買い出しから帰ると玄関が3センチほど開いている。えっ!誰が開けたの? 取られるものはないもないけど、一応急いで部屋に上がった。そうだ、今朝は急いでいて、ゴミを持って出たので鍵をかけ忘れたのだろう。ああ、ボケている。昨日は、スマホに気を取られていて、NPOの通帳がゆくへ不明事件。まぁ、年を取るということはこんなことだろう。
「過ぎし日のセレナーデ」を書くようになるが、どうもそんな懐かしく美しいお話にはかなりの創作が必要なようだ。切り捨てた恋愛もどきがあるからだろう。「あれはなんだったの?」と思う。そういうのを「気の迷い」というのよ と言われそうだ。弱かったのかつらかったのかわからないが、「わら」をつかんだのだろうな。でも、そんなことも気にしない。残るのは「本物」だけだから。泥を飲まなくては、生きられないときもあるのだろう。
「かけがえのない人」に逢えて、少しずつ自信を取り戻してきた。「この私でいいのだ」と。こういう過程を「うつくしい」というのではないかな。向かい合っているこころがうつくしいからだろう。むしろその心のほうが「泥」に苦しんでいるようだ。平気、平気、泥で汚れるような心ではないから。貫き通していける何かがあれば、濁ることはないと私は思う。それだけは譲れない線があれば大丈夫だろう。でも、最近思うのです。それは自分が思うだけで、たいしたことではなかったのかもしれないと。
頑固な塊を溶かしてしまえば、案外人生は楽かもしれない。そういう、巧みな生き方をうらやましくも思う。できる出来ないは別としてね。いろいろなことを振り切って、いまはほんとうにしあわせだ。
「美しい人生と限りないよろこびを・・・」愛のメモリーだったかな。