<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

自分自身を愛するように、隣人を愛せよ・・

2011-06-16 20:37:16 | デボーション(瞑想)。
はい 瞑想(デボーション)というか、毎回考えたことを、なるたけ素直にそのまま、
記しております、もちろん・・内面に起こった考えを、全部話す人など いるわけもないように
私にしても、どこまでを書いて、書かないで、という・・線引き(?)を思案するのに、困ることもあります
(ということは、もちろん、浮かんだ考えで、書かないことも、あるわけですね、それは当然!)

で・・今度の思いも、今週の始めころに、ぷあ~と浮かんだことです
なぜ、思い浮かぶのかは、わかりません

私の思いではなく・・天から授かった思いであること、(自分ではわからないけど)であればよい、なと思います

そう前置きしたうえで・・

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(自分自身を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。)

ふとある朝 洗面中かな・・・に起こった、思い、それは

みな、一人ひとり、だれもが、自分という存在を、わかってほしい、大切にしてほしい、思いだしてほしい、尊厳をもって扱ってほしい・・と考えとるんやろうな、ってこと。 なぜだか、”漠然と” そういう思いが浮かんだ。

”わたし”・・って、大事じゃない、だれも。・・とくに、私は
(笑・・)自己中心的加減が大きいから。すごい、大事
昔から。 ひどい言い方すれば、もっと前には、自分が良ければ、いい!自分がbad feelingなら、全体、ダメ!極端な言い方だけど、本音は、こうだった、んだと思う。(今でも、それは弱点として、私の本質のどこかに、残っているハズだ。意識はせずとも)

みんな、人間として、弱い部分を多く持っている
自分の存在を、常に確かに感じていたい。
とくに思うのだが、キリスト者として救いを実感した者からの目線としては、
まだその救いを受け入れていない(福音を自分のものとしてない)人たちならば、もっと 自分自身の存在を見つめる時に、確信のない、頼りない思いの時を多く過ごしているんじゃないか。・・と考えてしまって、それは、不安なことだろうな、と 憶測してしまう。・・・

わたしだって、一人でさびしい時もある。
だから、あなたも きっと、さびしい瞬間がある。・・・

わたしだって、いつも、だれかに 見えないところから、自分の事を考えていて欲しいなあ、大切に思ってほしいなあ、と思う。
だから、隣のあなたもみんな、そうなんでしょうねえ・・。と

初めて、なんか自分としては、『人間(隣人)みんな同じ』という感覚が、わかったような気がした。・・

だから・・

キリストの言葉
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」

それは、そのとおりなんだ。

私がして欲しいこと、は人も同じように、思ってるんだね。

そして・・隣の人、は私もそうであるように、神様が等しく愛されている対象、なんです。創って、愛して、(敵の手に渡されたものを、)買い戻した。神様が大事にしているものは、等しく私も大事にしなければ、ならない。
ちょっと、わかったような気がしました。

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と、あとあじの比較的いいところで、終えたいところだけれど、

罪、のことについて考える。と

人間の「罪人たるゆえん」というのか、如実にそれが顕わされている部分は、私はこの時点において、ズバリこう思う。⇒ 「他己を理解できないこと」。

そもそも、人間の罪の始まり(=神から離れること)は・・

『善悪を知る木の実』を食べることだった・・・

ここがポイント、で 善悪を知った=1人ひとりの、価値基準が、人の数だけ、出来てしまった!

それがなければ、たったひとつ、まちがうことのない ”神の基準” ただ1つに、皆が従っていれば、それでよかった。!(かつ、幸せだった)

今は、といえば・・人は、一人ひとりが、バラバラに、自分の価値基準に従って判断し、考え行動する。・・

そして、・・実際には、他の人間のことが、ほとんど理解できない、実情!・・他人のおかれている、事情も、困難も、痛みも苦しい心情も、・・ほんとうに、なんにも わからないようになっている。

それは、ほんとうのことだと思う。悲しいけど。

たとえば、人間って、スバラシイ!と人間性善説を唱える人だって、それは理解できると思うし

また、・・本当に誰もがみとめる、素晴らしい人格者、とされる人でも、他人のことを知ることができない、という実情においては、ほとんど変わる点はないんだと思う。・・(もちろん、知ろう、という態度が積極的なのと、そうでないのとの差は、大きいと思いますが!)

そこは、罪人たる私達の現状は、悲惨なもんだと思う・・。誤解される、だれにもわかってもらえない、さびしい・・。

だけど、冒頭に記したことに戻ります、

人のことを、思ってあげましょう・・・祈ってあげましょう、とよくキリスト者はお互いに言い合います、

離れていても、”あの人、今はどうしているだろうか?!”と、少し考えてあげよう、それで
それは 祈ること、に通じるんじゃないかな・・。無関心ではなく!て。 (6月16日木曜)

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2 コメント

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Unknown (のら)
2011-06-17 01:06:32
ご無沙汰致しております。その節はありがとうございました。
順調に活動されているようで何よりです。
また、投稿頂きありがとうございました。
私の活動休止理由ですが、公私共に断続的に続いた人間不信に陥った程の事象に翻弄された事が一番の理由です。その為、ある意味、煩悩や雑念と云ったものを少しこそぎ落とす期間が必要であると感じたんです。そう上手くは簡単にこそぎ落とせるものではないですが、全くそんな事を思わないでいるより、思った方が先に進むかなぁと…
あと、末期ガンである父親のホスピス病院への転院が理由。こちらの方は、もう臨終も直前になり、すべき事も尽くし、時間との駆け引きですが…

いずれにしても、【人は鏡です】よね。
微笑めば微笑み返して映る 怒れば怒り返して映る!
簡単な事が判っているようで判らないでいる 自我と自我がぶつかり合うから…

宗教的な事は皆目分かりませんが、恐らく聖人と呼ばれる人達は同じ事を云ってたんだろう と感じます。ただ、それが伝わった人達の解釈の差で色々と分岐されたんだろうと…

またライブをご一緒出来たらと思います。私もすごすごながらでも、じわりじわりと のらりくらりと参ります! 
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Unknown (ゆみりん)
2011-06-17 09:49:34
のらさん>
そうだったんですかー・・。ブログを経由して、くわしい心境を教えてくださってありがとう、。
(なにか、公に表示して、よかったのかな、ってちょと気にもなったりして)

”煩悩や雑念と云ったものを少しこそぎ落とす期間が必要であると感じた”
”全くそんな事を思わないでいるより、思った方が先に進むかなぁと…”
勢いだけで行ってしまう方もいますし、でも私はそういう態度、よくわかるような気がします。
なんか、のらさんの演奏を聴いたり、少しのライブイベントの時間をいっしょしたりして、繊細さを併せ持つ方なんだろうな~、って雰囲気がしました。そこが演奏に出て魅力なんでしょうね!?

お父様が大変なんですね。・・うちも元旦になくしたので、共感できるところあります。事情はお1人ずつですけど・・
また、ライブ、に関しても なんかそのような自粛(自分に対して)的なスタンス、偶然ですが、私も去年イケイケと、すごく多かったライブ、
今年になって、反省?このまま同じ様に数だけつづけているよりは、と質を追求・・(ウソ)すべくではないですが
何か大切なことを発見できるべく、少しペースを落とし、やっております。

またいっしょにライブする場所で出会えるように・・それよりも、お祈りしています 遠いところからですけれど。

コメントありがとう~(*^_^*)
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