有志舎の日々

社長の永滝稔が、 日々の仕事や出版・学問などに関して思ったことを好き勝手に 書いていきます。

教養と歴史学

2015-08-21 09:12:57 | 日記
今日の『朝日新聞』の「教養なんていらないの?」欄にもあった独立数学研究者・森田真生さんの言葉。
共感できるインタビューでした。
特に、「知的探求に先立って仮定されているものの妥当性を問うこと」が教養だということ。
これがない歴史学も意味ないですからね。新しい史的構造を発見して既存の学説や学知に対しケンカを売ることが歴史研究なのだと私は思うし、そういうものでないと私は本にしたいと思いません。
「史料からこれこれが言える」というだけの、いわゆる「クソ実証」だけが歴史学だと思っている人が多すぎる(特に若手の研究者に)。もちろん、歴史研究に実証(それは問題意識の反映でもある)は不可欠なので、実証そのものがダメなのではありません。しかし、問題意識が抜け落ちた実証だけしかやっていない研究(単なる事実確認)が目立つというのが私の不満です。

まあ、「学問は取引じゃないと思うんです。消費されるもんじゃない。ビジネスや商品にしちゃうと、なんかうまくいかないんじゃない」というのは本当にそうで、だから学術書出版社はどこも苦しんでいるわけですが、これが80年代のように「知」そのものがファッションになってしまう愚は繰り返してはいけないので、売れない方が健全なのかもしれませんね。
とはいえ、学術書出版社が何とか生き残っていけるくらいは売れて欲しいというのが本音ですが・・・・・・(汗)。

以下、森田さんのインタビューの一部を抜粋。

――教養とは何でしょうか。

 たとえば集積された知のパンフレットやデータベースのようなものではありません。知的探求に先立って仮定されているものの妥当性を問うことが、教養だと思います。

 (中略)

 近代西欧で生まれた自然科学的パラダイムが常識になっています。それは生産性が高いし、多くの知見を生み出してきた実績がある。これが仮定にすぎないということを認識して相対化する知恵が教養であり、人文的学問に求められるものだと思うんです。

 教養というのは決して確定した答えが出ないもの。問い直し続け、答え直し続けなきゃいけないものです。すごく動的なものだと思います。100年前の教養を掘り返してきたら今の教養になるというものではなくて、自分たちの思考の前提を問い返し続ける不断の営みが教養だと思うんですね。

――人文知は役に立たないものですか。

 「役に立つ」というのはけっこう危ない。「役に立つ」というのは表裏で、科学で命を救うことはできたけど、科学がなかったら大量破壊兵器や生物兵器もありえない。「役に立つ」ということの暴走を食い止めるのは、「役に立たない」と言われている学問の大事な役割だと思います。

――学びの場をどう持続させていくのですか。

 学問は取引じゃないと思うんです。消費されるもんじゃない。ビジネスや商品にしちゃうと、なんかうまくいかないんじゃないかという感覚を持っています。

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