コロラド州より、小さな町の小さな物語

コロラドの魅力は小さな町にありました。人気の田舎町への小さな旅と、日々の暮らしのレポートです。

コロラドのワイルドライフ ① あっ、タヌキだ。

2009-10-13 11:48:15 | 日記
あっ、 タヌキだ。



先週、珍しいお客さんがやってきた。
キッチンのガラスドアをはさんだ向こう側に、何かいる。 外が暗くなりかけているのでよく見えないが、犬か猫かと目を凝らすと、「あっ、タヌキ!」。 よく見るとラクーンだったが、親子で我が家を覗いているではないか。 
そういえば、昨日も一昨日も、夕食の時間に、裏庭のデッキで何かがモソモソしていた。 ラクーンの親子は、人間を怖がるわけでもなく、逃げるわけでもなく、まだこちらの様子を伺っている。 「人間がなぜ、そこにいるの?」といわんばかりの目つきだ。

ラクーンはスキあらば、納屋でも軒下でも屋根裏でも、どこでも入り込むらしい。 我が家のデッキの下には、前の住人が飼っていた犬が掘ったのか、親子のラクーンが心地よく眠れるくらいのちょうどいい大きさの穴があった。 穴の入り口は植木で隠れていて、静かに暮すには絶好の場所だ。 ラクーンは夜行性だから昼間はデッキの下で眠っていて、夕方になると這い出してくるらしい。 でも、ここは私の家だ。 ラクーンは遊びに来てもいいが、住まれては困る。

このタヌキの親子、いやラクーンの親子をどうやって追い出すか、、、。
「殺虫剤まこうか。」
私の言葉に、主人は一瞬反応したが、すぐに聞こえないふりをした。
ラクーンはすごく聡明なんだそうだ。 知り合いの家にラクーンが住みついたとき、捕まえ、5マイル(8キロ)先までドライブし、捨ててきたという。 ところがラクーンはすぐに、自力で家に戻ってきたそうだ。
ラクーンとタヌキは似ている。 だから、ラクーンはずる賢いはずだ。 そして、人を騙すに違いない。 子供の頃に読んだタヌキの話をいろいろ思い出した。




辞書で調べると、raccoonはアライグマと書いてある。 タヌキはraccoon dogとかbadger とよばれている。


どうしたらラクーンを追い出せるか?
インターネットで調べると、アンモニア水をまけばよいと書いてある。 ラクーンはすごくきれい好きで、アンモニアの匂いがすると、他の動物の尿のにおいと思って、立ち去るのだそうだ。 主人はさっそくドラッグストアーへ行き、アンモニア水を2ガロンも買ってきた。

アンモニア水をまくにあたって一番大事なことは、ラクーンが親子で外出していることを確かめること。 もし、ラクーンの子がひとりで留守番をしているときにまいてしまうと、親ラクーンだけが逃げてしまい、子ラクーンは置き去りにされてしまう。 そして、食べ物にありつけず餓死してしまうのだ。 死んだ動物のにおいは強烈だ。 「でも、防臭スプレーが、、、」と言いかけて、やめた。
私たち夫婦はデッキを木の棒でドンドンつつき、床下にはホースで放水した。 そして、ニャンとかワンとかを含め、とにかく動物の声が聞こえないことを確かめ、2ガロンのアンモニア水をデッキのまわりにまいた。

さようなら、ラクーンさん。 お願いだから復讐しないでね。
 


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ユレイ 癒しの湯が涌き出るアメリカのスイス

2009-10-03 04:04:21 | 旅行
癒しの湯が涌き出るアメリカのスイス


Ourey
人口約800人   標高2340メートル



シルバートンからユレイに向かう道のりで見た風景は、私が抱く山のイメージとはかけ離れた荒々しい風景だった。 人々を優しく包み込む穏やかな山の景色はそこにはなく、山は赤茶色の肌をむきだしていた。 厳しい自然の削り取られた山肌は、安易にここに入りこむなと、人間にを警告しているように思える。 ここに住んでいたインディアンたちは、きっと山の神の許しを得てこの奥地に入り込んだのだろう。 そして、自然とともに山の神を敬いながら暮らしたのだろう。




赤茶色の山肌。 コロラドはスペイン語で”赤い色”という意味。カラーレッド、カラーレッドと言い続けると、いつのまにかコロラドになる。


シルバートンからユレイはHwy550を通って37キロ北上したところにある。このHwy550はミリオンダラーハイウェイと呼ばれる。とにかくここからの景色は絶景で、地元の人たちはJaw-Dropping View, あごがはずれるくらいすばらしい眺め、と表現している。 
崖を削り、わずかな床面スペースにアスファルトを敷いただけの道路は、何度も大きくわん曲し、そのたびに「わっ、道路の先が消えた!!」、とギョッとする。 渓谷の向こうに見える山は、荒々しい自然に削り取られた岩肌を剥きだして、なんとも不思議な美しさだ。しかし、あまり見とれていると、不意に何かの力で谷底に引きずり込まれそうになる。
道は舗装されているが、ガードレールはない。もちろん街灯などないので、夜は自分の車のヘッドライトを頼りに運転するしかない。 暗くなってからの運転や雪の日など、悪天候でのドライブは避けたほうが賢明だ。
シルバートンを出発して45分。ちいさな山の合間にユレイの町が見えた。町の入り口には「Ouray、Switzerland of America」のサインがあった。





ユレイの町は小さい。 ガソリンスタンドも小さい。



ハイウェイから見たユレイの町。 「ユレイはアメリカのスイス」のサインがある。


ユレイの歴史

白人たちがやってくる前、この地にはユーツインディアンの遊牧民、Tubeguach族が住んでいたという。彼らは夏になると牧歌的なこの地にやってきて狩をし、そして「神聖な奇跡の水」に体を浸した。
Tubeguach族はすでに、ここの地下から涌き出る温泉に、体を癒す力があることを知っていたのだ。事実、この地がユレイと呼ばれる前はユーツインディアンの言葉で“Uncompahgre” Hot Water Springs(温泉)と呼ばれていた。 1700年代になるとこの山間の地にもスペインの探検隊が入ってくるが、彼らは自然の厳しいこの地に住もうとは考えなかった。
当時スペイン人を親切に道案内したのは、ユーツインディアンだった。 しかし1800年代に金、銀、銅の鉱脈が発見されると、大勢の坑夫たちが流れ込むことになる。現在サンユワン山脈に残るトレイルは、この坑夫たちが100年以上も前に切り開いたルートだ。



昔、鉱石を運び出していたトロッコの線路が、途中でブッツンと切れている。


1873年、Tubeguach族の首領、Ouray(ユレイ)は、この地を白人に明け渡すとの文書に署名した。 インディアンが去り、1876年に正式に町づくりが始められると、白人たちはOurayに敬意を表し、この町をユレイと名づけた。
最初の年の人口は400人。かれらは凍えるような長い冬に耐えながら、春の訪れを待った。 1880年になるとユレイは鉱山ブームに沸き、人口は2600 人を超えた。 学校がつくられ、教会、病院が建ち、レストラン、商店、下宿屋、酒場が軒を並べ、売春宿も現われた。 1888年には、デンバー&リオグランデ鉄道がユレイまで延び、町はいっそう活気づいた。 が、鉄道開通からわずか5年後、シルバーの価格が暴落し、ユレイも他の鉱山の町と同じように衰退しはじめる。 しかし、幸運にもユレイの南西部にあったキャンプバードで金鉱が発見され、ユレイはゴーストダウン化からまぬがれたのだ。



サンユワン山脈に取り残された家。 ゴーストトタウンも点在する。



ユレイを歩けば

ユレイの町は小さいが、町に残された古い建物はきれいに保存されている。 コートハウス、博物館、St. Elmo Hotelなど現在あるビクトリア様式の建物の3分の2はオリジナルで現在も使用されているという。山が町のすぐ近くまで迫り、まさしくアメリカのスイス。 町を散策したあとはThe Box Canon Fallへ。 トレイルを歩けば、切り込まれた岩の奥にある滝壺まで、ミニハイクが楽しめる。 
ユレイへ来たら、温泉に入らずには帰れない。 メインストリートの北の端にあるOurey Hot Springs Poolは公共の施設で年中オープン。夕暮れ時に温泉につかると、コロラドの山々がますます迫力を増し、自然の懐の奥深くに沈み込んだと実感できる。



大人も子供も楽しめるホットスプリング。 水着をお忘れなく。



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シルバートン ②シルバートンの歴史

2009-10-01 23:33:49 | 旅行
シルバートンの歴史


シルバートンの歴史は、1860年、チャールス ベーカーとその一行が鉱山を探しにサンユワン山脈に踏み込んだことから始まった。 コロラドが金鉱発掘ブームに沸いていた時代。 彼らもすぐに、アニマス川ぞいに金や銀の鉱床を発見した。 そしてこのニュースは瞬く間に広がったが、この地がUte Indianユーツ族の土地であったこと、そして当時南北戦争勃発が迫っていたこともあって、探索隊はいったん引き返した後、戻ってくることもなくしばらく平和な時間が過ぎた。
しかし、1870年代になると、約1000人もの探索隊が山間部に入り込む。 もちろん古くからこの地に住んでいたインディアンのユーツ族は激しく抵抗したが、なだれ込む鉱夫たちの勢いを止めることはできなかった。 
1874年、シルバトーンには数えきれないほどの鉱山キャンプが張られ、町が形づくられた。 その後、1882年にデュランゴとシルバートンを結ぶ狭軌鉄道が開通した後はいっきに人口が激増。 1883年には人口2000人、400の建築物、2つの銀行、29の酒場、数件のホテルが建った。 そして、Red Light District(娼婦街)も現れた。




The Lookoutというサインがついた古い建物。 1階は土産物屋、2階は展望バルコニー?



シルバートンにもおいしいコーヒー屋さんがあった。


デュランゴに住んでいた10ヶ月間、週末になるとシルバートンへ行った。
シルバートンまでは蒸気機関車に乗ると3時間半かかるが、車なら1時間くらいで到着する。 崖っぷちを走るドライブは少々おっかないが、風景はすばらしい。
そして、シルバートンにはお気に入りのコーヒーショップがあった。 人口約500人の小さな町においしいコーヒーを飲ませるお店があることに感動したし、この店から見える山がなんともヨーロッパ的なのだ。

Green St.にあるMobius Cycles & Café. カウンターのお兄さんはちょっとアブナイ感じだったが、カップをしっかり暖めてからコーヒーを入れてくれた。
レギュラーコーヒーをオーダーすると「アメリカーノでいいか?」と言う。 アメリカーノが何か知らなかったがOKと答えると、エスプレッソをつくってカップに入れ、そこにお湯を加えた。 お湯で割るという点では日本のアメリカンコーヒーと基本的には同じだが、アメリカーノの方がもっとおいしい。
そして、ふとドイツで飲んだコーヒーを思い出した。 ドイツで「コーヒー」とオーダーすると、どこでも小さなデミタスカップにはいったエスプレッソが出てきた。 しかしミュンヘンのコーヒー店では、「アメリカンにする?」と聞いてくれた。 私は久しぶりに普通のカップに入った普通のコーヒーが飲めると思っていたが、運ばれてきたのは2個の小さなデミタスカップだった。
ひとつのカップにはエスプレッソ、もうひとつのカップにはお湯が入っている。 どうして混ぜればいいのかしばらく考えたあと、私はエスプレッソのデミタスカップをとり、コーヒーを少し口に含んだ。 そして間髪を入れずにお湯をすすった。 口の中でくちゅくちゅ混ぜて、ハイ、アメリカン。




シルバートンのメイン通り、Green Street. この道だけが舗装されている。






デュランゴを出発して30分くらい。Hwy550号線沿いで見つけた源泉。 温水が湧き出て、谷のほうへ流れ落ちている。 ヌルヌルしているので足元に注意。




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