-久しぶりの書き込みだね。
-まあ、いろいろプライベートで多忙を極めて……。
-で、反事例集の続きをやってくれるのかね?
-いや~、今回はちょっと寄り道をして、最近、いくつか拝見させてもらった個展について話してみようかなと。
-反事例集は頓挫したってわけだ?
-そういうわけじゃないよ。反事例集とどこかではつながっているはずだと思っているし、そのうち続きもやるつもりだ。
-まあ、いいか。Webにおけるブログのいい加減さ、おっと失礼、言い直せば、自由さはそこにあるわけだし(笑)。
-まあね。誰かに頼まれてやっているわけではないし。で、最初に取り上げたいのはやはり、小林のりおの「アウト・オブ・アガルタ」(ニコンサロン)かな。
-君はずっと小林のりおの写真について、書いたり、話したりしてきているよね?
-今回の「アウト・オブ・アガルタ」は、小林のりおの久しぶりの個展ということで、注目してきたのは確かだよ。もちろん、写真家にとって個展がすべてというわけではないし、とりわけ小林のりおはデジタル時代の写真(イメージ)に関して、さまざまな問いかけを行ってきた写真家だから、これまでかつ現在も継続しているWeb上での活動を無視するわけにはいかないし、今回の個展が何かターニングポイント的な記念碑的出来事でもないと思う。とはいえ、今回の個展を拝見して、いろいろと再確認をしたことも事実なんだ。再確認するということは、新たな方向を模索することでもあるからね。
-再確認?でもその模索は君にとってだろう?
-もちろんそうだけど。小林のりにとっても、というのが僕の推測さ。
-まあ、勝手な憶測はやめて、話を進めてよ。で、再確認ってどういうこと?
-う~ん、小林のりおの現実(世界)に対する姿勢とか、写真(イメージ)に関する考え方とか、そして何よりも「現在におけるイメージのあり方」に関してかな?
-まあ、前口上はそのくらいにして、具体的な話をしてよ。僕も今回の個展を拝見させてもらったけど、まずは君の感想を聞こうか。
-さっき、再確認という言葉を使ったけど、まず一つ目は、小林のりおは『ランドスケープ』以来一貫して、現実(世界)の変容に着目してきたってことだね。
-まあ、それは多くの評論家や識者が指摘してきたことじゃないのか。
-まあ、そうだね。社会の工業化・産業化、消費社会化……による社会的風景の変容ということだね。ただ、小林のりおは、その社会的変容を象徴的な次元でイメージ化しうようとしたわけではないというところが、他の多くの写真家との違いかな。
-それはどういうこと?
-つまり、誰もが認めるであろう「変容した風景」に狙いを定めていないということだよ。誰もが納得するでだろう社会的風景のなかに変化を認めるのではなくて、些細なこと、日常的な風景のなか、誰にも普通に思えてしまう風景のなかに、微かな変化を見出すということだよ。スローガン的な言い方をすれば、「解読された現実から、解読されるべき現実へ」と言えるんじゃないかな。
-そのスローガンをもう少し解説してくれないかな?
-あらかじめ解読された現実(世界)、つまり社会的テーマや言葉によってすでに把捉された現実ではなくて、解読されなくてはならない現実(世界)に狙いを定めているということだよ。ということは、小林のりおがカメラによって捕らえる現実、あるいは写真によるイメージ化は、一つの兆候、徴(しるし)としてあるということかな。したがって、小林のりおの写真は、解読(写真家によって解釈)された現実でもない。思考すべき対象として現実(世界)をイメージ化するということだ。だから小林のりおは、被写体それ自体がもつインパクト性や問題性のある対象をひじょうに嫌うんだよね。なぜなら、インパクトのある被写体や、すでに問題性を帯びた被写体は、あらかじめ解読されている可能性が、あるいはその解釈のスクリーンに覆われている。つまり、被写体(あらかじめ解読された現実)に依存することになる。小林のりおはそれを周到に回避するわけだ。というよりも、小林のりおにとっての「解読されるべき現実」は、普通の現実に、何でもない現実のなかにあるという確信があるんじゃないのかな。というよりもむしろ、一つの変容の徴(しるし)とは、現実の何でもないディテールのなかに宿っているということではないだろうか。その意味で、今回の作品のなかで秀逸なのは、青いポリバケツの中の昆虫をとらえた写真だろう。人工的に(工業化・産業化の結果)つくられた自然(?)、溜まり水(自然)の中の小さな生態系が織り成す昆虫たちの生と死の営み。しかし小林のりおは、こうした現代の風景、あるいはそうした風景をつくりだした社会のしくみを告発、糾弾しようとしているわけではない。そうではなくて、思考の対象にするべきものとしてイメージ化しているのではないか。
-しかしそれは、これまでも多くの写真家が試みてきたことではないの?
-確かに。しかし小林のりおは、「解読された現実」と「解読されるべき現実」の差異に自覚的なところがこれまでの写真家との違いじゃないか。
-どういうこと?
-ここに形式的・美学的な次元が問題になってくる気がするんだ。つまり「解読されるべき現実」に狙いを定め、一つの徴(しるし)としてイメージ化することは、従来の形式的・美学的な方法で可能なのだろうかという問題だよ。徴(しるし)とは、足跡のような単なる痕跡なのだろうか?という問題だね。これはぼくらがこれまで、痕跡の美学、あるいはイデオロギーとして批判してきたことだけど。
-う~ん?
-実は、小林のりおの個展と同じ日に、宮本隆司の「草・虫・海」(TARO NASUギャラリー)という、フォトグラムシリーズによる作品を見たんだ。宮本隆司の試みとの違いを話すことで、いくらかは分かりやすく話すことが可能になるんじゃないだろうか。それがまた、小林のりおに関する、もう一つの再確認であり、方法的(形式的)一貫性でもあるんじゃないだろうか。
-どういうことかな?
-宮本隆司のフォトグラムシリーズも、昆虫を被写体にしているんだけど、そのアプローチは小林のりおのそれとまったく違う。小林のりおの昆虫が一つの社会的関係性、あるいは場的・状況的捕え方をされているとすれば、宮本隆司の昆虫は純粋な抽象化された形態(輪郭)として捕えられている。周知のようにフォトグラムというのは、カメラを使わずに直接印画紙にモノを感光されたものだよね。
-確かに、手法的にも、イメージの原理的生産法もまったく異なるね。情報の物理的転写(アナログ写真)から、抽象的転換(デジタル写真)へ。
-あらかじめ言っておけば、宮本隆司の「草・虫・海」はとても美しいんだ。フォトグラムによってとらえられた虫の羽や羽粉、小枝等々。その微細な美しさは圧倒的だよ。しかし、この美しさを支えている論理は何かと言えば、微細なものの実在感とも呼ぶべきものだろう。ものの痕跡としての実在性(あるいは物質感)。確かに、モノを直接感光したフォトグラムは、モノの実在感を強く喚起する。微細なものの実在感が自然=生命の複雑さや優雅さ、さらに言えばものの存在性そのものへと僕らの知覚を誘うというわけだ。宮本隆司が写真に見出している論理(権利上の機能)とは、もののコアのようなもの、純粋性とも呼ぶべきものではないか。近年、宮本隆司がピンホールやフォトグラムといった、いわば写真の原理的なものへ回帰しているのは、デジタル化によってイメージ(写真)がますます希薄なもの、ものの存在性というものから遠く離れていくこと(不純化)への抵抗でもあるだろう。しかし、ここで僕はどうしても疑問を持たざるを得ないんだよね。写真というイメージは本当にものの実在性をあらわにするものなのだろうかと。というよりもものの実在性というものを、一つのコアのようなものに、純粋な存在性のようなものに還元できるのか、ということだよ。小林のりおもまた、同じような疑問を抱えてきたのではないか。もっと端的に言えば、ものの実在性とは関係性のなかにあるということだよ。モノではなくコトの次元。
-しかし、ものを直接トレースした写真は、「それはかつてあった」という圧倒的な実在性にあるんじゃないの?それこそが絵画的(イデア的)なもののとらえ方を相対化し、直接的・身体的な感覚の世界を切り開いたんじゃないの?
-それは認めるよ。しかしそれはあくまでも絵画的イメージを前提とした考え方ではないのか。僕らが痕跡の美学、あるいはイデオロギーと呼ぶのはそこなんだよ。絵画を前提とした相対的なイメージにすぎない写真の論理を絶対化してしまったことなんだよ。イメージにも歴史性があるということだよ。
-う~ん。いまいち理解しかねるね。もう少し丁寧に論理を進めてくれないかな。
-写真(イメージ)とは、一つの効果、光学的な効果ということだよ。いわば実体のない靄や空気のようなもの。つまり、見るとは一つの光の体制であり、効果によってもたらされた光の体制ということだよ。写真もまた、ものの痕跡(実体)ではなくて、ものの「在り様」を現前させるということだよ。いわば写真とは心霊写真のようなものということ。ただし、心霊写真はその霊を実体(もの)化してしまうわけだけど(笑)。
-志賀理恵子の写真って、心霊写真そのものじゃないですか?
-おっと、今のは誰の声?ところで「痕跡」と「在り様」の違いって何?
-「在り様」というのは、光の効果によってもたらされた「ものの状態」、したがって実体ではないし、ものそのものではない。
-しかし、何度も言うけど、これまで言われてきた写真の力、あるいは多くの写真家が写真に求めてきたのは、その靄や空気のようなものを取り払い、ものの存在感(物質性)をあらわにすることじゃなかったの?
-あなたがおっしゃる靄や空気は、イデア的な靄・空気、いわば「精神の光」によってもたらされたものだよね。
-いや、心霊写真における痕跡は、イデア的な濾過装置を免れた、残りかす、余剰、ノイズのようなもの。それがつまり「物質性」であり、キットラー風に言えば「リアルなもの」なんじゃないの?現実界の露出。デジタルはその余剰、残りかすとしての靄や空気を構造化するわけだよね?
-ラカンを下敷きにすると、象徴界=文字、現実界=写真(蓄音機)、デジタル=想像界てな具合になるわけだ。
-まあ、キットラーは映画を想像界のステータスと言っているけどね。もちろん、写真にしても、蓄音機にしても、その後の技術は心霊写真のようなノイズを取り払い、見えるべきもの、聞き取るべきものを濾過していくわけだけど。ベンヤミンが言う、写真の人間化だね。ただ、フォトグラフも、フォノグラフも、原理的にはイデア的濾過装置を無効にし、あるいはまったく異なるグラフ法(記述法)をあみ出したわけだよね。キットラーもフォノグラフについて語っているように、音の比率(音階)から音の周波数(振動数)へと。
-しかし、それらを「リアルなもの」と呼んでいいのだろうか。軌道とその通過にかかる時間の関係を規定する近代天文学(ケプラー)、物体が通過する距離と落下する時間を関係させる近代物理学(ガリレオ)、直線上の一点(任意の瞬間)を位置づける近代幾何学(デカルト)等々、近代科学革命がもたらしたものだ。これらの運動は決してリアルなもの(現実の運動)ではなく、閉じられた総体に過ぎない。イデア的な総合ではなく、任意の瞬間に連関された運動であり、閉じられた総体なんじゃない。それを「リアルなもの」とするから、写真=もの論ということになるんじゃないだろうか。
-う~ん。
-だから、僕が問題にしようとしているのは、イメージの歴史性なんだよ。つまり、あなたがいまおっしゃった写真(フィルム)の力が強くなることによって逆に、何かを見えなくしてしまっているのではないか?僕はいつもフーコーの言葉をよく引き合いに出すんだけど、「フィクシオンは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなし、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」(フーコー)。つまり、フィルム写真によって可視化されたものも確かにあるが、それによって不可視化されたものもあるんじゃないかということだよ。近代以降の表現(フィクシオン)はこの責務を引き受けざるを得ないんじゃないかということだ。フィルム写真における可視なるものの不可視性。
-それって、よく言う真理の相対性、だから何でもいいんだよっていう話にならない?
-それはあなたが「真理のイメージ」を問題にしているからじゃない?真理のイメージとは何かって。そうじゃなくて、イメージの真理性を問うことなんだよ。つまり、誰にとっての真理のイメージなのかと。誰が真理と主張しているのか、その真理はどのくらい真理なのかと。これこそニーチェの問いだよね。フィルム写真(痕跡の美学)が実は偽のイメージで、デジタル写真こそが真のイメージだなんて言っているわけじゃないんだ。死への意識、自覚がその都度、生の力を思い出せてくれるということだよ。死そのものは意識することも、感じることもできないけど。
-突然、君は何を言っているんだい?
-確かに、僕らはいつかは死ぬ存在だ。しかし、その不確かさゆえに何とかその恐怖を回避している。しかし、自らの、あるいは愛する人の死が、その日付が分かったら、あなたはどうする?どうすることもできない。それでも、その死への自覚が生の力を目覚めさせてくれるんじゃないだろうか?
-????……。ところで、「真理のイメージ」と「イメージの真理性」の違いって何だい?よく分からんな。
-イメージの歴史性。つまり、イメージをもたらす光学的効果の諸条件を認識すること。ただし、条件に従うためではなくて、乗り越えるために。
-またまた分からんことを言ってるね!
-小林のりおの写真に話を戻したいと思うんだけど……。フィルムからデジタルへの移行もそこにこそ問題の核心があるように思えるんだ。
-望むところだね。君の話には飛躍が多すぎるよ。だれもついてこないよ。
-(笑)。
-つまり君は時代によって、光の体制は変化するって言いたいわけ?
-時代、視覚装置等々によってね。イメージを形作る諸条件の変化。
-それはまあ、当たり前と言えば言えば当たり前だよね。
-イメージの歴史性(見えるものと見えないものの配分)を自覚しなければ、その徴は見えてこないということだよ。したがって、徴とはイメージ化されることによってしか徴とはならないし、見ることもできない。痕跡の美学、あるいはイデオロギーはその徴を、ものの状態として実体化してしまう。そこに写真の記録性と表現性という偽の問題も起こったのではないか。写真における記録性の神話は、そのものの状態=痕跡を根拠として、実在性=真理を主張するわけだ。しかし、そもそも実在性とはものの状態のことなのだろうか。実は、実在性とは、ハイデガー流に言えば、一つの開示(空け開け)なのであって、状態のことではないんじゃないか。
-小林のりおの写真に即して、もっと具体的に言ってよ!
-先ほども触れた青いポリバケツの中の水溜りの写真だけど、非常に透明感のある色彩から僕らが受ける印象は、フィルム写真が追い求めてきた「ものの実在感=状態」とはまったく違うように思える。すべてが光に還元されてしまう手前で、ものの在り様をとらえている気がする。これがデジタル写真の特徴かどうかは別にして、明らかに小林のりおはデジタル写真という新たな装置を利用することによって、フィルム写真とは異なるもののとらえ方を試みようとしているんじゃないか。それはフィルム的なもののとらえ方、いわば固定した感覚の回路(実は、リアリズムとは現実をストレートに再現・描写することではなくて、この紋切り型の感覚こそをリアリズムとも呼ぶべきじゃないか。そもそも描写・再現とは光の効果なのだから)に対して、一つの迂回路を通すことでもあると思うんだ。何度も同じようなことを繰り返すけど、小林のりお的なもののとらえ方が唯一の正しい感覚の回路だなんて言っているわけじゃないよ。しかし、もののとらえ方における光の体制の時代性を示唆していることは確かだと思う。一つ目の「社会的風景の変容」と絡めて言えば、一つの光の体制、あるいはそれらの諸条件を変えなければ、その変容の徴をとらえることができないということだよ。
-君の議論を裏返すと、写真のデジタル化によって見えなくなるものもあることになるよね?
-もちろん。だからといって、フィルム写真に固執することで、それを免れるとも思えない。
-ある意味で、われわれはフィルムとデジタルの移行期、過度期にいわるわけだけど、フィルム写真が言ってみれば従来の絵画的イメージに対抗して築き上げてきた光の体制にもはや有効性、可能性がないということかい?
-そこまでは言わないよ。ただし、従来のような技術至上主義的なフィルム写真に有効性はないと思うね。しかし、その使用法にはいくらでも可能性はあるんじゃないだろうか。フィルム写真の本質的ステータスでもある「実在感の喚起」を逆手にとるという使い方もあるわけだから。
-杉本博司の写真みたいにですか?
-おっと、また違う声がしたね。君が問題にしていることは、ものの見え方=イメ-ジの歴史性ということなのかな?昔や写真や映像を見て、われわれが時代的隔たりを感じるのは、実は写された被写体の変化よりも、映像そのものが持っている変化のせいだよね。例えば、アメリカ軍が写した終戦直後の日本のカラー写真や映像は、われわれが見てきたモノクロによるそれとまったく印象が異なる風景だよね。つまり、われわれの戦後の風景、あるいは記憶は、かのモノクロ映像によって作られているというわけだね。
-映像の形式的次元においてはそういうことになるんじゃないかな。
-しかし、君のイメージの歴史性の議論を聞いていると、つねに新しいテクノロジーによる新しい表現が絶対みたいな話にならない?いわゆるローゼンバーグの「新しいものの伝統」というやつだ。
-そう誤解されるのがいちばん困るんだよね。そうではなくて、新しいテクノロジー(デジタル)が古いテクノロジー(フィルム)の光の体制を暴くということだよ。写真(フィルム写真)が絵画的な光の体制を暴いたように。したがって、新しいテクノロジーを使った作品がすべてそうした機能を持っていると言いたいわけじゃない。
-なるほど。ところで最近、森山大道のデジタル写真が特集されている雑誌が出たけど、あれなんかについては、君はどう思うんだい?
-まず第一印象を言えば、森山大道のデジタル写真には、先にあなたが指摘した、情報の物理的転写と抽象的転換の違いを感じることができないことかな。
-むしろ、森山大道は意図的にデジタルカメラをあたかも物理的転写(アナログ写真)のように使用しているとも言えない?まあ、森山大道は一貫して、写真が持つ物理的転写に、その力を見出しているのだろうけど。
-いや、実際のところ、アナログ写真とデジタル写真のイメージ自体に明確な差異を見つけ出すことは難しい。あなたは旧来のプリントとデジタルプリントの違いを区別することができるだろうか。
-確かに、アナログ写真とデジタル写真の違いが端的に現れているのは、イメージの生産法と使用法、あるいは流通の仕方だよね。またまたところでなんだけど、写真というイメージの登場は、イデア的なものからリアルなものを露出させた。写真が露出させたかに見えたモノそのもの。というよりも、アナログ写真が求めた核心は、事物をリアルなもの(=モノそのもの)の質的差異にしたがって切り分けようと、つまり分節化(区別化・分離化)しようとしたのではないか。シャカフスキーのモダニズム写真理論にだって、そうした見方はできるんじゃない?
-確かにそれは、セザンヌが試みようとしたことだよね。自然における質的な差異を切り離し、分離すること。それはイデア的分類法からの逸脱であり、脱臼であるわけだけど。ただ、モダニズム写真の弱点は、十分に抽象的でないことだよ。というか造型的な抽象(分離)に過ぎない。というか、何度も言うように、アナログ写真が見出した自然の質的差異を絶対化してしまったことじゃないのか。問われるべきなのは、分類(区別・分離)法の歴史性なんだよ。
-また歴史性かい(大笑)。
-まとめるつもりはないんだけど、今回の小林のりおの作品を見て思ったのは、フィルム的リアリズムに対してデジタル・リアリズムとも言うべき質感を感じたということかな。その可能性の一つというか。それはよくある夜の都市風景をいかにもデジタル的な光で撮った作品でもなければ、加工技術を駆使した作品でもない。デジタル・リアリズムとは、偽なるもののリアリティというか、虚構のリアリティというか、さらに言えば、近代絵画以後の絵画とも呼ぶべき「絵画(イリュージョン)」-近代以降の絵画が拒否してきたイメージ(イリュージョン)を写真が引き受けようというイメージでもある気がするんだ。言ってみれば、「絵画としての写真」ではなく「写真としての絵画」。
-それじゃ、やっぱり絵画への回帰じゃないの?杉本博司が言うみたいに。
-それは彼がフィルム写真にしかリアルさを求めていないからだよ、おそらく。あるいはリアルとリアリティの混同があるからじゃないのかな。フィルム写真があるリアルさを露出させたことは認めるよ。しかしそれはあくまでもイデア的なものに対してのリアルではないだろうか。イデア的なるものと対置されることによる、関係づけられることによるリアルさではないだろうか。さらに言えば、フィルム写真が批判されるべきなのは、事物を忠実に再現することにあるのではなく、まだ十分に忠実でないことこそ批判されるべきなのではないか。そもそもリアリズムとは、現実の忠実な再現のことではななくて、感覚運動的図式にしたがったイメージ(紋切り型)のことじゃないのか。ドゥルーズがロブ=グリエを引いて言うように、いわゆるリアリズムとは「対象の独立性を前提とし、それゆえ現実的なものと想像的なものとの識別可能性を仮定している」ものだ。したがって、ここで言うデジタル・リアリズムとは、感覚運動的図式に従うことのない、あるいは裏切る、光学的な描写のことだ。
-??
-つまり、フィルム写真のリアルさでは、まだまだ不十分ということだよ。
-まあ、いろいろプライベートで多忙を極めて……。
-で、反事例集の続きをやってくれるのかね?
-いや~、今回はちょっと寄り道をして、最近、いくつか拝見させてもらった個展について話してみようかなと。
-反事例集は頓挫したってわけだ?
-そういうわけじゃないよ。反事例集とどこかではつながっているはずだと思っているし、そのうち続きもやるつもりだ。
-まあ、いいか。Webにおけるブログのいい加減さ、おっと失礼、言い直せば、自由さはそこにあるわけだし(笑)。
-まあね。誰かに頼まれてやっているわけではないし。で、最初に取り上げたいのはやはり、小林のりおの「アウト・オブ・アガルタ」(ニコンサロン)かな。
-君はずっと小林のりおの写真について、書いたり、話したりしてきているよね?
-今回の「アウト・オブ・アガルタ」は、小林のりおの久しぶりの個展ということで、注目してきたのは確かだよ。もちろん、写真家にとって個展がすべてというわけではないし、とりわけ小林のりおはデジタル時代の写真(イメージ)に関して、さまざまな問いかけを行ってきた写真家だから、これまでかつ現在も継続しているWeb上での活動を無視するわけにはいかないし、今回の個展が何かターニングポイント的な記念碑的出来事でもないと思う。とはいえ、今回の個展を拝見して、いろいろと再確認をしたことも事実なんだ。再確認するということは、新たな方向を模索することでもあるからね。
-再確認?でもその模索は君にとってだろう?
-もちろんそうだけど。小林のりにとっても、というのが僕の推測さ。
-まあ、勝手な憶測はやめて、話を進めてよ。で、再確認ってどういうこと?
-う~ん、小林のりおの現実(世界)に対する姿勢とか、写真(イメージ)に関する考え方とか、そして何よりも「現在におけるイメージのあり方」に関してかな?
-まあ、前口上はそのくらいにして、具体的な話をしてよ。僕も今回の個展を拝見させてもらったけど、まずは君の感想を聞こうか。
-さっき、再確認という言葉を使ったけど、まず一つ目は、小林のりおは『ランドスケープ』以来一貫して、現実(世界)の変容に着目してきたってことだね。
-まあ、それは多くの評論家や識者が指摘してきたことじゃないのか。
-まあ、そうだね。社会の工業化・産業化、消費社会化……による社会的風景の変容ということだね。ただ、小林のりおは、その社会的変容を象徴的な次元でイメージ化しうようとしたわけではないというところが、他の多くの写真家との違いかな。
-それはどういうこと?
-つまり、誰もが認めるであろう「変容した風景」に狙いを定めていないということだよ。誰もが納得するでだろう社会的風景のなかに変化を認めるのではなくて、些細なこと、日常的な風景のなか、誰にも普通に思えてしまう風景のなかに、微かな変化を見出すということだよ。スローガン的な言い方をすれば、「解読された現実から、解読されるべき現実へ」と言えるんじゃないかな。
-そのスローガンをもう少し解説してくれないかな?
-あらかじめ解読された現実(世界)、つまり社会的テーマや言葉によってすでに把捉された現実ではなくて、解読されなくてはならない現実(世界)に狙いを定めているということだよ。ということは、小林のりおがカメラによって捕らえる現実、あるいは写真によるイメージ化は、一つの兆候、徴(しるし)としてあるということかな。したがって、小林のりおの写真は、解読(写真家によって解釈)された現実でもない。思考すべき対象として現実(世界)をイメージ化するということだ。だから小林のりおは、被写体それ自体がもつインパクト性や問題性のある対象をひじょうに嫌うんだよね。なぜなら、インパクトのある被写体や、すでに問題性を帯びた被写体は、あらかじめ解読されている可能性が、あるいはその解釈のスクリーンに覆われている。つまり、被写体(あらかじめ解読された現実)に依存することになる。小林のりおはそれを周到に回避するわけだ。というよりも、小林のりおにとっての「解読されるべき現実」は、普通の現実に、何でもない現実のなかにあるという確信があるんじゃないのかな。というよりもむしろ、一つの変容の徴(しるし)とは、現実の何でもないディテールのなかに宿っているということではないだろうか。その意味で、今回の作品のなかで秀逸なのは、青いポリバケツの中の昆虫をとらえた写真だろう。人工的に(工業化・産業化の結果)つくられた自然(?)、溜まり水(自然)の中の小さな生態系が織り成す昆虫たちの生と死の営み。しかし小林のりおは、こうした現代の風景、あるいはそうした風景をつくりだした社会のしくみを告発、糾弾しようとしているわけではない。そうではなくて、思考の対象にするべきものとしてイメージ化しているのではないか。
-しかしそれは、これまでも多くの写真家が試みてきたことではないの?
-確かに。しかし小林のりおは、「解読された現実」と「解読されるべき現実」の差異に自覚的なところがこれまでの写真家との違いじゃないか。
-どういうこと?
-ここに形式的・美学的な次元が問題になってくる気がするんだ。つまり「解読されるべき現実」に狙いを定め、一つの徴(しるし)としてイメージ化することは、従来の形式的・美学的な方法で可能なのだろうかという問題だよ。徴(しるし)とは、足跡のような単なる痕跡なのだろうか?という問題だね。これはぼくらがこれまで、痕跡の美学、あるいはイデオロギーとして批判してきたことだけど。
-う~ん?
-実は、小林のりおの個展と同じ日に、宮本隆司の「草・虫・海」(TARO NASUギャラリー)という、フォトグラムシリーズによる作品を見たんだ。宮本隆司の試みとの違いを話すことで、いくらかは分かりやすく話すことが可能になるんじゃないだろうか。それがまた、小林のりおに関する、もう一つの再確認であり、方法的(形式的)一貫性でもあるんじゃないだろうか。
-どういうことかな?
-宮本隆司のフォトグラムシリーズも、昆虫を被写体にしているんだけど、そのアプローチは小林のりおのそれとまったく違う。小林のりおの昆虫が一つの社会的関係性、あるいは場的・状況的捕え方をされているとすれば、宮本隆司の昆虫は純粋な抽象化された形態(輪郭)として捕えられている。周知のようにフォトグラムというのは、カメラを使わずに直接印画紙にモノを感光されたものだよね。
-確かに、手法的にも、イメージの原理的生産法もまったく異なるね。情報の物理的転写(アナログ写真)から、抽象的転換(デジタル写真)へ。
-あらかじめ言っておけば、宮本隆司の「草・虫・海」はとても美しいんだ。フォトグラムによってとらえられた虫の羽や羽粉、小枝等々。その微細な美しさは圧倒的だよ。しかし、この美しさを支えている論理は何かと言えば、微細なものの実在感とも呼ぶべきものだろう。ものの痕跡としての実在性(あるいは物質感)。確かに、モノを直接感光したフォトグラムは、モノの実在感を強く喚起する。微細なものの実在感が自然=生命の複雑さや優雅さ、さらに言えばものの存在性そのものへと僕らの知覚を誘うというわけだ。宮本隆司が写真に見出している論理(権利上の機能)とは、もののコアのようなもの、純粋性とも呼ぶべきものではないか。近年、宮本隆司がピンホールやフォトグラムといった、いわば写真の原理的なものへ回帰しているのは、デジタル化によってイメージ(写真)がますます希薄なもの、ものの存在性というものから遠く離れていくこと(不純化)への抵抗でもあるだろう。しかし、ここで僕はどうしても疑問を持たざるを得ないんだよね。写真というイメージは本当にものの実在性をあらわにするものなのだろうかと。というよりもものの実在性というものを、一つのコアのようなものに、純粋な存在性のようなものに還元できるのか、ということだよ。小林のりおもまた、同じような疑問を抱えてきたのではないか。もっと端的に言えば、ものの実在性とは関係性のなかにあるということだよ。モノではなくコトの次元。
-しかし、ものを直接トレースした写真は、「それはかつてあった」という圧倒的な実在性にあるんじゃないの?それこそが絵画的(イデア的)なもののとらえ方を相対化し、直接的・身体的な感覚の世界を切り開いたんじゃないの?
-それは認めるよ。しかしそれはあくまでも絵画的イメージを前提とした考え方ではないのか。僕らが痕跡の美学、あるいはイデオロギーと呼ぶのはそこなんだよ。絵画を前提とした相対的なイメージにすぎない写真の論理を絶対化してしまったことなんだよ。イメージにも歴史性があるということだよ。
-う~ん。いまいち理解しかねるね。もう少し丁寧に論理を進めてくれないかな。
-写真(イメージ)とは、一つの効果、光学的な効果ということだよ。いわば実体のない靄や空気のようなもの。つまり、見るとは一つの光の体制であり、効果によってもたらされた光の体制ということだよ。写真もまた、ものの痕跡(実体)ではなくて、ものの「在り様」を現前させるということだよ。いわば写真とは心霊写真のようなものということ。ただし、心霊写真はその霊を実体(もの)化してしまうわけだけど(笑)。
-志賀理恵子の写真って、心霊写真そのものじゃないですか?
-おっと、今のは誰の声?ところで「痕跡」と「在り様」の違いって何?
-「在り様」というのは、光の効果によってもたらされた「ものの状態」、したがって実体ではないし、ものそのものではない。
-しかし、何度も言うけど、これまで言われてきた写真の力、あるいは多くの写真家が写真に求めてきたのは、その靄や空気のようなものを取り払い、ものの存在感(物質性)をあらわにすることじゃなかったの?
-あなたがおっしゃる靄や空気は、イデア的な靄・空気、いわば「精神の光」によってもたらされたものだよね。
-いや、心霊写真における痕跡は、イデア的な濾過装置を免れた、残りかす、余剰、ノイズのようなもの。それがつまり「物質性」であり、キットラー風に言えば「リアルなもの」なんじゃないの?現実界の露出。デジタルはその余剰、残りかすとしての靄や空気を構造化するわけだよね?
-ラカンを下敷きにすると、象徴界=文字、現実界=写真(蓄音機)、デジタル=想像界てな具合になるわけだ。
-まあ、キットラーは映画を想像界のステータスと言っているけどね。もちろん、写真にしても、蓄音機にしても、その後の技術は心霊写真のようなノイズを取り払い、見えるべきもの、聞き取るべきものを濾過していくわけだけど。ベンヤミンが言う、写真の人間化だね。ただ、フォトグラフも、フォノグラフも、原理的にはイデア的濾過装置を無効にし、あるいはまったく異なるグラフ法(記述法)をあみ出したわけだよね。キットラーもフォノグラフについて語っているように、音の比率(音階)から音の周波数(振動数)へと。
-しかし、それらを「リアルなもの」と呼んでいいのだろうか。軌道とその通過にかかる時間の関係を規定する近代天文学(ケプラー)、物体が通過する距離と落下する時間を関係させる近代物理学(ガリレオ)、直線上の一点(任意の瞬間)を位置づける近代幾何学(デカルト)等々、近代科学革命がもたらしたものだ。これらの運動は決してリアルなもの(現実の運動)ではなく、閉じられた総体に過ぎない。イデア的な総合ではなく、任意の瞬間に連関された運動であり、閉じられた総体なんじゃない。それを「リアルなもの」とするから、写真=もの論ということになるんじゃないだろうか。
-う~ん。
-だから、僕が問題にしようとしているのは、イメージの歴史性なんだよ。つまり、あなたがいまおっしゃった写真(フィルム)の力が強くなることによって逆に、何かを見えなくしてしまっているのではないか?僕はいつもフーコーの言葉をよく引き合いに出すんだけど、「フィクシオンは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなし、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ」(フーコー)。つまり、フィルム写真によって可視化されたものも確かにあるが、それによって不可視化されたものもあるんじゃないかということだよ。近代以降の表現(フィクシオン)はこの責務を引き受けざるを得ないんじゃないかということだ。フィルム写真における可視なるものの不可視性。
-それって、よく言う真理の相対性、だから何でもいいんだよっていう話にならない?
-それはあなたが「真理のイメージ」を問題にしているからじゃない?真理のイメージとは何かって。そうじゃなくて、イメージの真理性を問うことなんだよ。つまり、誰にとっての真理のイメージなのかと。誰が真理と主張しているのか、その真理はどのくらい真理なのかと。これこそニーチェの問いだよね。フィルム写真(痕跡の美学)が実は偽のイメージで、デジタル写真こそが真のイメージだなんて言っているわけじゃないんだ。死への意識、自覚がその都度、生の力を思い出せてくれるということだよ。死そのものは意識することも、感じることもできないけど。
-突然、君は何を言っているんだい?
-確かに、僕らはいつかは死ぬ存在だ。しかし、その不確かさゆえに何とかその恐怖を回避している。しかし、自らの、あるいは愛する人の死が、その日付が分かったら、あなたはどうする?どうすることもできない。それでも、その死への自覚が生の力を目覚めさせてくれるんじゃないだろうか?
-????……。ところで、「真理のイメージ」と「イメージの真理性」の違いって何だい?よく分からんな。
-イメージの歴史性。つまり、イメージをもたらす光学的効果の諸条件を認識すること。ただし、条件に従うためではなくて、乗り越えるために。
-またまた分からんことを言ってるね!
-小林のりおの写真に話を戻したいと思うんだけど……。フィルムからデジタルへの移行もそこにこそ問題の核心があるように思えるんだ。
-望むところだね。君の話には飛躍が多すぎるよ。だれもついてこないよ。
-(笑)。
-つまり君は時代によって、光の体制は変化するって言いたいわけ?
-時代、視覚装置等々によってね。イメージを形作る諸条件の変化。
-それはまあ、当たり前と言えば言えば当たり前だよね。
-イメージの歴史性(見えるものと見えないものの配分)を自覚しなければ、その徴は見えてこないということだよ。したがって、徴とはイメージ化されることによってしか徴とはならないし、見ることもできない。痕跡の美学、あるいはイデオロギーはその徴を、ものの状態として実体化してしまう。そこに写真の記録性と表現性という偽の問題も起こったのではないか。写真における記録性の神話は、そのものの状態=痕跡を根拠として、実在性=真理を主張するわけだ。しかし、そもそも実在性とはものの状態のことなのだろうか。実は、実在性とは、ハイデガー流に言えば、一つの開示(空け開け)なのであって、状態のことではないんじゃないか。
-小林のりおの写真に即して、もっと具体的に言ってよ!
-先ほども触れた青いポリバケツの中の水溜りの写真だけど、非常に透明感のある色彩から僕らが受ける印象は、フィルム写真が追い求めてきた「ものの実在感=状態」とはまったく違うように思える。すべてが光に還元されてしまう手前で、ものの在り様をとらえている気がする。これがデジタル写真の特徴かどうかは別にして、明らかに小林のりおはデジタル写真という新たな装置を利用することによって、フィルム写真とは異なるもののとらえ方を試みようとしているんじゃないか。それはフィルム的なもののとらえ方、いわば固定した感覚の回路(実は、リアリズムとは現実をストレートに再現・描写することではなくて、この紋切り型の感覚こそをリアリズムとも呼ぶべきじゃないか。そもそも描写・再現とは光の効果なのだから)に対して、一つの迂回路を通すことでもあると思うんだ。何度も同じようなことを繰り返すけど、小林のりお的なもののとらえ方が唯一の正しい感覚の回路だなんて言っているわけじゃないよ。しかし、もののとらえ方における光の体制の時代性を示唆していることは確かだと思う。一つ目の「社会的風景の変容」と絡めて言えば、一つの光の体制、あるいはそれらの諸条件を変えなければ、その変容の徴をとらえることができないということだよ。
-君の議論を裏返すと、写真のデジタル化によって見えなくなるものもあることになるよね?
-もちろん。だからといって、フィルム写真に固執することで、それを免れるとも思えない。
-ある意味で、われわれはフィルムとデジタルの移行期、過度期にいわるわけだけど、フィルム写真が言ってみれば従来の絵画的イメージに対抗して築き上げてきた光の体制にもはや有効性、可能性がないということかい?
-そこまでは言わないよ。ただし、従来のような技術至上主義的なフィルム写真に有効性はないと思うね。しかし、その使用法にはいくらでも可能性はあるんじゃないだろうか。フィルム写真の本質的ステータスでもある「実在感の喚起」を逆手にとるという使い方もあるわけだから。
-杉本博司の写真みたいにですか?
-おっと、また違う声がしたね。君が問題にしていることは、ものの見え方=イメ-ジの歴史性ということなのかな?昔や写真や映像を見て、われわれが時代的隔たりを感じるのは、実は写された被写体の変化よりも、映像そのものが持っている変化のせいだよね。例えば、アメリカ軍が写した終戦直後の日本のカラー写真や映像は、われわれが見てきたモノクロによるそれとまったく印象が異なる風景だよね。つまり、われわれの戦後の風景、あるいは記憶は、かのモノクロ映像によって作られているというわけだね。
-映像の形式的次元においてはそういうことになるんじゃないかな。
-しかし、君のイメージの歴史性の議論を聞いていると、つねに新しいテクノロジーによる新しい表現が絶対みたいな話にならない?いわゆるローゼンバーグの「新しいものの伝統」というやつだ。
-そう誤解されるのがいちばん困るんだよね。そうではなくて、新しいテクノロジー(デジタル)が古いテクノロジー(フィルム)の光の体制を暴くということだよ。写真(フィルム写真)が絵画的な光の体制を暴いたように。したがって、新しいテクノロジーを使った作品がすべてそうした機能を持っていると言いたいわけじゃない。
-なるほど。ところで最近、森山大道のデジタル写真が特集されている雑誌が出たけど、あれなんかについては、君はどう思うんだい?
-まず第一印象を言えば、森山大道のデジタル写真には、先にあなたが指摘した、情報の物理的転写と抽象的転換の違いを感じることができないことかな。
-むしろ、森山大道は意図的にデジタルカメラをあたかも物理的転写(アナログ写真)のように使用しているとも言えない?まあ、森山大道は一貫して、写真が持つ物理的転写に、その力を見出しているのだろうけど。
-いや、実際のところ、アナログ写真とデジタル写真のイメージ自体に明確な差異を見つけ出すことは難しい。あなたは旧来のプリントとデジタルプリントの違いを区別することができるだろうか。
-確かに、アナログ写真とデジタル写真の違いが端的に現れているのは、イメージの生産法と使用法、あるいは流通の仕方だよね。またまたところでなんだけど、写真というイメージの登場は、イデア的なものからリアルなものを露出させた。写真が露出させたかに見えたモノそのもの。というよりも、アナログ写真が求めた核心は、事物をリアルなもの(=モノそのもの)の質的差異にしたがって切り分けようと、つまり分節化(区別化・分離化)しようとしたのではないか。シャカフスキーのモダニズム写真理論にだって、そうした見方はできるんじゃない?
-確かにそれは、セザンヌが試みようとしたことだよね。自然における質的な差異を切り離し、分離すること。それはイデア的分類法からの逸脱であり、脱臼であるわけだけど。ただ、モダニズム写真の弱点は、十分に抽象的でないことだよ。というか造型的な抽象(分離)に過ぎない。というか、何度も言うように、アナログ写真が見出した自然の質的差異を絶対化してしまったことじゃないのか。問われるべきなのは、分類(区別・分離)法の歴史性なんだよ。
-また歴史性かい(大笑)。
-まとめるつもりはないんだけど、今回の小林のりおの作品を見て思ったのは、フィルム的リアリズムに対してデジタル・リアリズムとも言うべき質感を感じたということかな。その可能性の一つというか。それはよくある夜の都市風景をいかにもデジタル的な光で撮った作品でもなければ、加工技術を駆使した作品でもない。デジタル・リアリズムとは、偽なるもののリアリティというか、虚構のリアリティというか、さらに言えば、近代絵画以後の絵画とも呼ぶべき「絵画(イリュージョン)」-近代以降の絵画が拒否してきたイメージ(イリュージョン)を写真が引き受けようというイメージでもある気がするんだ。言ってみれば、「絵画としての写真」ではなく「写真としての絵画」。
-それじゃ、やっぱり絵画への回帰じゃないの?杉本博司が言うみたいに。
-それは彼がフィルム写真にしかリアルさを求めていないからだよ、おそらく。あるいはリアルとリアリティの混同があるからじゃないのかな。フィルム写真があるリアルさを露出させたことは認めるよ。しかしそれはあくまでもイデア的なものに対してのリアルではないだろうか。イデア的なるものと対置されることによる、関係づけられることによるリアルさではないだろうか。さらに言えば、フィルム写真が批判されるべきなのは、事物を忠実に再現することにあるのではなく、まだ十分に忠実でないことこそ批判されるべきなのではないか。そもそもリアリズムとは、現実の忠実な再現のことではななくて、感覚運動的図式にしたがったイメージ(紋切り型)のことじゃないのか。ドゥルーズがロブ=グリエを引いて言うように、いわゆるリアリズムとは「対象の独立性を前提とし、それゆえ現実的なものと想像的なものとの識別可能性を仮定している」ものだ。したがって、ここで言うデジタル・リアリズムとは、感覚運動的図式に従うことのない、あるいは裏切る、光学的な描写のことだ。
-??
-つまり、フィルム写真のリアルさでは、まだまだ不十分ということだよ。