南国の遊び部屋

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遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・三方ヶ原の戦い(信玄・忠勝・幸村・左近・稲姫)

2010-07-20 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3の武田信玄の章・第4話と本多忠勝&稲姫&真田幸村&島左近の章・第1話は1572年の「三方ヶ原の戦い」です・


1571年、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出しました(第一次信長包囲網)。
1571年北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に西上作戦を開始します。
1572年、武田軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時侵攻を行います。
・山県昌景軍5,000人が9月29日東三河に侵攻。
・秋山信友軍5,000人が東美濃に侵攻。
・武田信玄率いる本隊2万2,000人(うち北条氏の援軍2,000人)が10月3日、遠江国に侵攻。

馬場信春隊が徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・「二俣城」を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かいましたが10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康が出した偵察隊が、武田軍本隊と遭遇し一言坂で敗走します(一言坂の戦い)。

島左近&真田幸村の章のオープニング・ムービーは『一言坂の戦い』の様子です。

左近「幸村 侍は何も生み出さない じゃあなんで、侍ってのが生きてんだと思う?」
幸村「世に生き様を示すため」

忠勝「主らは行け」と家来達を逃がします。

忠勝に突撃する武田軍ですが・・・

左近ぶっ飛ばされ・・・

幾らか打ち合った幸村も・・・

飛ばされ、忠勝に馬を乗り逃げされます。

左近「兵にあれだけの力を出させる男 奴の主・徳川家康・・・」

左近「倒してみたくならないかい?」
幸村「はい!」
この2人の生涯の目標・打倒家康の始まりです!

・・・はっきり言えば、この2人は「三方ヶ原の戦い」には参加していないのですが・・・


本多忠勝&稲姫の章のオープニング・ムービーも『一言坂の戦い』の様子です。

徳川軍兵士達「かくなる上は・・・ 死して三河武士の誇り、守るまで!」
忠勝「愚問! 生きよ」

忠勝「生きて殿を守れ」「仲間を守れ」「民を守れ」
「誇りは、その中でのみ守られる」

稲姫「そのためには」
「傷つくことすら許されぬのですね、父上」
忠勝「戦果てし後を見据えれば自明の理」
他の兵士を逃がし忠勝と稲姫のみ残りました。

本多忠勝が生涯にわたり合戦で傷一つ負わなかった逸話があります。


本多忠勝・内藤信成率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇。
偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃します。

本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤隊を逃すために殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取りました。


急戦で陣形もままならぬ本多隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊は容赦なく突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打破。

また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけました。

(ムービー)忠勝の凄まじい武により突撃した武田軍は一蹴され、島左近はこれ以上の攻撃をやめさせました。
稲姫「武士の情け、かたじけなく存じます!」
忠勝と稲姫は馬に乗り撤退しました。


(史実)忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図りました。これは無謀な突撃で本多隊は死兵でしたが、小杉左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多隊を見逃しました。
このとき、忠勝は小杉左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われます。


左近「家康に過ぎたるものが、ふたつあり・・・か」

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場しました。
これは忠勝隊を逃がした小杉左近(武田武将)が書いたと言われています。
「唐の頭」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であり家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたということです。



一言坂の戦いで徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍はそのまま二俣城を包囲(10月16日)。
家康は対処を取ることができず、12月19日に二俣城は陥落しました(二俣城の戦い)。
これによって家康の遠江支配は大きく揺らぎました。

二俣城落城の少し前に徳川軍は佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら織田軍3,000人の支援を受け兵力が1万1,000人となっていましたが、依然兵力差は大きいため、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると見越して篭城戦に備えました。


武田軍は、12月22日に二俣城を出発し、堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を目的地とし、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていました。
これを知った家康は一部家臣の反対を押し切り、籠城策を取り止め三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃することを決定し、浜松城から打って出ました


徳川軍は三方ヶ原台地に到着しますが、武田軍の後方を取るどころか相手は魚鱗の陣を敷いて待ち構えていました

対する徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりますが、武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けた徳川軍は敗走します。


家康「我が領を黙って通しては、三河武士の面目が立たぬ」

忠勝「拙者が武にて武田の出鼻をくじかん!」

信玄「ほう、あの家康がカンカンじゃのう」
「城から釣り出せばこっちのものよ。かかれい!」

信玄「わしの軍略にすっぽりはまっちゃったのう!」

信玄「わしの軍略、冴えまくりじゃな」

家康「退けい! 全軍、浜松城へ撤退するのだ!」

勝頼「本陣はこの勝頼にお任せを、父上!」

武田勝頼は武田信豊、穴山信君とともに大将を努め、二俣城を攻落し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦いました。


家康の影武者「我こそは徳川家康! 逃げも隠れもせん!」

信玄「影武者め・・・命を捨て、主の道を開こうとするか」

幸村「影武者・・・己が身を捨てて戦う覚悟、見事」
「されど、お館様の王道を阻むなら絶つのみ!」

影武者「この命…殿のお役に立てたなら本望よ…」

家康「久三郎…!」
家康「吉信…! 吉信!」

徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣が家康の身代わりとなりました。


影武者「我が役目、果たしましたぞ…」


家康「すまぬ…すまぬ…わしのために…!」


信玄「おことらのような家臣を持って家康は幸せよ」


島左近「完全なる勝ち戦ですね 信玄公の軍略に比べ徳川のそれはあまりにお粗末だ」
信玄「左近、戦は軍略だけでするものじゃないよ」


島左近「影武者…そんなお粗末な軍略、通じませんて」

信玄「軍略ではないよ、左近。家臣の主を思う心…絆じゃ」


幸村「三河武士、見事だ…美しき生き様を示してみせた」

信玄「幸村、生あってこその生き様」
「それを飾るため命を落としては本末転倒じゃよ」

島左近「家康のためなら喜んで命を散らすか…やるせないね」


信玄「格好よすぎかのう、わし

島左近「カッコいいですよ、信玄公


忠勝「弓より放たれた矢はまっすぐに進むもの」
「稲はまっすぐに生きよ。それを見守るは親の務めよ」
稲姫「はい、父上!」


信玄「家康を支える家臣の力、わしの軍略に劣りはせぬ」



忠勝「何人も忠勝を傷つけることあたわず!」

生涯において参加した合戦は五十七回に及びますが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています!!


信玄「死兵当たるべからず…勝ち戦じゃ、命を惜しめ」

一言坂の戦いで小杉左近が忠勝を見逃したときの台詞ですね。


くのいち「遠路ご苦労様です。このまま地獄へこ案内しま~す」
「うわ、怖そ~! 眉ふと~! 目つきワル~!」

忠勝「殿を狙う者、この蜻蛉切が阻む!」

蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の号(あだ名)であり、その活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられています。
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話があり、刃長43.8cmの笹穂型の大身槍で、柄の長さは6mほどであったといわれています。


信玄「おーこわ。やっぱやめとけばよかったかのう」


くのいちと稲姫は幸村をめぐって、今後のシナリオでもからんでいきます。


家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝えられています。


後の伊賀越えと並んで家康人生最大の危機とも言われます。


服部半蔵「時は稼いだ…勝ちは要らぬ…」


家康「皆、よく戦ってくれた。家臣こそ我が宝よ」

僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行い、苦渋の表情の肖像画・「顰(しかみ)像」を描かせました。
これは一般に、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせたとして知られ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っています。


浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することなく、そのまま引き上げました。

武田軍はほぼ兵力を温存した状態で遠江国で越年した後、東三河に侵攻。
1ヶ月かけて徳川軍の三河防衛の要所である野田城を攻略します(野田城の戦い)。

しかし間もなく信玄の急病に伴い西上作戦が切り上げれ、武田軍は甲斐国に撤退することを決定。
その道中で信玄は病死します。
徳川氏のみならず、織田氏の危機でしたが、結果として信玄の病死という幸運に恵まれて事なきを得ました。

対して第一次信長包囲網が崩れ、朝倉氏・浅井氏の命運が尽きてゆきます・・・

戦国BASARAより友情出演



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