殖性にあるとすれば、人間の性には快楽というものがつきまといます。生殖=生産に反する快楽。ここでは性に関しては詳述しませんが、芸術と性の問題にも大きな関わりがあると思われます)。そして、禁止されるべきもの、触れてはならないものに接近し、「未来の時間」を侵犯する時間として生み出されたのが、いわば死への恐怖を緩和するものとしての遊びの時間=芸術(供犠、祝祭など)であると、バタイユは言っています。この聖なるもの、禁止されるべきもの、触れてはならないもの、この一連の語彙には、第一テーゼの分離や区別との関係してくる事柄です。

ホモ・ファーベルに対立するものとしてのホモ・ルーベンス(遊ぶヒト)。その意味で、遊び=芸術の時間とは、過去と未来の時間を中断し、宙尻りにする時間、識別不可能にする時間とも言えるかもしれません。したがって、バタイユにとって、芸術=遊ぶ時間は有用なものを作り出すという「未来の時間」を脅かすという意味合いも持っていることになります。生産物を無に付す蕩尽の時間でもあるわけです。たとえば、お祭りというのは、日常的な秩序を転倒させ、それまでの蓄積物を消費する時間もありますね。このことは現在に伝わる多くの祭りに見られる現象です。

こうした人類学的なアプローチが、言葉あるいはイメージの誕生とどのような関係があるのか分かりませんが、一つだけ確かなことは「不在の意識」が誕生したということです。「不在」を存在させること、不在のイメージ化、記号化。数学におけるゼロ記号の誕生のようなものです(数学におけるゼロの役割等々)。未来(生産)としての不在と過去(喪失)としての不在。

精神分析学的アプローチ-ジャック・ラカン
そしてもう一つ、精神分析学的なアプローチ。精神分析学者ジャック・ラカンの教えるところによれば、乳児は母親との関係のなかで、いわゆるミラーステージ(鏡像段階-誕生から3歳頃まで)を経て、象徴界(言葉の世界)に入っていく、つまり言葉を獲得していくとされています。言葉を獲得する以前の乳児とはどのような存在なのでしょうか。人間は他の動物と違い、未成熟な状態で生まれてくると言われています。たとえば、馬などは生まれてすぐ立ち上がる姿をご覧になった方もいると思います。ところが乳児は誰かの助けに全的に依存しなければ生存も危ぶまれる存在です。寄る辺のない存在-乳児にとって母親という存在(あるいはそれに準じた存在)はきわめて重要になるわけです。全面的に母親に依存する存在、乳児。と同時に、この段階の乳児は自らのさまざまな器官(口、排泄器官等々)を通して生きています。母親に依存しながら、いわば寸断された身体(感覚)として、自己という統一化された人格を持たずに生きているわけです。

やがて乳児は鏡に映った自らの身体を通して、分断された自らの身体を統一し、主体(自己)を形成していくことになります。つまり、ミラーステージ(鏡像段階)とは、鏡の像(イメージ)を通して自己を形成していくということです。しかし、鏡の像とは現実そのものではありません。いわば想像的な像にほかなりません。ラカンはこうしたミラーステージを想像界とも呼んでいます。乳児の主体(人格)が形成される途上において、母親はその生存権を握る、きわめて重要な存在です。とりわけ、乳児の口と母親の乳房は、独特な関係をもっています。乳児にとって母親の乳房は、生存のために不可欠な存在であるとともに、そこには乳房への従属とある種の快楽が生まれます。その際の乳児の快楽は、触覚的なものであることは注目していいかもしれません。精神分析学では、それを口唇性とか、触覚的ナルシシズムと呼んでいます。が、乳児は徐々に、母親の乳房から引き離されていきます。口と乳房に距離が生じるとともに、乳児は見ること=言葉を獲得することになります。触覚から視覚へ。それはまた、見ることを通しての言葉の獲得でもあります。ここに、視覚情報と言葉は不可分の関係があると言えるかもしれません。いわゆる俗に言う、乳離れといわれるものです。鏡に写った自らの像を通して、統一された主体(人格)を形成するとともに、全的に依存していた母親の「不在」=恐怖を言葉とイメージ(視覚情報)を獲得することによって納得していくということです。「いない、いない、ばー」という幼児のゲームがありますが、これは母親の不在を記号化(象徴化)することで、その不在の恐怖をイメージ(言葉)によって回避していく行為と言えるかもしれません。

見ること。それはまさに、母の乳房に触れることを禁止されることでもあるわけです。ここに、幻想としてのイメージが生まれます。イメージとはまさに、不可触な存在(乳房)の代償・代補であるとともに、その不可能性を自覚しつつ、不断に魅惑され続ける幻想でもあるわけです。ここにもバタイユに話しのなかで触れた性(セクシュアリティ)の問題が関わってくることがお分かりでしょう。さらに詳しいことを知りたい方は、ぜひ、それぞれの著作をあたってみてください。これらのイメージの「不在」をめぐるさまざまなドラマ。ここにこそ、ある意味、イメージの謎があると言えるかもしれません。

第三のテーゼ-「イメージとは不可視のものである」
第一のテーゼ「イメージは“分身”である」、第二のテーゼ「イメージとは“不在のもの”である」。この二つのテーゼから、もう一つのテーゼが必然的に派生してきます。「イメージとは不可視のものである」という、イメージを見ることの不可能性です。私たちはイメージ自体を見ることはできない、あるいは困難である。私たちがイメージを見る場合、イメージそのものを見ることができないということです。え、私たちは明らかにイメージを見ているではないか。確かに、私たちは目の前のイメージ、写真なら写真の、絵画なら絵画の、イラストならイラストのイメージを見ているはずです。しかし、私たちがイメージを見る場合、イメージの向こうにある不在のもの=被写体を見ているのではないでしょうか。あるいは不在の対象に還元してしまう。つまり、イメージそのものを見ているのではなくて、イメージが指し示す被写体(不在の対象)を見ているということです。イメージを見ることの不可能性、困難さ。この第三のテーゼは、とりわけ写真について多くの問題を投げかけると同時に、反対に写真固有の力ともなるもです。この写真を見ることの困難さと力については詳述することにします。

一つの例をもとに、イメージの不可視性について考えてみたいと思います。19世紀美術から20世紀美術、そして現代美術は、ある側面においてイメージを見ることの不可能性をめぐる戦いであったと言えるかもしれません。たとえば、マネの絵画を見てみましょう。マネ以前のルネサンス絵画は、イメージを指し示す世界が自律して見られることを意図していました。それはイメージとして描かれた世界が透明な窓を通して見られた世界ということです。つまり、絵画であることを忘却させることです。遠近法や光の扱い方、タッチの問題など、ルネサンス絵画が目指していたのは、絵画がキャンバスに描かれたものであること、絵の具によって描かれたものであること等々、さまざまな物質的な存在を隠蔽・偽装し、絵画が置かれた現実の空間を排除し、イメージ世界(表象された世界)そのものものを出現させることを追求しました。

マネの絵画はこうしたルネサンス絵画に徹底的に逆らっています。まずマネの絵画を一目見れば、誰でもそこにある種の息苦しさを感じます。この息苦しさはどこからくるのでしょうか。それは遠近法の回避です。マネはつねに背景に壁のようなものを描くことで、遠近法をを回避し、閉じられた空間を描いています。さらに、マネの絵画はあたかもキャンバスの縦横をあらわにするかのように、垂直と水平の線で構成されています。マネの絵画を見る私たちは否が応でも、キャンバスの縦横を意識するようになります(後の画家、セザンヌにも同様な傾向が見られます。キャンバスという矩形性の露出)。そしてもう一つ、光の扱い方があります。ルネサンス絵画では光源がどこにあり、事物をどう照らしているかが歴然としています。光の秩序を完璧なままに表現したとされる、カラバッチョの絵画を見ると、その意図がよく分かります。ルネサンス絵画の光は、イメージの中にあり、イメージの世界の中で自律しています。ところが、マネの絵画における光は、とても奇妙です。マネの絵画における光は、イメージの内部にあるのではなく、現実の空間にあることを示唆しています。いわばマネの絵画は絵画の裏地を露呈させるかのような絵画です。

以上のことを要約すれば、マネの絵画は、イメージが成立する条件となる現実的、物質的なものをあらわにしたということです。いわばマネの絵画は「オブジェ(物)としての絵画」ともいえる絵画なのです。つまり、イメージが成立する物質的な条件をあらわにすることで、ルネサンス絵画の「イメージの自律性」を覆したわけです。しかしここで一つの疑問・難問に突き当たります。「オブジェ(物)としての絵画」-確かに絵画はさまざまな物質的諸条件によって構成されている。しかし、絵画(イメージ)をさまざまな物質的諸条件(物)に還元してしまっては、絵画を見ることはできないでしょう。やはり私たちが見ているのはキャンバスの布地ではないし、絵の具ではない。イメージとは物そのもの、物質ではない。つまり、絵画(イメージ)を見るとは、さまざまな物質的諸条件によってもたらされた効果を見ているということです。しかもその効果は被写体を通して見ているのです。効果そのものを実体化することはできません。効果とはいわば霧や靄、いや空気のようなものです。したがって、私たちはイメージそのものを見ることはできない、被写体を介在することにおいてしかイメージを見ることができないということです。その結果、効果があたかも被写体そのものであるかのように思わせてしまう危険性もあるわけです(これは写真というイメージに関して、とりわけ重要な問題となっていくでしょう)。イメージのパラドックス。
マネの絵画(あるいは近代絵画)は、単にルネサンス以来の絵画の幻想性(イリュージョン)を告発したのみならず、イメージの仕組みをあらわにしたのです。フランスの哲学者フーコーは、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに(つまり、見えるものに見えない本質を見えるようにすることではなく)、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ(見えるものに見えない本質が何故に見えないのか、どれほど見えないのか、その仕組みを見えるようにすること)」と語っています。つまり、イメージを問うことは被写体(イメージの対象)と物質的諸条件(効果)の関係を問うということでもあるです。現代美術のある一部はまさに、この課題を背負っていくことになります。

イメージをめぐる三つのテーゼ、①「イメージとは分身である」②「イメージとは不在のものである」③「イメージとは不可視のものである」。イメージの機能をひじょうにラフなまとめ方をすれば、①分離・区別する力、②生成・現前する力、③露呈(アレーテイア)する力、という三つの力を指摘することができるのではないでしょうか。この三つのテーゼ、三つの力(機能)は、表現という次元においてどのような機能を発揮することになるのか。それが次なる課題です。
(番外編・2に続く)


番外編・2

2009年04月26日 | Weblog
●表現とはどういうことか?
本講義の二つ目のテーマ、表現についてお話をしたいと思います。おそらく皆さんは、写真、動画、アニメーション、メディアアート等々、さまざまな表現を志向していると思われます。もちろん、それぞれのジャンルで、領域で、多くのそれぞれの問題と課題があります。それぞれのジャンル、領域には、表現という視点からも、多くの違いがあります。

まず表現とは何かについて考えてみましょう。私たちはしばしば表現=自己表現、自分の思いや感情、感覚、観念等々を具体的なイメージとして外化すること、ととらえていないでしょうか。ご存知のように、表現とはexpressionの訳です。exとはラテン語のexからのもので「外」という意味です。exterio(外部の)とか、exception(例外)とか。pressionは押す、圧縮するのpressです。つまりex-pressionとはある対象を圧縮し、押しつぶし、そのコア(核)となるもの、エッセンス(本質)を外に押し出すことです。ここには「自己」という意味合いはいささかもありません。実は表現=自己表現というとらえ方は、18世紀末から19世紀半ばにかけてヨーロッパに広がった芸術上の思潮の一つ、ロマン主義からのものです。たとえば、ルネサンスの画家たちは自分を表現しようなどと考えていたでしょうか。画家=芸術家=自己表現というとらえ方は近代(19世紀)以降の見方に過ぎないのです。彼らはある対象から何か本質的なものを抽出しようと格闘したのであって、そこには自己を表現しようなどとはいささかも考えていませんでした。

他方、私たちはしばしば表現を再現と混同しがちです。「りんごを絵に再現することにどんな意味があるのだ」といったのは、フランスの哲学者パスカルですが、表現とは単純にりんごを絵に再現すること、りんごをイメージに再現することではない。表現とはある対象から何か本質的なものを抽出し、押し出すこと、つまりはある対象から何かを分離し、区別し、切り離すことです。それでは何を分離し、区別するのか、本質的なものとは何か。それが問題となるわけですが、ここではとりあえず、表現とは自己表現という狭い範囲のものではなく、対象物から何かを切り離し、区別することであるということも覚えておいてください。

さて本質的なものとは何でしょうか。本質とはあるモノ(存在物)がまさにそのモノらしいあり方であること、あるモノの存在のよってたつ存在性です。別な言葉でいえば、あるものの特徴、特性、固有性とも言えるかもしれません。もう少しなじみのある言葉でいえば、リアリティ(現実性・存在性)に近いかもしれません。ここで老婆心ながら付け加えておけば、リアリティ(現実性)とリアル(現実・存在そのもの)とは異なります。私たちは実際の現実よりも、イメージ(表現するもの)の方によりリアリティを感じる場合がしばしばあります。もちろんここには、イメージの機能によって偽のリアリティを捏造し、リアルをとらえ損ねるという危険性もあるわけです。しかし、リアリティが本質-つまりあるモノのそのモノらしいあり方を指すとすれば、リアルの特徴、特性、固有性なあり方を現前させることにもなるわけです。ということは、本質、リアリティとはリアルのなかに隠されているものということになります。現実あるいは現実にあるモノはつねに偽装されてあるということですね。リアルのなかに隠されている本質-特徴、特性、固有性、リアリティを抽出し、外に押し出すこと。ここで第一のテーゼで話した「分離・区別すること」のイメージの機能が重要になってきます。つまり、イメージが分身であることとは、本質を分離し、区別することであるということです。

さてここまで表現について考えながら、それでも皆さんのなかに何だかもやもやしたものがあると思います。そのもやもやの正体はおそらく本質とは何かということだと思います。本質とはあるモノがあるモノらしくあるあり方だと、あるモノの特徴、特性、固有性、いわばリアリティだと。しかし、現実あるいは現実にあるモノは、現実にあるがままの私たちの目に見えるがままのモノではないのか。むしろ、表現とはあるがままの現実に対して、かくあるべきだという未来のイメージ(ビジョン)を構築することではないのか。それこそがフィクションの力ではないのか。ここに芸術(表現)をめぐるアポリアがあります(この問題は決して解決されたわけではなく、現在もまた進行中の問題です。したがって、この問題についてはさまざまな考えがあるでしょう)。芸術とは癒しであり、現実を回避し、幻想(夢)の世界に遊ぶことなのだと、死への恐怖(人間の生の有限性)に抗って。こうした考え方にも一理あります。バタイユについての話にもありましたが、死への恐怖を鎮(しず)めること-鎮魂歌としての芸術(表現)。しかし、私たちは果たして現実を回避し、幻想の世界に遊ぶことで本当に死への恐怖を鎮めることができるのだろうか。バタイユの遊びの時間-祝祭、芸術には、日常的な時間、秩序を転覆するという意味合いもあったことを想起してください。つまり、バタイユの遊びの時間-祝祭、芸術には、日常(生産側)の秩序、価値観を宙吊りにし、疑問に付すという契機が含まれているということです。そこには単に現実を回避するだけではなく、新たな秩序、価値観を創造することが含まれているのです。

そしてもう一つの疑問が、本質と言われるものは時代や場所を超えた普遍的なものなのか。ギリシア時代に本質と言われたもの、ルネサンス時代に本質と言われたもの等々と現在の本質とは同じものなのか。時代や場所(国や民族等)によってリアリティの感じ方が異なるように違うはずです。とすれば絶対普遍的な本質というものはない。非常に大雑把に言えば、19世紀以前、西洋における本質のとらえ方は、超越的なものでした。つまり、本質というものが古代ギリシア時代であれば神々(神話)、それ以降はキリスト教の唯一神によって導きだされていたということです。たとえば、ある出来事、人物像を描く場合、その本質というものが神々やキリスト教的唯一神による価値観、秩序から抽出されたということです。西洋においては、19世紀以降、それが大きく変わるわけです。実は写真というイメージの登場は、その大変化を物語っているのです(それじゃ、明治以前の日本の美術=表現はどうなっているのか、という疑問を持つ方もいらっしゃると思います。基本的に明治以前の日本の美術は装飾芸術だと思います。この装飾芸術に関してはまた別な考察が必要かと思います)。

●写真というイメージ・表現
ここで写真というイメージについて考えてみましょう。写真というイメージは、他のイメージ、たとえば、絵画のイメージとどう違うのでしょうか。写真固有のイメージ性というものがあるのでしょうか。まずは簡単に写真誕生の歴史をメディア的な視点から振り返っておきたいと思います。

写真のメディア的特性-伝達性と記録性
1839年、パリとロンドンで、現在の写真装置につながる二つの写真技法が公表されました。パリで発表されたのが、発明者の一人ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1789~1851)にちなんで付けられた「ダゲレオタイプ」(事実上は、ニエプスという人が発明し、その発明の権利を継承したのがダゲールです)。もう一つロンドンで発表されたのが、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1800~1877)によって発明された「カロタイプ」です。

二つの方式とも、カメラの原型とも言われるカメラ・オブスキュラ(ラテン語で暗い部屋)で得られた像を化学上の原理を応用して定着させるものでしたが、そのやり方は大きく違っていました。
「ダゲレオタイプ」は金属板の上に左右の反転したモノクローム画像を生み出すもの。それに対し「カロタイプ」は、ネガ像を紙の上に形成し、それをさらに化学処理を施した別の紙に密着させ画像を得るという、ネガ/ポジ法によるものでした。当初はその画像の鮮明さから、金属上の一点限りの画像「ダゲレオタイプ」が普及したが、写真術の進歩においては、複製可能なタルボットの「カロタイプ」が、そのすべての基礎となっていきます。

光学装置カメラ・オブスキュラは16世紀のルネサンス期に発明されたものと言われていますが、小さな針穴(ピンホール)を通して光が暗い部屋の壁に当たると、そこに倒立像が写るという原理は、すでに紀元前5世紀の中国や紀元前4世紀のギリシアで知られていたものです。19世紀における写真装置の発明は、光学上の原理以上に、画像を定着させる硝酸銀や塩化銀といった、化学上の感光物質の研究・発見によるところが大きかったと言えるでしょう。この写真誕生の背景には、光学的な系譜と化学的(痕跡・鋳型)な系譜が内在しています。ここに写真というイメージの特性-直接的・自動的再現性や複製可能性等々の問題が含まれてきます。これについては後述します。

現在、世界最初の写真として、その映像が残されているのは、ダゲールとともに写真装置の発明に関わったジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(1765~1833)によって撮影された「サン・ル・ド・ヴァレンヌの窓からの眺め」です。一方のタルボットも1835年には「フォトジェニック・ドローイング」と呼ばれる写真の撮影に成功し、1844年には世界最初の写真集『自然の鉛筆』を出版しています。

写真が誕生した19世紀は、写真に限らず、現在のマスメディアにつながるさまざまなメディア装置が誕生した世紀でもあります。モールスによる電信機の発明が1837年。ベルによる電話の発明が1876年。エジソンによる蓄音機(フォノグラフ)が1877年。リュミエール兄弟による映画(シネマトグラフ)が1895年。

19世紀は写真や電信、電話、蓄音機、無線、映画といった革新的なテクノロジーが次々と発明され、登場していった時代なのです。こうしたテクノロジーの登場が、社会のあり方あるいは私たちの意識にどのような変化をもたらしたのか。写真は時間を超えた視覚的な情報を記録・保存し、電信は空間(距離)を超えた文字的な情報を伝達することを可能にしました。蓄音機は時間を超えた聴覚情報を記録・保存し、電話は空間(距離)を超えたコミュニケーションを実現しました。つまり時間と空間のあり方が、それ以前と決定的に変わったのです。時間と空間を超えてイメージが、声が現前すること。これはどういうことなのか。今ここにないもの(時間や距離の隔たりを無化)が現前する。時間や場所に制約されることなく、イメージが、声が、いまここに現れる。不在の現前。19世紀とはまさに、亡霊(分身)の世紀の始まりなのです。テレ(遠隔)テクノロジーの時代。テレテクノロジーの一つとしての写真から、空間を越えたイメージの伝達性と時間を越えた記録性(保存性)という二つの機能が導きだされてくると思います。

では、写真というイメージの時間と空間を越えた伝達性と記録性によって、社会のあり方あるいは私たちの精神(知性、感情、記憶等)の形成にどのような変化を与えたのか。その社会的なあり方の変化にいち早く注目したのが、19世紀末のフランスの社会学者ガブリエル・タルド(1843~1904年)という人です。タルドは新聞に代表されるようなメディアの広範な広がりが、特定の場所に条件づけられた群集とはまったく違った社会的集合体、距離を超えて結びつく精神的集合体=「公衆」を出現させたと述べています。つまり、特定の場所や地域に条件付けられた社会集団ではなく、メディアを媒介とした(あるいは条件付けられた)社会集団が出現したということです。

例えば、文字のない時代を考えてみましょう。そこで形成される共同体は、一定の土地(場所と人々)に条件づけられた集団と言えます。個々人の精神形成においても、その土地と共同体が大きな影響力をもつことになります。おそらく、土地の制約から離れた、最初の精神的な集合体が発生してくるのは、文字の発明によってです。文字の発明は、土地や場所だけではなく、時間の制約からも解き放たれた集合体を発生させます。ここに歴史が始まると言えるでしょう。と同時に、文字を介在して形成される集合体、いわばエリート集団が誕生することになります。事実、ヨーロッパにおいては、ローマ帝国以後、ラテン語が宗教的なエリート集団を形成していきます。日本では漢語と言えるでしょうか。

さらに印刷術の発明によって、土地の制約を離れた精神的集合体はさらなる広がりを見せることになります。例えば、教会の権威を否定した宗教革命は、印刷術の発明によって一般民衆が聖書を読めるようになったことと不可分な関係にあります。印刷術の発明は、マス・コミュニケーションの基礎を築いたと言っても過言ではないでしょう。そして、19世紀の新聞の登場。タルドが言う「公衆」はまさに新聞の出現を目の前にして、その影響力の大きさをとらえたものですが、写真や電話、蓄音機など、時間や空間を超えて伝達・交換される情報による社会的集合体までも視野に入れていたことは間違いないありません。メディアによる社会的集合体は大地と血に根ざした共同体を脱コード化したことも事実です。他方で、テレテクノロジー(あるいは移動のテクノロジー)によるメディアは、きわめて広範囲にすばやい時間で、集団的な観念や感覚等々を作り出してしまうという危険性もあるわけです(ナチズムによるメディア活用、プロパガンダ、広告等々)。

イメージとしての特性-実在性、静止画性、複製性
それでは、写真というイメージそのものの機能にはどのような特性があるのか。写真以前のイメージ(絵画的なもの)と比較しながら、そのいくつかを考察していきたいと思います。まず写真というイメージは光によってつくられたモノ(現実の存在物)の痕跡です。ネガ像の状態であれば、光によってもたらされたモノの鋳型であるわけです。足跡や指紋などと同じようなものですね。鋳型(ネガ)に再度光を注入することでポジ像が得られるわけです。絵画的なイメージは私たちの精神を介して得られた(つまりはある文化システムによって変換された)イメージです。それに対して、写真というイメージは光がモノを直接トレースしたイメージということになります。

さてここからイメージとしてのどのような特性が導きだされるでしょうか。まず現実に存在するものを光によって直接トレースした痕跡(鋳型)であることから、写真というイメージの実在性(この実在性には高い類似性・再現性も含まれるでしょう)を指摘することができます。フランスの思想家ロラン・バルトが写真のノエマ(意味)として語った「それは・かつ・あった」という実在性です。写真というイメージはかつて(過去において)存在したものの痕跡であるというわけです。ここから写真というイメージの客観性、真実性(不在の対象である被写体と、イメージの一致)という神話が生まれてきます。

ある風景、モノ、人物、出来事(一場面)等々を写真によって切り取った(再現・表現した)とします。その場合、風景、モノ、人物、出来事(一場面)等々は、写真というイメージの実在性という機能(被写体とイメージの一致)から客観的なもの、真実なものと解釈されるわけです。ここで絵画的なイメージと比較してみましょう。たとえば、ある人物を絵画において表現する場合、画家は当該の人物の特徴(本質)を造形的に抽出します。肖像画portraitとは、trait(特徴線)を引き出すことを言います。その場合、前述しましたように、その特徴はあるイデア(超越的な視点-特定の文化システム)によって導きだされるわけです。しかし、写真の場合は、ある現実の運動から切り取られた場面です。確かに、写真の場合も、その切り取り方において、イデア的なものが介在します。たとえば、馬のギャラップを切り取る場合、やはり、馬の第一歩、第二歩、第三歩と、あらかじめ想定された運動の特徴を表現するために当該運動の特異な場面を切り取るでしょう。その意味ではイデアと同様に、ある運動における特権的な場面と呼ぶこともできます。しかしそれでも、写真による場面の切り取りは、イデアによる切り取りとは異なり、あくまでも任意の運動(現実)から切り取られたものです。実はここに写真というイメージをめぐる真実性のアポリアが潜んでいます。

たとえば、ある出来事を写真によってとらえたとしましょう。その場合、その出来事のどの場面を切り取るか、その選択には二つの方法が考えられます。一つはあらかじめ、その出来事はこういうものであると考えた上で撮られたならば、馬のギャロップを撮るように、その撮影者の出来事に対する考え方に基づいてその出来事の特徴(特異点)が切り取られるでしょう。他方は、できるだけ予断を交えずに出来事をとらえ、撮られた一連の写真から選択し、その出来事の特徴(特異点)を切り取っていく選択法です。もちろん、後者の選択方法にも、撮影者の何らかの意図が加わることは明らかです。したがって、どちらの場合も、当該の出来事を一つの限定された運動(閉じられた全体)においてとらえることになります。したがって、写真の真実性とはあくまでも限定された、閉じられた全体における真実にすぎないのです。しかし、後者の選択法の場合には、任意に切り取られた現実の出来事から思いもしない特徴(特異点)を発見する可能性を秘めています。とすれば、その出来事の別な側面を見出すことを可能にするわけです。あるいは出来事をその出来事において考える契機ともなるわけです。これが写真というイメージが発見の表現ツールとも呼べる所以であり、写真による表現の力の一つなのです。

さて、写真によって持続する現実の運動から切り取られた場面とは、その現実の運動の切断面(瞬間)でもあります。しかも動かない切断面-静止画でもあるわけです。ここに写真というイメージのもう一つの特性があります。私たちの知覚や思考、言葉もまた、現実の運動をピンで留めるように静止画としてとらえ、それらの静止画を総合して一つの認識や観念を形成します。その意味では、私たちの知覚や思考、言葉はカメラのように機能しているとも言えます。しかし、私たちの知覚や思考、言葉が一つの流れのなかにあるのに対して、写真は外化された知覚として静止しています。つまり、私たちは現実の運動の切断面を凝視することが可能なわけです。動かない現実の切断面がディテール(部分)への注視やモノの配置・関係への関心等々によって、私たちの一般的な通念、モノの見方、感じ方を中断・宙吊りにし、反省的な熟考の機会を与えるのです。凝視と熟考。ここに写真のもう一つの特性があります。

表現との関係でいえば、当然、ここにはレンズや光の扱い方との関連がでてきます。フレーミング(現実の規定・限定-視界)-アングル(見る角度)、視点(見る位置)、焦点(焦点の当て方、視線の中心化)等々、構図、形、レンズの効果-望遠レンズ(デュープフォーカス)や広角レンズ(ワイドスクリーン)、顕微鏡(細部の拡大)等々、さらには明暗、色彩、地……。こうした写真の物質的・技術的操作によって、現実(モノであれ、人物であれ、風景であれ)の特異点(誤解を恐れずに言えば、新たなリアリティ)をあらわに、あるいは生成・現前させることが可能になるわけです。写真という静止画は、一般的なものの見方・感じ方を中断し、宙吊りにする契機となる表現ツールということです。一言、付記しておけば、さまざまな物質的諸条件を強調すればするほど(たとえば、形や構図、レンズの効果、明暗、色彩等々)、写真の最大の特徴である実在性(類似性・再現性)が脅かされ、人為的な世界を自然化してしまうという危険も孕んでいることになります。

そして複製可能性。前述しましたように、写真は一つの鋳型です。であるがゆえに複製が可能なわけです。この複製性については、メディア論と関わりながら、これまで多くのことが論じられてきました。ここでは詳述しませんが、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」をぜひ一読してください。一言で言えば、オリジナルの崩壊、いわばイデアの崩壊以後の芸術作品のあり方について論じたものです。それは写真の実在性について話した、イデアによる特権的瞬間と写真における任意の瞬間とも関係してくるテーマです。そしてそれは近代(19世紀以降)における芸術やイメージの概念の変化を論じたものでもあります。

さて写真というイメージの特性について、そのいくつかを述べてきました。当然ながら、これですべてではありません。皆さんご自身もまた、写真というイメージの特性を考えることで、写真ならではの表現を追求してほしいと思います。そして最後の問題が、これまで述べてきた写真の特性が、デジタル以後、どのように変化したか、するかという問題です。デジタル以後、伝達性、記録性、実在性、静止画性、複製性といった写真の特性はどう変化するのか。そしてその変化が表現という次元とどう関わってくるのか。本来はこの問題を考察することが、本講座の中心テーマとなるべきでした。しかし、デジタル以後の写真表現を考えるためには、写真というイメージをまず考えておかねばならない、という趣旨からこのような話になりました。と同時に、皆さんご自身が制作する上で、その過程のなかで考えてほしいという意図もあります。このデジタル以後の写真表現については、いずれお話をする機会があればと思います。

最後に一つ結論めいたことを言えば、写真というイメージを使った表現の機能の一つは、被写体との類似性(再現性の高さ)を活かしながら、裸眼(目に見えるもの)とは競合する形で、その被写体(事物)のあり様、あり方(社会的、政治的、文化的、美学的等々)あるいはイメージの仕組み(被写体とイメージの関係)をあらわにすることができるということです。