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Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

徴としての写真(イメージ)

2009年10月29日 | Weblog
-久しぶりの書き込みだね。
-まあ、いろいろプライベートで多忙を極めて……。
-で、反事例集の続きをやってくれるのかね?
-いや~、今回はちょっと寄り道をして、最近、いくつか拝見させてもらった個展について話してみようかなと。
-反事例集は頓挫したってわけだ?
-そういうわけじゃないよ。反事例集とどこかではつながっているはずだと思っているし、そのうち続きもやるつもりだ。
-まあ、いいか。Webにおけるブログのいい加減さ、おっと失礼、言い直せば、自由さはそこにあるわけだし(笑)。
-まあね。誰かに頼まれてやっているわけではないし。で、最初に取り上げたいのはやはり、小林のりおの「アウト・オブ・アガルタ」(ニコンサロン)かな。
-君はずっと小林のりおの写真について、書いたり、話したりしてきているよね?
-今回の「アウト・オブ・アガルタ」は、小林のりおの久しぶりの個展ということで、注目してきたのは確かだよ。もちろん、写真家にとって個展がすべてというわけではないし、とりわけ小林のりおはデジタル時代の写真(イメージ)に関して、さまざまな問いかけを行ってきた写真家だから、これまでかつ現在も継続しているWeb上での活動を無視するわけにはいかないし、今回の個展が何かターニングポイント的な記念碑的出来事でもないと思う。とはいえ、今回の個展を拝見して、いろいろと再確認をしたことも事実なんだ。再確認するということは、新たな方向を模索することでもあるからね。
-再確認?でもその模索は君にとってだろう?
-もちろんそうだけど。小林のりにとっても、というのが僕の推測さ。
-まあ、勝手な憶測はやめて、話を進めてよ。で、再確認ってどういうこと?
-う~ん、小林のりおの現実(世界)に対する姿勢とか、写真(イメージ)に関する考え方とか、そして何よりも「現在におけるイメージのあり方」に関してかな?
-まあ、前口上はそのくらいにして、具体的な話をしてよ。僕も今回の個展を拝見させてもらったけど、まずは君の感想を聞こうか。
-さっき、再確認という言葉を使ったけど、まず一つ目は、小林のりおは『ランドスケープ』以来一貫して、現実(世界)の変容に着目してきたってことだね。
-まあ、それは多くの評論家や識者が指摘してきたことじゃないのか。
-まあ、そうだね。社会の工業化・産業化、消費社会化……による社会的風景の変容ということだね。ただ、小林のりおは、その社会的変容を象徴的な次元でイメージ化しうようとしたわけではないというところが、他の多くの写真家との違いかな。
-それはどういうこと?
-つまり、誰もが認めるであろう「変容した風景」に狙いを定めていないということだよ。誰もが納得するでだろう社会的風景のなかに変化を認めるのではなくて、些細なこと、日常的な風景のなか、誰にも普通に思えてしまう風景のなかに、微かな変化を見出すということだよ。スローガン的な言い方をすれば、「解読された現実から、解読されるべき現実へ」と言えるんじゃないかな。
-そのスローガンをもう少し解説してくれないかな?
-あらかじめ解読された現実(世界)、つまり社会的テーマや言葉によってすでに把捉された現実ではなくて、解読されなくてはならない現実(世界)に狙いを定めているということだよ。ということは、小林のりおがカメラによって捕らえる現実、あるいは写真によるイメージ化は、一つの兆候、徴(しるし)としてあるということかな。したがって、小林のりおの写真は、解読(写真家によって解釈)された現実でもない。思考すべき対象として現実(世界)をイメージ化するということだ。だから小林のりおは、被写体それ自体がもつインパクト性や問題性のある対象をひじょうに嫌うんだよね。なぜなら、インパクトのある被写体や、すでに問題性を帯びた被写体は、あらかじめ解読されている可能性が、あるいはその解釈のスクリーンに覆われている。つまり、被写体(あらかじめ解読された現実)に依存することになる。小林のりおはそれを周到に回避するわけだ。というよりも、小林のりおにとっての「解読されるべき現実」は、普通の現実に、何でもない現実のなかにあるという確信があるんじゃないのかな。というよりもむしろ、一つの変容の徴(しるし)とは、現実の何でもないディテールのなかに宿っているということではないだろうか。その意味で、今回の作品のなかで秀逸なのは、青いポリバケツの中の昆虫をとらえた写真だろう。人工的に(工業化・産業化の結果)つくられた自然(?)、溜まり水(自然)の中の小さな生態系が織り成す昆虫たちの生と死の営み。しかし小林のりおは、こうした現代の風景、あるいはそうした風景をつくりだした社会のしくみを告発、糾弾しようとしているわけではない。そうではなくて、思考の対象にするべきものとしてイメージ化しているのではないか。
-しかしそれは、これまでも多くの写真家が試みてきたことではないの?
-確かに。しかし小林のりおは、「解読された現実」と「解読されるべき現実」の差異に自覚的なところがこれまでの写真家との違いじゃないか。
-どういうこと?
-ここに形式的・美学的な次元が問題になってくる気がするんだ。つまり「解読されるべき現実」に狙いを定め、一つの徴(しるし)としてイメージ化することは、従来の形式的・美学的な方法で可能なのだろうかという問題だよ。徴(しるし)とは、足跡のような単なる痕跡なのだろうか?という問題だね。これはぼくらがこれまで、痕跡の美学、あるいはイデオロギーとして批判してきたことだけど。
-う~ん?
-実は、小林のりおの個展と同じ日に、宮本隆司の「草・虫・海」(TARO NASUギャラリー)という、フォトグラムシリーズによる作品を見たんだ。宮本隆司の試みとの違いを話すことで、いくらかは分かりやすく話すことが可能になるんじゃないだろうか。それがまた、小林のりおに関する、もう一つの再確認であり、方法的(形式的)一貫性でもあるんじゃないだろうか。
-どういうことかな?
-宮本隆司のフォトグラムシリーズも、昆虫を被写体にしているんだけど、そのアプローチは小林のりおのそれとまったく違う。小林のりおの昆虫が一つの社会的関係性、あるいは場的・状況的捕え方をされているとすれば、宮本隆司の昆虫は純粋な抽象化された形態(輪郭)として捕えられている。周知のようにフォトグラムというのは、カメラを使わずに直接印画紙にモノを感光されたものだよね。
-確かに、手法的にも、イメージの原理的生産法もまったく異なるね。情報の物理的転写(アナログ写真)から、抽象的転換(デジタル写真)へ。
-あらかじめ言っておけば、宮本隆司の「草・虫・海」はとても美しいんだ。フォトグラムによってとらえられた虫の羽や羽粉、小枝等々。その微細な美しさは圧倒的だよ。しかし、この美しさを支えている論理は何かと言えば、微細なものの実在感とも呼ぶべきものだろう。ものの痕跡としての実在性(あるいは物質感)。確かに、モノを直接感光したフォトグラムは、モノの実在感を強く喚起する。微細なものの実在感が自然=生命の複雑さや優雅さ、さらに言えばものの存在性そのものへと僕らの知覚を誘うというわけだ。宮本隆司が写真に見出している論理(権利上の機能)とは、もののコアのようなもの、純粋性とも呼ぶべきものではないか。近年、宮本隆司がピンホールやフォトグラムといった、いわば写真の原理的なものへ回帰しているのは、デジタル化によってイメージ(写真)がますます希薄なもの、ものの存在性というものから遠く離れていくこと(不純化)への抵抗でもあるだろう。しかし、ここで僕はどうしても疑問を持たざるを得ないんだよね。写真というイメージは本当にものの実在性をあらわにするものなのだろうかと。というよりもものの実在性というものを、一つのコアのようなものに、純粋な存在性のようなものに還元できるのか、ということだよ。小林のりおもまた、同じような疑問を抱えてきたのではないか。もっと端的に言えば、ものの実在性とは関係性のなかにあるということだよ。モノではなくコトの次元。
-しかし、ものを直接トレースした写真は、「それはかつてあった」という圧倒的な実在性にあるんじゃないの?それこそが絵画的(イデア的)なもののとらえ方を相対化し、直接的・身体的な感覚の世界を切り開いたんじゃないの?
-それは認めるよ。しかしそれはあくまでも絵画的イメージを前提とした考え方ではないのか。僕らが痕跡の美学、あるいはイデオロギーと呼ぶのはそこなんだよ。絵画を前提とした相対的なイメージにすぎない写真の論理を絶対化してしまったことなんだよ。イメージにも歴史性があるということだよ。
-う~ん。いまいち理解しかねるね。もう少し丁寧に論理を進めてくれないかな。
-写真(イメージ)とは、一つの効果、光学的な効果ということだよ。いわば実体のない靄や空気のようなもの。つまり、見るとは一つの光の体制であり、効果によってもたらされた光の体制ということだよ。写真もまた、ものの痕跡(実体)ではなくて、ものの「在り様」を現前させるということだよ。いわば写真とは心霊写真のようなものということ。ただし、心霊写真はその霊を実体(もの)化してしまうわけだけど(笑)。
-志賀理恵子の写真って、心霊写真そのものじゃないですか?
-おっと、今のは誰の声?ところで「痕跡」と「在り様」の違いって何?
-「在り様」というのは、光の効果によってもたらされた「ものの状態」、したがって実体ではないし、ものそのものではない。
-しかし、何度も言うけど、これまで言われてきた写真の力、あるいは多くの写真家が写真に求めてきたのは、その靄や空気のようなものを取り払い、ものの存在感(物質性)をあらわにすることじゃなかったの?
-あなたがおっしゃる靄や空気は、イデア的な靄・空気、いわば「精神の光」によってもたらされたものだよね。
-いや、心霊写真における痕跡は、イデア的な濾過装置を免れた、残りかす、余剰、ノイズのようなもの。それがつまり「物質性」であり、キットラー風に言えば「リアルなもの」なんじゃないの?現実界の露出。デジタルはその余剰、残りかすとしての靄や空気を構造化するわけだよね?
-ラカンを下敷きにすると、象徴界=文字、現実界=写真(蓄音機)、デジタル=想像界てな具合になるわけだ。
-まあ、キットラーは映画を想像界のステータスと言っているけどね。もちろん、写真にしても、蓄音機にしても、その後の技術は心霊写真のようなノイズを取り払い、見えるべきもの、聞き取るべきものを濾過していくわけだけど。ベンヤミンが言う、写真の人間化だね。ただ、フォトグラフも、フォノグラフも、原理的にはイデア的濾過装置を無効にし、あるいはまったく異なるグラフ法(記述法)をあみ出したわけだよね。キットラーもフォノグラフについて語っているように、音の比率(音階)から音の周波数(振動数)へと。
-しかし、それらを「リアルなもの」と呼んでいいのだろうか。軌道とその通過にかかる時間の関係を規定する近代天文学(ケプラー)、物体が通過する距離と落下する時間を関係させる近代物理学(ガリレオ)、直線上の一点(任意の瞬間)を位置づける近代幾何学(デカルト)等々、近代科学革命がもたらしたものだ。これらの運動は決してリアルなもの(現実の運動)ではなく、閉じられた総体に過ぎない。イデア的な総合ではなく、任意の瞬間に連関された運動であり、閉じられた総体なんじゃない。それを「リアルなもの」とするから、写真=もの論ということになるんじゃないだろうか。
-う~ん。
-だから、僕が問題にしようとしているのは、イメージの歴史性なんだよ。つまり、あなたがいまおっしゃった写真(フィルム)の力が強くなることによって逆に、何かを見えなくしてしまっているのではないか?僕はいつもフーコーの言葉をよく引き合いに出すんだけど、「フィクシオンは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなし、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」(フーコー)。つまり、フィルム写真によって可視化されたものも確かにあるが、それによって不可視化されたものもあるんじゃないかということだよ。近代以降の表現(フィクシオン)はこの責務を引き受けざるを得ないんじゃないかということだ。フィルム写真における可視なるものの不可視性。
-それって、よく言う真理の相対性、だから何でもいいんだよっていう話にならない?
-それはあなたが「真理のイメージ」を問題にしているからじゃない?真理のイメージとは何かって。そうじゃなくて、イメージの真理性を問うことなんだよ。つまり、誰にとっての真理のイメージなのかと。誰が真理と主張しているのか、その真理はどのくらい真理なのかと。これこそニーチェの問いだよね。フィルム写真(痕跡の美学)が実は偽のイメージで、デジタル写真こそが真のイメージだなんて言っているわけじゃないんだ。死への意識、自覚がその都度、生の力を思い出せてくれるということだよ。死そのものは意識することも、感じることもできないけど。
-突然、君は何を言っているんだい?
-確かに、僕らはいつかは死ぬ存在だ。しかし、その不確かさゆえに何とかその恐怖を回避している。しかし、自らの、あるいは愛する人の死が、その日付が分かったら、あなたはどうする?どうすることもできない。それでも、その死への自覚が生の力を目覚めさせてくれるんじゃないだろうか?
-????……。ところで、「真理のイメージ」と「イメージの真理性」の違いって何だい?よく分からんな。
-イメージの歴史性。つまり、イメージをもたらす光学的効果の諸条件を認識すること。ただし、条件に従うためではなくて、乗り越えるために。
-またまた分からんことを言ってるね!
-小林のりおの写真に話を戻したいと思うんだけど……。フィルムからデジタルへの移行もそこにこそ問題の核心があるように思えるんだ。
-望むところだね。君の話には飛躍が多すぎるよ。だれもついてこないよ。
-(笑)。
-つまり君は時代によって、光の体制は変化するって言いたいわけ?
-時代、視覚装置等々によってね。イメージを形作る諸条件の変化。
-それはまあ、当たり前と言えば言えば当たり前だよね。
-イメージの歴史性(見えるものと見えないものの配分)を自覚しなければ、その徴は見えてこないということだよ。したがって、徴とはイメージ化されることによってしか徴とはならないし、見ることもできない。痕跡の美学、あるいはイデオロギーはその徴を、ものの状態として実体化してしまう。そこに写真の記録性と表現性という偽の問題も起こったのではないか。写真における記録性の神話は、そのものの状態=痕跡を根拠として、実在性=真理を主張するわけだ。しかし、そもそも実在性とはものの状態のことなのだろうか。実は、実在性とは、ハイデガー流に言えば、一つの開示(空け開け)なのであって、状態のことではないんじゃないか。
-小林のりおの写真に即して、もっと具体的に言ってよ!
-先ほども触れた青いポリバケツの中の水溜りの写真だけど、非常に透明感のある色彩から僕らが受ける印象は、フィルム写真が追い求めてきた「ものの実在感=状態」とはまったく違うように思える。すべてが光に還元されてしまう手前で、ものの在り様をとらえている気がする。これがデジタル写真の特徴かどうかは別にして、明らかに小林のりおはデジタル写真という新たな装置を利用することによって、フィルム写真とは異なるもののとらえ方を試みようとしているんじゃないか。それはフィルム的なもののとらえ方、いわば固定した感覚の回路(実は、リアリズムとは現実をストレートに再現・描写することではなくて、この紋切り型の感覚こそをリアリズムとも呼ぶべきじゃないか。そもそも描写・再現とは光の効果なのだから)に対して、一つの迂回路を通すことでもあると思うんだ。何度も同じようなことを繰り返すけど、小林のりお的なもののとらえ方が唯一の正しい感覚の回路だなんて言っているわけじゃないよ。しかし、もののとらえ方における光の体制の時代性を示唆していることは確かだと思う。一つ目の「社会的風景の変容」と絡めて言えば、一つの光の体制、あるいはそれらの諸条件を変えなければ、その変容の徴をとらえることができないということだよ。
-君の議論を裏返すと、写真のデジタル化によって見えなくなるものもあることになるよね?
-もちろん。だからといって、フィルム写真に固執することで、それを免れるとも思えない。
-ある意味で、われわれはフィルムとデジタルの移行期、過度期にいわるわけだけど、フィルム写真が言ってみれば従来の絵画的イメージに対抗して築き上げてきた光の体制にもはや有効性、可能性がないということかい?
-そこまでは言わないよ。ただし、従来のような技術至上主義的なフィルム写真に有効性はないと思うね。しかし、その使用法にはいくらでも可能性はあるんじゃないだろうか。フィルム写真の本質的ステータスでもある「実在感の喚起」を逆手にとるという使い方もあるわけだから。
-杉本博司の写真みたいにですか?
-おっと、また違う声がしたね。君が問題にしていることは、ものの見え方=イメ-ジの歴史性ということなのかな?昔や写真や映像を見て、われわれが時代的隔たりを感じるのは、実は写された被写体の変化よりも、映像そのものが持っている変化のせいだよね。例えば、アメリカ軍が写した終戦直後の日本のカラー写真や映像は、われわれが見てきたモノクロによるそれとまったく印象が異なる風景だよね。つまり、われわれの戦後の風景、あるいは記憶は、かのモノクロ映像によって作られているというわけだね。
-映像の形式的次元においてはそういうことになるんじゃないかな。
-しかし、君のイメージの歴史性の議論を聞いていると、つねに新しいテクノロジーによる新しい表現が絶対みたいな話にならない?いわゆるローゼンバーグの「新しいものの伝統」というやつだ。
-そう誤解されるのがいちばん困るんだよね。そうではなくて、新しいテクノロジー(デジタル)が古いテクノロジー(フィルム)の光の体制を暴くということだよ。写真(フィルム写真)が絵画的な光の体制を暴いたように。したがって、新しいテクノロジーを使った作品がすべてそうした機能を持っていると言いたいわけじゃない。
-なるほど。ところで最近、森山大道のデジタル写真が特集されている雑誌が出たけど、あれなんかについては、君はどう思うんだい?
-まず第一印象を言えば、森山大道のデジタル写真には、先にあなたが指摘した、情報の物理的転写と抽象的転換の違いを感じることができないことかな。
-むしろ、森山大道は意図的にデジタルカメラをあたかも物理的転写(アナログ写真)のように使用しているとも言えない?まあ、森山大道は一貫して、写真が持つ物理的転写に、その力を見出しているのだろうけど。
-いや、実際のところ、アナログ写真とデジタル写真のイメージ自体に明確な差異を見つけ出すことは難しい。あなたは旧来のプリントとデジタルプリントの違いを区別することができるだろうか。
-確かに、アナログ写真とデジタル写真の違いが端的に現れているのは、イメージの生産法と使用法、あるいは流通の仕方だよね。またまたところでなんだけど、写真というイメージの登場は、イデア的なものからリアルなものを露出させた。写真が露出させたかに見えたモノそのもの。というよりも、アナログ写真が求めた核心は、事物をリアルなもの(=モノそのもの)の質的差異にしたがって切り分けようと、つまり分節化(区別化・分離化)しようとしたのではないか。シャカフスキーのモダニズム写真理論にだって、そうした見方はできるんじゃない?
-確かにそれは、セザンヌが試みようとしたことだよね。自然における質的な差異を切り離し、分離すること。それはイデア的分類法からの逸脱であり、脱臼であるわけだけど。ただ、モダニズム写真の弱点は、十分に抽象的でないことだよ。というか造型的な抽象(分離)に過ぎない。というか、何度も言うように、アナログ写真が見出した自然の質的差異を絶対化してしまったことじゃないのか。問われるべきなのは、分類(区別・分離)法の歴史性なんだよ。
-また歴史性かい(大笑)。
-まとめるつもりはないんだけど、今回の小林のりおの作品を見て思ったのは、フィルム的リアリズムに対してデジタル・リアリズムとも言うべき質感を感じたということかな。その可能性の一つというか。それはよくある夜の都市風景をいかにもデジタル的な光で撮った作品でもなければ、加工技術を駆使した作品でもない。デジタル・リアリズムとは、偽なるもののリアリティというか、虚構のリアリティというか、さらに言えば、近代絵画以後の絵画とも呼ぶべき「絵画(イリュージョン)」-近代以降の絵画が拒否してきたイメージ(イリュージョン)を写真が引き受けようというイメージでもある気がするんだ。言ってみれば、「絵画としての写真」ではなく「写真としての絵画」。
-それじゃ、やっぱり絵画への回帰じゃないの?杉本博司が言うみたいに。
-それは彼がフィルム写真にしかリアルさを求めていないからだよ、おそらく。あるいはリアルとリアリティの混同があるからじゃないのかな。フィルム写真があるリアルさを露出させたことは認めるよ。しかしそれはあくまでもイデア的なものに対してのリアルではないだろうか。イデア的なるものと対置されることによる、関係づけられることによるリアルさではないだろうか。さらに言えば、フィルム写真が批判されるべきなのは、事物を忠実に再現することにあるのではなく、まだ十分に忠実でないことこそ批判されるべきなのではないか。そもそもリアリズムとは、現実の忠実な再現のことではななくて、感覚運動的図式にしたがったイメージ(紋切り型)のことじゃないのか。ドゥルーズがロブ=グリエを引いて言うように、いわゆるリアリズムとは「対象の独立性を前提とし、それゆえ現実的なものと想像的なものとの識別可能性を仮定している」ものだ。したがって、ここで言うデジタル・リアリズムとは、感覚運動的図式に従うことのない、あるいは裏切る、光学的な描写のことだ。
-??
-つまり、フィルム写真のリアルさでは、まだまだ不十分ということだよ。

反事例集

2009年10月23日 | Weblog
-反事例集だって、君はいったい何を試みようとしてるんだい?
-う~ん……、まあ、事例というのはおそらく、ある一つの仮説を立て、それを証明するためにいくつかの例を提示することで、その仮説の正しさ、正当性、あるいは仮説を裏付ける具体的な根拠を示そうということだろうけど。反事例集ということは、その仮説に対しての懐疑、逡巡、ひょっとしてある種の裏切りを表明したいということになるのかな?
-ということは、君が想定する、考える理論を証明するための事例集ではないということだね?
-そういうことになるかな。時代を診断するための症例としての事例集ではなく、むしろ時代に抗う反時代的な事例集ともいうべきものかな、あるいは潜在的差異の事例集?
-それでもまだ何だか、曖昧だね。というか、曖昧さをアリバイにして、どちらにも逃げらえるようにしているんじゃない?私はどちらの立場ではありませんよ、唯一の立場に与する者ではありません、みたいな。
-(苦笑い)。ひとつ、弁解、弁明を言わせてもらえれば、答えを求めるよりも、あくまでも問いを開きたいという思いはあるよ。おそらく理論とは、現実の事象から一つの法則を引き出すことではなく、むしろ潜在的可能性を引き出すことではないか。したがって、理論とはいわば問いの創造ということになるのではないだろうか。
-またまた、うまいね。さしずめカントとニーチェの違いというところかな?
ところで、この問答形式って、吉本隆明やデリダっぽいね(笑)。
-いやいや、問答形式っていうのは、ソクラテスというか、プラトン以来の哲学的ディスクール形式の常識でしょ?
-またまた、知識人ぶっちゃって。弁証法というわけか。ようするに、主体の責任を逃れるために複数の声を現前させたいわけじゃないの?
-……。
-経験的な自我と反省的な自我の絡み合いということか~?まあ、前置きはそれくらいにして、で、何の反事例集をやろうとしているわけ?
-うん。もちろん、写真というイメージを中心にして、現代美術におけるイメージの事例を俎上に乗せてみようと思っているんだ。
-ということは、イメージの事例集-「現代におけるイメージとは何か」みたいなことを問題にしようとしているわけ?
-そういうことかな。イメージのデジタル化が進むなかで、写真家も含め、美術家(表現者)と言われる人たちはイメージをどのように考え、イメージを活用して何をやろうとしているのか、どんな効果を意図しているのか、その表現的動機とは何か、そんなこんなを考察してみようかなと。
-で、具体的に作家たちの作品を考察していくということ?
-うん、写真集や画集、作品集、展覧会など、できるだけ具体的な作品を俎上に乗せていきたいと思ってる。一応、2000年以降の作品を考察していきたいと思っているけど、時には過去の作品なんかも取り上げるかもね。
-前口上はいいんで、具体的なことを示してほしいね。だいだい、このブログって、いつも抽象的なことばかり書いているよね。
-その通り。確かに、耳が痛い話だ。で、まずは安村崇の『日常らしさ』という写真集を取り上げてみようかなと思ってるんだ。
-ほう、安村崇の『日常らしさ』か~。どうして、この写真集なの?
-深い意味はないと言うと、また「逃げている」とか、「曖昧だ」とか言われそうなので、簡単な意図を述べると。今、すごく関心があるのは、いわゆるモノ一般と芸術作品の違いなんだ。このテーマはハイデッガーが『芸術作品の根源』(平凡社 関口浩訳)で取り上げたテーマでもあるわけなんだけど……。
-そう言えば、デリダは『絵画における真理』(法政大学出版局 阿部宏慈訳)所収の「返却」で、その論文の注釈をしているね。それが問答形式だった!(笑)。
-そうだったかな?
-しらばっくれないでよ!
-まあ、それはそれとして……。ハイデッガーは「芸術作品」「物」「道具」という三つのモノの違いをもとに論を進めているんだけど。「物」というのはいわば素材(質料)のことだよね。「芸術作品」と「道具」というのは、人間の手になる制作物になるわけだけど。確かにハイデッガーは、「芸術作品」と「道具」の違いは論じているんだけど、「商品」という概念は考慮していない気がするんだ。19世紀以降、実は「商品」という概念を考えないと、「芸術作品」と「道具」の違いを論じることは難しいんじゃないだろうか?
-「道具」と「商品」の違い、「芸術作品」と「商品」の違い。う~ん。その辺りの議論は、ベンヤミンを嚆矢としてアガンベンなんかも『スタンツェ』(ちくま学芸文庫 岡田温司訳)で取り上げているテーマだよね?
-そう、おそらく19世紀において、モノ一般(道具も、芸術作品も、単なるモノも含め)のあり方が変化している。とりわけ「道具」のあり様が変容しているんじゃないか。人とモノの関係の変化。人とモノの関係というのは、イメージのあり様でもあるわけだよね?安村崇の『日常らしさ』は、その辺りの議論を進めるのに、きわめてうってつけの作品のような気がするんだ。
-「モノ論」をやりたいわけ?
-そう解釈してもらってもいいかな。イメージを通して、それを探ろうと。
-まあ~、とにかく具体的な論を進めてもらいたいものだね。

-ご存知のように、安村崇の『日常らしさ』は、おそらく安村崇の実家を撮ったものだろう。築何十年かは経ったであろう家にある、さまざまなモノ。その多くのモノは大量工業製品群だ(もちろんん、それだけではない。長年、使われてきたと思しきモノもある。あるいは人物たち)。安村崇はそれらのモノをミニマリズム的な手法で撮っている。
-ミニマリズム的な手法?
-ミリマリズムをどう定義するかという問題はあるけど、客体物を客体のままに提示しているということかな。
-でもそれって、ストレートフォトなんかに代表される、近代写真が目指したことと一緒じゃないの?それこそ、イデア的な意味の層を剥いでいくという。
-ミニマリズムと近代写真の共通性は論じるに値すかもしれないね。とりあえず、安村崇の写真に話を戻すと、当然ながら、ストレートフォトのような作品ではない。むしろ、その違いを語ることが「モノと人の関係」における変化を語ることになるんじゃないだろうか。で、安村崇の『日常らしさ』を見て、最初に飛び込む印象は、画面の息苦しさだ。視線の跳ね返りとも呼べるその息苦しさは、写真を見る僕らの視線がどこにも伸びていかないことにあるだろう。まずその多くのモノは壁や床などにさえぎられ、奥行き感を拒絶している。その結果、僕らの視線は画面に没入することができない。どこかマネの絵画を思わせるよね。また陰影によるコントラストも避けられ、フラットな平面性を構成しているので、見る側のいわゆる記憶を喚起させることもない。安村崇のモノたちは、造型的な奥行き感も、心理的な奥行き感も拒否しているということだ。
-それが客体物の客体性ということかな?
-そういうことだね。イメージのイリュージョンへの没入を拒まれ、僕らの視線はモノの表面を漂いながら、僕ら自身に跳ね返ってくるというわけだ。また日常のなんでもないモノを凝視するというカメラの視線が、見る側の視線をモノに集中させる。この見る側の視線の往復運動が、この写真の面白さだよね。たとえば、日常のモノをスナップ的に撮ったものであれば、見る側の視線はモノに集中することはなく拡散してしまうだろう。だからといって、モノクロ写真のような陰影によって、モノの存在感を喚起させようとすれば、見る側の視線はモノの記憶という心理的なイリュージョンの世界に引き込まれてしまうだろう。
-その結果として、安村崇のモノたちは異常なモノに見えてくるわけだ。
-そう、初めて出会う得たいの知れないモノのように。
-でも、あの写真集には鏡台や箪笥、椅子といった家具や、壁や廊下といったやや年季を感じさせるモノも登場してくるよね。


コーカス・レース

2009年07月13日 | Weblog
「テクスト(写真)は現実に依拠するだけではなく、現実に作用を及ぼすものだからである。それらは現実のドラマトゥルギーの一場を、復讐の用具、憎悪の武器を、戦いのエピソードを、絶望或いは嫉妬、哀願或いは命令の仕草を形成しているのである。私は、他のどれよりもよく現実に忠実であるような、その再現的価値故に取っておくに値する文書(写真)ではなく、何よりも、その文書(写真)が語る現実の中で或る役割を果たし、逆に、記述が不正確だろうと誇張されていようと偽善的であろうと、現実に貫かれているようなテクスト(写真)を捜そうした」(フーコー『汚辱に塗れた人々の生』丹生谷貴志訳)。テクスト、文書を写真に置きかえて読んでみたい誘惑にかられる。

ヌーメノンとしての「デジタル・リアリズム」(小林のりお)。思考されるべき、生成されるべき、創造されるべき現実。「この描写(ヌーヴォーロマンのネオリアリズム的描写のこと)は一方でそれに固有の対象にとってかわり、対象の現実を破壊して想像的なものの中に移行させ、他方でそれは、想像的なものあるいは心的なものが言葉と視覚によって創造する現実の全体を、対象から出現させるのである」(『シネマ2』ドゥルーズ 宇野邦一ほか訳)。

中心なき事物状態に遡ろうとする中平卓馬と、いまだ自然的知覚(身体的知覚)の特権性を維持しようとする森山大道。こんな比較・対照は可能だろうか?

ミシェル・フーコーは『ビンスワンガー「夢と実存」への序論』のなかで、夢の解釈において「精神分析は、意味作用の成就と、指標の帰納とを混同したのである」と言っている。それに対して、フッサールの『論理学研究』は「指標作用と意味作用」を区別したことにあると述べている。この夢における表現の論理を写真の機能と論理につなげてみること。写真というイメージ-その経験の固有の次元における「表現」とは何かを考察すること。

ミニマリズムは、縦・横(座標軸)という絵画の条件となるフレーム-つまりはフレーム化された平面性としてのイリュージョンを回避するために、彫刻=立体の世界を志向した。しかし、ミニマリズムが呈示・現前させようとした客体性はけっきょく、三次元-つまりフリードが言う演劇性の制約(三次元のフレーム化)、あるいはその条件(差異の取り消しとしての配分法)を思考することができなかったのだ(「単純な平面を考えても、あるいは第三の次元〔おくゆき〕が他の二つの次元〔縦と横〕と同質的であるような三次元の延長を考えても、明らかに同じ事態に帰着する」ドゥルーズ「差異と反復」財津理訳)。これがフリード下した、ミニマリズムに対する結論であり、批判である。けだし、表現とはすべからくパラドックスでなければならない(フリードによるカロの作品分析を参照せよ)。延長量に還元されることのない根源的“深さ”(「純粋なスパティウム」-ドゥルーズ)の生成こそがフリードの言う「リテラリズムを打破する現存性と瞬時性」であり、“虚の透明性”の創造なのではないか。フェノメノン(現象)に対するヌーメノン(仮想的存在)。

マイケル・フリードの「芸術と客体性」(批評空間 臨時増刊号「モダニズムのハードコア」所収 川田都樹子・藤枝晃雄訳)を再読。ミニマリズム批判としてつとに有名な論考だが、同時にグリーンバーグ(=現象学的還元主義)への反現象学的批判でもある。この論考ではグリーンバーグにおけるモダニズム理論の一つの帰結がミニマリズムととらえられているわけだが、この論考でフリードが最も問題にしているのは芸術的“表現”ではないのか。つまり表現というものをどうとらえるかの問題である。

グリーンバーグもフリードも、あまりテーマとして取り上げることがないのだが、写真・映画というテクノ画像の出現と現象学の関係である(モダニズム美術と現象学の関係は徹底的に考察されるべきではないか。言うまでもなくベルクソン的な視座を傍らに)。つまり、テクノ画像の出現によって、イメージの即物性-フリードの言葉で言えば、リテラリズムへの志向が始まったということである。あらゆるイデア的なものを排除していったときに残るものとしての客体(あるいは現象学における身体)。これは写真に対して夢見られた記録性への信仰(と身体への依拠)と同じものである。いわば玉ねぎの皮をむいていくことで、その芯なるもの(現実性)を呈示しようというものである。しかし、おそらく芯は存在しないのだ。芯の存在を想定させていたのは、実は何重もの皮なのである(笑)。ミニマリズムが呈示しようと試みたのは、言うまでもなく、玉ねぎの芯(客体性)の存在とその知覚的諸条件(身体と意識の関係)である。したがって、ミニマリズムにとっての表現とは、排除すること、引き算することにある。しかし、この思考はきわめてプラトン的(イメージにおける感覚的なものの排除)、キリスト教的偶像破壊主義的なもの(異教的なものの排除)ではないのか。ここにテクノ画像以後の芸術的表現における表現性の問題が浮上してくる。

ジャン=リュック・ナンシーは、re-presentation(表象)のreは反復の接頭語ではなく、強意のそれであると言っている(「禁じられた表象」)。これを表現性に敷衍すれば、表現とは対象から何かを引き出し強調することなのである。とするならば、芸術的表現とは特異なものを生成することにほかならないだろう(その説明は省くが)。フリードが批判するミニマリズムにおけるリテラリズム-そしてその演劇性は、現代アートの多くに見られるものだ。他の文脈にあるもの(たとえばサブカルチャー的なもの)をコンテクストを変えれば(つまりアート空間に置き直せば)芸術になるという思い込み、そのリテラリズム(デュシャンが試みたことはこれとはまったく反対のことである)。その本質はフリードの言う演劇性にあるだろう。と同時に、これはまさに写真というイメージが用意したものではなかったのか。確かに写真は、そのインデックス的特性によって、ある種の即物性(指示される対象との)を持っている。しかし、その即物性とはある限定された、閉じられた全体のなかでの任意性であることを忘れてはならない。つまり、写真によって切り取られたものが無条件に特異なものではないのだ。だからこそ、芸術表現が要請されてくる。

ドゥルーズに逆らって、あるいは依拠して、「動かない切断面(静止画)」の可能性を探ること。ドゥルーズをナンシーに接続すること。「状態の美学に対峙する運動の美学」(ジャン=リュック・ナンシー)。写真(静止イメージ)において、運動の美学を思考すること。分離・区別する力(=動き)としての静止イメージ。

イメージとは、現実の存在物から分離され、切り離され、区別され、距離をおかれ、切り取られたものである。その分離・区別の方法が、イデア(絵画的イメージ)によるものであれ、機械的・直接的なカメラの目によるものであれ、イメージについて語る場合、われわれはまず、イメージがもつ分離・区別の機能から始めなければならない。ジャン=リュック・ナンシーに倣って、その分離・区別されたイメージを聖なるものと呼んでもいいだろう。分離・区別するとは、言うまでもなくフレーミングの問題である。外を限定・規定し、内と外を分かつこと。パルゴン(作品)とパレルゴン(作品外のもの、付属物)、そしてカードル(ジャック・デリダを参照)。フレーミング(分離・区別-限定・規定)によって現実から対象化されたものをvisionと呼ぼう。この対象化されたものがドゥルーズが言う「意味」であり、フッサールが言う「表現」である。したがって、分離・区別されたイメージは、その現実的存在物やその状態(事物)と混同してはならない。分離・区別されたイメージ=表現とは、ドゥルーズも指摘するようにあまり厳密な比喩とは言えないにしろ、いわば霧や靄、空気のようなものである。効果としての表現、あるいはvision。したがって、visionとは現実の事物から分離・区別されたもの、再びジャン=リュック・ナンシーに倣って言えば、聖なるものであり、触れることの次元にはないものであり、事物から分離・区別された「判明なるもの」であり、弁別的な特徴線とも言うべきものである。判明なるものとは、接触から隔てられたものであり、同一性、類似性から隔てられたものである。とすれば写真というイメージは、その事物との高い類似性と再現性ゆえに、真なるイメージとは言えないことになるのではないのか。バルトが指摘したように、写真というイメージはあまりにも被写体と密着している。われわれは写真を見る場合、写真というイメージを見ることができず、つねに被写体に還元してしまう。しかし逆に言えば、写真というイメージはその高い類似性・再現性ゆえに、イメージの分離・区別の力-判明なるものの力を最大限に発揮することが可能になるのではないのか。つまり、似ているが似ていない。同一であるが同一ではない。絵画的なイメージであれば、それがどれほど再現力が高いものであれ、あらかじめイリュージョン(偽のイメージ)を前提にしている。「写真が危険なのは事物に忠実であるからではない、十分に忠実ではないからだ」と言ったのはD・H・ローレンスである(ドゥルーズを参照)。写真というイメージはその類似性・再現性の高さゆえに、分離・区別を強調することができるのではないか。ジャン=リュック・ナンシーが言う「区別化する力」。とすれば写真というイメージにおいては、演出された、加工されたイメージよりも、事物により忠実なイメージこそがその区別化の力を発揮するというパラドックスが成り立たないだろうか(笑)。「事物との不可分な現前と隔たり」の緊張感と切り開かれ(ジャン=リュック・ナンシーとハイデガーを参照)。しかし同時に、写真の類似性・再現性の高さは表象の追認・再認に陥る危険性もある。写真の象形性における危険(ドゥルーズを参照)。

では何をどのような方法で分離・区別するのか。ジャン=リュック・ナンシーは、「本質的に事物から区別されているもの、だがそれはまた力、エネルギー、圧力、強度でもある」と言っている。力、エネルギー、圧力、強度、それはまた暴力である(バタイユを参照)。実際、それは近代以降の絵画が追い求めてきたものだ。では、写真にも同様なことが言えるのか。当然、言うまでもなく、絵画と写真では、その分離・区別の方法が異なる。

このイメージがもつ分離・区別の機能に、初めて意識的に着目したのがシュルレアリスムにおける写真である。シュルレアリスムにおけるフォトモンタージュとバウハウスにおけるフォトモンタージュ(あるいはモホリ・ナギのフォトグラムとマン・レイのレイヨグラフ)の違いに着目せよ(ロザリンド・クラウスを参照)。シュルレアリスムの写真における二重化の登録。

やなぎみわにおける未来(イメージ)の使用(配分)法とはいかなるものか。

資本主義とアート。未来(可能性・幻想・イメージ・理想)の配分。未来の二つの構成(配分)。過去を相対化する(過去に基づく現在の諸条件を批判・変更する)ものとしての未来。過去を回避する(過去に基づく現在の諸条件の継続・無視する)ものとしての未来。未来への過剰な依存-金融資本主義あるいは幻想としてのアート、超越的理想・理念(理性の不当な行使)……。特権的未来(超越的形相による秩序)と任意の未来(特異点の生産)。

未来の過剰と不足。未来の過剰はバブルを産み、未来の不足は不活性化を産む(過去による過度な制約)。写真というイメージ(テクノ画像)は未来の過剰と不足の“間”(ここでいう“間”とは、バランスのことでも、均衡のことでも、中庸のことでもない。過剰でも、不足でも、どちらでもないもの。中断、宙吊り-準安定状態)である可能性を秘めているのではないか?

ロラン・バルトに先立って、イメージにおける「現存性(プレザンス)」の概念を刷新したのはアンドレ・バザンである(『映画とは何か』所収「演劇と映画」を参照)。もちろん、バルトの言う「実在性(それはかつてあった)」とバザンの「現存性」は異なる概念だ。バルトのそれが過去に起点を置いているとすれば、バザンのそれはあくまでも現在にある。イメージにおける現存性と不在の関係。写真というイメージは、この現存性と不在の関係を、それまでの造形芸術(絵画的イメージ)とはまったく異なる次元に導いた。それがイデア的介入を排した、写真における光の痕跡(鋳型)としての直接性である。しかし、バザンによれば、写真のイメージにおける現存性は空間において実現したにすぎない。その意味で写真はいまだ不完全な道具なのである。われわれは時間的な次元でそれを達成する映画を待たなければならない。しかし写真は、静止画ゆえに視覚の空間的な肥大と縮減をもたらすだろう。つまり、瞬間としての時間的視覚を幅(視界)と奥行き(被写界深度)において無限に引き伸ばす(あるいは切り開かれる)のだ!引き伸ばされた時間(瞬間)。ゼノンのパラドックス。動かない矢、亀を追い越せないアキレスによって、事物の多様なあり様(属性)への思考をうながす静止画。ショック(不意の出会い)としての静止画(写真)の可能性。ちなみに最近の大森克己のスライドショーは、この引き伸ばされた時間と知覚の関係を探る、きわめて興味深い試みである。

実在性と現存性について一言付け加えておけば、バルト的な写真の実在性(もちろん、バルトはその著『明るい部屋』のなかで、最終的にはその実在性を疑問に付すことになるのだが)とは、今、目の前にしているイメージ(被写体)が過去に実在したものであるという見方である。つまり、過去に実在したもの(被写体)が現在のイメージにおいては不在ということである。しかし、バザンの現存性とは、イメージがまず目の前にあるということである。現前しているイメージから出発する。ということは、イメージから導かれる被写体は、イメージによって過去のもの(被写体)として対象化されるということである(もちろん、この「過去のものとして」が曲者なのだが……。つまり事物のセリーと出来事のセリーがあることになる)。過去のものとして対象化された被写体は、バルト的な意味での「かつてそれはあった」ものではない。あくまでも効果として生成されたものである。つまり、バザンの見方においては、イメージと不在(の対象)との関係が逆転しているのだ。言うまでもなく、ドゥルーズもまた、『シネマ』のなかでこのバザンの見方を踏襲している。

しつこいようだが再び、かの愚か者(笑)-杉本博司を批判する。下記の杉本の発言の誤解はどこにあるのか。セッティングされた現実を撮ろうが、演出された現実を撮ろうが、写真というイメージの登場後は、絵画的イメージ(イデア的イメージ)が終焉したのだ(それを作品化したのが杉本本人ではなかったか?)。したがって、現在の絵画あるいは杉本が言うように近代絵画以降の絵画(すべてはありませんもちろん、イデアに基づいた絵画は現在もつねに存在するのだから)は、もはやいわゆる絵画的イメージ-イデア的イメージではないのだ(われわれはイデア=絵画的イメージ以後から出発しなければならないし、近・現代絵画-美術もまたそこから考えなければならない)。その相異が理解できないから相変わらず、演出された(つくられた)写真は絵画的なものと判断してしまうのだ(相変わらずの、無反省な絵画と写真の二項対立)。かつてこのことを理解し、自覚し、問題にしていた唯一の写真家は中平卓馬であった。デジタル写真は絵画への逆行であるどころか、「実在なきイメージ」「イメージなき実在」という対立を超えた思考を可能にするのだ(杉本の発言を好意的にとれば、もちろんデジタル写真は絵画的-イデア的なものへと逆行する危険性を孕んではいる。しかしそれは一面でしかない。その一面を回収してはならない)。「したがって電子的イメージは別の芸術意志、あるいは時間イメージのまだ知られざる側面において、基礎づけられるべきだろう。芸術家はいつも同時に、こういわねばならない状況におかれている。私は、新しい手段を要求する。そして私は新しい手段が、あらゆる芸術意志を消滅させ、あるいはそれを商業に、ポルノグラフィーに、ヒトラー主義に変えてしまうことを恐れる……」(『シネマ2』宇野邦一他訳)。ドゥルーズは同じ著で、世界への信仰を語っている。世界を信じること、それは世界の、宇宙の持続としての変化を信じることではないか。「芸術の目的=終焉を芸術の止揚となし、その結果芸術の完成であり芸術の哲学的達成であるとする思考-それは、芸術を芸術としては破棄し、哲学として芸術を是認するものであり、哲学を言説としては破棄し、芸術としては保存する」「一つの表象あるいは表現として構想された芸術は、実は終わってしまった芸術であり死んだ芸術である。(略)芸術が本当のところは、もうすでに(再)呈示=表象の境位にとどまってはいないからである。(略)ヘーゲルはそのことを知らなかった」(ジャン=リュック・ナンシー『崇高な捧げもの』梅木達郎訳を参照)。杉本博司のいまだ変わらぬヘーゲル的思考(笑)。

「デジタル時代になって写真は世界の存在証明能力を喪失してしまった。デジタ ル写真によって世界は手を入れられる材料に堕してしまったのだ。写された世界 は操作され、処理され、そしてファンタジーへと変換されるのだ。そうした意味 ではデジタル写真は絵画への逆行であるともいえる。画家は写真という強敵が現 われるまで、のほほんと世界を恣意的に描いてきた。写真の発明は多くの絵描き を失職させた。絵描きがリアリティーの描写において、写真に勝ち目がないとい うことを悟ったおかげで、近代絵画というものが発明されたといっても良い。そ れは印象派やキュビズム、シュールレアリスム、ひいては現代美術へと発展した のだ」 (杉本博司の発言)

ドゥルーズは、近代科学革命とは運動(時間)をイデアという超越的なエレメント(ポーズ)から内在的な物質的エレメント(切断箇所)から再合成するに至ったことだと語っている(『シネマ1』)。この内在的な物質的エレメント-切断箇所とは何か。それは運動(時間)を感覚可能なものとして、あたかも人体を解剖(図式化)するごとく切り開くことではないのか。瞬間の解剖学。そこから何が可視化されるのか。おそらくそれは事物の多様な属性である。事物の出来事(しかし、出来事はイメージの外部にはない)。写真というイメージは事物の多様な特異点をさらけ出すのだ。内在的な物質的エレメント(切断箇所)-瞬間の解剖学を考察すること。

「関心を快適なものでは対象にとり、美しいものでは自己にとる」(ジャン=リュック=ナンシー)。カント『判断力批判』における快適・美・崇高-この三つの関係を考察すること。




コーカス・レース

2009年05月04日 | Weblog
迂回、そま道、けもの道。イメージの脱臼。

イメージの二つの機能。表象=再現前化(感覚-運動図式)を肯定する方向と表象=再現前化を疑問に付す(中断・宙吊りにすること)方向。言うまでもなく、広告的な写真は表象=再現前化的イメージを再認・追認する方向で、写真という表現形式を利用する。いかにして広告的なものから写真を救うか、あるいは区別するか(笑)。それが問題だ。

ドゥルーズによるイメージの時代区分を考えること。第一の機能-「イメージの背後に何を見ればよいのか?」。第二の機能-「イメージの表面に何を見ればよいのか?」。第三の機能-「イメージの背景がつねにすでに一つのイメージになっているとすれば、いかにしてイメージのなかに入り込んでいくか?」。(『記号と事件』)

このイメージの時代区分を写真史とダブらせれば、戦前から60年代までの写真が被写体(あるいは撮影者の理念)を問題にし(何を、どう撮るか?)、60年代から90年代までが写真というイメージそのものを問題にし(被写体とイメージ関係性とは何か?)、そしてデジタル化以降、イメージの実在性が疑問に付される(僕の言葉で言い直せば、被写体-客観性も、撮影者-主体も宙吊りにされるということだ)なかで、イメージの真理が問題にされることになるだろう。

アメリカの社会学者I・ウォーラーステインは、資本主義的世界経済における「資本蓄積の矛盾」について、高度に独占された生産物(中核)と高度に競争的な生産物(辺境)との基軸的分業を指摘しているが、これは芸術における「高度に独占された生産物=伝統的美術(たとえば日本絵画、あるいはアカデミズム絵画)」と「高度に競争的な生産物=現代美術」の分業に似ている(笑)。伝統美術と前衛美術、ファインアートと広告アート(サブカルチャー)、制度(国家的文化制度)と市場……。資本主義における「芸術(アート)」。われわれは社会における「芸術」の機能と価値について改めて再考(その歴史も含め)しなければならない。

最も理想的な民主主義社会とは、誰もがもはや官僚や政治家(代理・代表者)になりたがらない社会であろう。そのとき、代理・代表者はくじ引きによって選出されることになる。

本日、KAWADE道の手帖『中平卓馬』(河出書房新社)が発売。僭越ながら、僕も小論を掲載させていただいているので、ご興味のある方はご一読のほどを。こんな自己宣伝めいたものを書くのも、実は、再録された浅田彰の『中平卓馬という事件』の追記に、小原真史監督の『カメラになった男』について書かれた一文に眼を惹かれたからだ。というのも、浅田彰が言及しているシーンに、僕もこのブログで、以下のように書いたことがあるというのがその理由。

「まったく旧聞に属するが、小原真史監督の『カメラになった男』のあるシーンを思い出した。この映画は中平卓馬のドキュメンタリーだが、そのなかで、沖縄でのあるイベントを撮った場面(おそらくは東松照明の沖縄展?)があった。壇上には、東松照明を筆頭に森山大道、中平卓馬、そして港千尋が、さらに客席の横には荒木経惟がいる。これはまさに日本写真史の縮図であった。一人、東松にかみつく中平。苦笑いをしながら、超然さを装う東松。なかに入って「まあ、まあ」と言ってとりつくろうとする森山。爆笑しながら茶々を入れる荒木。そして何とかまとめようとする港。それぞれの写真観があらわれた瞬間であった-大笑。あらためて言うまでもないが、ぼくは中平卓馬の身振りに最も好感をもつ。あくまでも「敵」を明確にしようとする中平と、「敵」が不明確であることを「良し」とする輩。」

この同じシーンについて、僕よりもはるかに深い考察をしているが、浅田彰は次のように書いている。

「ステージに掲げられた『写真の記憶 写真の創造』というタイトルを見た写真家(中平卓馬のこと-引用者)は、まずそれに鋭い疑問を投げかける。アメリカ帝国主義が侵攻を続ける琉球=沖縄の現実を、「記憶」や「創造」-「アメリカ語で言えば『メモリー』や『クリエーション』-といった能天気な詩的観念で捉えられるのか。自分がかねて主張してきた「ドキュメントとしての写真」-歴史的現実の断片としての写真こそが、そこで求めれられているのではないか。見事な批判というほかはない。<改行>ヴィデオを見るかぎり、東松照明は老獪にも沈黙を守り、森山大道はそそくさと席を立つ。沖縄のことをどのくらい考えているのかと詰問され、自分は政治を抜きにした沖縄の「熱」に惹かれているだけだと答えて一蹴された荒木経惟は、「昨日一緒に踊ったのに」と言って情緒的な共同体への取り込みを図るのだが、中平卓馬はそんなことなど忘れたかのように(本当に忘れていたのかもしれない!)そっぽを向くばかりだ。そこに見いだされるのは、『PROVOKE』の時代よりさらにしたたかになった、野良猫のように孤独なprovocateur(挑発者)の姿なのである」

やや引用が長くなったが、浅田彰が指摘する中平卓馬の「東松照明への批判」とはどういうことか。中平卓馬のいらだちとはどういうことか。そこに強い関心を惹かれた次第である。中平卓馬にとっての写真は、歴史化された出来事の証拠写真-歴史の補完的な視覚的資料ではないということである。中平卓馬にとっての写真は、歴史化されようとする出来事を、つねにその出来事そのもの立ち返って、出来事への思考をうながす(挑発する)視覚的資料なのである。いわば出来事の歴史化を拒み、歴史を裏切り、宙吊りにするための視覚的資料なのだ。「沖縄の記憶」あるいは「沖縄の記録」という場合、それはつねにある歴史化されてしまった(完結されてしまった)出来事を前提にしている。中平卓馬(浅田彰)が言う「歴史的現実の断片」とは、そうした前提される歴史に回収されない断片のことである。歴史と出来事。実は、このことは今回の拙論で論じた、ドゥルーズの「全体(tout)」と「総体(ensemble)」の規定と大きく関わってくることでもある。

写真(イメージ)を見るとは、デリダ流にいえば、写真(イメージ)を見る者は被写体を見ているのか、それとも被写体を見る撮影者のまなざしを見ているのか、という問いを自らに問うことである。写真(イメージ)を見るとは、その関係を見ることではないのか。被写体とそれを見た撮影者のまなざし。その関係を読み解くことが見ることではないのか。写真(イメージ)を見る者はいつもつねに、撮影者のまなざしと重ね合わせなければ被写体を見ることができない。何という不条理!(笑)。写真(イメージ)を見る者は否が応でも撮影者の眼となる。しかし、撮影者と被写体の間には、カメラというもう一つの眼も介在している。さらに、被写体そのものが見る者の眼を射る。それが人物像であれば?被写体の眼が見る者を見返すこともある。たじろぐのは見る者か、撮影者か(再びの笑い)。しかし、それは物であっても同様だ。物のまなざしに凝視されるラカンの経験を持ち出すまでもなく。とすれば、写真を見るとは、被写体の眼、撮影者の眼、カメラの眼、三つのまなざしとの関係を問うことなのか。あるいはこの三つのまなざしと見る者の関係を問うこと、それこそが写真を見ることなのか。いずれにしても、写真を見る者は、この三つのまなざしのなかで分裂し、引き裂かれ、見る者の眼は宙吊りにされることになる。宙吊りにされた見る者のまなざし、見る者の意識、意図に関わらず。何と不条理なことか!(再びの笑い)。撮影者は何らかの表現形式のもとで、撮影者が見たものを見る者に語る(伝える)、カメラの眼を借りて。その被写体の多様な存在のあり様を。言葉で語る(伝える)こと、あるいは描くことで語る(伝える)こととカメラによって語ること。その違いには大きな隔たりがある、言うまでもなく。

ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』(橋本一径訳)を読んで思ったこと。この本は、ゾンダーコマンドと呼ばれる、ナチスのユダヤ人収容所における囚人の「特殊部隊」のメンバーによって撮られた4枚の写真について書かれたものである。同胞の死体処理を強いられ、自らの死をも免れえなかった「特殊部隊」、ゾンダーコマンド。彼らは収容所の実態を後世に残さなければならないという使命感から、きわめて危険な状況のなかで、4枚の写真を撮影する。ユベルマンは明らかに、証拠としての、証人としての写真(イメージ)の意義を再び見出そうとしている。写真を撮ることの切実さ。確かに写真は、その切実さを装うことで、真実を伝えようとしてきた-たとえばフォトジャーナリズム、あるいはその臨場感を偽装することで、秘密のリアリティを喚起させようとしてきた-たとえば性的な盗撮写真。それでもなお、ユベルマンはイメージの持つ、記録的、証拠的、証言的、証人的な意義を問う。監視カメラがいたるところにある時代、ユベルマンの論考はあまりに素朴と言えば、素朴である。映像のデジタル化時代において、イメージの実在性が不問に付される時代、あまりに単純と言えば、単純である。それでもなお、アウシュヴィッツからもぎとられた4枚の写真が意義を持つとすれば、それらの写真が記録、証拠としての写真であるから価値があるということよりも、4枚の写真を読みとる行為を通して(誰が撮った写真なのか、どこから撮られた写真なのか、捏造された写真なのか等々も含めて)、切り開かれ、あらわになる問いこそが重要なのだと、ユベルマンは主張したいのではないか。

最近の若手写真家の作品を見ると、いわゆる“つくる写真”あるいは現実に演出を施した写真が増えている気がする(もちろん、この傾向は写真のデジタル化と密接な関係があるだろう)。現実に対峙し、そこから何かを見つけ出すよりも、自分が見たいイメージあるいは現実を変形、歪曲するようなイメージの戯れに終始している。イメージのバブル化(笑)=社会のスペクタル化。ここでちょっと違った観点から、この傾向について考えてみたい。で、どんな観点かと言えば、サブプライムローンの問題に端を発する、例の金融危機との類似性だ。何故に、金融危機とやらが生じるのか。その要因は言うまでもなく資本主義というメカニズムにある。つまり資本主義とは貨幣に対する信頼性を支えに、いわば未来を先取りしていくことにその本質がある。金融危機とはあまりに未来への信頼(負債)が膨らみ過ぎ、現実(実体)とのつりあいがとれなくなった結果、生じるものだろう。サブプライムローンに関して言えば、低所得者層への住宅ローンが焦げ付いたことにより、未来の負債を現実が解消・保証できなくなった状態のことだ。現実の逆襲。未来の先取りとはいわば幻想(イメージ)をもとに現実の経済が動くことである。ところが、現実と幻想とのバランスが崩れると(決済時のアンバランスというか滞り)、金融危機が生じるわけだ。これは、現在の写真の状況とそれほどかけ離れているわけではない。つまり、あまりにもイメージの戯れ=幻想の戯れが過ぎると、隠されてきた現実からのぶり返しが来るのではないかと言うことだ。イメージの戯れ、感覚の戯れもいいが、そのうち怪物化した現実からのしっぺい返しが訪れるのではなかろうか。誤解なきよう付け加えておけば、加工や演出が悪いということではない。現実を出発点にするのか、自分が見たいイメージが先行するかの問題だ。言うまでもないが、写真は現実の記録に帰るべきだなどと、素朴な主張をしたいわけではない。われわれが現実と呼んでいるものもすでにして幻想の世界のものなのだから。とすれば、何が肝要かと言えば、現実と幻想(イメージ)の関係を問うことなのだ。ところが実際の状況といえば、経済も写真も幻想の世界に浸りきっているというわけだ(笑)。

ドゥルーズの『シネマ1-運動イメージ』がようやく翻訳され、1・2の翻訳が完結した。ところで、ドゥルーズの『シネマ』は写真の分析に何らかの貢献をもたらすだろうか。然り。「人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である」(「経済学批判序説」)と言ったのはマルクスだが、とりわけ『シネマ1』は写真に関する多くの示唆を含んでいる。じっくりと熟読していきたい。機会があれば、ここでも触れていきたいと思っている。

たとえば、直接話法、間接話法、自由間接話法について。ドゥルーズは映画を自由間接話法ととらえている。写真は言うまでもなく直接話法である。だからこそ、「私写真」なんぞと言われるのだ。写真にとって直接話法は免れがたいものだろうか。60年代後半から70年代にかけて、美術側による写真の使用法は直接話法なのだろうか。たとえば、ウォホールの犯罪者リストの写真を使った作品はどうなのか。実際、ポップアートは他人が撮った写真を借用する。これはいわば間接話法である。自分が撮った写真の中に、他人が撮った写真をまぎれこませ、一つの作品として展示したら、どのようなことになるのか(笑)。ドゥルーズの『シネマ1』は、まあいろいろと、写真について考えさせてくれるのだ。

たとえば、写真は撮影した者の主観的知覚である。だから「私写真」なんぞと言われるわけだ。しかし、その主観的知覚にはカメラの眼が介在している。だから、写真は客観的知覚なんぞと言われるわけだ。しかし、カメラの背後には撮影者が存在し、操作をしている。だからやっぱり写真は「私写真=主観的」なんぞと言われるのだ。ここで、『シネマ1』からの引用-「経験論的主観(主体)が世界に生まれるときには必ず、その経験的主観は超越論的主観のなかで同時に反省=反映され、超越論的主観は経験論的主観を思考し、経験論的主観は超越論的主観のなかでみずからを思考する」あるいは「主体が行動するときには必ず、その主体が行動するのを眺める他の主体が存在し……」(財津理/齋藤範訳)。写真というカメラアイが介在した主観的知覚は、実は主観的知覚でもなければ、客観的知覚でもないのではないか。だからこそ、ベンヤミンの言葉-「自分が撮った写真から何も読みとれない者こそ文盲と呼ばれるべきではないか」が意味をもってくるのだ(笑)。

おそらく、フィルム派の写真家たちがどうしてもデジタル写真を許せないのは、光の扱い方である(構図に関してもしばしば指摘されることだが、構図中心主義はすでに、ウィリアム・クラインの影響を受けたプロヴォーグたちによって脱構築されている)。カラー写真やデジタル写真は、モノクロ写真に比べ、光の効果が見えにくい。というよりも、第一義的なものとして重要視していない。フィルム写真が作り上げてきた、光と闇の緻密な組織化、あるいはドラマ化。写真が作り上げてきた光の体制に対して、明確な意図をもって抗った写真家は、僕が知る限り、中平卓馬と小林のりおの二人だけである(微妙な違い-決定的な違いはあるが、篠山紀信も付け加えていいかもしれな)。確かに、写真が構築してきた、洗練させてきた光の美学には抗いがたい魅力がある(魅力だけではなく、そこには写真の本質的な営為が含まれているだろう、おそらく)。アマ(及び素人)とプロの写真を区別するのも、この光の扱い方である。60年代後半から70年代にかけて、何故、美術側のアーティストが素人の写真をかくも多用したか。われわれは何故に写真がこのような光の美学を作り上げてきたのかを問わなければならない。マネがルネサンス絵画や古典主義的絵画の光を問うたように。光を無視しろと言っているわけではない。むしろ、新たな光の扱い方を思考すべきだと言っているつもりである。

そして僕らは「イメージなき実在」と「非実在的イメージ」について考えなければならない。言うまでもなく、その中間において、宙づり状態において。

after-d.orgのブログで小林氏が引用している杉本博司の発言を読んで、正直、驚愕した。

「デジタル時代になって写真は世界の存在証明能力を喪失してしまった。デジタル写真によって世界は手を入れられる材料に堕してしまったのだ。写された世界は操作され、処理され、そしてファンタジーへと変換されるのだ。そうした意味ではデジタル写真は絵画への逆行であるともいえる。画家は写真という強敵が現われるまで、のほほんと世界を恣意的に描いてきた。写真の発明は多くの絵描きを失職させた。絵描きがリアリティーの描写において、写真に勝ち目がないということを悟ったおかげで、近代絵画というものが発明されたといっても良い。それは印象派やキュビズム、シュールレアリスム、ひいては現代美術へと発展したのだ。
今度のデジタル革命とやらはどこへ向かうのだろう?食品の虚偽表示にはあれほどめくじらを立てる社会が、どうして世界の虚偽表示である写真のデジタル化を喜ぶのか、私にはその気心が知れない。」
その全文は、ここ、http://plaza.bunka.go.jp/museum/beyond/vol8/。

おいおい、蝋人形館や博物館のフェイクを本物のように撮った、あのアイロニーは何処にいったのか。あんたは本当に、写真というイメージの「実在性」を信じていたのか。写真は事物がイメージに転換されるところに重要性があるのであって、実在性を語ってはならないのだ。ロラン・バルトが語った「それはかつてあった」という写真の実在性は、「世界の存在証明能力」といった素朴なものではない。杉本博司のあまりにも、写真への認識の浅さに正直、驚くばかりである。オリジナルとコピー、本物と偽物、実在とイメージ、杉本は相変わらず表象作用の前提となる二進法的ヒエラルキーにとらわれている。

40年以上も前に、中平卓馬は以下のように書いている。杉本博司の発言と、中平卓馬が言う「事実信仰思想」とどこが違うのか。そもそも杉本博司は「実在性」と「物の状態」を混同している。あきれるばかりである。

「「写真」という言葉には自然主義リアリズムを前提とするひとつの物の見方がぬぐいようもなく付着している。「〈真〉なるものがどこか外部に客観的に存在し、カメラというこれまた客観的な機械がそれをそっくり切り取ってくる」。カメラの発明とその利用のされ方の歴史がいわば写真に不可避的におしつけたものであるそれは、事実を重視するという意味でドキュメンタリズムへの豊富な可能性をもちながらも、一方で、事実のもつドラマ性とカメラとの間の緊張関係に生まれるカメラマンのドラマツルギーとそこからひき出される「表現」の問題をいっさい斥ける事実信仰思想ともいうべきものを生み出している」(『見続ける涯に火が……』所収・「映像は論理である」1965年「日本読書新聞」より)

もちろん、ここから写真の「表現性(操作・処理・変換等々)」の優位を導き出してはならない。その後の中平卓馬の歩みを見れば、それはおのずと明らかである。中平卓馬はつねに被写体(現実)とイメージの関係性を問うているのだ。問題の立て方を変えようとしているのだ。

現在を批判するにあたって、過去のものを持ち出して批判するよりも、現在のなかから反時代的なものを見出すこと。過去が現在よりもましだったなんて誰が言えるのか。アナログイメージを用いてデジタル時代を批判するのではなく、デジタルイメージに反時代的なものを見出すこと。

商品世界においては製品は製作者によってつくられるが、芸術においては作品が作家を生み出す。製品は製作者のあるいはイデアのコントロールのもとでつくられるが、作品はその管理・制御との闘いの軌跡である。制御不能のものとしての作品。職人と芸術家の違い。広告とアートの違い。したがって、作品の背後に、外部に芸術家はいない。作品の内部にしか芸術家は存在しない。

周知のように、プラトンは「国家」の中で、画家や詩人を第三番目に位置づけている。一番目はイデアの創出者としての神、二番目がそのイデアに従い寝椅子などを製作する職人たちである。画家や詩人は実体のない影像を作り出すにすぎない真似師というわけである。プラトンにとっての写真はおそらく、その真似師の最たるものとして軽蔑されたことだろう。しかし、ドゥルーズが指摘するごとく、真理(イデア)から最も離れた第三番目たる芸術家は、イデアとコピーの関係を転倒する可能性を秘めている。そもそもイデアとは永遠の時間-イメージから導きだされたものだ。永遠という概念から導き出された普遍性。そこにはいかなる変化も、新しさもない。芸術、それはイデア(あらかじめ想定された真理)との闘争にほかならない。

起源や根源、純粋さのなかには、必ず何か腐ったものがある。
過去を護符として現在を批判するあらゆる言説には警戒しなければならない。

金融危機がもたらす不況。我が身にもひしひしと迫る不況(笑)。家を追い出され、食うにも困る人々の出現。考えて見れば不思議なことだ。自然災害等々により、生産物が減少したわけでもないのに、食うことに困るとは!今更ながらに、我々は未来を糧に生きていることを実感させられる。未来の消費を想定し、未来の生産をすることで賃金をもらい、“現実(実体)”を購入する。“未来(負債)”による“現在”の購入。言うまでもなく、未来を価値たらしめているのは貨幣である。貨幣-「いつでもつねに交換可能」という、その信用性(幻想)によって現実が未来と交換される。金融危機による不況とは、目の前に山積みにされた食料があるにもかかわらず、貨幣(未来=幻想)なしにはそれを食べることができない状況のことだ。文化システムが過去に支配された現在だとすれば、資本主義的経済システムとは未来に支配された現在である。いずれのシステムおいても我々は“現在(現実)”に触れることが禁じられている。現実に触れるためには、システムの外に出るしかない。暴動?革命?いかにしてシステムの外に出るか。

最近、ドゥルーズの『シネマ1・2』とカントの3『批判』を併読している。ドゥルーズの『シネマ1・2』は、カントとの対決の書という側面があるように思うからだ。運動イメージとしての知覚イメージ、行動イメージ、感情イメージは、それぞれ悟性(認識能力)、理性(欲求能力)、構想力(快・不快の感情-判断力)に対応するだろう。時間イメージは、運動イメージから脱却するための、つまりはカントを超えるための、抜け出すための新たな概念創造の試みのように思える。もちろん、ベルグソンやパースを自在に使っての。カントによれば、空間と時間はあらゆる可能な現れ(現象)の形式であり、われわれの直感ないし感性の純粋な形式である。つまり人間の受容能力としての直感的感性の純粋形式であるということだ。ドゥルーズの時間イメージはまさに、このカントのア・プリオリ性に切り込む試みと言えないだろうか。これは考察に値することのように思える。

KAWADE道の手帖『中平卓馬』(河出書房新社)に「中平卓馬論」を書かせていただいた。中平卓馬のアポリアをめぐっての論考だが、「プロヴォーグ」(そして森山大道)を現象学的なアプローチとして批判するのが密かな試みである。そして中平卓馬が到達した「なぜ、植物図鑑か」がベルグソン的道であったという仮説。2月17日発売予定。興味のある方をご一読のほどを。

いま再びのユートピアを考える。

過去を振り返る、歴史を考えるということは、未来を考えるための諸条件、未来に至るための諸条件を変えるということである。なぜあならば、現在のあり様は過去(歴史)からの諸条件に制約されているのだから。

ドゥルーズの文庫版新訳『ニーチェと哲学』(河出文庫 江川隆男訳)を再読。ドゥルーズの著作の中で最も力強く、最も攻撃的で、ストレートな書物。とりわけ若い世代に読んでほしい一冊だ。然り(肯定)とは何か。奴隷の然りと主人の然り(言うまでもなく、肯定すべきは主人の然り。念のため)。敵は誰なのか、攻撃すべき相手は誰なのか。その方法を教えてくれるニーチェ解釈の傑作。20代でこの書物に出会う者は幸いである。青年よ、『ニーチェと哲学』を読め!

番外編・1

2009年04月26日 | Weblog
以下はある講義原稿の一部です。非常にラフに書かれていますが、ご興味・ご関心ある方はご一読ください。

■イメージ・表現・写真
「イメージ・表現・写真」についてお話をしたいと思います。イメージとは何か、イメージはどんな機能を持っているのか、私たち人類にとってイメージの役割とは何か。そして表現とは何か。イメージと表現の関係とはどのようなものか。さまざまなイメージが存在するなかで、写真というイメージにはどのような機能があり、写真以前のイメージとは異なるどのような論理が潜んでいるのか。さらに写真による表現とはどういうものか。イメージがデジタル化されるなかで写真というイメージは、デジタル以前とどのような違いが起こってくるのか。おおよそ、そのようなことについてお話をしていきたいと思います。

●イメージとは何か?
イメージとは何でしょうか?一言でイメージといいましても、非常に広い範囲のものを指しています。日本語においても、心のなかに浮かぶ像や想像的な対象-「心像」、思考的な対象-「表象像」をイメージと言いますし、具体的なさまざまな画像もイメージと呼びます。さらに音響的イメージ、言語的イメージというのもあります。イメージについては、古代ギリシア時代以来、さまざまな学問がその分析を行ってきましたし、現在も行われています。哲学的、認識論的、知覚論的、記号論的、文化人類学的、精神分析学的、社会学的、メディア論的……。それだけ、私たち人類にとってイメージがもつ役割の重要性を物語っていると言えるでしょう。したがいまして、ここではイメージの全容を解明することも、明確な定義をすることもできませんし、その力量もありません。本講義ではイメージについてのいくつかのテーゼを指摘することにとどめ、さらに皆さんがイメージについて考察するきっかけになればと思います。

第一のテーゼ-「イメージとは対象の分身である」
まず私たちがイメージと言う場合、「これは……のイメージだ」、「……からこんなイメージを思い浮かべる」とか、つねにイメージはイメージとは別の存在-「……」を想定しています。「これはリンゴのイメージだ」「これは愛のイメージだ」等々、具体的な物や人物、場所などを指し示す場合もあれば、感覚的な印象、観念的・抽象的・想像的な対象を指し示めす場合もあります。いずれにしても、私たちがイメージという場合、もう一つの対象を想定しているということです。

イメージとは想定された対象の「分身」としてある、あるいは対象から分離・区別されたものとしてある。いわば「亡霊(スペクトル)」のようなものといっていいかもしれません。「鏡と性交は人間の数を増やすがゆえに忌まわしいものだ」と言ったのはボルヘスというアルゼンチンの作家ですが、いずれにしてもイメージは1(対象)が2(分身)に分割されたものとしてあるということです。ですから、西洋絵画では鏡をモチーフにした絵が数多く描かれてきました。いわばイメージという機能の増殖性がもたらす不思議さ、あるいはボルヘスが言うような忌まわしさに多くの画家が魅せられたということかもしれません。

古代ギリシアではイメージをある対象の似姿(似像)を与えてくれる「絵」のようなものととらえられていました。想像や想起(記憶)など心で描く心像も、心の眼で見る「似姿」というわけです。哲学者のプラトンは、かのソクラテスを主人公に多くの対話集を書いた人ですが、「イメージはイデア(真実の存在、本質、形相)の感覚的な似姿にすぎない」として蔑みました。実際、当時、プラトンは画家を最も低い存在とみなしていました。といいましても、プラトンはイメージの存在を否定したわけではありません。言ってみれば、イメージのヒエラルキー(価値の順番)とも呼ぶべきものを構築したのです(紀元前4世紀頃に書かれた、プラトン晩年の作『国家』を参照)。まず最上位にイデアがあります。イデアとはつねに変わることのないもの、無時間的なもの、普遍的なもの、いわゆる本質(観念)と呼ばれるものです。次にイデアに基づく似姿であるコピーがあります。たとえば、家具職人が椅子を製作します。この場合、椅子というイデアに基づいて椅子を作り出す。この椅子がコピーというわけです。画家はこの椅子のコピーをさらに視覚的なイメージとして作り出す。つまりコピーのコピーが視覚的イメージであるというわけです。プラトンはこれを「模造(シミュラークル)」と呼びました。したがいまして、イメージ(絵)は、コピー(家具)のコピーであり、イデアから最も遠のいたイメージ(模造)として蔑まれたわけです。

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、このプラトンのイデアをめぐるヒエラルキーを、父・娘・求婚者たちになぞらえています。父とはイデアのことです。娘とは父のイデアを分有するもの-コピーです。求婚者たちとは、我こそが娘に相応しい婚約者、つまり父(イデア)に相応しいイメージ(似姿)を持った者だと、主張する者たちというわけです。当時、シミュラークルを弄する輩がソフィスト(私設教師)と呼ばれる存在で、プラトンは彼らを論敵にしていました。ここではイデアとは何かといった哲学的な話には入ることはしませんが、プラトンのイデアはイメージの序列をめぐっての争い、競技(アゴーン)、あるいは基準づくりであったということです。

イメージに対する蔑み、劣ったものという見方、考えは、現在でも私たちが共有するものです。「そんなものはイメージにすぎない」「イメージではなく本質を」「イメージではなく現実を見なければ」等々。こうした言説には、イメージは本質や実体、現実から分離された表層的なものという観念が込められています。私たちはギリシアのプラトン以来、それほど変わっていないというか、むしろプラトンの考え方に束縛されているというべきか。しかし実は、イメージにあってはこの分離・区別こそが重要な機能を担っているのではないでしょうか。これについては「表現」についてお話をする際に述べたいと思います。

第二のテーゼ-「イメージとは不在のものである」
イメージの一つ目のテーゼとして、「イメージとは分身である」と指摘しました。ある対象の「分身」としてのイメージ。フッサールの現象学では、この「分身」を「志向性」とも呼んでいます。つまり、「意識(心的イメージ)とはある何ものか(対象)の意識である」ということです。しかし、分身、亡霊としてのイメージのオリジナルとも言うべき、この何ものか、対象とは、私たちがイメージを目の前に(心に)している場合、「不在」のものです。イメージが現前している場合、あるいはイメージを見ている場合、その何ものか(対象)は知覚できない、見ることができない「不可視」のものということです。ここでイメージの第二のテーゼとして、「イメージとは“不在のもの”である」ということが言えます。今、別れたばかりの愛する人を、あるいは友人を思い浮かべたり、思い出したり、写真で見たりする場合、今、目の前に愛する人、友人はいません。私たちがイメージと対峙している時、何ものか(対象)はつねに「不在」なのです。

ここでちょっとイメージがなぜ生まれたのか、文化人類学的な視点からのものと、精神分析学的な視点からのもの、二つをご紹介したいと思います。といっても二つとも、とても特異な解釈です。この二つのアプローチとも、いわゆる正統な解釈とは言えないかもしれません。しかし、絶対、真実な解釈というものはあるのでしょうか。誰も知りえません。それこそ、原始人その人に尋ねても解決できるとは思えません。問題なのは何が正しいかではありません。その答え、真理とは、誰にとっての真理かを見極めることです。真理とは何かではなく、誰にとっての真理か、誰のための心理か。つまり真理の動機を探り、その正当性を判断することです。

文化人類学的アプローチ-ジョルジュ・バタイユ
一つはフランスの20世紀を代表する作家・思想家、ジョルジュ・バタイユ(『ラスコーの壁画』参照)という人が述べていることです。文化人類学ではしばしば、人類が道具をもったことを、動物や類人猿から人類を分かつメルクマールとしています。いわゆる、ホモ・ファーベル(作るヒト)が「人類の誕生」というわけです。キューブリックという映画監督の『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク原作)という映画には、その冒頭に類人猿が骨をもち、それを振り上げ、骨が道具になるシーンが描かれています。しかし、人類以外にも道具を使う動物はよく知られています。チンパンジーはその代表でしょう。それでも道具をもったことには、大きな意味があることは確かです。

道具とは何でしょうか。まず道具とはヒトの身体的能力の延長と考えられます。手が発揮する力の延長、筋肉の運動の延長。その意味で道具は身体と密接(直接的)な関係を有しています。いわば身体的能力を代替・代理したものと考えられます。その意味で道具もまたイメージのようなものととらえることも可能かもしれません(道具、機械、電子機械をイメージ論的に考察してみることも一計かもしれません)。

ところで、道具を持つことで人類にどのような変化が起こったのか。道具を使うことは、未来における生産物(制作物)-いまだ存在しないものを想定することにほかなりません。つまりホモ・ファーベル(作るヒト)とは、現在時において、未来に分岐する時間を獲得したヒトと言えます。しかし、ジョルジュ・バタイユは、その著『ラスコーの壁画』の中で、ホモ・ファーベルはいまだ十分にホモ・サピエンス(知恵のヒト-現在の人類の祖先)ではないと言っています。つまりわれわれ人類と同類ではないと。バタイユは「芸術(洞窟壁画)」を有したことをもって、われわれと同類の人類の誕生とみなしています。どうしてでしょうか。

バタイユによれば、ヒトはいまだ存在しないものを想定する未来の時間を獲得したことで、すでに存在したものの喪失に思いが至ったと言っています。現在時が過去に分岐する時間。かつて在ったものがいまはない。喪失への恐怖(虚無感)と畏敬。この喪失への恐怖・畏敬が、死者の代替・代理物(イメージ)としての埋葬や墓を生み出すことになります。バタイユは、この恐怖感は極度に「未来の時間=作ること=生産的時間」を脅かし、破壊するものであったと考えています。したがって、埋葬や墓(死者の記号)は聖なるものと同時に、禁止されるべきもの、触れてはならないもの(汚辱、穢れたもの)と見なされていきます(この禁止されるべきものには、死とともに性の問題もからんできます。性行為が種の保存、生殖性にあるとすれば、人間の性には快楽というものがつきまといます。生殖=生産に反する快楽。ここでは性に関しては詳述しませんが、芸術と性の問題にも大きな関わりがあると思われます)。そして、禁止されるべきもの、触れてはならないものに接近し、「未来の時間」を侵犯する時間として生み出されたのが、いわば死への恐怖を緩和するものとしての遊びの時間=芸術(供犠、祝祭など)であると、バタイユは言っています。この聖なるもの、禁止されるべきもの、触れてはならないもの、この一連の語彙には、第一テーゼの分離や区別との関係してくる事柄です。

ホモ・ファーベルに対立するものとしてのホモ・ルーベンス(遊ぶヒト)。その意味で、遊び=芸術の時間とは、過去と未来の時間を中断し、宙尻りにする時間、識別不可能にする時間とも言えるかもしれません。したがって、バタイユにとって、芸術=遊ぶ時間は有用なものを作り出すという「未来の時間」を脅かすという意味合いも持っていることになります。生産物を無に付す蕩尽の時間でもあるわけです。たとえば、お祭りというのは、日常的な秩序を転倒させ、それまでの蓄積物を消費する時間もありますね。このことは現在に伝わる多くの祭りに見られる現象です。

こうした人類学的なアプローチが、言葉あるいはイメージの誕生とどのような関係があるのか分かりませんが、一つだけ確かなことは「不在の意識」が誕生したということです。「不在」を存在させること、不在のイメージ化、記号化。数学におけるゼロ記号の誕生のようなものです(数学におけるゼロの役割等々)。未来(生産)としての不在と過去(喪失)としての不在。

精神分析学的アプローチ-ジャック・ラカン
そしてもう一つ、精神分析学的なアプローチ。精神分析学者ジャック・ラカンの教えるところによれば、乳児は母親との関係のなかで、いわゆるミラーステージ(鏡像段階-誕生から3歳頃まで)を経て、象徴界(言葉の世界)に入っていく、つまり言葉を獲得していくとされています。言葉を獲得する以前の乳児とはどのような存在なのでしょうか。人間は他の動物と違い、未成熟な状態で生まれてくると言われています。たとえば、馬などは生まれてすぐ立ち上がる姿をご覧になった方もいると思います。ところが乳児は誰かの助けに全的に依存しなければ生存も危ぶまれる存在です。寄る辺のない存在-乳児にとって母親という存在(あるいはそれに準じた存在)はきわめて重要になるわけです。全面的に母親に依存する存在、乳児。と同時に、この段階の乳児は自らのさまざまな器官(口、排泄器官等々)を通して生きています。母親に依存しながら、いわば寸断された身体(感覚)として、自己という統一化された人格を持たずに生きているわけです。

やがて乳児は鏡に映った自らの身体を通して、分断された自らの身体を統一し、主体(自己)を形成していくことになります。つまり、ミラーステージ(鏡像段階)とは、鏡の像(イメージ)を通して自己を形成していくということです。しかし、鏡の像とは現実そのものではありません。いわば想像的な像にほかなりません。ラカンはこうしたミラーステージを想像界とも呼んでいます。乳児の主体(人格)が形成される途上において、母親はその生存権を握る、きわめて重要な存在です。とりわけ、乳児の口と母親の乳房は、独特な関係をもっています。乳児にとって母親の乳房は、生存のために不可欠な存在であるとともに、そこには乳房への従属とある種の快楽が生まれます。その際の乳児の快楽は、触覚的なものであることは注目していいかもしれません。精神分析学では、それを口唇性とか、触覚的ナルシシズムと呼んでいます。が、乳児は徐々に、母親の乳房から引き離されていきます。口と乳房に距離が生じるとともに、乳児は見ること=言葉を獲得することになります。触覚から視覚へ。それはまた、見ることを通しての言葉の獲得でもあります。ここに、視覚情報と言葉は不可分の関係があると言えるかもしれません。いわゆる俗に言う、乳離れといわれるものです。鏡に写った自らの像を通して、統一された主体(人格)を形成するとともに、全的に依存していた母親の「不在」=恐怖を言葉とイメージ(視覚情報)を獲得することによって納得していくということです。「いない、いない、ばー」という幼児のゲームがありますが、これは母親の不在を記号化(象徴化)することで、その不在の恐怖をイメージ(言葉)によって回避していく行為と言えるかもしれません。

見ること。それはまさに、母の乳房に触れることを禁止されることでもあるわけです。ここに、幻想としてのイメージが生まれます。イメージとはまさに、不可触な存在(乳房)の代償・代補であるとともに、その不可能性を自覚しつつ、不断に魅惑され続ける幻想でもあるわけです。ここにもバタイユに話しのなかで触れた性(セクシュアリティ)の問題が関わってくることがお分かりでしょう。さらに詳しいことを知りたい方は、ぜひ、それぞれの著作をあたってみてください。これらのイメージの「不在」をめぐるさまざまなドラマ。ここにこそ、ある意味、イメージの謎があると言えるかもしれません。

第三のテーゼ-「イメージとは不可視のものである」
第一のテーゼ「イメージは“分身”である」、第二のテーゼ「イメージとは“不在のもの”である」。この二つのテーゼから、もう一つのテーゼが必然的に派生してきます。「イメージとは不可視のものである」という、イメージを見ることの不可能性です。私たちはイメージ自体を見ることはできない、あるいは困難である。私たちがイメージを見る場合、イメージそのものを見ることができないということです。え、私たちは明らかにイメージを見ているではないか。確かに、私たちは目の前のイメージ、写真なら写真の、絵画なら絵画の、イラストならイラストのイメージを見ているはずです。しかし、私たちがイメージを見る場合、イメージの向こうにある不在のもの=被写体を見ているのではないでしょうか。あるいは不在の対象に還元してしまう。つまり、イメージそのものを見ているのではなくて、イメージが指し示す被写体(不在の対象)を見ているということです。イメージを見ることの不可能性、困難さ。この第三のテーゼは、とりわけ写真について多くの問題を投げかけると同時に、反対に写真固有の力ともなるもです。この写真を見ることの困難さと力については詳述することにします。

一つの例をもとに、イメージの不可視性について考えてみたいと思います。19世紀美術から20世紀美術、そして現代美術は、ある側面においてイメージを見ることの不可能性をめぐる戦いであったと言えるかもしれません。たとえば、マネの絵画を見てみましょう。マネ以前のルネサンス絵画は、イメージを指し示す世界が自律して見られることを意図していました。それはイメージとして描かれた世界が透明な窓を通して見られた世界ということです。つまり、絵画であることを忘却させることです。遠近法や光の扱い方、タッチの問題など、ルネサンス絵画が目指していたのは、絵画がキャンバスに描かれたものであること、絵の具によって描かれたものであること等々、さまざまな物質的な存在を隠蔽・偽装し、絵画が置かれた現実の空間を排除し、イメージ世界(表象された世界)そのものものを出現させることを追求しました。

マネの絵画はこうしたルネサンス絵画に徹底的に逆らっています。まずマネの絵画を一目見れば、誰でもそこにある種の息苦しさを感じます。この息苦しさはどこからくるのでしょうか。それは遠近法の回避です。マネはつねに背景に壁のようなものを描くことで、遠近法をを回避し、閉じられた空間を描いています。さらに、マネの絵画はあたかもキャンバスの縦横をあらわにするかのように、垂直と水平の線で構成されています。マネの絵画を見る私たちは否が応でも、キャンバスの縦横を意識するようになります(後の画家、セザンヌにも同様な傾向が見られます。キャンバスという矩形性の露出)。そしてもう一つ、光の扱い方があります。ルネサンス絵画では光源がどこにあり、事物をどう照らしているかが歴然としています。光の秩序を完璧なままに表現したとされる、カラバッチョの絵画を見ると、その意図がよく分かります。ルネサンス絵画の光は、イメージの中にあり、イメージの世界の中で自律しています。ところが、マネの絵画における光は、とても奇妙です。マネの絵画における光は、イメージの内部にあるのではなく、現実の空間にあることを示唆しています。いわばマネの絵画は絵画の裏地を露呈させるかのような絵画です。

以上のことを要約すれば、マネの絵画は、イメージが成立する条件となる現実的、物質的なものをあらわにしたということです。いわばマネの絵画は「オブジェ(物)としての絵画」ともいえる絵画なのです。つまり、イメージが成立する物質的な条件をあらわにすることで、ルネサンス絵画の「イメージの自律性」を覆したわけです。しかしここで一つの疑問・難問に突き当たります。「オブジェ(物)としての絵画」-確かに絵画はさまざまな物質的諸条件によって構成されている。しかし、絵画(イメージ)をさまざまな物質的諸条件(物)に還元してしまっては、絵画を見ることはできないでしょう。やはり私たちが見ているのはキャンバスの布地ではないし、絵の具ではない。イメージとは物そのもの、物質ではない。つまり、絵画(イメージ)を見るとは、さまざまな物質的諸条件によってもたらされた効果を見ているということです。しかもその効果は被写体を通して見ているのです。効果そのものを実体化することはできません。効果とはいわば霧や靄、いや空気のようなものです。したがって、私たちはイメージそのものを見ることはできない、被写体を介在することにおいてしかイメージを見ることができないということです。その結果、効果があたかも被写体そのものであるかのように思わせてしまう危険性もあるわけです(これは写真というイメージに関して、とりわけ重要な問題となっていくでしょう)。イメージのパラドックス。
マネの絵画(あるいは近代絵画)は、単にルネサンス以来の絵画の幻想性(イリュージョン)を告発したのみならず、イメージの仕組みをあらわにしたのです。フランスの哲学者フーコーは、「フィクションは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに(つまり、見えるものに見えない本質を見えるようにすることではなく)、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ(見えるものに見えない本質が何故に見えないのか、どれほど見えないのか、その仕組みを見えるようにすること)」と語っています。つまり、イメージを問うことは被写体(イメージの対象)と物質的諸条件(効果)の関係を問うということでもあるです。現代美術のある一部はまさに、この課題を背負っていくことになります。

イメージをめぐる三つのテーゼ、①「イメージとは分身である」②「イメージとは不在のものである」③「イメージとは不可視のものである」。イメージの機能をひじょうにラフなまとめ方をすれば、①分離・区別する力、②生成・現前する力、③露呈(アレーテイア)する力、という三つの力を指摘することができるのではないでしょうか。この三つのテーゼ、三つの力(機能)は、表現という次元においてどのような機能を発揮することになるのか。それが次なる課題です。
(番外編・2に続く)


番外編・2

2009年04月26日 | Weblog
●表現とはどういうことか?
本講義の二つ目のテーマ、表現についてお話をしたいと思います。おそらく皆さんは、写真、動画、アニメーション、メディアアート等々、さまざまな表現を志向していると思われます。もちろん、それぞれのジャンルで、領域で、多くのそれぞれの問題と課題があります。それぞれのジャンル、領域には、表現という視点からも、多くの違いがあります。

まず表現とは何かについて考えてみましょう。私たちはしばしば表現=自己表現、自分の思いや感情、感覚、観念等々を具体的なイメージとして外化すること、ととらえていないでしょうか。ご存知のように、表現とはexpressionの訳です。exとはラテン語のexからのもので「外」という意味です。exterio(外部の)とか、exception(例外)とか。pressionは押す、圧縮するのpressです。つまりex-pressionとはある対象を圧縮し、押しつぶし、そのコア(核)となるもの、エッセンス(本質)を外に押し出すことです。ここには「自己」という意味合いはいささかもありません。実は表現=自己表現というとらえ方は、18世紀末から19世紀半ばにかけてヨーロッパに広がった芸術上の思潮の一つ、ロマン主義からのものです。たとえば、ルネサンスの画家たちは自分を表現しようなどと考えていたでしょうか。画家=芸術家=自己表現というとらえ方は近代(19世紀)以降の見方に過ぎないのです。彼らはある対象から何か本質的なものを抽出しようと格闘したのであって、そこには自己を表現しようなどとはいささかも考えていませんでした。

他方、私たちはしばしば表現を再現と混同しがちです。「りんごを絵に再現することにどんな意味があるのだ」といったのは、フランスの哲学者パスカルですが、表現とは単純にりんごを絵に再現すること、りんごをイメージに再現することではない。表現とはある対象から何か本質的なものを抽出し、押し出すこと、つまりはある対象から何かを分離し、区別し、切り離すことです。それでは何を分離し、区別するのか、本質的なものとは何か。それが問題となるわけですが、ここではとりあえず、表現とは自己表現という狭い範囲のものではなく、対象物から何かを切り離し、区別することであるということも覚えておいてください。

さて本質的なものとは何でしょうか。本質とはあるモノ(存在物)がまさにそのモノらしいあり方であること、あるモノの存在のよってたつ存在性です。別な言葉でいえば、あるものの特徴、特性、固有性とも言えるかもしれません。もう少しなじみのある言葉でいえば、リアリティ(現実性・存在性)に近いかもしれません。ここで老婆心ながら付け加えておけば、リアリティ(現実性)とリアル(現実・存在そのもの)とは異なります。私たちは実際の現実よりも、イメージ(表現するもの)の方によりリアリティを感じる場合がしばしばあります。もちろんここには、イメージの機能によって偽のリアリティを捏造し、リアルをとらえ損ねるという危険性もあるわけです。しかし、リアリティが本質-つまりあるモノのそのモノらしいあり方を指すとすれば、リアルの特徴、特性、固有性なあり方を現前させることにもなるわけです。ということは、本質、リアリティとはリアルのなかに隠されているものということになります。現実あるいは現実にあるモノはつねに偽装されてあるということですね。リアルのなかに隠されている本質-特徴、特性、固有性、リアリティを抽出し、外に押し出すこと。ここで第一のテーゼで話した「分離・区別すること」のイメージの機能が重要になってきます。つまり、イメージが分身であることとは、本質を分離し、区別することであるということです。

さてここまで表現について考えながら、それでも皆さんのなかに何だかもやもやしたものがあると思います。そのもやもやの正体はおそらく本質とは何かということだと思います。本質とはあるモノがあるモノらしくあるあり方だと、あるモノの特徴、特性、固有性、いわばリアリティだと。しかし、現実あるいは現実にあるモノは、現実にあるがままの私たちの目に見えるがままのモノではないのか。むしろ、表現とはあるがままの現実に対して、かくあるべきだという未来のイメージ(ビジョン)を構築することではないのか。それこそがフィクションの力ではないのか。ここに芸術(表現)をめぐるアポリアがあります(この問題は決して解決されたわけではなく、現在もまた進行中の問題です。したがって、この問題についてはさまざまな考えがあるでしょう)。芸術とは癒しであり、現実を回避し、幻想(夢)の世界に遊ぶことなのだと、死への恐怖(人間の生の有限性)に抗って。こうした考え方にも一理あります。バタイユについての話にもありましたが、死への恐怖を鎮(しず)めること-鎮魂歌としての芸術(表現)。しかし、私たちは果たして現実を回避し、幻想の世界に遊ぶことで本当に死への恐怖を鎮めることができるのだろうか。バタイユの遊びの時間-祝祭、芸術には、日常的な時間、秩序を転覆するという意味合いもあったことを想起してください。つまり、バタイユの遊びの時間-祝祭、芸術には、日常(生産側)の秩序、価値観を宙吊りにし、疑問に付すという契機が含まれているということです。そこには単に現実を回避するだけではなく、新たな秩序、価値観を創造することが含まれているのです。

そしてもう一つの疑問が、本質と言われるものは時代や場所を超えた普遍的なものなのか。ギリシア時代に本質と言われたもの、ルネサンス時代に本質と言われたもの等々と現在の本質とは同じものなのか。時代や場所(国や民族等)によってリアリティの感じ方が異なるように違うはずです。とすれば絶対普遍的な本質というものはない。非常に大雑把に言えば、19世紀以前、西洋における本質のとらえ方は、超越的なものでした。つまり、本質というものが古代ギリシア時代であれば神々(神話)、それ以降はキリスト教の唯一神によって導きだされていたということです。たとえば、ある出来事、人物像を描く場合、その本質というものが神々やキリスト教的唯一神による価値観、秩序から抽出されたということです。西洋においては、19世紀以降、それが大きく変わるわけです。実は写真というイメージの登場は、その大変化を物語っているのです(それじゃ、明治以前の日本の美術=表現はどうなっているのか、という疑問を持つ方もいらっしゃると思います。基本的に明治以前の日本の美術は装飾芸術だと思います。この装飾芸術に関してはまた別な考察が必要かと思います)。

●写真というイメージ・表現
ここで写真というイメージについて考えてみましょう。写真というイメージは、他のイメージ、たとえば、絵画のイメージとどう違うのでしょうか。写真固有のイメージ性というものがあるのでしょうか。まずは簡単に写真誕生の歴史をメディア的な視点から振り返っておきたいと思います。

写真のメディア的特性-伝達性と記録性
1839年、パリとロンドンで、現在の写真装置につながる二つの写真技法が公表されました。パリで発表されたのが、発明者の一人ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1789~1851)にちなんで付けられた「ダゲレオタイプ」(事実上は、ニエプスという人が発明し、その発明の権利を継承したのがダゲールです)。もう一つロンドンで発表されたのが、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1800~1877)によって発明された「カロタイプ」です。

二つの方式とも、カメラの原型とも言われるカメラ・オブスキュラ(ラテン語で暗い部屋)で得られた像を化学上の原理を応用して定着させるものでしたが、そのやり方は大きく違っていました。
「ダゲレオタイプ」は金属板の上に左右の反転したモノクローム画像を生み出すもの。それに対し「カロタイプ」は、ネガ像を紙の上に形成し、それをさらに化学処理を施した別の紙に密着させ画像を得るという、ネガ/ポジ法によるものでした。当初はその画像の鮮明さから、金属上の一点限りの画像「ダゲレオタイプ」が普及したが、写真術の進歩においては、複製可能なタルボットの「カロタイプ」が、そのすべての基礎となっていきます。

光学装置カメラ・オブスキュラは16世紀のルネサンス期に発明されたものと言われていますが、小さな針穴(ピンホール)を通して光が暗い部屋の壁に当たると、そこに倒立像が写るという原理は、すでに紀元前5世紀の中国や紀元前4世紀のギリシアで知られていたものです。19世紀における写真装置の発明は、光学上の原理以上に、画像を定着させる硝酸銀や塩化銀といった、化学上の感光物質の研究・発見によるところが大きかったと言えるでしょう。この写真誕生の背景には、光学的な系譜と化学的(痕跡・鋳型)な系譜が内在しています。ここに写真というイメージの特性-直接的・自動的再現性や複製可能性等々の問題が含まれてきます。これについては後述します。

現在、世界最初の写真として、その映像が残されているのは、ダゲールとともに写真装置の発明に関わったジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(1765~1833)によって撮影された「サン・ル・ド・ヴァレンヌの窓からの眺め」です。一方のタルボットも1835年には「フォトジェニック・ドローイング」と呼ばれる写真の撮影に成功し、1844年には世界最初の写真集『自然の鉛筆』を出版しています。

写真が誕生した19世紀は、写真に限らず、現在のマスメディアにつながるさまざまなメディア装置が誕生した世紀でもあります。モールスによる電信機の発明が1837年。ベルによる電話の発明が1876年。エジソンによる蓄音機(フォノグラフ)が1877年。リュミエール兄弟による映画(シネマトグラフ)が1895年。

19世紀は写真や電信、電話、蓄音機、無線、映画といった革新的なテクノロジーが次々と発明され、登場していった時代なのです。こうしたテクノロジーの登場が、社会のあり方あるいは私たちの意識にどのような変化をもたらしたのか。写真は時間を超えた視覚的な情報を記録・保存し、電信は空間(距離)を超えた文字的な情報を伝達することを可能にしました。蓄音機は時間を超えた聴覚情報を記録・保存し、電話は空間(距離)を超えたコミュニケーションを実現しました。つまり時間と空間のあり方が、それ以前と決定的に変わったのです。時間と空間を超えてイメージが、声が現前すること。これはどういうことなのか。今ここにないもの(時間や距離の隔たりを無化)が現前する。時間や場所に制約されることなく、イメージが、声が、いまここに現れる。不在の現前。19世紀とはまさに、亡霊(分身)の世紀の始まりなのです。テレ(遠隔)テクノロジーの時代。テレテクノロジーの一つとしての写真から、空間を越えたイメージの伝達性と時間を越えた記録性(保存性)という二つの機能が導きだされてくると思います。

では、写真というイメージの時間と空間を越えた伝達性と記録性によって、社会のあり方あるいは私たちの精神(知性、感情、記憶等)の形成にどのような変化を与えたのか。その社会的なあり方の変化にいち早く注目したのが、19世紀末のフランスの社会学者ガブリエル・タルド(1843~1904年)という人です。タルドは新聞に代表されるようなメディアの広範な広がりが、特定の場所に条件づけられた群集とはまったく違った社会的集合体、距離を超えて結びつく精神的集合体=「公衆」を出現させたと述べています。つまり、特定の場所や地域に条件付けられた社会集団ではなく、メディアを媒介とした(あるいは条件付けられた)社会集団が出現したということです。

例えば、文字のない時代を考えてみましょう。そこで形成される共同体は、一定の土地(場所と人々)に条件づけられた集団と言えます。個々人の精神形成においても、その土地と共同体が大きな影響力をもつことになります。おそらく、土地の制約から離れた、最初の精神的な集合体が発生してくるのは、文字の発明によってです。文字の発明は、土地や場所だけではなく、時間の制約からも解き放たれた集合体を発生させます。ここに歴史が始まると言えるでしょう。と同時に、文字を介在して形成される集合体、いわばエリート集団が誕生することになります。事実、ヨーロッパにおいては、ローマ帝国以後、ラテン語が宗教的なエリート集団を形成していきます。日本では漢語と言えるでしょうか。

さらに印刷術の発明によって、土地の制約を離れた精神的集合体はさらなる広がりを見せることになります。例えば、教会の権威を否定した宗教革命は、印刷術の発明によって一般民衆が聖書を読めるようになったことと不可分な関係にあります。印刷術の発明は、マス・コミュニケーションの基礎を築いたと言っても過言ではないでしょう。そして、19世紀の新聞の登場。タルドが言う「公衆」はまさに新聞の出現を目の前にして、その影響力の大きさをとらえたものですが、写真や電話、蓄音機など、時間や空間を超えて伝達・交換される情報による社会的集合体までも視野に入れていたことは間違いないありません。メディアによる社会的集合体は大地と血に根ざした共同体を脱コード化したことも事実です。他方で、テレテクノロジー(あるいは移動のテクノロジー)によるメディアは、きわめて広範囲にすばやい時間で、集団的な観念や感覚等々を作り出してしまうという危険性もあるわけです(ナチズムによるメディア活用、プロパガンダ、広告等々)。

イメージとしての特性-実在性、静止画性、複製性
それでは、写真というイメージそのものの機能にはどのような特性があるのか。写真以前のイメージ(絵画的なもの)と比較しながら、そのいくつかを考察していきたいと思います。まず写真というイメージは光によってつくられたモノ(現実の存在物)の痕跡です。ネガ像の状態であれば、光によってもたらされたモノの鋳型であるわけです。足跡や指紋などと同じようなものですね。鋳型(ネガ)に再度光を注入することでポジ像が得られるわけです。絵画的なイメージは私たちの精神を介して得られた(つまりはある文化システムによって変換された)イメージです。それに対して、写真というイメージは光がモノを直接トレースしたイメージということになります。

さてここからイメージとしてのどのような特性が導きだされるでしょうか。まず現実に存在するものを光によって直接トレースした痕跡(鋳型)であることから、写真というイメージの実在性(この実在性には高い類似性・再現性も含まれるでしょう)を指摘することができます。フランスの思想家ロラン・バルトが写真のノエマ(意味)として語った「それは・かつ・あった」という実在性です。写真というイメージはかつて(過去において)存在したものの痕跡であるというわけです。ここから写真というイメージの客観性、真実性(不在の対象である被写体と、イメージの一致)という神話が生まれてきます。

ある風景、モノ、人物、出来事(一場面)等々を写真によって切り取った(再現・表現した)とします。その場合、風景、モノ、人物、出来事(一場面)等々は、写真というイメージの実在性という機能(被写体とイメージの一致)から客観的なもの、真実なものと解釈されるわけです。ここで絵画的なイメージと比較してみましょう。たとえば、ある人物を絵画において表現する場合、画家は当該の人物の特徴(本質)を造形的に抽出します。肖像画portraitとは、trait(特徴線)を引き出すことを言います。その場合、前述しましたように、その特徴はあるイデア(超越的な視点-特定の文化システム)によって導きだされるわけです。しかし、写真の場合は、ある現実の運動から切り取られた場面です。確かに、写真の場合も、その切り取り方において、イデア的なものが介在します。たとえば、馬のギャラップを切り取る場合、やはり、馬の第一歩、第二歩、第三歩と、あらかじめ想定された運動の特徴を表現するために当該運動の特異な場面を切り取るでしょう。その意味ではイデアと同様に、ある運動における特権的な場面と呼ぶこともできます。しかしそれでも、写真による場面の切り取りは、イデアによる切り取りとは異なり、あくまでも任意の運動(現実)から切り取られたものです。実はここに写真というイメージをめぐる真実性のアポリアが潜んでいます。

たとえば、ある出来事を写真によってとらえたとしましょう。その場合、その出来事のどの場面を切り取るか、その選択には二つの方法が考えられます。一つはあらかじめ、その出来事はこういうものであると考えた上で撮られたならば、馬のギャロップを撮るように、その撮影者の出来事に対する考え方に基づいてその出来事の特徴(特異点)が切り取られるでしょう。他方は、できるだけ予断を交えずに出来事をとらえ、撮られた一連の写真から選択し、その出来事の特徴(特異点)を切り取っていく選択法です。もちろん、後者の選択方法にも、撮影者の何らかの意図が加わることは明らかです。したがって、どちらの場合も、当該の出来事を一つの限定された運動(閉じられた全体)においてとらえることになります。したがって、写真の真実性とはあくまでも限定された、閉じられた全体における真実にすぎないのです。しかし、後者の選択法の場合には、任意に切り取られた現実の出来事から思いもしない特徴(特異点)を発見する可能性を秘めています。とすれば、その出来事の別な側面を見出すことを可能にするわけです。あるいは出来事をその出来事において考える契機ともなるわけです。これが写真というイメージが発見の表現ツールとも呼べる所以であり、写真による表現の力の一つなのです。

さて、写真によって持続する現実の運動から切り取られた場面とは、その現実の運動の切断面(瞬間)でもあります。しかも動かない切断面-静止画でもあるわけです。ここに写真というイメージのもう一つの特性があります。私たちの知覚や思考、言葉もまた、現実の運動をピンで留めるように静止画としてとらえ、それらの静止画を総合して一つの認識や観念を形成します。その意味では、私たちの知覚や思考、言葉はカメラのように機能しているとも言えます。しかし、私たちの知覚や思考、言葉が一つの流れのなかにあるのに対して、写真は外化された知覚として静止しています。つまり、私たちは現実の運動の切断面を凝視することが可能なわけです。動かない現実の切断面がディテール(部分)への注視やモノの配置・関係への関心等々によって、私たちの一般的な通念、モノの見方、感じ方を中断・宙吊りにし、反省的な熟考の機会を与えるのです。凝視と熟考。ここに写真のもう一つの特性があります。

表現との関係でいえば、当然、ここにはレンズや光の扱い方との関連がでてきます。フレーミング(現実の規定・限定-視界)-アングル(見る角度)、視点(見る位置)、焦点(焦点の当て方、視線の中心化)等々、構図、形、レンズの効果-望遠レンズ(デュープフォーカス)や広角レンズ(ワイドスクリーン)、顕微鏡(細部の拡大)等々、さらには明暗、色彩、地……。こうした写真の物質的・技術的操作によって、現実(モノであれ、人物であれ、風景であれ)の特異点(誤解を恐れずに言えば、新たなリアリティ)をあらわに、あるいは生成・現前させることが可能になるわけです。写真という静止画は、一般的なものの見方・感じ方を中断し、宙吊りにする契機となる表現ツールということです。一言、付記しておけば、さまざまな物質的諸条件を強調すればするほど(たとえば、形や構図、レンズの効果、明暗、色彩等々)、写真の最大の特徴である実在性(類似性・再現性)が脅かされ、人為的な世界を自然化してしまうという危険も孕んでいることになります。

そして複製可能性。前述しましたように、写真は一つの鋳型です。であるがゆえに複製が可能なわけです。この複製性については、メディア論と関わりながら、これまで多くのことが論じられてきました。ここでは詳述しませんが、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」をぜひ一読してください。一言で言えば、オリジナルの崩壊、いわばイデアの崩壊以後の芸術作品のあり方について論じたものです。それは写真の実在性について話した、イデアによる特権的瞬間と写真における任意の瞬間とも関係してくるテーマです。そしてそれは近代(19世紀以降)における芸術やイメージの概念の変化を論じたものでもあります。

さて写真というイメージの特性について、そのいくつかを述べてきました。当然ながら、これですべてではありません。皆さんご自身もまた、写真というイメージの特性を考えることで、写真ならではの表現を追求してほしいと思います。そして最後の問題が、これまで述べてきた写真の特性が、デジタル以後、どのように変化したか、するかという問題です。デジタル以後、伝達性、記録性、実在性、静止画性、複製性といった写真の特性はどう変化するのか。そしてその変化が表現という次元とどう関わってくるのか。本来はこの問題を考察することが、本講座の中心テーマとなるべきでした。しかし、デジタル以後の写真表現を考えるためには、写真というイメージをまず考えておかねばならない、という趣旨からこのような話になりました。と同時に、皆さんご自身が制作する上で、その過程のなかで考えてほしいという意図もあります。このデジタル以後の写真表現については、いずれお話をする機会があればと思います。

最後に一つ結論めいたことを言えば、写真というイメージを使った表現の機能の一つは、被写体との類似性(再現性の高さ)を活かしながら、裸眼(目に見えるもの)とは競合する形で、その被写体(事物)のあり様、あり方(社会的、政治的、文化的、美学的等々)あるいはイメージの仕組み(被写体とイメージの関係)をあらわにすることができるということです。

超越論的写真論

2009年03月14日 | Weblog
  映画の理論は映画を対象とするのではなく、映画の諸概念を対象とするの
  であって、これらの概念は映画そのものに劣らず、実践的、実効的、ある
  いは実在的である(ドゥルーズ『シネマ2-時間イメージ』宇野邦一他訳)

イデアからイメージへ
写真(というイメージ)は客体(被写体・対象・現実・事物)に向かうものなのか、それとも主体(現実の解釈・現実を素材にした表現-経験的表象)に属するものなのか。いささか古い問題とはいえ(そう、いまや古い問題のように思える。それでもここから出発せざるを得ないのは何故なのだろうか? 時代的に制約された問いなのか?)、まずはここから始めてみよう。写真は主体に属するものだという考え方が最も一般的であり、それなりの説得性ももっている。写真家が自らの関心にしたがって、あるいは触発されて現実を切り取り、訴求すべきテーマにもとづいて/したがって現実を解釈・表現する。一人称としての写真。ここで問題にしたいのは、「記録」と「表現」の対立ではない。写真を「主体に帰属するもの」と考える立場も、写真が現実の一部を切り取った断片面(瞬間)であることを前提にしている。とするならば、「記録」と「表現」の対立は、見かけほどの違いがあるわけではない。一方ができるだけ手を加えずに(演出せずに)被写体をとらえようとすれば、他方は切り取った現実を解釈するために演出を施す、あるいは現実を解釈するために演出した現実を写真に撮る。「記録」と称する写真ももすでにフレーミングや光の効果等々において、最小限の演出を施しているわけであるから、「記録」も「表現」も程度上の差があるにすぎない。では、「記録」と「表現」の対立とは、現実の一部を切り取った断片の扱いにあるのだろうか、それとも切り取りの方法、基準-何に基づいて切り取るのか-にあるのだろうか。

写真の記録性を重視する写真家は、表現性を重視する写真に対して人間的な意味を付加するものとして批判する。他方、表現性を重視する写真家は、記録性を重視する写真に対して、それは単なる事実(現実)にすぎないとして批判する。一方が人間的な意味を排除した裸の事物をあらわにすることを目指すのに対して、他方は自らのイデア(理念)にしたがって別な現実(事物)を提示することを目指す。

ところで、絵画と写真の違いはどこにあるのだろうか。ドゥルーズは『シネマ1-運動イメージ』(財津理他訳)の「第1章 運動に関する諸テーゼ-第一のベルグソン注釈」のなかで、写真における特権的瞬間と、古代的な形式におけるポーズとしての特権的瞬間との違いを述べている。古代的な形式における瞬間(ポーズ)は、超越的形相(イデア)の秩序にしたがって切り出されたものである。それに対して、写真における瞬間は、たとえ連続する運動のなかの特異点であるにしても、あくまでも任意の点として取り出されたものである。この二つの特権的瞬間の違いはきわめて重要である。絵画的イメージとは、人物なり、事物なり、出来事なりの特徴(特異点)をイデアにもとづいて抽出(表現)する。しかし、写真的イメージは、イデアから抽出されたものではない。運動の過程から任意に取り出されたものである。イデアからイメージへ。ドゥルーズは「古代弁証法は、運動のなかで現働化される超越的形相の秩序であり、近代弁証法は、運動に内在するもろもろの特異点の生産とそれらの対照である」と述べている(蛇足にすぎないが、ここで一つ付け加えるならば、ドゥルーズは古代と近代という非常に大まかな時代区分をしている。ルネサンス絵画や古典主義絵画はいずれに属するのか。ここでドゥルーズの言う近代弁証法とはいつの時代を指すのか。カントなのか。特定することは難しい。しかし、写真の誕生が近代に属していることに間違いはない)。絵画的イメージと写真的イメージでは、同じイメージでも、その帰属する秩序がまったく異なるということである。近代に至りイメージ(切り出された瞬間、切断面)の概念の意味がまったく変わったのだ。

イデアからイメージへ。たとえば、ジャン=リュック・ナンシーは「構想力の力」(『イメージの奥底で』所収 以文社 西山達也他訳)という論考のなかで、次のように語っている。少し長くなるが引用しておく。「ルネサンスから19世紀にかけて、ヨーロッパ的思考(みずから西洋化し、それが「世界」だと想像する世界)は、タブローから映写スクリーンへ、表象〔再現前化〕から呈示〔現前化〕へ、イデアからイメージへ、あるいは正確に言えば、空想ないし幻想から想像力へと変換を遂げた。このことはまた、次のようにも言い換えられる。存在論から現象学へ、したがって存在から現れへ、形式から形成作用へ、あるいは質料から力へ、イデアから構想へ、そして最後に一言で要約すれば、見られたものから見ることへ、だがさらに先鋭な言い方をすれば、要するに嘘としてのイメージからイメージのとしての真理への転換ということに尽きる」。

記録のアポリア
ここで一つの疑問-アポリアが生じるだろう。写真もまた現実における事物の流れからある種の選択によって切り出されたものだろうと。ドゥルーズはジュール・マレーやマイブリッジの連続写真を例に挙げているのだが、たとえば、馬のギャロップという運動において、連続写真によって切り出された各瞬間は、馬のギャロップを理解させるために、馬の足の一本目、二本目、三本目・・・の動きの瞬間を切り取るだろう。同じことだが、ある出来事(事件)を写真によって切り取る場合、やはりその出来事を象徴する(あるいは撮影者が意図する)特異なシーンを切り取るだろう。とすると、イデアにもとづいた絵画的切り取り=特異点と、写真による切り取り=特異点はどこが違うのか。写真もまた撮影者の意図(イデア)によって切り出されたものに違いはないのではないか。一方において、絵画的なイメージがイデアという秩序から切り出されたものだとすれば、写真は現実の運動から切り出されたものである。他方、絵画的イメージも、写真的イメージも、ある全体の部分として想定されていることに変わりはない。絵画的イメージがイデアという全体を、写真的イメージが一つの運動(出来事)という全体を。どちらもあらかじめ想定された全体にもとづく部分(瞬間)である。絵画的イメージも、写真的イメージも、どちらもあらかじめ想定された全体の部分であることに変わりはない。しかし、その全体は、前者がイデアであるのに対して、後者は一つの運動(事件、出来事等々)である。

同様のことが、絵画的肖像写真と観相学的肖像写真の違いにも指摘することができるだろう。初期の肖像写真は言うまでもなく、絵画同様のイデアにもとづいて、対象となる人物の特徴を抽出する。その典型的な写真をナダールやキャメロンに見ることができる。他方で、初期写真において、われわれは絵画的な肖像写真とは異なる肖像写真が登場してくるのを知っている。いわゆる観相学にもとづいた肖像写真や精神病理学的な身体写真である。観相学的な肖像写真はもまた、一つの総体としての犯罪者の類型や性格の類型にもとづいて、任意の瞬間からの特異点を抽出する。つまり、ここでもあらかじめ一つの総体が前提とされているのだ。もちろん、逆のプロセスであっても同じことだ。ある運動(人物)をとらえた各瞬間のイメージをとらえたものから、その運動(人物)の特異点を抽出するにしても、そこで再構成される運動(人物)は、一つ総体(ある人格なり、性格)を前提にしているということだ。観相学的肖像写真も、運動をとらえた写真も、ある総体を想定した記録性という意味では同じ考え方である。蛇足ながら、ザンダーの肖像写真が同じ観相学的な考え方にもとづいていながら、その他の観相学的肖像写真と異なるのは、一つの画面に複数の総体-顔や身体だけではなく、所作や洋服、場所など-がとらえられているからだ。その複数の総体が微妙にずれているがゆえに、犯罪者や性格、人種を分類した観相学的写真とは一線を画している。

ここに写真の「記録性」をめぐるアポリアがある。たとえば、中平卓馬はしばしば写真における「記録(客観性)」と「表現(主観性)」のアポリアに挑んだと言われている。しかし、彼の60年代後半から例の「なぜ、植物図鑑か」に至る論考を通読すると分かるのだが、彼が論の対象として言及するのは、そのほとんどが報道写真や社会派と言われる写真である。いわゆる記録派の写真に属するだろう写真が批判の対象になっているのだ。中平卓馬は「記録」と「表現」のアポリアではなく、むしろ「記録」に潜むアポリアを問題にしているのだ(中平卓馬言うところの「記録」と「記録論」)。たとえば、中平卓馬は当時、東大安田講堂の攻防戦をめぐる一枚の報道(新聞)写真が犯罪の証拠写真として権力(国)側に使われてしまうことを論じるだろう。この一枚の写真は確かに現実の一部を切り取ったものである。決して加工・捏造されたものではない。であるならば、どうして権力側の証拠と成り得てしまうのか。中平卓馬は中立と称している報道写真が、実は権力内部に立った視点から撮られたものにすぎないと断じるだろう。しかし、それで解決したことにはならない。なぜなら、その写真が現実の一部を切り取った記録であることを否定することはできないからだ。であるならば、どういう現実の一部なのか。そこで問われてくるのは、現実という全体である。果たして、ここで言われる現実とは、イコール現実の全体のことなのか。ここで言われている現実とは、宇宙という全体の観点から見れば、その一部としての全体=現実でしかないのではないか。つまり、現実の一部と言われるときの現実とは、限定され、閉じられた全体にすぎないのだ。

ドゥルーズは先に挙げた『シネマ1-運動イメージ』のなかで、「全体」と「総体」の明確な区別を行っている。イデアという全体も、一つの運動(事件、出来事等々)という全体も、宇宙的全体のなかの部分でしかない。ドゥルーズは宇宙的全体を文字通り「全体(tout)」と呼び、イデアや一つの運動の全体を「総体(ensemble)」と呼んでいる。前者が開かれた全体だとすれば、後者は閉じられた全体である。つまり、先の報道写真がとらえた現実の一部とは、閉じられた全体(一つの運動)のなかの一部ということである。とするならば、その閉じられた全体=総体があらかじめ想定された権力側の現実(事件、出来事等々)であるならば、その総体のうちの一部=事実であることになるだろう。反対に、反権力側の立場に立てば、別の総体の現実(事件、出来事等々)の一部となるだろう(こうした相対主義においての問いは、当然ながら、いずれの事実が真の事実であり、真理かという問いは無意味になる。ここで問われるべきは、誰にとっての事実か、真理かである)。けっきょく、写真の記録性とは、どのような総体=現実の一部かによって、その事実性は異なってくるということだ。たとえば、人間の記憶を補完するものとして、写真の記録性が言われる。しかしそこで選択される歴史的証拠としての写真は、あくまでも限定され、閉じられた総体=歴史の一部にすぎない。したがって、ここで言われる「記録」とは、あらかじめ限定され、閉じられた総体に関係させられた記録にすぎないということだ。そしてそれは、すでに解読された現実の追認・再認でしかないだろう。これを視点の違い(どこから見るか)に帰することはたやすい。では、写真の「記録性」の意義はどこにあるのか。これこそが中平卓馬が最も考え抜いたことである。

ここまでの論理を整理しておけば、写真を語る場合、「記録」と「表現」の対立を前提にしてはならない。まず前提になるのはあくまでも記録性なのだ。現実を演出して撮影しようが(いわゆるコンストラクテッドフォト)、撮影した写真を加工しようが、コラージュしようが、前提となるのは記録性なのである。これこそがカントの「美」から「崇高」であり、ヘーゲルの言う「芸術の終焉」であり、ベンヤミンが言う「礼拝価値」から「展示価値」であり、ジャン=リュック・ナンシーの言う「虚偽としてのイメージ」から「イメージとしての真理」であり、ドゥルーズの言う「イデア」から「イメージ」なのだ。

身体と事物の知覚
もうしばらく、中平卓馬につき従って見よう。周知のように、中平卓馬らプロヴォークは「確からしさを捨てよ」「来るべき言葉のための挑発的資料」といったスローガンを掲げた。こうしたスローガンの意味するところは、写真についての単純な「記録性」に対する疑問であり、中平卓馬言うところの「自然主義リアリズム」「事実信仰思想」への批判であろう。ここで、プロヴォークはどういう観点から写真の「記録性」を批判しようとしたのだろうか。彼らが模範とし、触発されたのは、ウィリアム・クラインの写真である。プロヴォークはウィリアム・クラインの写真のどこに、従来の写真とは異なる側面を見出したのか。どのような可能性を見出したのか。中平卓馬も指摘していることだが、クラインの写真の特長は、その脱・構図主義にある。クラインの写真は、絵画的遠近法によるある固定した不動の一点からとらえられた世界(現実)ではない。いわば、知覚の非中心性にその最大の特徴があるといっていい。この知覚の非中心性とは、従来の絵画と写真の視覚を分かつきわめて重要な違いである。絵画的カテゴリーの視覚が、ある不動の視点(イデア)による空間的な視覚だとすれば、写真はあくまでも現実の任意の点であるとともに、時間的な経過(諸点)をも切り取る。

しかし、プロヴォークがクラインの写真に見出したのは、絵画的な視覚からの逸脱だけではない。クラインにおける知覚の非中心性はもう一つ重要な側面を隠し持っている。たとえば、ライフのジャーナリズムフォトや名取洋之助らの「組写真」という考え方に対する批判である。言うまでもなく、「組写真」と言われるものは、ある事件なり、出来事の各シーンを、その事件なり、出来事の特異点’特徴点)を抽出し、組み合わせた(再構成した)ものである。その場合、どのような視点(これまた違った意味で観念的なものだろう)でその事件を見ようとも、閉じられた全体=総体の下で再構成されたものにほかならない。そしてしばしば、フォトジャーナリズムにおける「組写真」は、「社会的正義」や「ヒューマニズム」といった視点の下に再構成される。プロヴォークたちがいらだったのは、こうした一方的(固定的)な視点による写真である。むしろ写真は「不確かさ」こそとらえるべきではないかと言うことである。考える(思考をうながす)契機となる資料としての写真。

しかし、非中心性とは別な言葉で言えば、無責任ということである。自らが撮った写真(視覚的資料)に対して責任を負わないということでもある。撮ることの無根拠性。ここからプロヴォーク、いや中平卓馬の真のアポリアが始まる。当初、プロヴォークたち(中平卓馬も含め)は、クラインにおける知覚の非中心性を写真家(撮影者)の身体性にその根拠を求めた。つまり、意識(言葉や観念的なもの)を逃れた身体性こそが、写真を撮ることの根拠を保証してくれるだろうというわけである。たとえば中平卓馬は次のように書いている。「世界とそれを目撃した人の驚き」「露出した世界そのものへ」「記録という行為を自ら生きる生の総体の中に正確に位置づける」「自ら生きる生の中から必然的にはじき出されてくる〈現実〉」(いずれも「同時代的であるとは何か」1969より)等々。ここでは撮影者の実存的な身体性に、見ることの根拠を求めている。いわば実存的な身体的視覚にこそ、純粋な視覚が宿るということだ。アレ・ブレ等々の方法もこうした考え方を下敷きにしていたものだろう。

こうした身体性による知覚の純粋性とは、言うまでもなくフッサール及びメルロ=ポンティらの現象学に依拠している。ドゥルーズは『シネマ1‐運動イメージ』のなかで、次のように述べている。「「たんなる物質的運動でもって意識のレベルを再構成しようと欲する唯物論と、たんなる意識内のイメージでもって宇宙のレベルを再構成しようと欲する観念論の敵対であった。(略)そして、同じ時代に、きわめて異なる二人の論者、すなわちベルグソンとフッサールが、この責務を引き受けようとしていた」。ベルグソンもフッサールもともに、イデアからイメージ(=テクノ画像)の時代を前提にしている。フッサールが「あらゆる意識は何ものかについての意識である」をスローガンとすれば、ベルグソンは「あらゆる意識は何らかのものである」(これはドゥルーズ的ベルグソン解釈による要約らしい)を据えるだろう。この二人の哲学者のスローガンの違いは大きい。

「あらゆる意識は何ものかについての意識である」と「あらゆる意識は何らかのものである」。この二つの違いとは何か。周知のように、フッサールにおける「あらゆる意識は何ものかについての意識である」とは、「志向性」とも呼ばれ、現象学におけるキーワードの一つである。しかし、ここで誤解してならないのは、フッサールにおける意識とは、人格的・人間的な意識のことではない。フッサールにおける「超越論的主観性=超越論的な我(エゴ)」とは、特定の人格の心理的主観性のことではなく、あくまでも現象学的な判断停止(エポケー)された意識である。フッサールはその著『デカルト的省察』のなかで、次のように述べている。「現象学的な判断停止は、客観的世界の存在の効力を停止し、したがって、まったく判断の場から遮断するとともに、あらゆる客観的に捉えられた事実と同様に、内的経験の事実についても、存在の効力を停止遮断する」(『デカルト的省察』浜鍋辰二訳)。つまり、フッサールが言う「超越論的主観性」とは、客観的世界も、人格的内的経験も停止し遮断された「意識」のことである。実際、フッサールは、デカルトはこの超越論的な我を見出したが、その我を人格的な我に還元してしまったと批判している(それが超越的な主観性である)。とすれば、現象学的エポケーの後にに残るのは何か。それが「身体」と言うことになるだろう。もちろん言うまでもなく、この「身体」とは、前人格的身体である。この場合の現象学的な「身体」とは、意識のゼロ度における「身体」である。したがって、「あらゆる意識は何ものかについての意識である」における意識とは、中心化された、ある匿名の意識がゼロ度化した身体による知覚である。だからこそ、現象学は身体における純粋な知覚を標榜するわけである。プロヴォークもまた、この現象学的なアプローチに依拠し、その身体性における純粋知覚を謳うだろう。

では、ベルグソンにおける「あらゆる意識は何らかのものである」とはどういうことか。これまた周知のように、ベルグソンは人間における知覚を身体の有用性によって中心化された物質のある側面、つまり引き算された「物質」と規定した。ベルグソンにおける人間の知覚とは、人間の有用性にもとづいて身体という中心によって切り取られた(引き算された)物質の一側面である。人間の知覚が身体によって中心化された知覚という意味では、現象学もベルグソンも同一の見解である。しかし、ベルグソンにおける知覚は物質からの引き算に対して、現象学における知覚は物質に何らかのものが加算されたものであり、であるがゆえに「身体」におけるゼロ度を想定するわけである。ベルグソンの知覚においては、物質も知覚も程度の差異しかない。しかし、現象学における知覚は、知覚に程度の差異を想定し、物質と知覚に本性上の差異を見る。ベルグソンにおいて本性上の差異が生じるのは、物質と知覚の間ではなく、知覚と記憶の間である。つまり、ベルグソンにおける知覚では、知覚に対して記憶という次元において変容(加算?)が生じるのだ。したがって、ベルグソンのあらゆる意識は何らかのものである」とは、現象学が知覚を物質に対立するものとして位置づけているのに対して、ベルグソンは物質の延長として知覚を位置づけているということである。

デカルトとスピノザ
現象学的な知覚とベルグソン的な知覚。上記の説明ではまだ分かりにくいかもしれない。もう少し別な角度から考えてみよう(写真-カメラの知覚とどう結びつくのかという疑問があるかもしれないが、それについては後述する)。現象学的な知覚とベルグソン的な知覚、その相異のルーツはデカルトとスピノザの違いにあるように思われる。どういうことか。デカルトにとって厳密な意味での実体-それ自体で存在するもの-は、神という存在だけだが、精神と物体も実体とした。それに対してスピノザは、神(自然)のみが実体であり、精神と物体は神(自然)の属性の一部である(つまり、精神と物体以外にも、神=自然の属性はありえる)。デカルトは精神と物体をともに実体とすることで、精神と物体(世界)を対立させる。しかし、スピノザ的発想は、精神と物体はそれぞれが神(自然)の一部にすぎない。

このデカルト的発想とスピノザ的発想の相異とは何か。デカルト的な精神と物体を実体とみなすことは、おのおのを自律した存在とみなすことである。ここから主体-客体の構図が浮上する。ハイデガーがその著『世界像の時代』で位置づけた、「存在するものの対象化」という近代における世界像の位置づけである。主体-客体という構図からなされる「存在するものの対象化」は、主体によって対象化された客体(世界)を閉じられた全体として想定してしまう。現象学においては、「志向性」という概念によって、対象の把捉が自律した一つの世界ととらえられることになる。

他方、スピノザ的な発想では、精神も物体も神(自然)という全体の一部(一属性)でしかない。とすれば、精神によってとらえられた(対象化された)客体(世界)は、神(自然)の一部でしかないということになるだろう。ということは、その全体とは開かれた全体ではなかろうか。ここに、スピノザの自然哲学としての発想がある。主体によって把捉された対象は、自然=世界(対象)の一部、ある側面でしかない。このデカルトとスピノザにおける対象の把握の相異は大きい。

では、上記のデカルト的発想=現象学とスピノザ的発想=ベルグソンを写真の知覚に敷衍するとどのような論理が展開されるだろうか。








 

コーカス・レース

2008年09月16日 | Weblog
森山大道展を見る。
森山大道の「限界と潜在性」を探ってみること。
誰のものでもないものの、記憶の底へ。
なぜ、ハワイなのか。
森山大道と中平卓馬。日本・写真史の二つの系譜。気分と物。
二人の傍らで、間で、高梨豊を再考してみること。

「森山大道論」へのいくつかの素朴な疑問。

写真家の肉体性について-「すでにあらかじめ言葉や文化によって意味付けられた事物や現象で満たされた世界をカメラで選び取るのではなく、分節化された世界に先立つ、さしあたって等価に立ち現れる未踏の物象の世界を自らの肉体的・身体的反応とともに突き動かされるカメラによって切り分けていく写真家の姿が浮かび上がってこないだろうか(世界の既成の分節化に先立つ「身分け=見分け」としての行為)(深川雅文『光のプロジェクト』)。こうした写真行為における「肉体性の特権化」は眉唾物である。世界の既成の分節化に先立つだって?むしろ、こうした肉体的な反応こそが最も「世界の既成の分節化」に基づいているのではないだろうか。あるいは紋切り型として自動化されやすいものではないか。感覚的・運動的知覚。草を食う牛の肉体的自動的再認行為(そもそも肉体的反応っていうけど、被写体が変われば肉体的反応も変化するんじゃないの?そのときの精神的なあり様で肉体的反応も変化するんじゃないの?どうして森山大道の写真はみんな同じような反応の結果・効果に見えてしまうの?)。

このことにいち早く気づいていたのが、中平卓馬である。確かに、プロヴォーク時代の森山大道の写真は、従来の撮る側(写真家)の位置を問いに付すことがなかった写真に対して、撮る側の反応自体を写真に導入することで、撮る人そのものを問いに付した。その意味では、あらかじめ理念化された撮影者(撮影主体)に対して、現実(生身)の不確かな撮影者の位置を露呈させることで、写真を撮ることの意味を問いに付した。しかし、だからといって、「対象のモチーフに対する客観的な真実」を問題にした土門拳の写真が乗り越えられたなどと嘯いてはならない。土門拳は被写体の意味があらかじめ了解できないからこそ、被写体(対象)を重要視したのである。被写体の「真理」を切り開くために。中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』はまさに、土門拳を再考することだったにちがいない(デジタル時代だからこそ、土門拳を再考すべきではないか。デジタル時代の「土門拳論」を書くこと)。

付け加えておけば、森山大道たちの「肉体的反応」による世界の切り取りに意味がないと言っているわけではない。「肉体的反応」による世界の切り取りが、言葉や文化によってあらかじめ分節化された世界を宙吊りにすることが重要なのである。「肉体的反応」によって切り取りられた映像を美学化してはならないのだ。したがって、森山大道の写真そのものの診断をしているわけではない。実際、1980年代の〈光と影)シリーズは、まさに「肉離れ」の試みであったろう。

前述の「森山大道展」の冊子コメントのなかで、森山大道は次のように語っている。「たとえ写真が、いかに個の美学や観念の領域から写されたものであれ、本来的あるいは終局的に無名性を帯びて、写真は、人類の歴史、世界の歴史の資料として存在しうる能力を持つ」。人類の歴史、世界の歴史の資料だって、あまりにも素朴すぎるのではないか。写真は未来にとって、人類の歴史、世界の歴史の資料足りえるほど、純粋なものなのか。かつてプロヴォークは、写真が歴史の視覚的資料足ることへの疑問から出発したのではなかったのか。未来のために、現在(現実)の諸条件を変えることこそ、プロヴォークが目指したことではなかったのか。「忘れるために撮る」という小林のりおの宣言の方に、ぼくは共感する。

写真の使命は、未来のための歴史的な視覚的資料になることではない。むしろ、確かな視覚的資料足ることを宙吊りにし、裏切ってしまうことにある。そこにおいてこそ写真は、証拠ではなく新たな問いを切り開くことになる。

「……そして貧しい時代に何のための詩人たちか」と謳ったヘルダーリンについてのハイデガーの注釈。「何のための写真家か、そして映像の飽和した時代にあってなおも何のための写真家たちか」と問うてみたい気がする。

写真とは“事実”を写すことではなく、事物の“真理”を写すことである。明け開くこととしての“真理”を。

被造物はみな、そのすべての眼で見ている、
“開かれたもの”を。われら人間の眼だけが、
裏返されたようになっている。(リルケ『ドゥイノの悲歌』)

柳宗悦の「用の美」とは、カント美学の観点からすれば矛盾する表現である。使用的関心を排除してこそ成り立つ美。柳宗悦はこの矛盾をどう解消しようとしたのか。どう乗り越えようとしたのか。柳宗悦の「民芸運動」が日本の近代の始まりのなかで生まれてきたことを忘れてはならない。写真もまた、「記録と表現」というアポリアではなく、「用と美」-「使用と美」の観点からとらえなおしてはどうだろうか?

「晩年のベートーヴェンは同時に主観的とも客観的とも呼ばれる。客観的なのは脆くひび割れた風景であり、主観的なのは、この風景を照らして燃え輝かせる光である。かれは主観客観双方の調和的な綜合を生ぜしめない。かれはそれを、分裂の力として時間の中で引き裂き、永遠のために取って置こうとする」(アドルノ「ベートーヴェンの晩年様式」川村二郎訳)。

写真とは紛れもなく一つのイメージ(映像)である。しかし一方で、イメージ化に徹底的にあらがうことにおいてこそ、写真固有の力があるのではないか。イメージを拒否するイメージ。しかしまた、写真が一つのイメージであるならば、果たして写真はイメージであることを免れることはできるのか。撮ることを拒否することにおいてしか、それは達成できないだろう。したがって、見えないものを見えるようにするといった暴かれた事物もまた、もう一つのイメージにすぎない。だが、イメージ化にあらがう一つの方法がある。イメージを宙吊りにし、機能不全に陥らせることである。この矛盾、分裂、二重性のない、あらゆる写真は退屈である。

日経新聞の7月16日付け夕刊で、港千尋氏が気になる発言をしていたので、ちょっとコメントをしておきたい。

「ただ、携帯やコンパクトデジタルカメラは、撮影者と被写体との関係という点で従来型のカメラと大きな違いがある。ファインダーをのぞき込んでシャッターを切る作業は、世界のある瞬間を切り取るということ。当然、決断という要素が重要になるし、そういう一瞬に命を賭けて仕事をするプロたちによって写真の歴史も成り立ってきた」…略…「何かを撮るとき、自分自身の頭で考え決断をしたうえで撮ろうとしているのか、それとも自分は単にスクリーンの向こう側で眺める“視聴者”になっているのか。そこまで思いを致すのが、責任ある大人になるということだと考える」

携帯やコンパクトデジタルカメラと、従来のフィルムカメラとの、写真行為における違いは、確かに港氏のおっしゃる通りだと思うのだが、だからといって、フィルムカメラには撮影者の意志があり、コンパクトデジタルカメラには意志が希薄という対立的な見方には首肯できない。というよりも、そもそも写真とは撮影者の意図を超えて、被写体を無差別に等価に写してしまうことに、写真固有の力があるのではなかったのか。だからこそ、ベンヤミンが次のように語ったことが今でも重要なのである。

「“文字に不案内な者ではなく、写真に不案内な者が、未来の文盲ということになろう”と言われたことがある。しかし、自分の撮った写真から何も読みとることのできない写真家も、同じく文盲と見なされるべきではないか。-ベンヤミン(『写真小史』久保哲司訳)

確かに、携帯やコンパクトデジタルカメラの映像は、従来型のカメラの映像に比較し、緊張感がなく緩んでいる。「世界を切り取るのではなく、眺めている」(同上)映像である。静止画ではなく、動画の一部としての映像。しかしだからこそ、使い方によっては有効かつ批評的映像足りえるのだ。

港氏のような対立的な見方をしてしまうと、ベンヤミンが言ったように、写真の機能に再び「創造性や天才性、永遠の価値や神秘の概念」を回復させてしまうのではないか。中平卓馬や森山大道たちのプロヴォークは、撮影者の胡散臭い「決断」や「意志」に対して「否」をつきつけるために「肉体性」やら「身体性」、「ノーファインダーの手法」を導入したのではなかったのか。

ということは、撮影する際の意志や決断が問題なのではなくて、ベンヤミンが語るように、自分が撮った写真から何を読み取るかが重要なのである。つまり、撮影後の選択の意志や決断こそが重要なのである。「映画やテレビのスクリーンを眺めるかのような“視聴者”」は、決して携帯やコンパクトデジタルカメラの使用者ばかりではない。むしろいまや、従来型のカメラを使った写真家にこそ数多くいることを認識しなければならない。

「人や場所や状況に素直に向き合って、何も考えずにぱっとシャッターを押す。写真っていうのは、本当はそれが一番良いんですよ。そうすれば、被写体の方のパワーが迫ってくるようになって、それが写真というジャンルの強みになる。でも、最近の応募作は、コンセプチュアルに頭で考えたり、カメラの機能を色々使ったりするものが多過ぎるのかもしれない」(「第30回キヤノン新世紀審査総評」での荒木の発言)

おこかがましいようだけど、荒木の考えていることと、ぼくが考えていることは基本的に一緒だな(大笑)。ただし、荒木は撮影後のセレクト・構成の重要性を付け加えることを忘れているけど(そんなこと、言わずもがなことなのかな?)。つまり、自ら撮った写真を読むことを。したがって“読むこと”において、コンセプチュアルでなければならないし、論争的に言うならば、加工性(作為性)も厭う必要はない。

プラトンの彫刻や絵画に対する非難は有名である(『国家』や『ソピステス』など)。プラトンにとっての芸術は、感覚によってとらえられた現実を模写したものすぎない。なんとも空しい行為ではないかということである。その上、芸術は人を欺く虚像をつくりだすというわけである。プラトンが写真を見たらおそらく、烈火のごとく憤慨したことだろう。プラトン的な観点から、写真をとらえなおしてみること。イデアと写真。

「意味作用がイマージュのかたちをとってあらわれるとすれば、それはある過剰によってであり、また、それは、お互いに重なり合い、対立矛盾する意味の複数化として、実現するのである。夢の想像的造形性とは、そこに現れる意味にとっては、自らの矛盾に他ならないのである」(フーコー「ビンスワンガー『夢と実存』への序論」石田英敬訳)

上記のフーコーの言葉は、夢の機能に関してのものだが、イメージ一般についても言えるものではないか。とりわけ最近目立って増えている、「自分が見たいイメージ」を撮る(演出する・つくる)若手写真家に言えることではないか。彼らがつくりだすイメージから、願望充足よりも、矛盾(分裂・二重性)の形を見出すこと。

「知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心」

「いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である」(いずれも、フーコー『快楽の活用』田村俶訳)

保守論者はかくのごとく言う。「戦後日本は権利ばかりを唱える輩が多くなった」と。社会的責任や義務を忘れ、権利だけを主張する輩。それこそが現代社会の歪の要因だと言うわけである。ジャーナリスト・桜井よしこは主張する。日本国憲法を見ろと。権利ばかりが明記されているではないか。保守論者たちの主張は一見、正当かのように思える。モンスター・ペアレントしかり(笑)。だが、考えて見よう。権利が実現・達成されていないから権利を主張するのではないか。確かに、理念としての憲法は「国民の権利」を謳っている。しかし、現実はそうではないのだ。われわれは、権利が実現・達成されていない現実を生きているのである。問題は権利の過剰にあるのではない。権利は必ずしも実現・達成できないことを知ることなのである。フロイトが言ったように、「人の命は大切である。しかし、その大切な命をないがしろにする人間がいる」ことを教えることが重要なのである。したがって、保守論者が言うごとく、社会的責任・義務を強制するべきではない。むしろ、権利を主張すべきである。ただし、現実社会においては、その権利を実現・達成されることは難しい。ならばどうすれば実現・達成できるか。その方法こそを主張すべきなのである。

たとえば、最近の「通り魔殺人事件」について、保守論者は「彼らは自分の責任を社会に転嫁ばかりしている。権利ばかりを重視してきた戦後教育の誤りだ」と主張する。しかし、考えて見よう。むしろ彼らは、責任を社会に転嫁する術を知らないがゆえに、かといって自己責任に耐えられないからこそ、暴発したのではないか。自己責任の内面化への重みと、それをどこにも転嫁できないがゆえの「誰でも良かった」という帰結。社会に責任を転嫁するためには、社会の仕組みそのものを考えなければならないし、それは必然的に社会の仕組みそのものへの攻撃となるだろう。われわれは自己責任の内面化に徹底的に抗い、責任を社会に転嫁する技法を学び、磨かねばならない。

「ファインダーとは政治的な道具なのであり、過去を未来にとってふさわしいものに変えるための道具なのだ」(アラン・トラクテンバーグ『アメリカ写真を読む』生井英考・石井康史訳)

ということは、過去を未来にとってふさわしくないものに変えてしまう道具でもあるわけだ。「事実(現実)と意味の間の緊張関係をどのように配置するか、あるいはどう解釈するか」が重要となる。前者が写真家の役割だとすれば、後者が見る側の義務である。事実をアリバイとして、既存の意味を強化してしまうのか。事実によって既存の意味にメスを入れるのか。いずれにしても、意味や事実を実体化するのではなく、その緊張関係を読み解くことである。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』は、「善く生きること」について書かれた書物である。「善く生きること」、幸福であること。現代においても、「楽しく生きること」が人生の第一の使命と考えられている。しかし、幸福であることにおいては、単に感覚的に心地よいだけで済まされないのが人間の存在である。苦難に抵抗することの喜びもある。

ところで、国家が個人個人の「幸福であること」に介入し始めるとどのような問題が生じるのだろうか。現在、われわれの「死に至るプロセス」も含めた「生きること」全体が国家の、社会の目標・目的になりつつある。死さえも極端に管理されつつある現在。フーコーは晩年、「自己に関する技術」の歴史的・文化的分析に力を注いだ。「真理を発見しなければならない」「真理を語らなければならない」「幸福とは何かを考えなければならない」「善く生きるとは何かを考えなければならない」……。自己に関する技術と「支配の技術=統治の技法」との関わりはどのようなものなのか。そこで意味・コミュニケーション技術(情報技術)の一つである「視覚的記号システム」はどのように関わってくるのか。写真はどのような役割を果たしているのか。芸術(表現)はどのような役割を果たしつつあるのか。

イメージのデジタル時代に求められること-「フィクションはもはや数々のイマージュを倦むことなく生産し輝かせる能力であるべきではなく、逆にそれらイマージュの結びつきをほどき、すべての過重からくる負担を軽くしてやり、内的な透明さ、それらイマージュを少しずつ照らしだしてついにはそれらを炸裂させ、想像し得ぬものの軽やかさのうちにそれらを散らばせる透明さをもってそれらを住処とするような力であるべきなのだ」(フーコー『外の思考』豊崎光一訳)

「表現の形態としての刑法が一つの発話可能性の領野(犯罪行為の言表)を定義するように、内容の形態としての監獄は一つの可視性の場を定義する」(『フーコー』宇野邦一訳)。

ドゥルーズがフーコーについて書いた、上記のような注釈に従うならば、写真という形態が可視性(見えるもの)の場を定義することになる。つまり、写真というメディアが見えるものと見えないもの、いわば光の体制を形作っているということである。絵画に変わる写真の登場は、現実についての新しい見方、見せ方として現れた。保護院が狂人について中世やルネサンスとは違った新しい見方、見せ方として現れたように(当然、精神病院もまた異なる見方、見せ方ということになる)。また監獄が罪の新しい見方、見せ方として現れたように(フーコーは監獄の可視性の場を、「一望監視方式」-見られることなくすべてを見る、いわば監視の内面化の場ととらえたわけである)。とするならば、アナログからデジタルへの移行において、デジタル写真はフィルム写真とは異なる、現実についての新しい見方、見せ方としての現れるはずである。

とするならば、デジタル写真の形態とはどのようなものなのか。どのような光の体制を形作っているのか。絵画やフィルム写真の形態とどのように異なるのか(さらには言表の体制とはどのような関係をもっているのかも問われるべきであろう)。

言って見ればマネの絵画は、絵画の形態-矩形性、平面性、遠近法、光の扱い方等々をあらわにしたのである。フローベルが言語の形態をあらわにしたように。そのためには、ドゥルーズが言うように、絵に画かれた物を、不透明な物として切り裂かねばならない。台座の露出。同じ意味で言うならば、写真が自らの形態を意識しはじめるのは、1960年代後半に入ってからと言えるかもしれない。ウォホールらをはじめとする美術側からの写真の使用法。

死とは、どのような死に方であれ、ある時代の、一つの権力関係をあらわにする。同じように、性のあり様は、どのような性であれ、ある時代の、一つの知の形態をあらわにする。

現代における「面白さ」というキーワード。面白い映画、面白い小説、面白いアート、面白い人生。いまや、あらゆる分野で「面白さ」が至上命令のようにはびこっている。実際、ぼくらはしばしば、面白いという言葉を価値判断の指標のように語ってしまう。面白さとは何だろう。もちろん、何が面白いかは人によって異なる。面白いとはおそらく、時間を忘れ、関心の対象に没入することであろう。いわば関心の対象にとらわれることである。他方、退屈であることは、否応がなしに時間を意識させられ、早く時間が経つことを望むことである。ハイデッガーは退屈であることは、待つことであると言っている。待つこと、それはいまだ何もなしていないことである。つまり、ある可能性の状態にとどまることでもある。たとえば、タルコスキーの映画。タルコスキーの多くの映画は、一つのストーリーに還元することができない。であるがゆえに退屈である。われわれは映画そのもの、映像そのものと対峙せざるを得ない。この退屈さがあるがゆえに、われわれは思考することの可能性へと開かれるのだ。たまには、面白い映画、面白い小説、面白いアートを避けて、退屈さと向き合うべきではないか。現代人はあまりにも、退屈であることを恐れている。面白さに急き立てられる現代文化。退屈であることの再考。

退屈さとともに写真のファンクティヴ(機能素)と思われるものを思いつくままにアトランダムに挙げてみる。

静止・光・痕跡・鋳型・視点・視線・視角・フォーカス・断片・細部・支持体・空間・時間・視覚・触覚・過去・記録・記憶・表現・平面・レンズ・矩形・拡大・縮小・構成・展示・物質・記号・複製・メディア……

現代アートのほとんどは“感覚のゲーム(戯れ)”と化している(写真もしかり。自分が見たいイメージと称した“つくる写真”等々)。デジタル・テクノロジーを手に入れることで、感覚のゲーム化はさらに拍車がかかっている。感覚の拡張、代替、限定、変形、歪曲……。知覚のバルブをいかに調整するか、いかなる変形バルブをつくるかに汲々しているように思える。アートのドラッグ化。そこにはもはや、マネ以降、20世紀美術が使命としてきたと思われる、感覚による批判(知性への限界性の指摘)はない。フーコーの言葉を再び。

「フィクシオンは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」

「フィクションはもはや数々のイマージュを倦むことなく生産し輝かせる能力であるべきではなく、逆にそれらイマージュの結びつきをほどき、すべての過重からくる負担を軽くしてやり、内的な透明さ、それらイマージュを少しずつ照らしだしてついにはそれらを炸裂させ、想像し得ぬものの軽やかさのうちにそれらを散らばせる透明さをもってそれらを住処とするような力であるべきなのだ」(いずれも、フーコー『外の思考』豊崎光一訳)

色と形による戯れ-いわゆる抽象絵画は、具象性を拒否することで、純粋な感覚の戯れを求めた。具象性の拒否-それは一つの表象(何かの物-表われされるものを知的に再現すること)に還元されることを回避することで、感覚そのものを現前させることにあった。存在するものの本質であれ、極度に抽象化された物の存在そのものであれ、抽象絵画が現前させようとしたものは、物が在ることの力そのものであった。他方、抽象絵画による表象の拒否は、物の、芸術作品の商品化への拒否でもあった。いかにして芸術作品を商品から峻別するか。しかし、抽象絵画が現前させようとした純粋な感覚は、実はけっきょく描かれる形であり、色にすぎなかった。つまり、一つの数学的表象にすぎなかったのではないか。

やがて、20世紀美術は抽象絵画の失敗に対して、支持体(物質)そのものの感覚を現前させようとするだろう。油の、キャンヴァスの、あるいは石の、テラコッタの、鉄の……物質の感覚を。マネ以降の20世紀美術の冒険は、感覚を現前させることで表象を拒否すること、それは物が、芸術作品が商品化されることへの抵抗でもあった。しかしそもそも、物の、芸術作品の商品化とは、物の有用性を離れ、感覚化すること、つまりは物象化することではなかったのか。商品、あるいは広告におけるモダンデザインの導入(抽象絵画の利用・活用)は、その典型的な現われだろう。そして現在のアートは、20世紀美術の使命であった、感覚による表象の拒否という側面は忘れられ、完全な感覚のゲームと化している。もはや商品と芸術作品を識別する基準はないし、誰もその必要性さえ求めていない!

フーコーはやっぱり凄い!
「あるものの過去を再発見するのは、基本的にそのものが存続できるようにするためです。それはわたしが始めたというわけではなく、多くの人がやっていることなのですが、それは精神病院がどのような意味で必然的なものか、歴史的に運命づけられたものであるかを示すために行われるのです。わたしがやろうとしているのは、まさにその反対のことです。あるものの不可能性を明らかにすること、たとえば精神病院の機能は、恐るべき不可能性にもとづいたものであることを示すことなのです」(フーコー『わたしは花火師です』中山元訳)

このフーコーの言葉は、先に「写真の使命は、未来のための歴史的な視覚的資料になることではない。むしろ、確かな視覚的資料足ることを宙吊りにし、裏切ってしまうことにある。そこにおいてこそ写真は、証拠ではなく新たな問いを切り開くことになる。」と書いたことと、どこか共振するものがあると思う。










コーカス・レース

2008年06月29日 | Weblog
哲学することの一つの根本気分……
一つの根本気分の呼び覚まし……(ハイデガー)。

「人間とは一つの過度か、一つの方向か、地球というわれらの惑星の上を吹き通る一つの暴風か、神々にとっては一つの堂々巡りか厄介者か? われわれはそれを知らない。だが、われわれは見た、人間というこの謎めいたものの中で哲学が生起する、ということを。」『形而上学の根本諸概念』ハイデガー(川原栄峰訳)

ハイデガーによれば、ニーチェの「神は死せり」とは、超感性的な世界(理念、理想等々)の活動力が欠けてしまったということである。無の蔓延、客のなかでも最も不気味な客-ニヒリズム。そしていまや、超感性的な世界の真理は、「商品」という名の下であらゆる物にとり憑いている。スペクタクル社会(ギ・ドゥボール)。

「目で触れる」とは物の側に立つことであり、物の権利を回復することである。「表象」に抗う物の権利。

自分のペンを思考のなかに浸している、アリストレス。
自分の眼を光のなかに浸している、写真家。

ここで言う光とは支持体と触れ合う物質的な光のことだ!デジタル時代にあってさえも、なおもそれは存在する。そういえば、新プラトン主義者たちは、物質を非身体的物質と身体的物質の二つに分けたそうだ。もちろん、新プラトン主義者たちにとっての非身体的物質とは超存在としての神になるのだが、しかし、非身体的物質を眼に見えない力動的なものと考えることも可能だろう。

眼で見ることと触れること。写真の歴史を「眼で触れること」という観点から覗いてみたら、どのような光景が写し出されるだろうか。イメージの物質的諸条件を表象するイメージ。光学の論理から痕跡の論理へ。ただし、痕跡の美学を回避しつつ。「風をみる・山にふれる」(鈴木理策)。

スヴェトラーナ・アルパースはその著『描写の技術』のなかで、物語化(テクスト化)を主眼としたルネサンス絵画に対して、17世紀のオランダ絵画は眼に映る事物を執拗に“なぞる”ように描写したと語っている。“見る(あるいは読む)視覚体制”から“なぞる視覚体制”(小林のりおの『ランドスケープ』を“なぞる視覚”から評価すること。ただし、時代的変化-つまりは時代的・歴史的推移を考慮しつつ)へ。眼で触れるとは、描写された事物が一つの意味に向かう(表象される)手前で、支持体の物質的次元にとどまることを意味しているのではないか。いわば支持体(シニフィアン)の物質性とも呼ぶべきものが前景化するのだ。

確かに、マリオ・ジャコメッリは素晴らしい。たとえば、「自然について知っていること」。遠近法を無化した版画的(痕跡としての)ディテールの露出(プロヴォーグや森山大道なんかよりも凄いかもしれない-微笑)。明らかにこれらの写真は“眼で触れること”を志向している。だからといって、「最新のデジタル技術を総動員してもよくなしえない、魂の芸術である」(辺見庸)なんぞと言ってはならない(こういう言述が良心的知識人の限界だよね-笑。ここにこそ、表現内容のみならず、作品を形式的にとらえなければならない重要性がある)。デジタル時代にはデジタル時代の<生の時>と<死の時>があるのだ。イメージの物質的諸条件は歴史的・時代的なものによって成り立っているのだ。イメージの物質的諸条件を反時代的に利用すること(その意味で、内原恭彦の作品は評価されてしかるべきものである。ことに、写真集『Son of a BIT』の最後を飾る「山田某氏の部屋」を撮ったものは興味深い。ただ、それでもなお、フィルム的あるいは油絵の具的、古い支持体の臭いが鼻につくのだが……)。それこそが「とことわの時間」を獲得する方法である。

ある場所と時代に制約された真理。しかしそれは決して相対的な真理を意味しているわけではなく、ある絶対的・普遍的な“形式的真理”を意味しているのだ。変化の、不変的な形式としての真理。

極端に偏った見方をすること。もちろん、その正当性を主張することなく。偏っているのだから、そもそも正当であるわけがない。それでも偏ることで見えてくるものがある。偏光・偏角の眺め、微光あるいは過剰な光のもとでの眺め。

「例外は、一般と例外自体とを説明する。一般を正しく研究したいと思うなら、ある現実的な例外を見わたすだけでよい。例外は、一般自体よりはっきりと、すべてを明瞭にしてくれる」(キルケゴール-シュミット『政治神学』からの孫引き)。

視点を変えるのではなく、問いを変えること。場所と時間を考慮しつつ。考古学と系譜学。「私たちが考え、述べ、行うことを分節化している、それぞれの言説を、それぞれに歴史的な出来事として扱うこと-考古学」「私たちが今在るように存在することになった偶然性から出発して、私たちが今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることが出来る可能性を抽出すること-系譜学」(フーコー)。

写真を感覚の(ということは“見る”ことだけに限定されない)分類行為とみなしてみること。どのような感覚で、世界を、事物を分類しているのか。もちろん、一言で分類といっても、そこにはまず、世界を、事物を最小限の諸要素(知覚)に分解・解体する行為があるだろう。そしてそれらの諸要素を分類し、さらには最適な連接と配列を打ち立てる。これら一連の行為をとりあえず、“写真の分類行為”と呼ぼう。言うまでもなく、写真家はさまざまな感覚で世界を、事物を分類する。しかし重要なことは、新たな分類法を生み出すことではない。むしろ、何がそのような分類を可能にしているのか、あるいは分類そのものの無根拠性を暴露することだろう。

テクノスケープもいいけど、サイト(工事現場)スケープもあるよ。そしてもちろん、キッチンスケープも。ただし、キッチンスケープは宿命的にフォトジェニック性を拒んでしまう(といっても、フォトジェニック性という写真美学の無根拠性を暴露するということだけど。安村崇の『日常らしさ』も広い意味でキッチンスケープだ)。けっして“萌える”ことの不可能なキッチンスケープ。昨今のテクノスケープへの偏愛は、鉄道マニアと変わらないわけだが、けっきょくマシーンエイジへのノスタルジー(空虚さを埋めるための、過去への回帰による充填行為)に過ぎないのだろうか。それとも何か別な現象なのか。

キリスト教における七つの大罪の一つ、怠惰。「怠惰は何でも欲しがるが、努力しようとはしない」(ヤコポーネ・ダ・ベンヴェーヌ)。19世紀に始まる近代は、かのボードレールがそうであったように、怠惰との死を賭した闘いなのだろうか。一方で近代は、“注意”を身体的に管理・制御する資本主義時代でもある。散漫と注意。弛緩と緊張。一瞥と凝視。この隔たりとその振幅こそが、ニーチェの言う近代的ニヒリズムを生み出すのかもしれない。

ニューヨークではレストランなどにおける「カロリー表示」が義務化されたそうだ。肥満が社会問題化するなかで、「自らの身体を管理すべし」ということらしい。肥満が増加すれば、成人病の可能性が拡大し、医療費(社会的コスト)が増大するという論理だ。もはや我々の身体は、ここまで管理されようとしている。国民の健康・安全という美名を建前として。ゾーエー(生物学的な生)の管理・統治。いずれの日か、大食漢が罪人になる日がやって来るのだろうか(アメリカのビジネス社会ではすでに、肥満=負け組らしいが)。で、写真は近代の身体への管理・統治テクノロジーに対してどのような貢献をしてきたのだろうか。たとえば、家族写真(カンバセーション・ピース)。いやそれよりも、写真を撮るという行為、あるいは写真における表現技法と管理・統治テクノロジーの関連について。あまりに飛躍しすぎだろうか。

何故にかくも人は写真を撮るのか?
人は写真を撮ることでいかなる効果(満足)を得ているのか?

ギリシアにおける大地の管理とユダヤにおける群れの管理。「これら二つのゲーム-シテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲーム-の両方をわれわれが近代国家と呼んでいるものの中で巧みに結合させることによって、まさしくわれわれの社会は悪魔的な社会となってしまったのです」(フーコー)。そしてもちろんフーコーは、後者の統治形態を分析し・問題化すること-いわゆる「生政治」の重要性を説くわけだが。というよりも、これまでの国家批判は、前者に重点が置かれ、後者の視点が欠落していたということである。

NHKドラマ「バッテリー」(原作あさのあつこ)が好きだ-苦笑。はみ出し(過剰な)者の孤独。イノセントの救い。もちろん、いわゆる予定調和を超えることはないのだけど。

NHKの番組・田中民(舞踏家)の「ようこそ先輩」は素晴らしかった!(土方巽の暗黒舞踏の系譜ってあまり好きじゃないんだけど……-笑)。

写真と「自己の技術」について考えてみること。ここでいう「自己の技術」とは、フーコーが問題にした「個々人が、自分自身によって、自らの身体、自らの魂、自らの思考、自らの行動にいくつかの操作を加えながら、自らのうちに変容をもたらし、完成や幸福や純粋さや超自然的な力などのある一定の段階に達することを可能にする」技術である。写真を撮るということは、これらの「自己の技術」とどのような関わりを持っているのだろうか(もちろん、荒木経惟の「私写真」とも大いに関わってくるが、それだけにとどまるものではない)。写真を撮るという行為における「自己の技術」には、フーコーにならって言えば、表現に関わる一連の義務が含意されているのではないか。表現によって何かを発見しなければならない、表現によって何かを解明しなければならない、表現によって何かを語らせなければならない。こうした義務が構成する自己(写真を撮る自己)とは何か。土門拳と荒木経惟の「自己(写真行為の主体)」は明らかに異なっている。

志賀理江子の作品は素晴らしい(写真集『CANARY』『Lilly』)。虐げられたイメージ。イメージによるイメージの虐待。デジタル時代の森山大道!?(デジタル時代といっても、デジタルカメラを使っているとか、デジタル処理しているとかは関係ない。今現在という時代意識のこと)

辺見庸がジャコメッリの写真について語ったNHK番組を見た。確かに、辺見庸は単なる良心的知識人ではないようだ。「ジャコメッリの写真でさえも資本=コマーシャルに食われてしまうかもしれない」というような意味の発言をしていた。われわれはそうした認識の上でジャコメッリの写真を見なければならないと。ジャコメッリの写真が写される事物からのまなざしであるとすれば、まずは人間的なまなざしのヴェールを剥ぎ取らなければならない。その覆いとしての人間側のまなざしは必然的に時代的諸条件を備えている(とするならば、現代における写真あるいは芸術の第一の使命は、広告的イメージといかに区別するかにある)。とするならば、「写される事物のまなざし」とは、ハイデガーが言うごとく、一つの「アレーテイア-存在するものの開け」そのものではないのか。「物のまなざし」が実在するわけではない。むしろ、一つの開け=裂け目のなかに「物のまなざし」がヌーメノンとして仮想されるのではないか。

たとえば、前述した志賀理江子の写真。ここで言う、虐げられているイメージとは何か。それは人間的なまなざしによって付加された意味性である。志賀理江子は文字通り、被写体を表現(expression)する。被写体を圧縮し、締め付け、搾り出す。被写体を覆っていた意味性を引き裂き、ずたずたにすることであらわになるのは、たとえば、我らの内なる獣性であり、我らの内なる悪であり、我なの内なる最も古い記憶である(この一連のプロセスはフランシス・ベーコンを思い起こさせる)。被写体の内部から排除され、区別された、聖なるイメージ(志賀理江子の写真は一種の心霊写真のようにも思える)。聞くところによれば、志賀理江子の制作方法は、「35ミリカメラで撮影したネガから焼いたプリントを加工、マイクロレンズを使って再撮」(飯田志保子)したものらしい。しかし、厳密に言えば、志賀理江子の方法は何かを加えるという意味では、イメージの加工ではない。むしろ再撮という迂回のプロセスは、イメージを掃き払い、拭うための方法のように思える。

村上隆はすごい!本気で芸術の商品化を徹底しようとしようとしている。「芸術のブランド力を高めよ」(6月1日付朝日新聞朝刊)と。ここにボードレールのような逡巡は微塵もない。しかし、村上隆の戦略は、芸術の「商品への同化」とは違う。彼の戦略もまた、芸術を徹底的に商品化することで、芸術を商品から分離・区別することを狙っている。かの「GEISAI」が「芸術の見本市」であることは明らかであるとしても(まあ、何とかビエンナーレも、「芸術の国際見本市」には違いないのだが)、むしろ独立した「芸術のマーケット」を創出することで、芸術の、商品からの分離・区別を意図しているのだろう。芸術という「絶対的な商品」を創りだすために(その意味では、戦略は対置的ながら、その目的は純粋芸術派と変わらないわけだ)。村上隆の戦略に正当性があるかどうかというよりも、今現在もまだ、150年以上も前の、ボードレールの葛藤(問題)が生き続けていることに驚かざるを得ない。

しかし、「絶対的な商品」とは何か。完璧に使用価値が駆逐され、交換価値のみで成立する物=芸術。たとえば、ピエロ・マンゾーニの「糞の缶詰」?。しかし、果たして物である必要はあるのか。幻影としての芸術、絶対的物神性、絶対的フェティシズム。そういえば、イブ・クラインのパフォーマンス、「非物質的絵画的感性領域の譲渡」(クラインと画商が金箔と領収書を交換し、クラインは金箔を河に撒き、画商は領収書を燃やすというパフォーマンス)や「空虚の部屋」(パリ近代美術館の展示絵画をすべて取り去り、空虚な状態を作り出すというイベント)を思い起こす。その意味では、村上隆はいまだまだ、その交換価値を現実の市場に依存していると言えるかもしれない-大笑い。まあようするに、村上隆の戦略は、芸術作品の評価(他の物との区別・識別)を従来の美術制度(アカデミズムとか、キュレーターとか、批評家とかの判定)によらずに、市場に委ねてしまおうというわけである。

はたしてぼくらは、芸術作品を部屋に飾り、癒しをもたらす、美しい対象として眺めることができるのだろうか。アガンベンは『中味のない人間』(岡田温司他訳)のなかで、ロベルト・ムージルのある草稿を紹介している、「ムージルは、ピアノを弾いているアガーテの部屋に入ってきたときに、ある陰鬱で抗いがたい衝動を感じているウルリヒ(略)を描いている。彼は、この衝動に駆られて、家のなかに「悲痛なまでに」美しい調和を響かせるこの楽器に弾丸を数発発射してしまう」と。もはや芸術作品はわれわれの存在を脅かす危険な代物ではない。カントによって「関心なき快」と定義された美は、「「関心」の領域から抜け出て、単に興味をそそるだけになっている」。こうした近代芸術(=美としての芸術)のあり様に抵抗し、軽蔑したのがニーチェであり、アルトーである。

人類史上、これほど「芸術(アート)」が人々の口にのぼる時代はなかったし、「芸術(アート)」の存在そのものが認められた時代はなかった。ひとたび、「芸術とは何か」と問われたら、千差万別の答えが返ってくる時代なのに。ファッションもアートなら、家具もアートだ。ロック歌手もアーティストと呼ばれている。いまや人が作り出すすべての生産物はアートである。文字通り、「芸術(アート)の時代」だ。ボードレールも、ベンヤミンも、ハイデガーも、芸術作品とすべての生産物の見分けがつかなくなる時代を予想していた。もちろん、かのヘーゲルも、マルクスも。

最近、新訳がなされたアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を再読した。人類進化の究極を描いたこの作品のなかで、衣食住の足りた世界では、何一つとして(芸術作品の)傑作を生み出すことはなかった、と書かれている。まあ、言い古されたことだが……。かつての古典ギリシア時代のポリス(都市国家)では、確固とした奴隷制度に支えられて、自由市民は基本的に衣食住の問題にわずらわされることなく、高尚な精神ゲームにうつつをぬかし、その正当性を競い合った。我こそが真の政治家である、我こそが真の詩人である、我こそが真の医者である、我こそが真のアスリートである……と。アゴーン(競技)の世界。そういえば、ヘルマン・ヘッセの小説『ガラス玉演戯』を思い出す。この小説もまた、ただただ名誉をかけて「ガラス玉演戯」を競い合う世界を描いたものだったように記憶する。ある意味、我々の時代も、こうしたユートピアのとば口にいるのかもしれない。いずれプラトンのような人物が現れて、すべての生産物にヒエラルキーをもたらす確かな基準をつくりだしてくれるかもしれない。それまではとりあえず、衣食住の問題にもわずらわされながら、我こそが真の芸術作品を創造するアーティストである、我こそが真の写真を撮る写真家である、我こそが真の基準をつくりだす批評家である……と、駄弁を繰り返すほかはない。

明確な敵を見出す術(すべ)を失ったがゆえに、秋葉原の歩行者天国に突っ込むことになる。我々は明確な敵を見出す術を学び、伝えなければならない。

photographeを「写真」と誤訳されてしまったことは、歴史の大いなるあやまちであったのだろうか。原義に近い「光画」-光で画く、光による図像の方が確かに相応しいのかもしれない。しかし、「写真」と誤訳されたことには、いくばくの正当性が含まれてはいはしないか。photographeには、「画く」という、どこか絵画的なコードに制約された感がある。むしろ、「真理を写す」ほうがphotographeの機能に相応しくはないだろうか。もちろん、ここでの「真理」とは現実のことでもなければ、事実を指すことでもない。「真理」とは、ハイデガーの言う「不伏蔵性(あらわにすること- アレーテア)」のことである。「写真」とは、物(被写体)をあらわにする行為そのものなのではないか。あらわにされた物そのものではなく、したがって、「真理」とはあらかじめあるものを見出すことではなく、「見出されるべきもの」である。「写真」と誤訳されてしまったことには、実は「写真」の大いなる可能性が秘められているのではないか。

フォトジャーナりズ(あるいはジャーナリズム一般)の問題は、その中立性を問うことではなく、誰の立場に立ったものなのか、誰の立場に立って機能しているものなのか、その「誰」を読み取ることが重要なのだ。「中立性」を問題にするすべての発言は疑ってかかったほうがいい。「いま、そこで起きていることを伝えたい」なんぞと言って、正義ぶっている写真はもっとも信用ならない。「私は何々を告発・抗議するために伝える」という発言こそ尊ぶべきものである。

森山大道の写真についてしばしば、「分節化された世界に先立つ、身体的・肉体的反応」なんて言われるけど、身体的・肉体的反応が本当に「分節化された世界に先立つ」ことになるのかしら。むしろ、通常、身体的・肉体的反応こそ、最も「分節化された世界」にどっぷり浸かったものじゃないの?(現象学的私への無反省的な信頼?)。運動・感覚的反応。酔っ払っても無意識のうちに帰路についているように-笑。したがって、身体的・肉体的反応が重要なのではなくて、それによって得られたイメージをどう操作するかが重要なのである。同様に、撮影行為における無意図性・無意識性(ノーファインダー、スナップ等々)が重要なのではない、そこで得られたイメージの使用こそが問題となるのである。

まったく旧聞に属するが、小原真史監督の『カメラになった男』のあるシーンを思い出した。この映画は中平卓馬のドキュメンタリーだが、そのなかで、沖縄でのあるイベントを撮った場面(おそらくは東松照明の沖縄展?)があった。壇上には、東松照明を筆頭に森山大道、中平卓馬、そして港千尋が、さらに客席の横には荒木経惟がいる。これはまさに日本写真史の縮図であった。一人、東松にかみつく中平。苦笑いをしながら、超然さを装う東松。なかに入って「まあ、まあ」と言ってとりつくろうとする森山。爆笑しながら茶々を入れる荒木。そして何とかまとめようとする港。それぞれの写真観があらわれた瞬間であった-大笑。あらためて言うまでもないが、ぼくは中平卓馬の身振りに最も好感をもつ。あくまでも「敵」を明確にしようとする中平と、「敵」が不明確であることを「良し」とする輩。

深川雅文はその著『光のプロジェクト』のなかで、「関数」としての写真について語っている。写真を関数的に分析する視点をもつことで、写真表現の力点を「写す/写される」関係から、「変換する」あるいは「移す」という関係にシフトさえることができると。たとえば、深川は森村泰昌の作品について、「森村作品の自らをイメージに代入することによる変換システムをg(x)とすれば、xには森村自身が代入される。名画をなぞる変換システムをf(x)とすれば、森村作品の関数は概略すればf(g(x)という関数として翻訳することも可能だろう」と述べている。深川が言う「関数としての写真」は、変換システムそのものを問わなければ、実は何も何も言っていないことに等しい(「関数」としての写真という観点はきわめて重要である。実際、ぼくも以前、このコーカス・レース上で、写真を現実の関数と見るべきではないか云々と記している)。たとえば、レンガー=パッチュの「世界は美しい」的写真もまた、変換システムの一つである、「生き生きと見せる」写真も変換システムの一つである。「写す」から「移す」、あるいは「サブジェクト」から「プロジェクト」へという視点に移行したからといって、何かを言ったことにはならない。相変わらず、その変換システムによって、写真の機能を「現実を暴露すること」に求めるつもりなのか。そうではなくて、その変換システムの仕組み、構造こそを問わなければならないのではないのか(その視点に立てば、森村泰昌の作品など、何ほどもない!)。ある種の変換システムが何故に不可視のものを不可視のままにしてしまうのか。モホイ=ナジの限界を問うとすれば、変換システムを「光の造形性」に抽象化・形式化(それをカント的美学化と呼ぼう)してしまったことなのである(それはまた、抽象絵画を中心としたモダニズム絵画の試みと呼応することになる)。

関数としての写真。Pを現実とすれば、関数として写真(イメージ)=(x)は現実との関係において変換されたP(x)となる。しかし、当然ながら、現実のPはP(x)でもある。写真はP(x)の関数(x)となる。さらに写真は(P(x)(x))の関数(x)となる。さらに……。このPは無限の()が続く(映像の時代といわれるゆえんである)。シニフィオンの連鎖。そして変換システムとしての関数(x)もまた多様であり、無限に置換可能となる。f(x)、g(x)、h(x)……のように。だから何だと言うのだ!-大笑。

あくまでも、重要なことは、この関数(x)がPに対してどのような関係にあるのか、どのように機能しているのかを問うことなのだ。この変換システムの機能を支えるものこそが、写真(イメージ)を支える物質的諸条件(レンズの効果から、撮影者の位置、支持体、流通メディアまでも含む)である。写真(イメージ)を読むとは、この物質的諸条件の関係性を問うことである。

写真(イメージ)の物質性、物質的諸条件によるイメージ、写されたもの(あるいは見る側が見てしまうもの)。物質性・諸条件の構造(イメージそのもの)・写されるもの。この三つの位相の絡み。

写真行為の三つのトポス。現実・第一に見る者(撮影者)・二番目に見る者(見る側)。この三つのトポスの絡み。

コーカス・レース

2008年06月13日 | Weblog
「芸術と商品」を考える上で避けて通れないテクストがある。ハイデガーの『芸術作品の根源』である。物、道具、芸術作品をいかに識別するかを論じた、この講演テクストは、中・後期ハイデガーの重要な概念の一つである「Unverborgenheit(不伏蔵性とか、被隠匿性とかと訳されているようだ)」-そして「空け開け」を展開していることでも知られている。実は、このハイデガーのテクストの書かれた時期は、ベンヤミンの有名な二つのテクスト『写真小史』『複製技術時代の芸術作品』と、1930年代というほぼ同時期のものである。二人はどのような「共通の問題意識」なかで、これらのテクストを書いたのか、あるいは語ったのか。興味の尽きないところだが、とりあえずのぼくの関心は、ハイデガーが物・道具・芸術作品をどのように識別しようとしたかである。ちなみに、このテクストは、ハイデガーが例に引いたゴッホの有名な絵画「短靴」をめぐって、美術史家のメイヤー・シャピローが描かれた「短靴」の帰属問題(誰の短靴か?)を論じたことでも有名である。デリダの『絵画における真理』所収の「「返却」もまた、その帰属問題を端緒としたテクストである。

ハイデガーはまず芸術作品とは何かと問う。芸術作品とは芸術家によってもたらされたものである。では芸術家とは誰か?芸術家とは芸術作品を生み出す者である。卵が先か、鶏が先か。芸術作品と芸術家をつないでいる第三のものがある。「芸術」である。両者はまさに芸術によって存在している。では芸術とは何か?芸術とは何であるかは、作品から取り出さざるを得ない。おお、崇高なる堂々巡り。しかし、ハイデガーはこの堂々巡りに踏みとどまることこそ、「思索の祝祭」だという。凄い!

では、目の前にあるさまざまな芸術作品を集めて、それらの特徴から芸術の本質を定義することができるだろうか、あるいは芸術の本質をより高次の諸概念から導きだすことができるだろうか。しかし、それでは芸術作品の根源を問うことにはならない。それでは暗黙のうちにあらかじめ芸術の本質を想定していることになるからだ。で、再度、ハイデガーは芸術作品がもっている物的性格から問うことになる。

古代からすでに「物とは何か」「存在するものとは何か」と問われてきた。ハイデガーによれば、こうした物の物性についての解釈には三つあると言う。まずは「諸特徴(属性)の集まりとしての物」。ギリシア人は諸特徴の集まりの「核」をト・ヒュポケイメノン(基体‐根底に横たわっているもの)、諸特徴をタ・シュムべべーコタ(付帯的なもの・偶有的なもの)と呼んだ。実はこれがラテン語訳され、ヒュポケイメノンがスブスタンティア(実体)となり、シュムべべーコタがアクキデーンス(偶有性)となった。そしてさらに、この「物の構造」は「命題の構造」である「主語」と「述語」に似ていると言う。むしろ、ラテン語訳は後者の「命題の構造」を倣ったものではないのかとハイデガーは問う。そうすることで、ラテン語訳はギリシア人が考えていた、物が「固有発生的でそれ自体の内に安らっているもの」を「主・客」に対象化することで、忘却してしまったと。この指摘はきわめて重要だが、ひとまずは置いておこう。

二つ目の解釈は、「感覚の多様性の統一としての物」。