2.地域と空港

2008年06月22日 | 百里シンポジウム

 「駈けるがごとき日本」とまで、戦後の地域開発は言われています。日本人はせっかちでして、その場その場で歴史を非連続に解釈してゆきます。例えば、「これだけめまぐるしく変わる社会変動の多い時代には、とりあえずの手でいいからたくさん打て」という人がたくさんいらっしやいます。東京に多いですね。それはそれでいいですけれども、欧米的に解釈すると、歴史に連続性を持たせて、時代時代の外部環境の変化を解釈し、「何を捨て、何を新しく作るのか」を決めてゆきます。古き時代を思い出して、それを墨守せよ、というのではないのです。時代時代によって変わる部分、それに流されるな。しっかり地域の独自性を持った上で、その歴史の延長上に、世の中の出来事、変動をとらまえて、「我々は、次、じやあ、こっちへ行こう」という方向を打ち出しなさいということであります。

 私がまとめきって良いのかどうかわかりませんが、日本の航空行政は何をやってきたかといいますと、規制緩和を徐々にやったのであります。1987年、アメリカの規制緩和から遅れること9年後に、45・47体制を緩和する施策を打ち出しました。一挙に行かないのです。それから13年後の2000年2月に、安全に関して幾つか課題は残っておりますが、需給調整に関わる規制をすべて撤廃しました。日本の航空の規制緩和は、そこまで戦略的であったのだということが大事であります。

 さて、先ほど示したアイルランドについて、その歴史ですが、一言でいえば、イギリスがアイルランドを統合しようとする歴史です。話は、ローマ時代にまで遡り、ケルト人がヨーロッパ大陸の地中海からフランスをとおり、イギリス本土をとおって、アイルランドに行き着く歴史であります。ケルト人は流浪の民族ではありません。ローマ人を含めて、多くの民族に追われて、行き着いたのです。アイルランドは、ケルト人の国であり、カソリック教徒の国であり、アイルランド語を話します。イギリス人とは、民族、宗教、言語、その三大要素が全く違うのです。こんな状況下での統合は、戦争を意味します。イギリスとの間に多くの戦争が始まるわけです。

 もう一度、おさらいになりますが、アイルランドの首都ダブリンから、西方300Kmのところにシヤノン地域があります。正式には、ミッド・ウエスト地域といいます。シヤノン地域は俗称ですが、地域の人々は好んでシヤノン地域といいます。この地域は、わが国の平均的な県の大きさを持っているのですが、人口密度はきわめて低い。このシヤノン地域はさらに、5つの地域からなり、いわゆる地域連携をしながら、空港を核とし国際戦略を練っていったのです。

 現空港は、1967年に滑走路長3,000m(幅員45m)の空港として完成しました。もともと1,700mの滑走路があった空港であります。

 1935年にリンドバーグがパンナムの要請を受けて適地諷査をしております。最初は、このフォインズに目を付けました。フライングボートでありますから、水上艇でやってきた。リンドバーグは、最終的にフォインズとシヤノン川を挟んで対岸にあるシヤノン地域に空港を造ろうと意思決定しました。造り始めて、1939年の5月に1,700mの滑走路が完成します。空港建設時も、用地取得を含めて地元とのトラブルはたくさんありました。牧草地でかつ、土地が、公有といいますか、貴族が管理していたのです。その人たちと調整をしながら新しい施設を造らなければならなかったのです。39年のことですから、容易に想像できるわけですが、お城の移転とかも伴って空港がやっと完成したという歴史があります。1945年に終戦を迎えましたが、もうジェット機の時代で、「シヤノン空港は要りません」と言われてしまいました。そして、1947年にCustoms Free Airport Actをアイルランド政府がシヤノン地域のために決めます。そのバックには、アメリカンアイリッシュ、特に、まだ大統領になる前のJ.F.ケネディがずいぶん力を貸したと言われております。

 最初のDuty-free shopもこの地から生まれました。ジャムとか手袋とか、土地で獲れたものを売っているというだけのものであります。世界最初のフリーゾーンであり、Duty-free shop発祥の地なのだと言うことにシヤノンの人々が気概を持っているというのは、やはり、すばらしい国だなと思いました。

 1950年、いよいよアエロフロートのハブとして、空港は新しい道を歩み出します。モスクワからシヤノンを経由して南米へ行くという中継基地であります。これも、第2次大戦中、アイルランドが中立国であったからできたことです。

 1955年、世界最初のフリーゾーンが作られました。今は1,100社が入っております。同年、シヤノン開発株式会社が政府55%出資で設立されました。この計画も含めて、ケネディが力を貸したということになっています。

 しかし、先ほどお話したように、豊かな牧草地帯であり、リメリックという歴史のある街もあるところに、分家の偉い代義士がやってきて、「空港を造るぞ」と言われても、地域の側からすると困るのです。空港を地域が受け入れるべきかどうか。結局は、地域というよりも、一部の人間の力で空港を建設してしまうわけですが、その結果、ごく最近までの40年間くらいは、空港と地域が同一化しませんでした。

 例えば、アイルランド語です。今でこそアイリッシュをしやべる人は5%で、アイルランドの95%が英語になっておりますけれど、このミド・ウエスト地域だけアイリッシュに固執するのです。英語を使うなんて嫌だと。要するに、空港は特殊な地域であり、シヤノン・シティに住んでいる人間は、自分たちアイリッシュの血が流れていない、というところまで批判するのです。それは、50年と書いてありますが、シヤノン空港47年史を見ると、ザクッと書いてあります。ここまで書くのか、というような鋭い意味合いの「ザクッ」なのですが。そのように、地域と空港が対立していた時期があったということであります。

 1972年に、このシヤノン地域開発プロジェクトが、国のプロジェクトに認められて国の予算も入ります。そして、1972年~80年、先ほどのリメリック大学との連携を行うということであります。

 1980年~84年、情報産業が進出します。これはあまり成功しなかったという話ですが、ICのチップとか、そういうものは間違いなく作られました。今も工場として生産拠点化されております。アイルランドは、なぜEUの中で模範生になったかというのは、皆さんご存じのように、法人税が、今は12%まで上げてしまいましたけれども、10%の国であったということです。ここ10年くらいの間、日本の富士通・NECをはじめ、たくさんの企業がダブリンに、張り付いています。そこからヨーロッパへ行っております。その企業が、もう一回、目を付けているのが、このシヤノン地域の情報産業ということで、後でお話ししますが、「地域に工場がある、だから地域が栄える。これは間違いだ」と彼らは言います。「世界に通用する技術、それが地域にあれば世界中から人がやってくる」のだということです。その意味で、情報産業は、当初、失敗したけれども、今は日の目を見ているということです。御多分に漏れず、1984-1990年の100万人ツーリズム計画も大成功でありました。

 その後、環境基準のISOを取得したり、スイスエアとルフトハンザの中型機材の整備に関する国際標準を作ります。これは地域にとってすごく大事なことでありました。 1996年~2000年まで、東欧・東南アジアの地域開発コンサルティングを中心に、わずか36万人の地域から、皆さん方の住んでいる地域と同じ面積の地域から、ブラジルとかアフリカとかの地域まで、地域隅発のノウハウを数えに行っているのであります。ヨーロッパだからできるのだとか、いろいろな話があるのかもしれません。日本人は単一民族云々で代表されるように、引っ込み思案でこ出ていかないというためなのかもしれませんが、今、国が掲げている目標も含めて、航空・空港の一つの側面に、私は国際化という側面が間違いなくあると思うのです。九州や沖縄では進んでいると思うのですが、そういう国際化のコンセプトも、こういう地域においては、もう定番になっているのです。


『KURENAI プロジェクト』の3安

『KURENAIプロジェクト』ブログは、「百里シンポジウム」での過程、「整備街・牧場・公園」の構想、有志の動きを随時掲載し、『IBARAKI』といえば「安全な空・安心な食・安らかな体」という3つの安を日本全国、アジア、世界に発信します。  この動きがまちを考える人達に勇気を与え、それぞれが動く事で発展していくことを希望します。