徳井由美子の音楽活動(アイリッシュ・ハープ、弾き語り/シンガーソングライター)、思い、日々の記録(2014年以降)

神戸出身・大阪在住。クリスチャン、シンガーソングライター、アイリッシュ・ハープ演奏や他活動・思いの記録

「分裂症の少女の手記」セシュエー著/30年ぶりに再読

2014-07-27 16:51:27 | 生活





セシュエ―女史の書いた、1955年初版の、この本の、内容の前半大部分は、題名通り、(精神)分裂症(今では”統合失調症”であるが、当時の呼び名がそうであったことと、出版社も以前から既刊の書物については、題名をそのままで出版することを、了承願いたい、としているので ご理解ください)であった少女の手記(回想録)で構成されている
なぜ、今この本を読むのか?・・1984年頃、私は医療関係の大学(ワケあり自主退学)に行っていたが、そこで、2年目くらいに、読まされたのだった、その時のインパクトが強く、20年以上もたった今、急に気になり、取り寄せ 再読してみた 当時の時の印象はそのままに、しかし ある程度以上 ずいぶん理解力も当時よりは上回り(成長したということか?)、よりいっそう、得る所を得られた、という感がする。しかし・・それにしても、やはり一読して、衝撃と、やるせない悲壮感と、あと今、親になってみて、また自分の親はもういないが、その子として、両方の立場から、ひしひしと思い当たる節、また感じるところがある。
自分自身、統合失調症という体験や診断を受けたことがないのだが、それにしても、このルネという少女の体験を通し 知ることは、愛情の欠如、というものが、いかに人間としての人格等の形成を妨げるどころか、生きる意欲・エネルギーと、普通に生命を維持していくだけの力と方法(!)の獲得に影響するのか、と言う事。逆にいうと、生まれてから注がれる愛情こそが、大きくなってからの人間の生きる力につながるのだということをひしひし感じた。
生まれる時からあまり母親の愛情を受けず、生まれてからもミルクをうまく飲ませてもらえなかったり、下手に育てられたこの子は、”自我”というものの形成が成されず、思春期を迎えるにあたって、社会的な関係を築くことが出来ない・・ばかりか、無形成の自我は、イド(ido)に支えられることなく、外界と自我の区別が出来ない事により、遠近感を失い、外界の全ての事物(モノ、椅子・景色何でも)が意味を失って、大きく膨らんで見え、生きて、自分に襲いかかるように見える。生物は、人であれ、ロボットのような無意味な動きをする。視界に入る物はすべて非現実の世界となり、人・事物は存在の意味を失って、機械のように動く。その非現実感は本人にとって耐えがたい恐怖と孤独感である。
 このルネの症例の頃には、まだ精神薬や電気・インシュリン療法が存在する前であったので、精神分析医のセシュエ―夫人が、18歳のルネと初対面(その時には、紹介した医師は、ほぼ見込みはなく絶望ししていた)してから、”精神措置療法”つまり、対話のみで、ほぼこの子を、完治に導いたのだった (その過程には感動的なものがある・・その中には、専門的には 象徴的実現、「投影」「模倣」という過程が含まれるのですが、つまりは、幼い時に”食事をもらう”という原始的欲求さえ満たされたことのない、”母”の存在に”成り変わった”分析医との関わりの中で、胎児期にまで退行してしまった”自我”(ego)の再構築をしていく、というものなのでしたが)
これらを通じて、わかったような気持ちになったこと、というのは・・いかに幼い時に受けた愛情が、人間の人格の構成、というものに関わるのだということ、と。自分が最低でも、この少女のような悲劇的な者とならずに済んでいるのは、自分の努力でもなく、なにかと親に対して不満を感じたりした自分ではあったが、それでもこのようなことにならないように育ててくれた、という恩と。
それから、愛情の欠如や無関心・憎しみは、親子の間で、また他人同士の間で、負の連鎖をし得るものであるが、・・反対にいえば、愛情を増す、肉親の間でも、また隣人に対しても。それは正の連鎖であり、それを促していくことも、努力次第で可能であるのだということを、強く感じだ次第で、この本のレビューのようなものとして、書きました。かくして、30年近くたって、(少女の頃から?)読みなおした本に対する感じ方は、より一層深くなったような気がした。

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