<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

想うこと。神からの最高のギフトについて~

2011-11-25 15:07:27 | デボーション(瞑想)。
想うこと、ってタイトルのように・・最近、とくに今年の後半からは、ダニエル物語等の、初めての分野である”中世音楽”にかかりきりになって、・・その間も、いろいろな瞑想(デボーション)はしてるんだけど、なかなかこのブログに書く機会が少なくなった。(徳井ゆみりん、クリスチャンでなくなったわけでは、ございません(苦笑)!)

やっと、11月が来て、6日のカトリック豊中教会での典礼劇『ダニエル物語』を最終に、いったん決まっている中世音楽系の出演が終わったので、ひと息ついている。
といって、予定は次からつぎへとやっては来るのだが・・

教会へ行く回数も、少し抜けたりしてしまっている。(でも、土曜日になぜだが、別の教会へ行ったり、施設等へ慰問で演奏に行ったり、・・ということが多くなってしまったのである。わざと自分の教会へ足を向けないわけでない。)

もっぱら、自宅で家にいる間は、必ずライブの練習か、ボランティアに行く準備か、複数の楽器の練習、または曲を書いたり 最近では、ちょっと他人の曲に詞をつけさせてもらったり、またはその逆で、人の詞に曲をつけたり、そういうことをしていることが多い。

で・・今日は、午前中に、その”人の曲に詞をつける”作業をいったん終えて、さっきまで外に自転車にのって、気ままに短いお茶の時間と日常の買い物をしてきた。

・・で帰り路に、・・さっき、その詞をつけた曲というのが、たまたま 比較的重~いテーマを扱った、一応”アニメ”(注・私は、アニメや、映画、日常TVを見ることがほとんどない)の作品を題材に、友達がつくったものだったので・・・詞をつけて、と依頼されたら、やっぱり曲のコンセプトを知るために、そのアニメをDVDで借りて、ひととおり観ました(所要時間:約6時間 ブッ、ふつうなら、あり得ないです こんなに見るなんて)・・なるほど、それなり(かそれ以上)に感激しましたね。アニメ作品で感動できるなんて、と そもそも私の”偏見”があったんでしょうか。さておき、・・

その題材、というのは、(ここからは、私の把握によるのですが)なんというのか、『私はどこから来てどこへ行くのか』「輪廻とか転生(という言い方をあえてしますね、クリスチャンですが)」「(原)罪」「罪の赦し・救い」「過去の世界、現世界、未来の世界(壁の向こうの世界=天国?)かもしくは自分が忘れられる世界(=救いのない状態、地獄?に近いのかな)」etc.・・他にも、「友情」とかそいうったテーマも含むと思うんですが

クリスチャンとして永遠の生命や救いを信じている自分の立場としては、・・すごく、ピン!!と来る内容だったんです。

元々、クリスチャンの家庭などに生まれたわけでないし、”救い”(福音)という概念を知らなかった自分も、この作品の中の準・主人公(レキさんという)のように、”自分に(原)罪があって””救われていなくて”・・しかも、救いの手を”あえて無視しようと”する、その立場・態度が幼かった頃~青年期の自己とまったく一致して重ね合わせてしまって、なかなか興奮でした。

結局、・・物語のストーリーでは、友情(主人公からの)によって、そのレキさんが自分も救われる、っていう道を選択することができて、やがて光の方の世界(まあ・・天国、でしょうかね?)に行くことができる、っていう終結なんです、

その内容を、先にその友達(っていうのは、”会長”こと佐久間邦雄君で、この日記の1つ前の日記の動画で、私の曲を編曲してくれた方ですわ)が、曲にしたHomecomingっていう曲を聴いてみて↓下さい(貼り付けてもいいよね~?)



[ん・・このインストゥルメンタル曲に、ゆみりんが作詞したものを歌ったバージョンが、アップされるのも、そう遠いことではないかな・・・?またご視聴くださいね。]




それでね、この日記を書きたかったのは・・
その準主人公レキさんが、なぜだかこわくて救いをなかなか受け入れようとしなかったこと、と
私も同じように、なんとなくこわくて”救い”を受け入れられなかったことがね 同じように重なって
・・それで、飛躍して・・もしかして、このような(信じるのが?)こわくて、なかなか救いを受け入れられない態度の人、って
今現在周囲にも、居るんじゃないか、って気がしてね

[まあ、以下にはクリスチャン用語を使ってしまってるから、もう一つまたわかりにくくなったり、クリスチャンでない人には不信感を持たれるとかえって具合がわるいんだけれど、・・その、私は元々クリスチャンでないから、自分が体験して、納得し得た事しか、書きません。ので 許可ください-]

聖霊(※わかりにくい方へ・・要するに、神様が、私たちにダイレクトに働いてくれる力ですわ!)によって、必ず、どの人間にも、何らかの形で、個別に”救い”の手が、神からさしのべられているんですね。
だけど・・それが、それである、とはっきりわからなかったり、人の中にある”(原)罪の傾向”が、それを否定してしまったり、
するんですよ・・
(自分も、非常にその恵みに”抵抗”していた時期が長かったから、よく覚えている。)
結局、自分は抵抗しまくって、折れて めっちゃくちゃなことになって それで 聖霊がめちゃくちゃ働きかけて 「救い」をはっきり体験することができた。それは、もう「もしかしたら」とか「信じても大丈夫かな?」ってレベルじゃなかったんですね だから、もうそれは私にとって、”幸い”としか、いいようがないんでしょうかー?

だけど、裏をかえせばね、そこまで自分を大事にしなくなるまで、神様の恵みを無駄遣いするまで、わからなかったのか?ってことなんです・・
もっと、普通の時から、なんで、いちいち下さる神の救い・恵みを受け取ろうとしないんでしょうね、わからないんでしょうね?

そしたら、アレですわ。・・次に思うのが、
じゃあ、「聖書」を知ってたら、もっといえば、「福音の理解」を、自分に示してくれる人が、傍に居たら、そこまでならなくっても、自分を助けられることが可能だったのか?ってね。これについては、「たら・れば=if・・」の形なんで、わかりません。ただ・・

ただ今回、また瞑想して思ってたのは、
「神様は、すべて私たちに対して為せることを全部してくださった」・・ということで、
聖書にある、「私(神)の恵みは、あなたがたに対して、充分である。」の言葉のとおりなんですね。
キリストの身代わりの死というのは、神の次元を超えた、私達1人ひとりへの奇跡的な愛の賜物なんです。

だから、私たちに対して、神様ができること、というのは、すでに為されているんだと知っています。-

で・・問題(?)、はここからで。

よく、神は、自分に対して ”沈黙” されているー と思いませんか?
私も、子供のころから、非常にその思いが強かった。
いるなら、なぜ答えてくれないんです? (祈りに対しても、すぐ答えてくれないこともありますよね)

ニーチェが「神は死んだ」とか
他の誰かが、「人生の苦悩がこわいのではない、苦悩の意味がわからず、また神が沈黙されているのがおそろしいのだ!」・・
というように、ね。

・・例えば、旧約聖書の時代だと、ちょっと律法(掟)を破ったがために、神にすぐに命を奪われる、とかいうシーンもありますね
こわい・・けど、神に無視されるよりは、いいんじゃない(私見)?・・
神様に見込まれているからこそ、厳しくされる・・・
”愛”の反対語は”憎しみ”ではなく、”無関心”という言葉がありますが
この有限の世界で、神様に無視されて生き続ける方がよっぽどおそろしいよ。(私は・・)

さておき、旧約時代のように、良いことに対しても、悪いことに対しても、神様の私達へのあらわれは、
今は昔ほど、ダイレクトではなくなった。
そのことについて、・・わたしは、なんとなく クリスチャンになる以前から、悩み苦しんでいました。・・

でも、この数年、考え続けて、なんとなく答えが出たんです
それは、上述したように、
『神様は、すでに私達において、出来る限りの事を成し遂げてくれた。』
・・だから、今度は、私達は、神様に、「何かをしてもらう」ことを期待するのでなく、
私達が神様(の愛)に対して、「応答する」ことを、待っておられるのかも知れません。

それは、隣人に対する、ちょっとした気づかいの形であるかも知れないしー
もしかして、友人のために、自分の命をひきかえにしてしまうことー・・まで神様が求めておられたら、どうしよう!?
(それをされたのが、キリストですよね・・私たち1人ひとりのために死んでくれた)

もうすぐ、クリスマスだなあ・・。

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