Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2009年07月13日 | Weblog
「テクスト(写真)は現実に依拠するだけではなく、現実に作用を及ぼすものだからである。それらは現実のドラマトゥルギーの一場を、復讐の用具、憎悪の武器を、戦いのエピソードを、絶望或いは嫉妬、哀願或いは命令の仕草を形成しているのである。私は、他のどれよりもよく現実に忠実であるような、その再現的価値故に取っておくに値する文書(写真)ではなく、何よりも、その文書(写真)が語る現実の中で或る役割を果たし、逆に、記述が不正確だろうと誇張されていようと偽善的であろうと、現実に貫かれているようなテクスト(写真)を捜そうした」(フーコー『汚辱に塗れた人々の生』丹生谷貴志訳)。テクスト、文書を写真に置きかえて読んでみたい誘惑にかられる。

ヌーメノンとしての「デジタル・リアリズム」(小林のりお)。思考されるべき、生成されるべき、創造されるべき現実。「この描写(ヌーヴォーロマンのネオリアリズム的描写のこと)は一方でそれに固有の対象にとってかわり、対象の現実を破壊して想像的なものの中に移行させ、他方でそれは、想像的なものあるいは心的なものが言葉と視覚によって創造する現実の全体を、対象から出現させるのである」(『シネマ2』ドゥルーズ 宇野邦一ほか訳)。

中心なき事物状態に遡ろうとする中平卓馬と、いまだ自然的知覚(身体的知覚)の特権性を維持しようとする森山大道。こんな比較・対照は可能だろうか?

ミシェル・フーコーは『ビンスワンガー「夢と実存」への序論』のなかで、夢の解釈において「精神分析は、意味作用の成就と、指標の帰納とを混同したのである」と言っている。それに対して、フッサールの『論理学研究』は「指標作用と意味作用」を区別したことにあると述べている。この夢における表現の論理を写真の機能と論理につなげてみること。写真というイメージ-その経験の固有の次元における「表現」とは何かを考察すること。

ミニマリズムは、縦・横(座標軸)という絵画の条件となるフレーム-つまりはフレーム化された平面性としてのイリュージョンを回避するために、彫刻=立体の世界を志向した。しかし、ミニマリズムが呈示・現前させようとした客体性はけっきょく、三次元-つまりフリードが言う演劇性の制約(三次元のフレーム化)、あるいはその条件(差異の取り消しとしての配分法)を思考することができなかったのだ(「単純な平面を考えても、あるいは第三の次元〔おくゆき〕が他の二つの次元〔縦と横〕と同質的であるような三次元の延長を考えても、明らかに同じ事態に帰着する」ドゥルーズ「差異と反復」財津理訳)。これがフリード下した、ミニマリズムに対する結論であり、批判である。けだし、表現とはすべからくパラドックスでなければならない(フリードによるカロの作品分析を参照せよ)。延長量に還元されることのない根源的“深さ”(「純粋なスパティウム」-ドゥルーズ)の生成こそがフリードの言う「リテラリズムを打破する現存性と瞬時性」であり、“虚の透明性”の創造なのではないか。フェノメノン(現象)に対するヌーメノン(仮想的存在)。

マイケル・フリードの「芸術と客体性」(批評空間 臨時増刊号「モダニズムのハードコア」所収 川田都樹子・藤枝晃雄訳)を再読。ミニマリズム批判としてつとに有名な論考だが、同時にグリーンバーグ(=現象学的還元主義)への反現象学的批判でもある。この論考ではグリーンバーグにおけるモダニズム理論の一つの帰結がミニマリズムととらえられているわけだが、この論考でフリードが最も問題にしているのは芸術的“表現”ではないのか。つまり表現というものをどうとらえるかの問題である。

グリーンバーグもフリードも、あまりテーマとして取り上げることがないのだが、写真・映画というテクノ画像の出現と現象学の関係である(モダニズム美術と現象学の関係は徹底的に考察されるべきではないか。言うまでもなくベルクソン的な視座を傍らに)。つまり、テクノ画像の出現によって、イメージの即物性-フリードの言葉で言えば、リテラリズムへの志向が始まったということである。あらゆるイデア的なものを排除していったときに残るものとしての客体(あるいは現象学における身体)。これは写真に対して夢見られた記録性への信仰(と身体への依拠)と同じものである。いわば玉ねぎの皮をむいていくことで、その芯なるもの(現実性)を呈示しようというものである。しかし、おそらく芯は存在しないのだ。芯の存在を想定させていたのは、実は何重もの皮なのである(笑)。ミニマリズムが呈示しようと試みたのは、言うまでもなく、玉ねぎの芯(客体性)の存在とその知覚的諸条件(身体と意識の関係)である。したがって、ミニマリズムにとっての表現とは、排除すること、引き算することにある。しかし、この思考はきわめてプラトン的(イメージにおける感覚的なものの排除)、キリスト教的偶像破壊主義的なもの(異教的なものの排除)ではないのか。ここにテクノ画像以後の芸術的表現における表現性の問題が浮上してくる。

ジャン=リュック・ナンシーは、re-presentation(表象)のreは反復の接頭語ではなく、強意のそれであると言っている(「禁じられた表象」)。これを表現性に敷衍すれば、表現とは対象から何かを引き出し強調することなのである。とするならば、芸術的表現とは特異なものを生成することにほかならないだろう(その説明は省くが)。フリードが批判するミニマリズムにおけるリテラリズム-そしてその演劇性は、現代アートの多くに見られるものだ。他の文脈にあるもの(たとえばサブカルチャー的なもの)をコンテクストを変えれば(つまりアート空間に置き直せば)芸術になるという思い込み、そのリテラリズム(デュシャンが試みたことはこれとはまったく反対のことである)。その本質はフリードの言う演劇性にあるだろう。と同時に、これはまさに写真というイメージが用意したものではなかったのか。確かに写真は、そのインデックス的特性によって、ある種の即物性(指示される対象との)を持っている。しかし、その即物性とはある限定された、閉じられた全体のなかでの任意性であることを忘れてはならない。つまり、写真によって切り取られたものが無条件に特異なものではないのだ。だからこそ、芸術表現が要請されてくる。

ドゥルーズに逆らって、あるいは依拠して、「動かない切断面(静止画)」の可能性を探ること。ドゥルーズをナンシーに接続すること。「状態の美学に対峙する運動の美学」(ジャン=リュック・ナンシー)。写真(静止イメージ)において、運動の美学を思考すること。分離・区別する力(=動き)としての静止イメージ。

イメージとは、現実の存在物から分離され、切り離され、区別され、距離をおかれ、切り取られたものである。その分離・区別の方法が、イデア(絵画的イメージ)によるものであれ、機械的・直接的なカメラの目によるものであれ、イメージについて語る場合、われわれはまず、イメージがもつ分離・区別の機能から始めなければならない。ジャン=リュック・ナンシーに倣って、その分離・区別されたイメージを聖なるものと呼んでもいいだろう。分離・区別するとは、言うまでもなくフレーミングの問題である。外を限定・規定し、内と外を分かつこと。パルゴン(作品)とパレルゴン(作品外のもの、付属物)、そしてカードル(ジャック・デリダを参照)。フレーミング(分離・区別-限定・規定)によって現実から対象化されたものをvisionと呼ぼう。この対象化されたものがドゥルーズが言う「意味」であり、フッサールが言う「表現」である。したがって、分離・区別されたイメージは、その現実的存在物やその状態(事物)と混同してはならない。分離・区別されたイメージ=表現とは、ドゥルーズも指摘するようにあまり厳密な比喩とは言えないにしろ、いわば霧や靄、空気のようなものである。効果としての表現、あるいはvision。したがって、visionとは現実の事物から分離・区別されたもの、再びジャン=リュック・ナンシーに倣って言えば、聖なるものであり、触れることの次元にはないものであり、事物から分離・区別された「判明なるもの」であり、弁別的な特徴線とも言うべきものである。判明なるものとは、接触から隔てられたものであり、同一性、類似性から隔てられたものである。とすれば写真というイメージは、その事物との高い類似性と再現性ゆえに、真なるイメージとは言えないことになるのではないのか。バルトが指摘したように、写真というイメージはあまりにも被写体と密着している。われわれは写真を見る場合、写真というイメージを見ることができず、つねに被写体に還元してしまう。しかし逆に言えば、写真というイメージはその高い類似性・再現性ゆえに、イメージの分離・区別の力-判明なるものの力を最大限に発揮することが可能になるのではないのか。つまり、似ているが似ていない。同一であるが同一ではない。絵画的なイメージであれば、それがどれほど再現力が高いものであれ、あらかじめイリュージョン(偽のイメージ)を前提にしている。「写真が危険なのは事物に忠実であるからではない、十分に忠実ではないからだ」と言ったのはD・H・ローレンスである(ドゥルーズを参照)。写真というイメージはその類似性・再現性の高さゆえに、分離・区別を強調することができるのではないか。ジャン=リュック・ナンシーが言う「区別化する力」。とすれば写真というイメージにおいては、演出された、加工されたイメージよりも、事物により忠実なイメージこそがその区別化の力を発揮するというパラドックスが成り立たないだろうか(笑)。「事物との不可分な現前と隔たり」の緊張感と切り開かれ(ジャン=リュック・ナンシーとハイデガーを参照)。しかし同時に、写真の類似性・再現性の高さは表象の追認・再認に陥る危険性もある。写真の象形性における危険(ドゥルーズを参照)。

では何をどのような方法で分離・区別するのか。ジャン=リュック・ナンシーは、「本質的に事物から区別されているもの、だがそれはまた力、エネルギー、圧力、強度でもある」と言っている。力、エネルギー、圧力、強度、それはまた暴力である(バタイユを参照)。実際、それは近代以降の絵画が追い求めてきたものだ。では、写真にも同様なことが言えるのか。当然、言うまでもなく、絵画と写真では、その分離・区別の方法が異なる。

このイメージがもつ分離・区別の機能に、初めて意識的に着目したのがシュルレアリスムにおける写真である。シュルレアリスムにおけるフォトモンタージュとバウハウスにおけるフォトモンタージュ(あるいはモホリ・ナギのフォトグラムとマン・レイのレイヨグラフ)の違いに着目せよ(ロザリンド・クラウスを参照)。シュルレアリスムの写真における二重化の登録。

やなぎみわにおける未来(イメージ)の使用(配分)法とはいかなるものか。

資本主義とアート。未来(可能性・幻想・イメージ・理想)の配分。未来の二つの構成(配分)。過去を相対化する(過去に基づく現在の諸条件を批判・変更する)ものとしての未来。過去を回避する(過去に基づく現在の諸条件の継続・無視する)ものとしての未来。未来への過剰な依存-金融資本主義あるいは幻想としてのアート、超越的理想・理念(理性の不当な行使)……。特権的未来(超越的形相による秩序)と任意の未来(特異点の生産)。

未来の過剰と不足。未来の過剰はバブルを産み、未来の不足は不活性化を産む(過去による過度な制約)。写真というイメージ(テクノ画像)は未来の過剰と不足の“間”(ここでいう“間”とは、バランスのことでも、均衡のことでも、中庸のことでもない。過剰でも、不足でも、どちらでもないもの。中断、宙吊り-準安定状態)である可能性を秘めているのではないか?

ロラン・バルトに先立って、イメージにおける「現存性(プレザンス)」の概念を刷新したのはアンドレ・バザンである(『映画とは何か』所収「演劇と映画」を参照)。もちろん、バルトの言う「実在性(それはかつてあった)」とバザンの「現存性」は異なる概念だ。バルトのそれが過去に起点を置いているとすれば、バザンのそれはあくまでも現在にある。イメージにおける現存性と不在の関係。写真というイメージは、この現存性と不在の関係を、それまでの造形芸術(絵画的イメージ)とはまったく異なる次元に導いた。それがイデア的介入を排した、写真における光の痕跡(鋳型)としての直接性である。しかし、バザンによれば、写真のイメージにおける現存性は空間において実現したにすぎない。その意味で写真はいまだ不完全な道具なのである。われわれは時間的な次元でそれを達成する映画を待たなければならない。しかし写真は、静止画ゆえに視覚の空間的な肥大と縮減をもたらすだろう。つまり、瞬間としての時間的視覚を幅(視界)と奥行き(被写界深度)において無限に引き伸ばす(あるいは切り開かれる)のだ!引き伸ばされた時間(瞬間)。ゼノンのパラドックス。動かない矢、亀を追い越せないアキレスによって、事物の多様なあり様(属性)への思考をうながす静止画。ショック(不意の出会い)としての静止画(写真)の可能性。ちなみに最近の大森克己のスライドショーは、この引き伸ばされた時間と知覚の関係を探る、きわめて興味深い試みである。

実在性と現存性について一言付け加えておけば、バルト的な写真の実在性(もちろん、バルトはその著『明るい部屋』のなかで、最終的にはその実在性を疑問に付すことになるのだが)とは、今、目の前にしているイメージ(被写体)が過去に実在したものであるという見方である。つまり、過去に実在したもの(被写体)が現在のイメージにおいては不在ということである。しかし、バザンの現存性とは、イメージがまず目の前にあるということである。現前しているイメージから出発する。ということは、イメージから導かれる被写体は、イメージによって過去のもの(被写体)として対象化されるということである(もちろん、この「過去のものとして」が曲者なのだが……。つまり事物のセリーと出来事のセリーがあることになる)。過去のものとして対象化された被写体は、バルト的な意味での「かつてそれはあった」ものではない。あくまでも効果として生成されたものである。つまり、バザンの見方においては、イメージと不在(の対象)との関係が逆転しているのだ。言うまでもなく、ドゥルーズもまた、『シネマ』のなかでこのバザンの見方を踏襲している。

しつこいようだが再び、かの愚か者(笑)-杉本博司を批判する。下記の杉本の発言の誤解はどこにあるのか。セッティングされた現実を撮ろうが、演出された現実を撮ろうが、写真というイメージの登場後は、絵画的イメージ(イデア的イメージ)が終焉したのだ(それを作品化したのが杉本本人ではなかったか?)。したがって、現在の絵画あるいは杉本が言うように近代絵画以降の絵画(すべてはありませんもちろん、イデアに基づいた絵画は現在もつねに存在するのだから)は、もはやいわゆる絵画的イメージ-イデア的イメージではないのだ(われわれはイデア=絵画的イメージ以後から出発しなければならないし、近・現代絵画-美術もまたそこから考えなければならない)。その相異が理解できないから相変わらず、演出された(つくられた)写真は絵画的なものと判断してしまうのだ(相変わらずの、無反省な絵画と写真の二項対立)。かつてこのことを理解し、自覚し、問題にしていた唯一の写真家は中平卓馬であった。デジタル写真は絵画への逆行であるどころか、「実在なきイメージ」「イメージなき実在」という対立を超えた思考を可能にするのだ(杉本の発言を好意的にとれば、もちろんデジタル写真は絵画的-イデア的なものへと逆行する危険性を孕んではいる。しかしそれは一面でしかない。その一面を回収してはならない)。「したがって電子的イメージは別の芸術意志、あるいは時間イメージのまだ知られざる側面において、基礎づけられるべきだろう。芸術家はいつも同時に、こういわねばならない状況におかれている。私は、新しい手段を要求する。そして私は新しい手段が、あらゆる芸術意志を消滅させ、あるいはそれを商業に、ポルノグラフィーに、ヒトラー主義に変えてしまうことを恐れる……」(『シネマ2』宇野邦一他訳)。ドゥルーズは同じ著で、世界への信仰を語っている。世界を信じること、それは世界の、宇宙の持続としての変化を信じることではないか。「芸術の目的=終焉を芸術の止揚となし、その結果芸術の完成であり芸術の哲学的達成であるとする思考-それは、芸術を芸術としては破棄し、哲学として芸術を是認するものであり、哲学を言説としては破棄し、芸術としては保存する」「一つの表象あるいは表現として構想された芸術は、実は終わってしまった芸術であり死んだ芸術である。(略)芸術が本当のところは、もうすでに(再)呈示=表象の境位にとどまってはいないからである。(略)ヘーゲルはそのことを知らなかった」(ジャン=リュック・ナンシー『崇高な捧げもの』梅木達郎訳を参照)。杉本博司のいまだ変わらぬヘーゲル的思考(笑)。

「デジタル時代になって写真は世界の存在証明能力を喪失してしまった。デジタ ル写真によって世界は手を入れられる材料に堕してしまったのだ。写された世界 は操作され、処理され、そしてファンタジーへと変換されるのだ。そうした意味 ではデジタル写真は絵画への逆行であるともいえる。画家は写真という強敵が現 われるまで、のほほんと世界を恣意的に描いてきた。写真の発明は多くの絵描き を失職させた。絵描きがリアリティーの描写において、写真に勝ち目がないとい うことを悟ったおかげで、近代絵画というものが発明されたといっても良い。そ れは印象派やキュビズム、シュールレアリスム、ひいては現代美術へと発展した のだ」 (杉本博司の発言)

ドゥルーズは、近代科学革命とは運動(時間)をイデアという超越的なエレメント(ポーズ)から内在的な物質的エレメント(切断箇所)から再合成するに至ったことだと語っている(『シネマ1』)。この内在的な物質的エレメント-切断箇所とは何か。それは運動(時間)を感覚可能なものとして、あたかも人体を解剖(図式化)するごとく切り開くことではないのか。瞬間の解剖学。そこから何が可視化されるのか。おそらくそれは事物の多様な属性である。事物の出来事(しかし、出来事はイメージの外部にはない)。写真というイメージは事物の多様な特異点をさらけ出すのだ。内在的な物質的エレメント(切断箇所)-瞬間の解剖学を考察すること。

「関心を快適なものでは対象にとり、美しいものでは自己にとる」(ジャン=リュック=ナンシー)。カント『判断力批判』における快適・美・崇高-この三つの関係を考察すること。




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