Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2008年04月30日 | Weblog
「フィクシオンは(表現は、と言い換えてもいい)、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」(フーコー『外の思考』豊崎光一訳)

このフーコーの指摘には、メディア時代(映像の時代あるいはイメージのイメージの時代)の、とりわけデジタル時代(イメージの内部の時代)の写真表現の使命の一つがあるように思える。どのような表象システムが、あるいは表現(見ることの欲望)システムが見えるものを見えなくしているのか、反対に見えないと称するものを見えるようにしているのか。可視性と不可視性の分割と配置。不可視性と可視性のシステムをあらわにすること、あるいは分析すること。

眼は口ほどに物を言い。
眼にあふれた言葉、あるいは食物と嘔吐物。
眼の拒食症と過食症(ボルヘスとラブレー)、
あるいは不眠症と嗜眠症。

縫い合わされた口。
膨れ上がった眼。
ざわめく耳。
三つの手法。

肥大した眼、貪欲な眼。
いまだお前は見飽きぬのか。
見えないものまで見たいとは。

人類は過剰な生を生きている。
欲望という名の過剰。
残余、剰余、余生、滞留……。
喪の作業もまた、死者から与えられた負債にほかならない。

レンズとは何か?-光学的な観点?
静止画とは何か?-鋳型としての観点?
レンズによって固定された(固定には自動的と称しようと、無媒介と称しようと、把捉と再生産という二つの相があることを忘れてはいけない。ということは写真というイメージも表象-再現前を免れていないということである。しかしそれでもなお、写真というイメージは表象に属するものなのかという問題は残るだろう)現実の断片(断片の断片、ディテール)とは何か?

ベンヤミンによって指摘された、カメラの眼による過剰なディテール。しかし、断片の過剰な視覚が統一的な全体性を表象することはない。むしろ、断片は自律化することによって、一つの全体と化したと言えるだろう。つまり、カメラの眼による断片と裸眼による統一的な全体性は分離されているということだ。たとえば、エドワード・マイブリッジの分解され、断片化された運動のイメージは、もはや統一的で連続的な運動のイメージを喚起することがない。この過剰なディテールは、後にロラン・バルトによってプンクトゥムとも呼ばれもするだろう。しかし、プンクトゥムあるいは過剰なディテールをかつてあったものの痕跡として実体化してはならない(写真における技術偏重主義もここに由来する)。ドゥルーズの用語を使えば、プンクトゥムとは「超存在」なのである。

したがって、過剰なディテールの現前は、表象としての統一的全体性を不可能にする。過剰なディテールは、当然ながら、凝視(固定された視覚-静止画)という問題とも絡んでくる。凝視こそが過剰なディテールを生み出すと言ってもいいだろう。凝視とはけっして、再現という古典的な視覚システムに収まるものではない。むしろ凝視は確かな視覚を脅かすのだ。

ところが、写真のデジタル化は、断片の過剰な視覚を一枚=全体として組み合わせることで、あたかも裸眼による統一的な全体性を回復させるかのように偽装する。それとも、そこには創造的な総合を示唆するようなものがあるのだろうか?たとえば、ジェフ・ウォールは写真=断片という公準を覆し、一枚の写真における全体化を試みる。これは新たな創造的総合の試みなのだろうか?

ここで総合とは何かという問題が生じてくるだろう。たとえばカントは、構成的と統制的という二つの区分をしている。構成的が経験的なものを総合するとすれば、統制的は先験的なものに属する。しかし、ドゥルーズは、カントの超越論的批判はけっきょく経験的なものを引き写したものにすぎないものとも言っている。なぜならカントはつねに諸能力=理解・判断・記憶・想像等々の統一を前提にしているからだ。ドゥルーズにおける超越性、あるいは創造性とはあくまでもある能力がその能力だけに関わり、その能力が限界を超えることに見出している-けっきょく、カントが間違いあるいは錯覚を正すことに(実際、カントはその『純粋理性批判』の序文において、自らの批判を法廷あるいは裁判官に喩えている)、超越論的批判の動機があるとすれば(もちろんカントは『判断力批判』において、その立場を自ら追い込み、脅かされるわけだが……)、ドゥルーズは錯覚にこそ、創造の、つまりは生きることの可能性を見出しているということか!もちろん、ここでドゥルーズが問題にしている錯覚は、事実上の錯覚ではなく、権利上の錯覚である。

さらによりよく見るために、正しくみるために。それはあたかも、顕微鏡的な視覚で全体を見ているかのようである。高解像度のマジック。言うまでもなく、ベンヤミンが指摘した「断片の過剰な視覚」と、精神分裂症(統合失調症)とは密接な関係がある。われわれが観測衛星かぐやの捉えた映像に驚くのは、青い地球の姿ではない。むしろ、月面の画像にこそ驚くのだ。あの月面のディテールがあってこそなのだ。肥大した眼による全体の把握(つまりは諸能力の統一化)は、われわれの「見る主体」をどこに導くのだろうか。

ドゥルーズは全体の部分としての断片と断片的全体を区別している。ジグソーパズルとサイコロ振り。前者があらかじめ与えられた全体に従属する断片であるとすれば、後者は断片がその都度全体をなし、その全体は絶対的なもの(つねに勝ち目となるサイコロ振り)である。

したがって、写真という断片あるいはディテールが、あらかじめ想定された全体を脅かさなければ、それは現実の単なる再認に過ぎないことになる(轍、あるいは痕跡の論理によって、その再認は保証され、自然化される)。いや、単に脅かすだけでいいのだろうか。たとえば、見られたものと撮られたものの厳密な一致という企みは確かに、経験的なもの、生きられたものを根拠として、撮られたもの(イメージ)の全体性(現実の真実性)を脅かす。しかし、この経験主義はやはりあらかじめ裸の物、原初の自然という全体を前提にしているのではないか。

写真における全体と断片。ここでの論理の前提となっているのは、写真というイメージが現実を写すという、相変わらずの逃れがたき大前提である。見られたものと写されたものの一致。もちろん、見られたものと写されたものが一致しないからこそ、その一致を希求するのだ。見ることはベルグソンが明らかにしたように、事実上は知覚と記憶の混合したものである。しかし、ベルグソンが明らかにしたことは、事実上の混合ではなく、むしろ論理上、純粋知覚と純粋記憶を分離したことである。経験の曲がり角の先に行くこと。とすれば、写真というイメージは、事実上、この分離を証明している。写真には純粋知覚が潜んでいるように思える。だからこそ、土門拳は「絶対非演出の絶対スナップ」を唱えたのであって、主観的写真や広告写真は、純粋知覚の可能性を閉ざすように思えたのに違いない。広告写真は被写体(もの)を写そうとしているわけではなく、感覚を構成要素として、一つの意味(メッセージ)を形成しようとしているわけだ。感覚の図像学(つまり、諸感覚を意味作用のもとに統覚するのだ)。そしてもちろん、荒木経惟たちは、土門拳たちの被写体(物)もまた、社会的・政治的意識で覆われていると批判するわけだが…。そこで登場してくるのが、写真的身体(現象学的身体)なるものだった。穢れなき無垢な身体。しかし、こうした身体はベルグソン的に言えば、感覚・運動的な自動的身体にすぎない。牛が草を食むようなものである。再認の反復。とすれば、土門拳の身体(?)よりましというわけではない。中平卓馬は別な文脈で土門拳の論理を取り戻そうとするのだが…(東松照明はその中道にあって、唯一、現実から“しるし”を読み取ろうとした写真家かもしれない。そして高梨豊)。しかし時代はすでにイメージ(写真)で覆われてしまっていた。記録と表現、客観と主観という図式の崩壊。その後、日本の写真のメインストリームとなっていくのは、詩的(主観的)な写真である(傍流の一つの例として、大辻清司や小林のりおは、写真行為そのものを主題化していくだろう)。被写体(現実)の消失。

全体と部分-全体の中の部分、部分の中の全体。群集の中の個人、個人の中の群集。集団の中の個、個の中の集団。……。

そして、写真のデジタル化。写真はもはや証拠ではない。実体としての痕跡(鋳型)から関係としての痕跡(鋳型)へ。写真こそが証拠(倫理)を必要としている。デジタル・イメージの背後にはもはやイメージしかない。イメージのイメージのイメージの……イメージとしてのイメージ。

ところで、レンズの眼が裸眼を延長し、代理し、あるいは簒奪し、視覚を肥大化(あるいは歪曲化)させることは否定すべきことなのか?

果たして「過剰なものは必要なものの敵(ニーチェ)」なのだろうか?ニーチェが過剰を必要の敵とみなすのは、もちろん必要以上に余分なもの、その贅沢さを咎め、清貧の思想を説くためではない。過剰が最も必要なものを欠いているから告発するのである。過剰さが最も必要なものを欠いてしまうパラドックス。「過剰にしてしかも欠如せる父、プラトン」(フーコー)。

しかし実は、「過剰」と「必要」の関係はきわめて複雑である。生物学上の自己保存欲動(個体の保存欲動)に従うならば、人類とて必要以上に食べる必要はない。料理(調理された食物)はすでにして過剰な自己保存の欲動がもたらした結果である(「空腹は空腹であるが、料理された肉をフォークやナイフでたべてみたされる空腹は、手や爪や牙をつかって生肉をむさぼりくらうような空腹とは、別のものである」-マルクス)。何故に、人類は必要以上のものを食べるようになるのか。そこに絡んでくるのが、性的欲動である。もちろん、ここでいう性的欲動(種の保存)とは広義での快感原則のことである(たとえば、乳児が母親の乳房をくわえる際、乳児は自らの空腹を満たす以上の、あるいは別の快感-つまり性的快感を得ているというのが、フロイトの主張である。指しゃぶりは乳房の代替物として行われるが、指しゃぶりには空腹を満たすためのいかなる機能もない。なのに何故に指をしゃぶるのか?後に、乳児における乳房への異常な貪欲さが不安に転じ、象徴形成を頓挫をさせ、破壊衝動に至るという、被害妄想の原型とみなしたのがメラニー・クラインである。ところで、指しゃぶりをする乳児にとって、この指はいかなる対象か。乳房の代替物という意味ならば、他者のものである。しかし他方、指は内部から感じる自分自身ではないか。自我の他者による同一化)。食べることに、食べることで得られる満足以上の快感をもたらせば、当然、必要以上に食べることになるだろう。この自己保存欲動と性的欲動の葛藤において心的メカニズムを探ったのがフロイトである(後にフロイトは、食欲、性欲=エロスについで、死への欲動=タナトスを付け加えるのだが)。

レンズの光が我が眼を潰した。
おお、盲目の写真よ。

突然、こんな疑問が頭をもたげる。映画が哲学に所属するとすれば、写真は科学に所属するのではないかと。両者とも芸術には所属していない?これは一考に価する疑問である。写真とはけっきょく現実の関数なのではないか。というより、現実の関数を導き出すことではないか。

写真はしばしば過去や記憶というタームのなかで語られる。しかし、写真はむしろ“現在している”ことこそが特性ではないのか。過去の過剰な現前。写真はつねに“いま”を強要する。“すでにそこに在ることと常に遅れて在ることの同一性”。ヒステリー症としての写真。

ドゥルーズは、D・H・ロレンスの指摘にならって、「写真に対して、非難されるべきは、それがあまりに“忠実”であるということではなく、十分に忠実ではないということ」であると言っている。つまり、ここで言われている写真の忠実性(=再現性)とは、すでに表象というスクリーンに覆われているということである(写真は、写真の再現性を素朴に信じれば信じるほど、イメージ=表象となるのである)。もちろん、この指摘は多くの写真家たちが周知してきたことである。いわんや土門拳においては、なおさらである。だからこそ、土門拳はリアリズムを唱えたのだ。つまり、土門拳は現実を忠実に写しとることがいかに困難であるかを理解していたわけだ。

写真の特性の一つとして、多くの人がその“偶然性”を指摘する。しかし、写真における“偶然”がいかに稀なことであるか、その出会いがいかに困難なことであるか、優れた写真家は知っている。“偶然”に対して、「欲深い」と語った画家ベーコンのように。「芸術家というものは、じつは、偶然のなかでもっとも偶然的なものだ」(フィリップ・ソレルス)。偶然に関するもう一つの至言。「操作される以外に偶然は存在せず、利用される以外に偶然性は存在しない」(ドゥルーズ)。「偶然性を否定する者は、自分が拷問にかけられていないこともできたということを認めるまで拷問にかけられなければならないだろう」(スコトゥス)。

写真を過去からの亡霊に喩えるとしても、写真を過去と現在を正しくつなぐアリバイ(蝶番)にしてはならない。かのハムレットが亡き王(父)の亡霊を前にして「The time is out of joint この世の関節がはずれてしまった」と発したように、われわれは写真を現在との関係において「関節がはずれ、脱臼し、筋を違え、われを忘れ、乱され、蝶番がはずれ、脱節し、調整不全に陥った」(デリダ)時間・歴史・世界ととらえるべきではないか。「いかにして現前するものは、節なきもの、すなわち脱節でありうるのだろうか」(ハイデガー)

エッチング(銅版画)、外科医術(解剖学)、写真。これらのアナロジーあるいは相関関係を再考すること。写真を準備した18世紀の視覚体制とはどのようなものか。ピラネージ、ダゴティ、シャルダン……。光学の論理に対して鋳型(痕跡)の論理で斜線をひくこと。二つの論理の切れ目(差異)をあらわにすること。

たとえば、写真には18世紀の観相学につらなる、兆候を読み解き、図像化・記号化する、一つの痕跡の論理があったはずである。ところが、そうした兆候としての痕跡を光学的な観点から技術化し、美学化してしまった?グラフィズムの美学化?

「眼の狩人」ならぬ「鼻の狩人」(笑)。狩人にとって獲物を射ることなどは二次的なことにすぎない。狩人の知を構成しているのは、あくまでも獲物の痕跡を追跡し、解釈するプロセスである。

優れた写真家とは、同一性のなかに差異を見出す者ではなく、雑多な世界(現実)のなかにどうしようもなく類似を見てしまう者ではないか。「彼はあらゆるところに類似と類似を示す記号しか見ない」(フーコー)。優れた写真家が切り取る断片は、文化の外縁に位置する、あるいは逸脱した、過剰な類似の記号(しるし)なのだ。彼が差異や違和感をおぼえるのは、世界の分け方、断片化の方法や基準、その前提に対してである。自我の同一性があらゆる事物に類似をもたらすのではなく、事物の類似性こそが逆に自我に亀裂をもたらすのだ。

写真における記録の暴力性は、いわば“現実界”の侵入であったわけだがしかし、すでに記憶が写真的記録によって覆われているとしたら(その兆候はすでに60年代に始まっていたわけだが)、写真の記録性はすでに(またもやすでにだ)象徴化されていることになるだろう。というよりも、そもそも写真における記録の暴力性とは、想像界のものであったのかもしれない。鏡と性交、そして写真は増殖するがゆえに忌まわしい(ボルヘス?)。しかし、「鏡の向こう側に移る(写る)ことは、指示関係から表現関係へ移ること」(ドゥルーズ)ではないか。記録とは“指示”ではなく、“表現”ではないか。

したがって、記録の暴力性というものが仮に可能だとすれば、その記録とは表現されるべきもの、表現されることによって記憶となるもの、最も古い記憶のことだろうか。抑圧されたものの回帰。デジタル時代にあっては、記録によって記憶(思い出)を切り裂くよりも、記憶によって記録としての静止画を消し去る方が有効ではないだろうか。絵画の論理の再回帰。写真における忘却の論理のパラ-ドックス。新たなる価値創造の契機としての忘却(=反動的・否定的・受動的ニヒリズム)。

たとえばヘーゲルは、アダムが動物たちを名づけることは殺戮に等しいと語っている。名指すことによる現実存在の無化と観念化。名指すことと映像化すること。写真(映像化)による大殺戮。現実存在の写真化(映像化)とは、記録化(無時間化)し、モノを殺戮することなのか。デリダならば、それでもなお余白(現実界の痕跡=記録的痕跡)が残るというだろう。一つの暴力として。しかし、写真とは単に現実存在を表象し、無化・観念化(記録化・無時間化)することなのか。それではあまりに現実存在(対象)との指示関係を自明のものとしてはいないか。少なくとも、写真による現実の断片化は、全体(現実存在)の一部を切り取ったものではなく、むしろそこにはある種の創造性(表現あるいは再構成)が介在してはいないのか。

非物体的な出来事として写真。それでもやはり、写真は物体的事物の状態でもある。写真における食べられるものと表現されるものの二元性。事物と表現の境界としての写真。とすればやはり、写真という静止画に運動を与えなければならないのだろうか。動画(映画)とは違った運動を。写真におけるモンタージュ理論。写真の統辞論-単写真、組写真、群写真、系列写真(音楽にセリー音楽と言われるものがある。音を、音の高低、強度、音の長短(音価)、音域、音色等の要素に分け、それぞれを音の要素データのセリーとしてとらえ、その統御によって曲を構成する方法である。シェーンベルクの音列技法を嚆矢とし、ブレーズによって確立されたものだ。たとえば、写真においても、光の濃淡、速度、被写界深度、色価等、さまざまな要素に分解し、それらのセリーを統御することで、一つの展示空間を作り出すこと。そうした展示方法をとりあえず、系列としての写真と呼びたいと思う。この系列写真に関してはもちろん、さらなる考察が必要である)等の諸問題。

静止画としての写真は、確かに物的事物の一状態(鋳型としてのイメージ)ではあるのだが、それはジュール・マレの連続写真が示唆するように、運動の分割された瞬間である。とすれば、その瞬間とは、論理上、無限に分割される瞬間でもある(無限の高速度撮影-瞬間の瞬間の瞬間の……瞬間)。静止画としての写真は、決定的瞬間(とは固定された瞬間ということ)ではなくむしろ、無限分割の可能性を秘めた非・決定的瞬間と言えるだろう(「すべての決定は分岐していく。無知な者は、無限のくじ引きは無限の時間を要すると思っている。実際は、時間が無限に下位分割可能であれば十分である。〈亀との争い)の有名な逸話が示すように」ボルヘス)。そう、静止画としての写真は、固定された“現在(瞬間)”どころか、無限の“現在(瞬間)”を秘めた時間なのだ。ドゥルーズが言う、「現在をかわす・逃れる」“現在”。およそ考えうる極小時間よりも短いと同時に、およそ考えうる極大時間よりも長い時間を含んだ“現在”、アイオーンとしての時間。

しかしやはり、写真にアイオーンとしての時間をもたらすには、映画にこそ、その席と役割を譲らねばならないのだろうか。写真固有の使用法はないのだろうか、あるいは映画とは異なる使用法が。

小林のりおの「デジタル・キッチン」は、無限に分割されようとしている“キッチンの時間”と言えないだろうか。アリスのキッチン。1999年から現在までの「デジタル・キッチン」を一挙に見てほしい。10年近くを経ている“キッチン”の場では何事も起こらなかったし、すべてのことが起こったかのようだ。「未だ来るべき」場であり、「既に過ぎ去った」場であるキッチン。ドラマの不在、あふれる光のドラマ(話はやや逸れるが、小林のりおの『ランドスケープ』は、写真における光の問題を、それまでの写真家とは違った関係で風景に取り込んだものだった。たとえば、荒木にしても森山にしても彼らの光の扱いは、闇との関係における光だった。ドゥルーズは映画における表現主義の光について、こう述べている。「そうした(表現主義)光と闇によるイメージが、ある哲学的な概念、思考のイメージへと送り返されることです。つまり“善”と“悪”の戦いないし葛藤という概念です。ところが、闇ではなく、白との関係で光を生き、考えるのであれば、もちろん問題は一変してしまいます」。小林のりおの『ランドスケープ』は、光を新たな問題の地平に移し変えたものだった。小林のりお以前の写真が、光と闇の対立を利用することによって、写真の“雄弁さ”を獲得していたとすれば、小林のりおは雄弁さの拒絶、削減、排除、バタイユのマネ論を真似て言えば“沈黙の写真”を目指したと言えるかもしれない。小林のりお以前に、光を闇との関係から解き放とうとした写真家には篠山紀信がいる)。物理的時間から逸れ、宙吊りにされたかのような“キッチンの時間”=写真の時間。おそらく、このような“写真の時間”を現出させたのは、小林のりおの「デジタル・キッチン」が初めてではないだろうか。ぜひ写真評論家あるいはイメージ論者に、小林のりおの「デジタル・キッチン」における写真の時間-当然ながらそれはデジタルかつWebによってもたされた写真の時間なのだが-を論じてほしいものだ。

忘却とは、思い出すために忘れることだろうか。記憶にないほど古い記憶(「記憶にないほど古いものは、無限に古く、そのようにして決定的に現在のものなのである」ジャン=リュック・ナンシー)を思い起こすために。忘却の力。「芸術が記憶とかかわりをもつとき、その記憶とは奇妙な記憶である。そこで記憶を喚起されるのは、思い出のうちに委ねられたことが一度としてないものであり、それゆえ忘却も記憶もされず-というのも一度として体験され認識されたことがないのだから-それでいて私たちを離れようとしないものである」(ジャン=リュック・ナンシー)。とするならば、もはやそれを「記憶」と呼ぶ必要があるのだろうか。生得性から生殖性へ。それでもなお、「私たちを離れようとしないもの」があるのだろうか?事物と私の境界から訪れるもの?芸術的訪問。

写真というイメージを絵画(ルネサンス絵画)の奥行き(内部)を切り裂き、表面化(平面化=図式化)させるイメージととらえること。内の表面化、解剖学としての写真。

写真は果たして、フィルム写真のテイスト(画像の質)で、世界の変化に対峙することができるのだろうか。確かに、過去に回帰し、固執することで、現在を忌避することはできるかもしれない。しかしそれで、世界の変化に対峙していることになるのだろうか。今、起こりつつある変化を過去の眼で見ているにすぎないのではないのか。現在をとらえるためには現在の形式が必要である。現在という時代から反時代的なものを引き出すために。私たちが肝に銘じなければならないことは、反時代的とは過去的とはまったく異なるということだ。

イメージ自体を切り裂き、痛めつけ、表象としてのイメージを解体せよ、イメージそのものを露出させよ、イメージの物質的諸条件そのものをあらわにせよ(話は全然違うけど、川俣正の「通路」は美術館という空間、美術という空間を剥き出しにする試みなんだよね、おそらく)。かつてプロヴォーグたちが試みたように。ただし、彼らとは違ったやり方で。もはや60年代でも、70年代でもないのだから。デジタル時代に相応しいやり方で。ところで、デジタルイメージの物質的諸条件とは何なのか?それが問題だ!