11月26日(土曜日)
私は、教会での礼拝(説教)中、とくに退屈するわけでもなく、むしろ非常な興味を持って、耳そばだてて、非常な集中力で聴いてるんが常です
そんな中でも、説教者が、話の内容に合わせて、聖書のある箇所を引用しますわね。
それで、その聖句に加えて、もちろんその説教の内容も合わせて鑑みながら、
どんどん瞑想(空想、妄想ではない)が沸いてきちゃうんです
今日は、約何週かぶりで(苦笑)わが教会へ行ったら、
アメリカのシリコンバレーがどこかで牧師されてる マーク・デュアートさんの説教でした
今日の引用は、「ヨハネによる福音書の14章1節~」から。
キリストの言葉で、
『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい
わたしの父の家には、すまいがたくさんある。
もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所を用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。・・』
そして、併せて 「ヨハネによる黙示録12章7節~」から。
さて、天では戦いが起った。ミカエル(注・キリスト)とその御使たちとが、龍(注・サタン)と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天にはかれらのおる所がなくなった。・・」
-説教者は、アドベンチスト(再臨を待つ者、の意)の最大の教理である、キリストの再臨(今は天におられる)、私達を、永遠の住まいに迎えるために、天にまた連れて行ってくれる、(その反対に、天での居場所を失ったのが、悪魔である) ということに焦点を絞って話していたんですが
わたしは、ピンピン!と・・来たものがあった。
以下は、どの神学書から引用したのでもないし、こんな考え方はキリスト教理として一般的なのかどうか、わたしは知らんのですが
”その黙示録の箇所のつづき”が
(黙12:9)
「・・この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地(注・地球)に投げ落とされ、その使たちも、もろともに投げ落とされた。」
ここね、反逆を起こして、破れて 天に居場所を失ったサタンが、よりによって、ど~して、この地球に、来ることになったのか。?
(ここ数年、考えたこともなかったけど、10年前くらいに思ってたことは確か)
それは・・答えは(自答)、”悪魔が、堕落したあと、宇宙の中で、唯一騙す(同じように堕落させる)ことができたのが、地球の、人間”だから。
いわゆる、自分の手下、仲間、もっといえば”人質”にすることに成功できた、唯一つの対象、人間・・のところにだけ、サタンは居る猶予をゆるされた
ここで、ハッと気づいたのが、今日のポイントです
6年前くらいの、私が牧師かだれかに投げかけた、質問があった・・(とうとうそれに対する答えがなかったけれど・・。)
”それは、「もし」という仮定での話ですが・・、もし、サタンが人間を騙すことに成功しなかった、という仮定の場合でも、
[ここからは、説明がムズカシイなあ・・現世界としての、天と地球、宇宙全体の歴史の流れにおいては、この先(今は恩恵期間という)、・・・”いつになるかはわからない”が、恩恵期間の終了、キリストの再臨、千年期を経て、最後に悪魔(と悪)が完全に滅ぼされる、運命が決まっている。~預言者らの預言より)]
つづき、もしサタンが過去に、人間を陥れることができなかったと仮定しても、つまり悪魔の滅ぼされる時期は、このように、先の未来になるのだったんだろうか?
・・これが、以前の私の疑問だったんです、が
これに対して、NO!って自分なりに思ったんですよ
もし、人類が、サタンにだまされなかったら、・・天での戦いでサタンが負けたあと、「即座に」神によって、滅ぼされていたんでは、ないでしょうか?(これって、神学的にはどういう見解なの??これから、研究するか・・)
それが、首尾よく(?)サタンは、人類を堕落させることができて、文字通りの”人質”をとることに成功したんですね
だから、神にとって、その場で悪魔を滅ぼすということは、同時に ”人間も”滅ぼす、ということになったんですよ・・・(きっと)
神は、律法=罪には死、という正義を曲げることができない方で、
しかし同時に、いえそれ以上に、”愛”の方であるので、
そういう道を選択することを神はよし、とせず、
罪人を殺さずに、生かす(つまり、正義と愛を両立させる)には・・・
あらかじめ・・世のはじめから用意していた、
”救済”の手段を実行にうつすという、選択肢に、移行していったんですね
それが、父(神)・子(キリスト)の間で、世の作られる前から
「もし人類が、サタンに堕落させられたときには・・」と予測して、約束されていた
キリスト(子)による、(人類の罪の為の)身代りの死なんですね
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ 14:6)
という言葉のとおり、
堕落して滅びる運命となった人間の中で、その救いを得ようとする個人1人1人に対して、再び、天に戻る機会(チャンス)が、与えられたんです
そのチャンスを得ようとするか、
いずれ・・この世界が終わり、サタン(と悪のすべて)が宇宙から根絶されるときに、このまま人質としてとられた身分のままで、悪魔といっしょに滅びる道を選ぶか
どちらかを選択することが、私達に課せられてる・・
もし、・・ここで書いたことがわかりにくい、って方や ゆみりんの頭、ダイジョウブ?って思ってる方でも
この世とか人間の本質が、不思議に 善と悪の混在した姿 であることに、反対意見はないですよね?いい者が負けたり悲しい思いをしたり、その逆があったり、の不条理とか。
これは、現在、人が、善(神)と悪(悪魔)からの、両方の支配を受けている、っていう証拠なんですね・・
さっ もう土曜日も終わったし 現実に戻ります・・
明日は、ライブ(15時~、西田辺駅すぐ、@shanshan。)
==============
明日のライブ情報
@shanshan
大阪市阿倍野区阪南町5-22-11
(地下鉄御堂筋線 西田辺駅から西へ徒歩1分)
12時開演~終了16:30頃予定
(ホーリー・ホーシー 15時ごろ)
入場料 ¥500(+1ドリンク)
私は、教会での礼拝(説教)中、とくに退屈するわけでもなく、むしろ非常な興味を持って、耳そばだてて、非常な集中力で聴いてるんが常です
そんな中でも、説教者が、話の内容に合わせて、聖書のある箇所を引用しますわね。
それで、その聖句に加えて、もちろんその説教の内容も合わせて鑑みながら、
どんどん瞑想(空想、妄想ではない)が沸いてきちゃうんです
今日は、約何週かぶりで(苦笑)わが教会へ行ったら、
アメリカのシリコンバレーがどこかで牧師されてる マーク・デュアートさんの説教でした
今日の引用は、「ヨハネによる福音書の14章1節~」から。
キリストの言葉で、
『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい
わたしの父の家には、すまいがたくさんある。
もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所を用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。・・』
そして、併せて 「ヨハネによる黙示録12章7節~」から。
さて、天では戦いが起った。ミカエル(注・キリスト)とその御使たちとが、龍(注・サタン)と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天にはかれらのおる所がなくなった。・・」
-説教者は、アドベンチスト(再臨を待つ者、の意)の最大の教理である、キリストの再臨(今は天におられる)、私達を、永遠の住まいに迎えるために、天にまた連れて行ってくれる、(その反対に、天での居場所を失ったのが、悪魔である) ということに焦点を絞って話していたんですが
わたしは、ピンピン!と・・来たものがあった。
以下は、どの神学書から引用したのでもないし、こんな考え方はキリスト教理として一般的なのかどうか、わたしは知らんのですが
”その黙示録の箇所のつづき”が
(黙12:9)
「・・この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地(注・地球)に投げ落とされ、その使たちも、もろともに投げ落とされた。」
ここね、反逆を起こして、破れて 天に居場所を失ったサタンが、よりによって、ど~して、この地球に、来ることになったのか。?
(ここ数年、考えたこともなかったけど、10年前くらいに思ってたことは確か)
それは・・答えは(自答)、”悪魔が、堕落したあと、宇宙の中で、唯一騙す(同じように堕落させる)ことができたのが、地球の、人間”だから。
いわゆる、自分の手下、仲間、もっといえば”人質”にすることに成功できた、唯一つの対象、人間・・のところにだけ、サタンは居る猶予をゆるされた
ここで、ハッと気づいたのが、今日のポイントです
6年前くらいの、私が牧師かだれかに投げかけた、質問があった・・(とうとうそれに対する答えがなかったけれど・・。)
”それは、「もし」という仮定での話ですが・・、もし、サタンが人間を騙すことに成功しなかった、という仮定の場合でも、
[ここからは、説明がムズカシイなあ・・現世界としての、天と地球、宇宙全体の歴史の流れにおいては、この先(今は恩恵期間という)、・・・”いつになるかはわからない”が、恩恵期間の終了、キリストの再臨、千年期を経て、最後に悪魔(と悪)が完全に滅ぼされる、運命が決まっている。~預言者らの預言より)]
つづき、もしサタンが過去に、人間を陥れることができなかったと仮定しても、つまり悪魔の滅ぼされる時期は、このように、先の未来になるのだったんだろうか?
・・これが、以前の私の疑問だったんです、が
これに対して、NO!って自分なりに思ったんですよ
もし、人類が、サタンにだまされなかったら、・・天での戦いでサタンが負けたあと、「即座に」神によって、滅ぼされていたんでは、ないでしょうか?(これって、神学的にはどういう見解なの??これから、研究するか・・)
それが、首尾よく(?)サタンは、人類を堕落させることができて、文字通りの”人質”をとることに成功したんですね
だから、神にとって、その場で悪魔を滅ぼすということは、同時に ”人間も”滅ぼす、ということになったんですよ・・・(きっと)
神は、律法=罪には死、という正義を曲げることができない方で、
しかし同時に、いえそれ以上に、”愛”の方であるので、
そういう道を選択することを神はよし、とせず、
罪人を殺さずに、生かす(つまり、正義と愛を両立させる)には・・・
あらかじめ・・世のはじめから用意していた、
”救済”の手段を実行にうつすという、選択肢に、移行していったんですね
それが、父(神)・子(キリスト)の間で、世の作られる前から
「もし人類が、サタンに堕落させられたときには・・」と予測して、約束されていた
キリスト(子)による、(人類の罪の為の)身代りの死なんですね
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ 14:6)
という言葉のとおり、
堕落して滅びる運命となった人間の中で、その救いを得ようとする個人1人1人に対して、再び、天に戻る機会(チャンス)が、与えられたんです
そのチャンスを得ようとするか、
いずれ・・この世界が終わり、サタン(と悪のすべて)が宇宙から根絶されるときに、このまま人質としてとられた身分のままで、悪魔といっしょに滅びる道を選ぶか
どちらかを選択することが、私達に課せられてる・・
もし、・・ここで書いたことがわかりにくい、って方や ゆみりんの頭、ダイジョウブ?って思ってる方でも
この世とか人間の本質が、不思議に 善と悪の混在した姿 であることに、反対意見はないですよね?いい者が負けたり悲しい思いをしたり、その逆があったり、の不条理とか。
これは、現在、人が、善(神)と悪(悪魔)からの、両方の支配を受けている、っていう証拠なんですね・・
さっ もう土曜日も終わったし 現実に戻ります・・
明日は、ライブ(15時~、西田辺駅すぐ、@shanshan。)
==============
明日のライブ情報
@shanshan
大阪市阿倍野区阪南町5-22-11
(地下鉄御堂筋線 西田辺駅から西へ徒歩1分)
12時開演~終了16:30頃予定
(ホーリー・ホーシー 15時ごろ)
入場料 ¥500(+1ドリンク)
すごくわかりやすい、聖書解説です!
気に入りました。
・・・正直、”ホッ~~”っと、しました☆
このような内容ですし、どうでしょう・・反論とかお叱りとかいただいたら、落ち込みがちです。それをおそれずに、思いきったんですが!
ありがとう。ございます
神学を勉強、という立場ではないけれど、
知識というより 神様に、感じさせていただいた事をいつも自分の言葉にしています、
反論もおそれないけど、
言わず(書かずに)いられないのですね
やさしいことをおもしろく
作家の井上ひさしさんの言葉です。
河原久牧師が、私の聖書にサインとともに書いてくださっています。
これって、大事です。
SDAは頭の構造が知性が勝っている人が多いようで、
面白いことを難しく語りがち?
知性派の聴衆は、その方が分かりやすく納得するみたいですが、
私なんかは、それを』聞きながら、読みながら、やさしい言い回しに翻訳?して、
ようやく、理解できるんです。
だから、ゆみりんさんの解説は
私の脳の構造にぴったりです。
私は、聖書研究を一緒にしている求道者を与えられています。
また、出会った人に、クリスチャンだと知られたら、聖書について質問される機会もよくあるのです。
わたしの友人知人は、「この人クリスチャンだよ」って紹介してくれることが多いの(笑)感謝ね。勝手に宣伝してくれる。
だから、今回の瞑想メッセージも印刷して、「難しいことをやさしく、やさしいことを面白く」語るための参考資料のお宝に加えました。
これからも楽しみにしています。
おはようございます!朝から、うれしい書き込みをありがとうございます(ルン)
教会の中には、なにか こう おもしろみのない人物が・・失礼!いるように感じるのは、もしかしらた、実際には おもしろい(興味深いの意味)人物なのに
教会内では、と口をはばかられて 自分を制限?してるか何か、で おもしろい点が見えないようになっているのかも・・知れない、と思ったり。
教会外には、魅力ある人・・また、キリスト者を自称する、ユニークな活動をしている人も多くいますよね。
また、”頭の構造が知性が勝っている人が多いようで”
”知性派の聴衆は、その方が分かりやすく納得するみたいですが”
・・ふーむ。哲学を論じるのと、福音を語るのは、またちがいますから・・(後者は天の賜物だ、という点で大きく異なりますねえ)
あと・・聖書は絶対ですが、・・また、同時に、”聖書に書かれていない、各人が抱えている、証”ていうのもまた、真実としてあると思っているんです、それらを教理に相反するんじゃないか、と恐れて かくしてしまってる、というのはほんとうに残念でもったいないと思っています。
だから、少々まちがっていても、私は勇気を出して・・(笑)いいたい
”だから、ゆみりんさんの解説は私の脳の構造にぴったりです。”
・・えっと・・解説・・(笑)、神学書をひもといて語るんじゃなくって、自分が体験で、ころげまわって(苦笑)⇒起きてきた(起こされてきた?)経験を、身をもって語るようにします。
近頃は特に不思議なのは、・・とくに土曜日の午後などにライブをすると(讃美歌とかもう歌うせいで)『キリスト教について』『カトリックとプロテスタントって何が違うの?』・・『ボランティアをやっているのは、クリスチャンだから?』とか、素朴な質問をされることです。ライブの時間に話せることはそこで話し、終わってからもっと突っ込んで話せたりもします。驚かされるのは、一般的には、本当に、先ず”キリスト教”に関する知識がすごく薄いこと(誤解・偏見もある)んですが・・必ず自分の言葉で、体験したこと感じたことを基に話すようにしている。パウロのいう、「・・を得るためには、私も・・のようになった(なって福音を説いた)」まではむずかしいですが、そのようにできたらいいでしょうね。
”今回の瞑想メッセージも印刷して、「難しいことをやさしく、やさしいことを面白く」語るための参考資料のお宝に加えました”
⇒びっくりした!!・・私も 他の方の証を読みにいかなきゃ。(笑)・・
教会の外でも、いちわのすずめさんも、私も、みんなも・・上手に用いられるように、祈っています。
昔、昔、友人の日曜教会を訪問したとき、それを話したら「姦淫だ」と注意を受けました。
唖然・・・としましたが、当時はそういう「純粋型」(笑)信仰者がおられたのです。
私は、へっちゃらで、他教派の友とのお付き合いを続けています(笑)
その分、純粋型信仰者に、引けを取らないように、聖書研究に励むように聖霊様が助けてくださいます。
新しい気付きや、わからないことも次々と出てきますが、
受け売りでない聖書理解を持ちたいと、ベレアの人たちのようでありたいと願っています。
他教派との付き合いを、怖じることなく持続するには、自分自身のSDAとしてのアイデンテティイが育っていなくてはなりません。
主がそういう交わりをお許しくださるなら、その分、信仰も知恵も主が責任をもって与えてくださるのだと思います。
ゆみりんさんの聖書の証を読みながら、それを感じました。
私、ロゴズ腹話術研究会に入っていて、日曜教会の方との交わりがあるのです。
また「アシュラム」にも参加するので、親しくなった方もいらっしゃいます。
その人たちにとってはSDA信徒は珍しいので(笑)「SDA経由のイエス様の個人的手紙」としての自分であることを覚えたいです。
再訪、ありがとう☆・・・
カンイン・・ならば、カトリックなどへ出入りしたらなんというのでしょう、その場合は・・
わたしが、例えばブログ11/12の日記のように、超教派で他の人・教会と交わりに行くのは、アドベンチスト(うちの教会)の信仰・教理に不満や不信を持っているからでは、決してない。つまみぐい(教理の)をしに、ふらついているわけではない。
SDAの教えは、私は満足しています。ただ・・教会は、”教理”からだけで成り立っているのはなく。他の要素・・”キリストにあって・・○○”、という点から考えれば、決して私は今の教会に満足してはいない。その飢え・乾き(主に、兄弟姉妹間の交わり、また他者への伝道、などであると、自分の場合)を主はよくわかってくださり、SDA以外の教会(や外)で出会い・活動する状況をくださっている、と実感します。
神様という方は、・・(特定の)”宗教”の中だけに住む方でなく、特定の限られた人々やシチュエーション(状況)などにのみ影響力を持つような限界のある存在ではない・・神のみ名を呼ぶ人にも、そうでない人にも、同じ様に影響力を持つ方であって、国をも政治をも、宇宙をも支配する方であるから・・私たちの限りある頭脳の枠内にはまる、”宗教”の中に閉じ込めてはならない、と思います。キリスト教を知っている、からといって、そのようなとりあつかい(神に対しても、他の人に対しても)をするのは、傲慢であるのではないか、と思います。
クリスチャンであって、己は目が開かれている、と自信があっても、かえって、非・クリスチャンである人の方が、密接に神と関わって よいものを受けている場合もあるから、私達はまちがえないように注意しなくてはいけないなぁ。・・
いちわのすずめさんは、私より昔から、そういう(他派との)交わりをされてるんだと存じます、自分なんてつい最近です、
”ロゴズ腹話術研究会”で、現に今、日曜教会の方との交わりがあるのも。・・「アシュラム」は、何かちょっとわかりませんが・・
私達、いい意味で同じ要素をもつ同士、こうやって意見交わしていきたいと切に感じます。よろしく
三浦綾子さんの「ちいろば物語」で伝記もあります。
榎本保郎先生という有名な牧師です。
朝の15分があなたを変える、と言って、早朝のデボーションを勧めておられ、各地で「アシュラム」という超教派での祈祷会を提唱、実践なさってこられました。
とうに亡くなっておられますが、
榎本先生の意志を継いだ牧師たちが、各地で、泊りがけでのアシュラム祈祷会を持っています。
三浦綾子さんの本を読んで以来、ちいろば先生を尊敬し、アシュラム祈祷会への参加を望んできました。
2006年の夏にやっと願いがかないました。
以来、教会VBSにひっかからないかぎり参加しています。
が、当初は牧師には、報告しても、古くからの信徒さんたちには話せませんでした。
また「姦淫」なんて言われたら悲しいから(笑)
キリスト者としての信仰のありかたの基本を学べます。
韓国の祈祷院には行ったことがありませんが、似ています。
沈黙と各自が御言葉から聞く、それを分かち合う、そのときは話していいのよ。
では、またね。
アシュラムについての知識を、ありがとうございます。私ももうちょっと知るようにしてみたいです
朝、超教派、祈り、というこの3点を
こないだの(11月12日)に自分も知ったばかりなので、ちょうど、驚いています。
これらは、地域(大阪市内では、区ごとのようで・・うちなら、ちょうど旭区なので、『旭朝祷会(あさひちょうとうかい)』と呼ばれている)ごとに、
朝、
カトリック・プロテスタントの教会に通う人、が集って 祈る
(小さい食事会もして帰る・・雑談は、このような時にしかできませんね!)
これを、1回だけ体験しました。
毎月、第2土曜日(!)の、朝7時から 近所であるので、私もこれからつづけてみようかな、って思っているのです
次は12月の10日。すべてが終わって家に帰っても、8時台です