<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

エマオへの道・・

2013-05-28 12:57:11 | デボーション(瞑想)。
私が、生まれたお家が、宗教として、”キリスト教”を選んでいたわけではなく

たまたま、通った幼稚園や学校が、ミッション系だったわけでもなく

また、何か人のつながりがあり、教会へ行くようになって、洗礼を受けた・・ というのでもなく

なんだろう・・神様からのダイレクトな指令?
それ以前に、自分自身が、求めたから・・
小さいころから、”神がほんとうに存在するのか”(別段、その、”キリスト教のいうところの神”のことでもなく、ごくふつうに、神が存在するのか、という疑問。)
生きにくさ、とか 自分自身や親や他人という、人間の理解のまったくし得ないところ、
生きているのは偶然なのか、死んだら終わるか、そのあと生まれ変わるのか 魂があるのか、永遠に消えるのか。
この世で生きている意味、ってあるのか。
どうしたら他人と、自分自身と上手くつきあえるの?
まったく、何もかもわからなくなった自分は(そうだなあ・・こんなことを、14、5歳~26歳くらいまで、毎日考えた。)
この世で生きる価値なし!という判断を、自分自身で、何度もくだし、実行に移したことも何度もありました(暴露!)

自分自身で、実行、死ぬのも自分の自由?
それが、そもそも傲慢で、また、真理からかけ離れた過ちである、というその事を
その理由を、今現在生きる大人のうち、何割が、説明できるの?か。

倫理観とか、感情、哲学とかそんなものでは説明がつかない・・

しかし、私ははっきりそれがわかった
自分の命(他人の、と同じにです)は、自分自身でどうしてもいかんのだ、ということを知った

買いとられたから。・・それは、高い代償(代価、あがない代)をもって、すでに、自分の命が買い戻された、という過去の事実があるからです。
それは、具体的には、どういうことかというと。・・
↓ ↓ ↓

(実は、まったく今日こんな記事を書くことは決めてなかったのに、
下記の聖書の部分をたまたま読んだために、むくむくとその気持ちになっただけのことで)


リビング・バイブル訳 ルカによる福音書24:19~25

[場面、十字架のち復活したイエスが、エマオへの道で弟子達に会うところ]

 ・・彼ら(クレオパ、弟子)は彼(イエス)に言った,「ナザレ人イエスに関することです。彼は,神と民すべての前で,業と言葉において強力な預言者でしたが,祭司長たちとわたしたちの支配者たちとは,彼を死の裁きに引き渡し,はりつけにしたのです。ですが,わたしたちは,彼こそイスラエルを買い戻してくださる方だと期待していました。しかも,そればかりでなく,これらのことが起こってからもう三日になるのです。その上,わたしたちの仲間の女たちが,わたしたちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に着きましたが,彼の体が見つからずに戻って来て,み使いたちが彼は生きていると告げる幻まで見たと言うのです。わたしたちのうちの何人かが墓に行ってみると,まさに女たちが言ったとおりだと知りましたが,彼は見当たりませんでした」。
 彼(イエス)は彼らに言った,「愚かで,預言者たちが語ったすべてのことを信じるのに心の鈍い者たちよ!キリストはこれらの苦しみを受けて,自分の栄光に入って行くはずではなかったのか」。




このことを、ばかばかしい(虚実)ととらえるのか・・それとも、自分自身に関連することとして、とらえるのか。

人によってさまざまであるけれど

どうやったら、この事実を、全ての人が自分自身に直結したこととして、とらえ始めてくれるのか

私はそれが今生きてて、最大の関心事なのです..。 (わ~なんで、今日はこういう記事になったんダ~)

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