<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

世の中にあって、変わらぬもの、それはー

2011-05-14 19:24:19 | デボーション(瞑想)。
世の中の多数の人には・・
「キリスト教」というものを、信じられない人が多くいると思います。
その大きな理由としては、バラつきがあること・・教派が多いこと、キリスト教徒(教国)と言いながら、言ってること(理想)とやってること(現実)が食い違っていること、また、果ては宗教を理由に戦争をする。
今世の中で出回っている(知れ渡っている?というのか)キリスト教(宗教)というものは、神学をはじめとして、不完全で限りある人間が、体系的に、なんとか人から人に伝えようと、まとめあげた、学問~宗教であること、そして・・なにより
とりあつかっている対象が、われらの創造主、世の初めから存在している者、永遠の存在、広く深く高く、聖なる、愛の神、限りある身からは、計り知れない至高の存在であること・・ よって、われらの理解を大きく超えることにより、・・結果、創造主のもつ真理に比べれば、まだまだ稚拙で未完成なものとしてしか、成り立たせられていない、・・こんなところではないだろうか。とこれまた不完全な私がそう考えるに至っているのですが。

しかし。今日ここで言いたいのは

「キリスト教」が信じられなくとも

「キリスト」は充分に、信頼するに足るお方である、ということなのです
 (個人的に今日またその思いを強くしたのです;証。)

・・それは、あなた(全ての人)も、私も。



土曜日です、教会へ行きました(体調不良などが長かったので、久しぶりです)

礼拝の始まる、午前11時の少し前・・ すでに礼拝堂のやや後ろよりの席にひとりすわって
だいたいは静かに黙想などして自分の心をふりかえる準備をしたり、するものですー

目に入るものは、まだ落ち着かない人の行き来する姿、や
耳に聞こえてくるのも、ざわざわとしたおしゃべりで そぐわない心地わるさに気づかないように
またひとり黙々と心を静めているとき 目線は自然に人々の姿が目に入らない、礼拝堂の天井辺りをみつめていたのですが

・・・なんとなく イエス・キリストの魂がその時傍にいることを感じられて
これが珍しく・・・て ?! 私のあくまで感覚ですが、なぜか、私、この教会で、この教会の中では、キリストの香り(!)をいつも感じることがむずかしくて
父なる神様の臨在、を感じることは、教会へ来た最初からいつも、あり得ることなのに、
それをひとりいぶかしんでおりました 教会は”キリストの身体”のはずなのに? それが感じられない、教会?? いったい、なぜなのだろう・・・。と

この最近、比較的試練がいっぱい身のまわりにあって、
何度も教会に来られないことが多かった
その分、悩み多い日常の分(身体のトラブルなど、他のこともあって)、綺麗ごとでなく、ほんとうに真剣に、主にすがる思いで、祈り、尋ね、すごすことが多かったー・・
もしかして教会にふつう通っているときよりも、多かった
なぜなら、私(私達)は、人間だから、本当に無力なとき、ってあるのだ。とくに身体上のトラブルなど(生死にかかわることなどもっと)のある時・・ ほんとうに、自分では何をどう決めて、どうしたらよいのか、わからないもの。
私も今回のことでは、ほとんど周囲の人間に話さずに(思わず相談もしかけた)、すべて、神にお話し、たずねたもの。
それは孤独なようで、結局・・今では、その結果、やっぱり私の頼った方は、頼り甲斐のある方だと、自信をもって言うことができる。
それは、今(このことに関して)平安だから。

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人間は・・ひとり孤独に耐えて求めるのでなければ・・・。
個人として、神に出会うことは、むずかしいのかもしれない。
逆の言い方をすれば、
神に出会いたくて、孤独に神を求め続けたら・・必ずそれに応えてくださる。

遠くに、それもいるのかいないのかはっきりわからない神様に、何かを期待し求め続けたいですか?
それがわからないから、初めから求めることをやめている人が、あまりに多いような気がする。

でも、父・御子・御霊の三一(みいつ)の神は、人が熱心に探し求めれば、必ずそれに答えてくださる、神なのです

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イエス・キリストは、世のはじめから世にいました
父・御子・聖霊の神の、子の神として、

よく、クリスチャンでまだない方には・・キリストは、はじめて人間の姿をとってこの世に来たときから、存在する、と思われがちのようですけど、

本当はそうではなくて、世の最初から神の姿として天に存在していたのですが

悪魔に人間が騙されて、堕落した折には、その贖い、つまり罪のつぐない(贖罪)ひいては人間の救済のために、
御子たるキリストが、人間の姿をとり、私達の罪の代償を支払う、身代りの犠牲(十字架の死)となるために、この世にくる、
という約束が、父の神との間に、なされていたのですね

そしてそのとおり、人間は果たして堕落してしまったので、そのシナリオどおりのことが、2000年前に、キリストによってなされたわけです

つまり、言いたいのは

父なる神はもちろんのことですが

世の始めからおられる、この神であり、のちに私達のために、人ともなって、今、天におられて、私達のために とりなしの働き(悪魔の訴えを、しりぞける!)をしておられるキリストは・・

最初から、今も、そして永遠の先に至るまで、”変わることがない” ということなのですよ!

どうです?すごいですよ、この世の中に、今からこの先、かわらないものが、ありますか?ひとつでも。
とくにたよれない、自分の姿・・一瞬先には、何が起こっているのか、わからないんですもの

そして、この愛の神様は、私達の一人ひとりに無関心なのではなく、
すべての人(クリスチャンでない人もよ)を、熱い関心をもって、いつも見つめておられるのです、
私達が、ご自分をいちいち、頼ってこられることを願って。



 「主は生く (He Lives)」 (聖歌) より

The hope of all who seek Him, the help of all who find,
None other is so loving, so good and kind.

He lives, He lives, Christ Jesus, live today
He walks with me, and talks with me, a long life narrow way
He lives, He lives, Salvation to impart!
You ask me how I know He lives?
He lives within my heart.

”呼ばば 応えて 助けたもう
 げに たぐいなき 主の愛”

 見よ 主は 今 生きたもう
 われとものがたり 共に歩む
 見よ 主は 今 生きたもう
 いずこにと問わば
 わがこころに


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