百里シンポⅣ 2003年2月11日開催

2008年06月29日 | 百里シンポジウム



結論

百里飛行場民間共用化の展望については貨物も検討していかないと、旅客だけでは非常に難しい。しかし、他では出来ないレベルで国内外エアーラインの整備を学生のインターンシップなどを利用しながら比較的安価に受け入れられる施設ができれば需要があり、他の飛行場に比べて設備投資額が小さいこの飛行場であれば採算は取れる。
また、騒音などの被害を受ける地元が豊かになる政策や、子供たちに夢を与えるべくエアーショーなどの空に関するイベントも並行して行なう必要がある。

2003年2月11日 小川町文化センター 
・楽市楽座の昔より、商いとは人の集う処に発生した.
・就労し生活する人をまらに増やせれば商いは起きる.
・まちに人を増やすには空港を核にしたまちつくりか必要である.

 小川町商工会青年部は、平成11年頃から百里飛行環民間共用後のまちづくりを近隣青年の仲間と商工業の立湧から勉強して参りました.
 これまでは青年部員等を対豪に「百里シンポジウムⅠ、Ⅱ」を閑碇し、研究結果と過程を報告してきました。
 更に「百里シンポジウムⅡ」から地域住民も対象にし、いよいよ「百里シンポジウムⅣ」において専門家のカをお借りして案件一つ-つを検証し、実現に向けて今後は住民の皆さんと共にこの問題を協議していきます。

 また、熱気球を使ったネイチャースクールを開催し青少年の健全育成を推進すると共に、オリジナルの熱気球を大会・イベント等に参加させることによって百里飛行揚民間共用化の宣伝告知媒体とし、本物の体鼓によって茨城といえば「空」というイメージを地元から全国まで発信します。


目的
・百里飛行場民間共用化の告知活動、並びに「茨城=空」のイメージつくりを行う。
・民間共用に関する調査研究を住民に伝え、共に考えることで意識の高揚を図る。
・住民や関係者そして専門家の意見を聴<ことで今後の方向性を確認し、更に内容を充実させる。
・住民と共に教育・福祉・健簾(環境)に良好な場を作り上ける.
・空港のあるマイナーだけれとも特色あるまらづくりを進める一助とする.

構想
1、「アジアの整備暫百里」構想
2、「アスリートと老人か共有するまち」構想
3、「有機農業と商品開発」構想

効果
・自衛隊員の定住者が増加することによる人口の増加、人口増による購買増
・新規事業者の増加
・工業団地空洞化の保険
・子供達の身近な将来像づくりの提供による町離れ防止と地元就職先の提供
・百里飛行揚民間共用の広告宣伝
・国内外便ならびにチャーター便の確保

講演
「ホンモノ教育」
講師:(学)日本航空学園 理事長 海沢重雄氏

パネルディスカッション
 テーマ:「百里飛行場開港後の展望について」
     「整備街構想について」

パネラー:(学)日本航空学園 理事長 海沢重雄氏
      「千歳校では、JALとANAの整備に当校の生徒がインターンとして活躍しそのまま就職している。」  
      元JALエアロメンテナンス 専務 加藤巌氏
      「現場では、海外ではなく国内での整備を希望しており、重整備(車検のようなもの)では、充分需要があると思う。」
      エアーロック・エアーショー 代表 ロック岩崎氏
      「子供たちを輝かせるような夢のある企画を地元で行なって欲しい。」
      茨城県企画部 空港対策室長 岸谷克己氏
      「防衛庁とも協議しながら民間共用化に向けて進めており、旅客だけではなく、貨物なども視野に入れている。」
      小川町 町長 伊能淑郎氏
      「道路やインフラ整備は勿論、商工農のエリアと位置付けが重要なので、住民の意見を聞きながら方向性を決めて行きたい。」

コーディネ一ター:(社)石岡青年会議所 理事長 山西弘一郎


3.まとめ

2008年06月25日 | 百里シンポジウム

 最後に結論として、私自身が考えますことを、2つ申し上げたいと思います。

 一つは、情報革命の時代に合わせて、空港利用促進に地域住民をどう参加させるかということです。私も、今、NPOを2つ、室蘭と洞爺で作っているのですが、つくづく思いますのは、地域独自のデータを持つことです。数値データを地域住民と共有することです。また、それを地域住民に知らしめるための組織が大事であります。

 地域住民の参加を得た、その次が、地域の政策能力を嵩めることです。ちょっと言葉が過ぎるかもしれませんが、戦後から今までは、霞ヶ関が中心になって航空・空港政策を作ってきましたが、その流れは、もう終わっている。皆さんが一所懸命努力しているがごとくに国の一元管理の時代は終わったのです。その時に、地域をどれだけ知っているのかが重要で、皆さんしかいないわけです。地域を知っている人が施策を作り、それが一般化すると制度化され、日本中のルールになっていくわけです。  

 他の一つは、アイルランドのシヤノン開発株式会社の話の中で申し上げましたが、競争であります。連携という言葉を使えばいいのかもしれませんが、私は、むしろ競争だろうと思います。競争というのは、もう一度シヤノン開発の方の言葉をそのまま申し上げますが、「地域に工場がある」ではダメなのです。「世界に通用する技術を持っている人がいる」ことなのです。地域開発をするということも、ICを作るということも、人づくりからなのです。シヤノン地域の人々がフィリピンのスーピックまで教育をしに来ているのです。

 皆さん、地域の方々が中心になって、自分たちの地域をよく見て施策を立案し、その中に世界に通用する技術を1点見つければいいのです。そこをグーッと広げて、地域住民にそれを説得すればいいのです。空港は情報を運んできてくれません。情報は自分たちの地域の中になければいけないのです。

 これからの日本が迎える社会は、少子・高齢化が進展し地方部の衰退がはじまります。地域が自らつぶれることは決してありません。しかし、競争によって周辺地域に人口が吸い取られてつぶされることはあるのです。地域間競争に打ち勝つために地域の航空・空港を、これから、どういう形で地域に結びつけていくかこれが重要です。

 つたない話でありましたが、小川町、玉里村、玉造町が一体となって、百里飛行場の民間共用を堆し進め、地域が発展にされますことを、切にお祈りいたします。ご静聴ありがとうございました。


2.地域と空港

2008年06月22日 | 百里シンポジウム

 「駈けるがごとき日本」とまで、戦後の地域開発は言われています。日本人はせっかちでして、その場その場で歴史を非連続に解釈してゆきます。例えば、「これだけめまぐるしく変わる社会変動の多い時代には、とりあえずの手でいいからたくさん打て」という人がたくさんいらっしやいます。東京に多いですね。それはそれでいいですけれども、欧米的に解釈すると、歴史に連続性を持たせて、時代時代の外部環境の変化を解釈し、「何を捨て、何を新しく作るのか」を決めてゆきます。古き時代を思い出して、それを墨守せよ、というのではないのです。時代時代によって変わる部分、それに流されるな。しっかり地域の独自性を持った上で、その歴史の延長上に、世の中の出来事、変動をとらまえて、「我々は、次、じやあ、こっちへ行こう」という方向を打ち出しなさいということであります。

 私がまとめきって良いのかどうかわかりませんが、日本の航空行政は何をやってきたかといいますと、規制緩和を徐々にやったのであります。1987年、アメリカの規制緩和から遅れること9年後に、45・47体制を緩和する施策を打ち出しました。一挙に行かないのです。それから13年後の2000年2月に、安全に関して幾つか課題は残っておりますが、需給調整に関わる規制をすべて撤廃しました。日本の航空の規制緩和は、そこまで戦略的であったのだということが大事であります。

 さて、先ほど示したアイルランドについて、その歴史ですが、一言でいえば、イギリスがアイルランドを統合しようとする歴史です。話は、ローマ時代にまで遡り、ケルト人がヨーロッパ大陸の地中海からフランスをとおり、イギリス本土をとおって、アイルランドに行き着く歴史であります。ケルト人は流浪の民族ではありません。ローマ人を含めて、多くの民族に追われて、行き着いたのです。アイルランドは、ケルト人の国であり、カソリック教徒の国であり、アイルランド語を話します。イギリス人とは、民族、宗教、言語、その三大要素が全く違うのです。こんな状況下での統合は、戦争を意味します。イギリスとの間に多くの戦争が始まるわけです。

 もう一度、おさらいになりますが、アイルランドの首都ダブリンから、西方300Kmのところにシヤノン地域があります。正式には、ミッド・ウエスト地域といいます。シヤノン地域は俗称ですが、地域の人々は好んでシヤノン地域といいます。この地域は、わが国の平均的な県の大きさを持っているのですが、人口密度はきわめて低い。このシヤノン地域はさらに、5つの地域からなり、いわゆる地域連携をしながら、空港を核とし国際戦略を練っていったのです。

 現空港は、1967年に滑走路長3,000m(幅員45m)の空港として完成しました。もともと1,700mの滑走路があった空港であります。

 1935年にリンドバーグがパンナムの要請を受けて適地諷査をしております。最初は、このフォインズに目を付けました。フライングボートでありますから、水上艇でやってきた。リンドバーグは、最終的にフォインズとシヤノン川を挟んで対岸にあるシヤノン地域に空港を造ろうと意思決定しました。造り始めて、1939年の5月に1,700mの滑走路が完成します。空港建設時も、用地取得を含めて地元とのトラブルはたくさんありました。牧草地でかつ、土地が、公有といいますか、貴族が管理していたのです。その人たちと調整をしながら新しい施設を造らなければならなかったのです。39年のことですから、容易に想像できるわけですが、お城の移転とかも伴って空港がやっと完成したという歴史があります。1945年に終戦を迎えましたが、もうジェット機の時代で、「シヤノン空港は要りません」と言われてしまいました。そして、1947年にCustoms Free Airport Actをアイルランド政府がシヤノン地域のために決めます。そのバックには、アメリカンアイリッシュ、特に、まだ大統領になる前のJ.F.ケネディがずいぶん力を貸したと言われております。

 最初のDuty-free shopもこの地から生まれました。ジャムとか手袋とか、土地で獲れたものを売っているというだけのものであります。世界最初のフリーゾーンであり、Duty-free shop発祥の地なのだと言うことにシヤノンの人々が気概を持っているというのは、やはり、すばらしい国だなと思いました。

 1950年、いよいよアエロフロートのハブとして、空港は新しい道を歩み出します。モスクワからシヤノンを経由して南米へ行くという中継基地であります。これも、第2次大戦中、アイルランドが中立国であったからできたことです。

 1955年、世界最初のフリーゾーンが作られました。今は1,100社が入っております。同年、シヤノン開発株式会社が政府55%出資で設立されました。この計画も含めて、ケネディが力を貸したということになっています。

 しかし、先ほどお話したように、豊かな牧草地帯であり、リメリックという歴史のある街もあるところに、分家の偉い代義士がやってきて、「空港を造るぞ」と言われても、地域の側からすると困るのです。空港を地域が受け入れるべきかどうか。結局は、地域というよりも、一部の人間の力で空港を建設してしまうわけですが、その結果、ごく最近までの40年間くらいは、空港と地域が同一化しませんでした。

 例えば、アイルランド語です。今でこそアイリッシュをしやべる人は5%で、アイルランドの95%が英語になっておりますけれど、このミド・ウエスト地域だけアイリッシュに固執するのです。英語を使うなんて嫌だと。要するに、空港は特殊な地域であり、シヤノン・シティに住んでいる人間は、自分たちアイリッシュの血が流れていない、というところまで批判するのです。それは、50年と書いてありますが、シヤノン空港47年史を見ると、ザクッと書いてあります。ここまで書くのか、というような鋭い意味合いの「ザクッ」なのですが。そのように、地域と空港が対立していた時期があったということであります。

 1972年に、このシヤノン地域開発プロジェクトが、国のプロジェクトに認められて国の予算も入ります。そして、1972年~80年、先ほどのリメリック大学との連携を行うということであります。

 1980年~84年、情報産業が進出します。これはあまり成功しなかったという話ですが、ICのチップとか、そういうものは間違いなく作られました。今も工場として生産拠点化されております。アイルランドは、なぜEUの中で模範生になったかというのは、皆さんご存じのように、法人税が、今は12%まで上げてしまいましたけれども、10%の国であったということです。ここ10年くらいの間、日本の富士通・NECをはじめ、たくさんの企業がダブリンに、張り付いています。そこからヨーロッパへ行っております。その企業が、もう一回、目を付けているのが、このシヤノン地域の情報産業ということで、後でお話ししますが、「地域に工場がある、だから地域が栄える。これは間違いだ」と彼らは言います。「世界に通用する技術、それが地域にあれば世界中から人がやってくる」のだということです。その意味で、情報産業は、当初、失敗したけれども、今は日の目を見ているということです。御多分に漏れず、1984-1990年の100万人ツーリズム計画も大成功でありました。

 その後、環境基準のISOを取得したり、スイスエアとルフトハンザの中型機材の整備に関する国際標準を作ります。これは地域にとってすごく大事なことでありました。 1996年~2000年まで、東欧・東南アジアの地域開発コンサルティングを中心に、わずか36万人の地域から、皆さん方の住んでいる地域と同じ面積の地域から、ブラジルとかアフリカとかの地域まで、地域隅発のノウハウを数えに行っているのであります。ヨーロッパだからできるのだとか、いろいろな話があるのかもしれません。日本人は単一民族云々で代表されるように、引っ込み思案でこ出ていかないというためなのかもしれませんが、今、国が掲げている目標も含めて、航空・空港の一つの側面に、私は国際化という側面が間違いなくあると思うのです。九州や沖縄では進んでいると思うのですが、そういう国際化のコンセプトも、こういう地域においては、もう定番になっているのです。


1.アイルランドとシヤノン空港の概要

2008年06月19日 | 百里シンポジウム

 それでは、スライド(講演内容なのでスライドはありません。)を使って、まず、シヤノンというのはどのような地域かということをお話しします。アイルランドやシヤノン地域の説明は後でいたします。

  これは飛行機の中から撮った写真です。ここに見えるのがシヤノン川ですが、氷河で削られた後に、隆起して水が貯まり、それが海と繋がったもので、川というよりは、むしろ湾の一部分であります。

 これがシヤノン空港で、シヤノン川に接して存在しています。これは、シヤノン空港のターミナルですが、何ということはない小さな空港ターミナルです。規模も含めて後でご説明しますが、利用者数は福島空港よりちょっと多いくらいです

 これがアイルランドのフラッグキャリアであるエア・リンクスです。ここにエア・リンタとありますけれども、フラッグキャリアも含めて空港を管理しているのがエア・リンタで、アイルランドの6つの空港を管理しています。今はすべて民営化されております

 シヤノン川を挟んで空港の対岸にフォインズというところがあるのですが、その話は、やがて出てまいります。

 ヨーロッパは1939年9月に戦争が勃発しています。その4年前の1935年、リンドバーグが大西洋を横断する最短航路を見つけよというパンナムの指示を受けて、シヤノン空港の調査にまいります。当時は機材も発達しておりませんから、いかに最短航路で、しかもノンストップで大西洋を横断するかということが、一番の問題だったわけです。シヤノン空港の大西洋を挟んだ対岸の空港は、カナダニューファンドランド島のガンダー空港です。リンドバーグの調査結果はガンダーとシヤノンを結ぶと最短の航路になるということでありました。

 フォインズのほうは、皆さんが懐かしく思われると思うのですが、戦前から水上艇、フライングボートの基地でした。一方、シヤノン空港のほうは、第2次世界大戦が始まる1939年の5月に開港したのです。当時の予測では、ヨーロッパからニューヨーク、シカゴへ行く航空需要の7割が、このシヤノンを経由して、大西洋をノンストップで飛行し、ガンダーを経由して目的地へ行く予定でした。ボーイング社の飛行機が1便飛んできて、これからと言う1939年9月に戦争が勃発し、わずか3カ月余りで空港は閉鎖されてしまいます。その後の話は、後ほどいたします。

 これは、今も使っているのですが、1939年、空港が完成した当時の、飛行機に使う燃料を運ぶための、シヤノン川のほうに突き出たパイプラインです。

 これは、アイルランドの地層を示したもので、僅かな表土を剥せば、岩ばかりの不毛の土地です。司馬遼太郎も「アイルランド紀行」を書くために2回訪れているのですが、「二度と行きたくない土地」と書いてあります。ただし、司馬さんも褒めているように、アイルランドはジョイスやイエーツなど詩であるとか文学、音楽も含めて、芸術に優れた国です。皆さんも、妖精の住む国という話を聞いたことがあると思うのですが、アイルランドのことです。岩盤の上に海藻を敷いて表土を作り、そこに生えたわずかな牧草で酪農をして食べている。アイルランドの全土がそういう大変荒涼とした地形であります。

 シヤノンの圏域は1万平方キロですから、わが国の平均的な面積の県を空港圏としていると考えてください。県の人口はというと、シヤノン地域ですが、37万人です。ですから、皆さんの地域と同じ面積ではあるけれど、もっと奇薄な人口密度の都市です。地域の県庁所在地はリメリック市で、人口は当時5万2千人という小さな地域です。しかも、鉄道、高速道路が発達していない地域ですから、そこの地域の人たちのほとんどが日常茶飯事的にこの空港を使い、ダブリンや、ヨーロッパ、全世界へ飛び出しております。

 これは空港ターミナルの中のDuty-freeショップです。後でお話し申し上げますが、世界で最初にDuty-freeショップを設けた空港だったのです。

 これはリンドバーグルームとうレストラン兼バーです。この中に入ると、リンドバーグに関わる展示があり、リンドバーグの数寄な生涯を事細かに語っております。

 これは空港内の食堂でありますが、フライングボートの時代も含めて古い写真を、たくさん飾ってあります。写真を撮っているのは私だけでありましたが、それをおもしろがって、そこに働いている人方が、「何をやっているのだ」と聞いてくるわけです。アイルランド語が中心の国ですが、つたない英語でしやべると、いろいろな話をしてくれます。2日間くらい、ずっと話を聞いていて飽きないくらい、たくさんの人がいろいろな説明をしてくれます。ホスピクリティといいますか、空港の研究をやっていてよかったなと感じる空間と時間があります。何かこの人は空港に関する情報を知りたそうだと思ったら、ロコミでみんなが集まってきて「どこから来たのだ」、しまいにはワインまで出してくれて、お酒を飲みながら航空・空港談義ができる、そういう場所でした。

 これは、1997年に、空港の50周年のお祝いをしているところです。

 これは、空港のすぐ近くにあるホテルです。

 これはホテルからの夜景ですが、夜景を撮っているのには理由があります。空港は母都市リメリックから20キロくらいしか離れていないのですが、夜間の離発着が多いのです。後でもご紹介しますが、スイスエアとルフトハンザの、中型機材整備の国際標準をシヤノン空港が持っておりますので、整備のためにこの地域に来なくてはいけないのです。1年間のメンテと5年間のメンテの両方を行うと言っていました。その中型機の整備が終わって、ちやんと整備ができているかどうかをチェックするために夜間に訓練をするのです。ですから、夜、先ほどのホテルに寝ていてもグォングォンと音がするのですが、それが子守歌に聞こえるくらいの人間しか泊まれないホテルです。

 これはアエロフロートの格納庫です。第2次大戦によって、航空機材の技術革新が進み、シヤノン空港とガンダー空港を経由しなくてもパリとニューヨークを横断できるようになります。ですから、日本におけるアラスカのアンカレジのように、シヤノン空港は時代に見捨てられた空港と私は思っていたのです。ところが、第2次大戦中、アイルランドは中立国だったものですから、戦後、ロシアのアエロフロート機を中南米に運ぶ長距離の中継基地として、シヤノン空港は復活するのです。

 これは、一部ですが空港によくあるフリーゾーンです。1957年にできあがっていて、現在、1,100社がこの地域で活動しています。日本から見ると、今ではどこにでもありそうな話ですが、57年に造られたということを考えると、先進的な試みがなされていたと思います。

 これがフリーゾーンを管理している会社ですが、それよりもでかいのが、アイルランド最大の会社であるギネス・ピート・アソシエーション、ギネスビールの会社です。このギネスビール会社が、フリーゾーンの第1号として入ってきたのです。当初、ギネスビール社は、この1万平方キロメートルのシヤノン地域で、空港を活用してビートを作り、品種改良をして醸造業の最先端をいこうと思ったのですが、地域はそれを拒否します。今もそうですが、ギネス・ビート・アソシエーションが、航空機の部品を作る産業に変身しています。なぜ、地域は空港をとおした近代化の道を拒んだのか、これが今日の最大の話題なのですが、これは後に回します。

 これは、空港から2キロ程に造られた、シヤノン・シティという街です。空港に関わる人達が、9,000人くらい住んでいる街であります。

 シヤノン・シティの一角にあるのが、フィリピンから追い求めてきたシヤノン開発株式会社という、半官半民でできあがり、今は完全に民営化した会社です。ここのスタッフは総勢で120名しかおりません。しかし、シヤノン空港を中心とした地域開発モデルという開発技術をもって、フィリピンのスーピックへ、全世界へ飛び出しているのです。

 これは、リメリックという母都市につながる高速道路です。この高速道路も、出来るまでにはずいぶん時間がかかったそうです。理由は、空港を造ったもともとの原資は、アイルランドに住んでいる人ではなくて、アメリカにいる人達だと云うことです。アイルランドは人口400万人くらいの国でありますけれども、アメリカに5,000万人ものアイリッシュがおります。ケネディ大統領も、レーガン大統領もアイリッシュです。特にケネディ大統領はフリーゾーンに深く関係するのですが、アメリカに住んで母国を思うアイリッシュが、空港・フリーゾーン等々と、西洋の近代をこの地に押し付けてくるのです。地元のアイリッシュは、「あいつら、分家じやないか。本家はおれたちだ。」と、ちょっともめまして、なかなか母都市リメリックへつながる道路ができません。ですから、空港とフリーゾーン、シヤノン・シティだけはずっと連携を保ち続けるのですが、リメリックとの融合がなかなか生まれない時代が、30年くらいありました。

 これはリメリック市内に入るところの川で、7世紀に造られたお城ですが、これも調べ始めると歴史があります。現在人口7万7千人の、リメリックの街の姿です。7世紀からの歴史を誇り、穏やかな生活が営まれています。今や、EUの優等生といわれるアイルランドは、10%の経済成長を遂げております。アイルランドの中でも首都ダブリンには、行かれた方もいらっしやると思いますし、皆さんもよくご存じだと思います。しかし、ダブリンよりも、むしろリメリックとかコークとか、そういう地域のほうが、極めて落ち着いた、昔のアイルランドの生活を見ることができます。もしも皆さんが、リメリックの本屋へ行けば、昔の歴史書も含めて大変なボリュームの資料を見ることができます。

 これは、鉄道駅です。ここからダブリンまで300キロくらいあると思うのですが、もちろん高速道路も鉄道も一応あります。けれど、ほとんど使われておりません。ですから、航空を使って国内も、もっと言うならば、世界に広がっているのだということです。

 これは、リメリック大学です。在学生数4,000人の大学ですが、文系と理系で、2,000人ずつの学生がおります。このリメリック大学の理系2,000人に対して、航空機材の維持・管理をおこなう整備士のエンジニア養成コースがあります。先ほど言ったドイツ、スイスなどに、ここを卒業した学生をどんどん送り込みますし、ヨーロッパ全土からも、航空機の整備士になりたければここにやってきます。国際標準を持つという事がすごく大事だというのは、ここの大学の先生方も力説しているのですが、日本でも、今やっと分かってきたのだろうと思います。早い時勅に国際標準を見つけ、大学と地域と企業が一体になって、世界的に活動の湯を広げる地域を形成していっているということであります。

 これからフォインズへ行くのですが、空港からリメリックへは20キロ、リメリックから、この湾を挟んで空港の反対側のフォインズへはこれもまた20キロ位離れています。田舎道で、高速道蕗もありません。水上艇でずっとシヤノン川を渡ってきて、フォインズの地に水上艇が止まって、人が降りていきます。鉄道も走っております。

 これは空港の博物館です。これも、フリッパーなんかが出てきまして、皆さんが行かれたら涙が出るくらい嬉しくなる博物館です。どうぞ、いらしてください。

 これがリンドバーグのお墓です。リンドバーグのお基は、至る所にあるのですが、私の知る限り、ミネアポリスやドイツにあるお墓よりはずっと信頼が持てると思います。多分これが事実でありましょう。リンドバーグは、最後に、このシヤノンの地で眠ったと、地域の人達も言いますし、パンナムの冊子をずっと読んでいっても、シヤノンに骨を埋めているようです。ドイツで亡くなるのですが、骨はここに眠っています。 これは、フォインズの航空博物館で、アイルランドとかイギリスから来たファンの人たちが航空談義をしているところです。

 これは、リンドバーグのお基の上から見たシヤノン川です。こちら側に工場地帯が見えますが、このあたりにシヤノン空港があります。 ここで、シヤノン開発株式会社の話に戻りますが、これがシヤノン開発の人で、こちらがフィリピンでお会いした人です。私は1997年にフィリピンに行っていましたから、追いかけマンのように、この人を追って、翌年の7月21日に彼に会えたということです。

 空港・港湾を核とした地域開発のコンサルタントと言えばそこまでです。しかし、世界戦略をもって、東欧を中心にヨーロッパの地域開発を幾つか手がけている。アジアでは今、フィリピンだけ始まっている。「中国にも進出するぞ」と言っていました。

 蛇足として、2つのスライドをお見せいたします。 これは、1998年の10月ですから、3年前の香港です。空港を情報化するというのが今はやりです。ちょっとひなびた感じですが、香港のトランジット用のターミナルには、インターネットへの接線が可飴な部屋が整っています。

 これは、1991年の写真ですけれども、ミネアポリスにあるリンドバーグと悲運の息子の像であります。この話をしたら、また一日くらいかかっちゃいますのでやめますが、シヤノン空港はリンドバーグによって見出された空港です。


シャノン空港について

2008年06月18日 | 百里シンポジウム

 室蘭工業大学の田村でございます。
 きょうのお話は、アイルランドのシヤノン空港の話です。先ほど、ご紹介がありましたが、私は1997年度、JICAの支援を受けて、フィリピン大学へ1年間行くことができました。今日の話は、その時に見つけたものです。
 1992年に、フィリピンのスーピック海軍基地、クラーク空軍基地がアメリカ軍から返還されました。そのスーピック基地の再開発計画、膨大な計画でありますけれども、それをアイルランドのシヤノン開発株式会社がやっていました。当時私は、この会社の名前もよく分かりませんでしたが、帰国してインターネットのホームページで調べ、1998年にアイルランドのシヤノンのほうへ行ってまいりました。ひもとけばひもとくほど驚くべき事実が分かりました。きょうの溝演は、その報告であります。


百里シンポⅢ

2008年06月18日 | 百里シンポジウム

2002年7月7日13:00~18:00 小川町文化センター大ホール 209人参加

第一部
①百里飛行場概要説明
茨城県企画部 岸谷克己空港対策室長
②百里の歴史「百里基地闘争」について
小川町商工会青年部 山西弘一郎民間共用委員長

第二部
③「地域住民における空港との係わり方」
須賀川商工会議所 空港対策特別委員会 影山貴司講師
<休憩>
④「シャノン空港について」
室蘭工業大学 教授 田村亨講師
<休憩>
⑤提案
1、「アジアの整備暫百里」構想
2、「アスリートと老人か共有するまちJ構想
3、「有機農業と商品開発」構想

このなかから、④シャノン空港について、田村教授の講演を紹介したいと思います。恐らく田村教授のレポートに出会わなければ今の活動はなかったかもしれません。


小美玉市議会傍聴

2008年06月09日 | つぶやく

さて、気になる質問内容ですが、今回は「百里基地周辺地域に対する再編交付金事業について」に注目です。

POINTは、再編交付金事業の気になる進捗状況は?そして整備後の維持管理費など地区負担の軽減措置はどうなるのか?の2点です。
というか、皆さんはこの交付金の存在を知っていましたか?

この事業は、飛行場の周りで騒音などの被害にあっているかた達の為に昨年つくられた基金です。

少しでも、いろいろな負担をしていただいている周辺地域の皆さんの癒しになるようなソフトな事業が行なわれるといいかなと思います。

しかし、行政をなんからしらの形でチェックしないと、またまた、目的とは違うモノに基金を使われてしまいかねません。

茨城空港は、地域の皆さんの負担の元に実現される事業であることを忘れてはいけないと思います。

空港利用者の宿泊は?

2008年06月02日 | 「安全な空」整備街構想
ぼくは、宿泊に関してはやはり水戸を中心に考えた方が良いのではないかと思う。地元近隣では今からでは難しいし、つくばからTXを引いてくるのでは予算面で厳しいだろう。となると、水戸駅周辺から空港まで時間が読めるアクセスが欲しい。・・・できれば30分以内!あとは、東京宿泊なので常磐線石岡駅から鹿鉄跡地を利用した直通バスしかない。

どうでしょう、皆さん良い案はありますか?

『KURENAI プロジェクト』の3安

『KURENAIプロジェクト』ブログは、「百里シンポジウム」での過程、「整備街・牧場・公園」の構想、有志の動きを随時掲載し、『IBARAKI』といえば「安全な空・安心な食・安らかな体」という3つの安を日本全国、アジア、世界に発信します。  この動きがまちを考える人達に勇気を与え、それぞれが動く事で発展していくことを希望します。