南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・織田信長&豊臣秀吉(桶狭間の戦い)

2010-06-16 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3・織田信長の章と豊臣秀吉の章・第一話は1560年6月12日の「桶狭間の戦い」です。
尾張・桶狭間古戦場は愛知県豊明市になります。


織田氏と今川氏は信長の父・織田信秀の時代から、三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきました。
1542年の第1回の小豆坂の戦いでは織田方が勝利。
1548年の第2回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利し、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退しました。


信長&秀吉のオープニングムービーです。

「駿河の大名・今川義元は天下に号令せんと大軍を発した」

1560年6月5日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進しました。


「上洛の途上にある織田家の兵力はその二割にも満たず」
「滅亡は必至であった」

6月10日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌6月11日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせました。
翌6月12日3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。


「織田も終わりか」
「我らが殿はのん気に舞なぞ舞うておられるわ」

「にぃ~んげぇ~ん~ぐぉ~じゅぅ~ねぇ~ん~~~


秀吉「信長様は、わしらとは違うモンを見とられるんよ」
馬のいななきが聞こえ・・・
秀吉「ほれ!もう先を駆けておいでじゃ」
秀吉も跳ね起きて武器をとり飛び出します!


前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長は、今川軍の攻撃開始の報を得て、飛び起きて幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の4時頃に居城清洲城より出発。
わずかな従者のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神社に到着、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行ったそうです。


雨の中、数騎の友と駆ける信長


秀吉が先回りして待機していたのを横目で見た信長は「フッ・・・サルめ(笑)」という感じで駆け抜けていきました。


秀吉も遅れまいと馬に乗り、信長について行きます。


1548年、父・信秀と敵対していた美濃国の斎藤道三との和睦が成立し、道三の娘・濃姫と政略結婚。
1551年、父・信秀が没し、家督を継ぎます。
1553年、信長の教育係であった平手政秀が自害(奇行が目立つ信長を諌めるため?)
1555年に「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友に安食の戦いで勝利。
1556年4月、義父斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)
信長の弟・信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。
1557年に2回にわたり謀反を企てた織田信行(信勝)を信長が謀殺。
1559年岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信賢が信長に降伏して追放、尾張は信長によって統一されました。


秀吉ははじめ木下藤吉郎と名乗り、今川氏の松下之綱(松下加兵衛)に仕え、目をかけられていましたが、退転。
1554年頃から織田信長に小者として仕え、 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げて信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていきました。


桶狭間合戦当時の最盛期の今川義元の領国は、駿河国、遠江国、三河国の3カ国の69万石(100万石とも)でした。
1560年6月、今川義元は2万5000の軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。

義元は大高城(名古屋市大高緑区大高)周辺の織田方諸砦を松平元康(徳川家康)などに落とさせます。


日本三大奇襲の一つと言われ、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いです。


6月12日10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ2,000人といわれる軍勢を整えました。
この間に数で勝る今川軍の先鋒松平隊と朝比奈隊の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落しました。
大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進みました。
織田軍は11時から12時頃、善照寺砦より出撃。
桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始しました。
13時頃、突如豪雨が降り、視界が悪くなり、雨が止んだ直後の14時頃、織田軍は義元の本隊に接触、攻撃を開始しました。
全軍で2万を数えた今川軍も、戦闘により様々な方面に戦力を分散させており、義元を守る本隊は5,000~6,000人ほどに過ぎませんでした。



義元「無謀な策、無謀な戦…やはり、うつけ殿よの…」

信長「その無謀に敗れるは、うぬの無明ぞ」

信長「死のうは一定…天が信長を欲せぬならば、滅ぶのみ」

信長「信長は、地獄に向かう…クク」

前田利家「この人数で、今川の大軍と戦えってのかよ…」

前田利家(犬千代)は1551年に織田信長に小姓として仕え、萱津の戦いで初陣(1552年)、稲生の戦い(1556年)や浮野の戦(1558年)に従軍し功積を挙げ、赤母衣衆筆頭に抜擢されました。
血気盛んで、「槍の又左」などの異名で呼ばれていましたが、1559年に同朋衆の拾阿弥(織田信秀の側室の子)と諍いを起こし(利家室のまつ(芳春院)からもらった笄(芳春院実父の形見)を拾阿弥が盗んだうえ、度重なる侮辱を繰り返したため、信長の面前で利家が斬殺した。「笄斬り」)、出奔、浪人していました。
出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てました。


柴田勝家「城に篭もったとて同じこと、黙して戦えい!」

柴田勝家は1551年に織田信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕え、1552年の清洲城主・織田信友との戦い(萱津の戦い)では30騎を討ち取る武功を立てました。
信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みますが、1556年8月信長との戦いに敗れて剃髪し、信長に降伏しました(稲生の戦い)。
以後、勝家の信長に対する忠誠心は絶対であったとまで言われ、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置きました。


秀吉「…同じじゃねえ、信長様は策を秘めておいでなんさ」

今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話があり、今川軍の情報を信長があらかじめよく収集していたようです。


義元「何やら騒がしいの…誰ぞ、見て参るがよいの」

今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていました。


秀吉「もっと手柄を上げて、信長様に認めてもらうんさ!」

百姓から天下人へと至った「戦国一の出世頭」の秀吉です


柴田勝家「わぬし、戦場でごちゃごちゃ騒ぐでないわ!」
秀吉「か、勝家様…申し訳ありませぬ…」

この頃は勝家と比べ秀吉は、はるかに格下でした。


前田利家「男がここで退けっかよ!」
利家ピンチセリフその1

濃姫「私が追い詰められるなんて…素敵」
濃姫ピンチセリフその1

秀吉「うっひゃ~、援軍出してくれんかの~」
秀吉ピンチセリフその1

柴田勝家「鬼柴田の名が泣くわ…」
柴田勝家ピンチセリフその1

柴田勝家「この柴田が助けられようとはな」
(ピンチに駆けつけたときのセリフ)

秀吉&勝家の合体必殺技!!

ある合戦では勝家が手勢を秀吉に分け与えたとも言われ、秀吉も1573年長浜城の城主となった頃、丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓(羽柴秀吉)に改めたりしました。

1576年秀吉は、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられますが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまい、信長に激怒されたことがあります。


信長様「ぬるい…この程度では足りぬわ」




秀吉「信長様は何もかも見通しておられるようじゃ…」
「わしの夢果たせるんは、やはり信長様しかおらん!」


秀吉「家康殿は信長様と既知の仲…寝返ってくれんかのう」

信長「久しいな、家康…」

父・松平広忠が今川氏に臣従するため、家康(竹千代)6歳を、今川氏の人質として駿府へ護送途中に義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られました。
織田信長とはこの頃知り合いました。


家康「こ、この家康に、寝返れと仰せでござるか…」
「義元公に恨みはござれど、恩義もござる…されば!」
「されば、一遍の義理だけは果たさせてくだされい!」

今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広1549年に生け捕り、人質交換によって竹千代を取り戻しました。
今川氏の下で元服し、今川義元の姪・築山殿を娶りました。
太原雪斎の英才教育 を受けたとの説もあります。


秀吉「今こそ、今川の支配から脱する時にござる!」
「我が主と共にお立ちになれば、必ずや勝てまする!」

松平氏の家臣は主君を今川家に人質にとられて走狗として酷使されたようです。


信長「来い…この信長と共に」
家康「ははっ!」

家康「今こそ三河に返り咲き、乱世に名を上げん!」

今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。
今川軍が放棄した岡崎城に入ると、三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立します。


信長「今ぞ…義元を討ち取れい!」

義元「の、信長…いつの間に! に、逃げるの!」

今川軍は精鋭2,000人が一丸となって突撃してきた織田軍の猛攻によって大混乱に陥いり、劣勢を悟った義元は退却を命じました。
しかし双方の大将が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、ついには義元の旗本部隊に信長の親衛隊が突入しました。



秀吉「ここで目立たにゃ…義元に一番槍付けちゃるわ!」


信長「面白いサルよ」

秀吉「今川義元、その首もらったあ!」

義元「東海一と称された義元の首、簡単にはやらぬの!」


義元は輿を捨て、30騎の親衛隊が取り囲みつつ自身も騎馬で退却しました。
織田方の毛利新助と乱戦になる中で、信長自身が追いつき馬を降りて、義元を助けようと近づいてくる親衛隊を斬る中、組み伏せられた義元は、ついに毛利によって討ち取られました。


義元「まろは…この地で滅ぶのか…の…」

秀吉「乱世の終わりは、信長様が見せてくださる」
「それまで…わしは信長様と駆け続けるんさ!」


信長「義元…うぬが滅びしこと、無価値にあらず」
「うぬを踏み越えたればこそ、信長が時を進められる」


織田信長、世紀の番狂わせ!
まさに「その時歴史が動いた」ですね(笑)



信長の章・一話終了後または家康の章・オープニングのムービーです。

豪雨の中駆ける信長達

義元を討ち取ります!

家康「今川の支配を逃れ、ようやく三河の地を取り戻すこと叶い申した」
信長「それがうぬの望みか そうして地を掻き抱き 踏みにじられるままに耐えゆくか」
「ならば、うぬを踏み越えるのみ」

信長「桶狭間は始まりに過ぎぬ」  
「信長は天下を武にてねじ伏せ 日本(ひのもと)をひとつの地平となす」

信長「地とにらみ合うのをやめ さらなる先を見る覚悟あらば… 信長を追って来い」

家康「その先にあるは…」

1562年に家康は義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結びました(清洲同盟)。



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