コロラド州より、小さな町の小さな物語

コロラドの魅力は小さな町にありました。人気の田舎町への小さな旅と、日々の暮らしのレポートです。

乳がんから5年

2010-10-12 18:51:48 | 日記



乳がんから5年。
今月は私の乳がん検診の月。マンモグラフィ検診を受け、Oncologist(がんの専門医)にも会った。 最近は1年に一度の検診だが、Cancer Pavilionと書かれたビルに入るときは、いまだ心が重くなる。
マンモグラフィは異常なし、OncologistのDr. Youngからは血液検査も正常で再発のサインもない。もう検診にこなくていいよ、"You are cured"治癒したよ、といわれホッとした。
 
5年前に乳がんと診断され、手術、抗がん剤による化学療法、放射線治療を受けた。すべての治療が終わって3年ほどは半年に一度の検診、最近は1年に一度の検診を受けていた。
私は20年ほど前に大切な友人を乳がんで亡くしている。「定期検診をしてね。」という言葉が彼女の遺言だったから、私は約束をきちんと守ってずっと検診を受けていた。だから自分が乳がんになったとき、信じられなかった。 何で私が癌になるの?




乳がんは自分で発見できる癌だ。わたしも胸のしこりを自分でみつけた。偶然だったけれど。
5年前、私は年がいもなくインドアのロッククライミングに挑戦していた。おまけにロッククライミングをした翌日にノーディックスキーに行ったので腕と肩が筋肉痛になってしまった。自分で筋肉を揉みほぐしていると、何かが指先に触れた。家に帰ってから、よく調べてみると確かに硬いしこりがある。
ホームドクターに会い、マンモグラフィの予約をいれた。 マンモグラフィを撮ったら、やはりしこりが写っている。すぐ隣の部屋でエコーで見てもらい、バイオプシーの予約。予約がとれたのはは10日後くらいだったが、専属のカウンセラーが「キャンセルが出たら来れる?」という。「来ます。」と答えると、2日後、電話がかかってきて、キャンセルがあったからいらっしゃい、という。バイオプシーから1週間後、結果が出て、悪性腫瘍とのこと。 すぐに外科医と会い手術の日が決まった。 
このときの医療チームの連携プレーはすばらしかった。乳がんと分かってからは、一日でも早く胸のしこりを切り取って捨ててしまいたいと思っていたから、すばやく対応してもらったことを、今も感謝している。


しかし。。。
マンモグラフィを撮ってから手術までの日程は限りなく短かったけれど、手術後、家に帰されるまでの時間は、もっと短かった。
私の乳がん手術は、なんと“日帰り”だった。
もちろん、手術の前日、前々日はいろいろな検査や準備で病院にいった記憶はあるが、手術の当日は朝早く病院に行き、お昼の3時ころに家に帰ってきた。
がんの手術が日帰りだったと言うと、日本の義姉は「アメリカは乳がんを舐めてるんとちがう?」とあきれていたが、病院のベッドでしばらく休むなんて、きっと保険会社が許してくれないのだろう。

手術が日帰りということは、体への負担もさほど重くなく、歩いてもいいのだろうと、私は翌日から家の近くを散歩した。毎日30分以上運動している人は、運動していない人よりずっと乳がんの再発率が低いのだそうだ。とにかく歩け歩け、再発率を下げるためならなんだってやるんだから。



5年前、かなりポピュラーだったLive Strongのリストバンド。 プロの自転車ロードレーサー、アームストロングが癌を克服してレースを再開。癌撲滅のチャリティーの一環としてLIVE STRONGと書いた黄色いリストバンドを販売した。がんセンターの看護師さんたちもこれをつけていた


手術後の回復は早かったし、温存できたので、乳がんの手術をしたことは黙っていれば誰にも分からない。私にとって問題は、抗がん剤による化学療法だった。

息子は、まだ8歳になったばかりだったから無邪気なもので、学校の先生に「今年の夏は日本に帰らないの。お母さんのここ(自分の胸を指差して)に癌ができたから。」と話していた。
でも、抗がん剤を使えば、髪の毛が抜ける。見るからに病人のようになるだろうし、これを子供にどう説明するか。化学療法を受けるのは夏休み中だったが、学校が始まる頃も私の髪はまだ元に戻っていはいないだろう。

結局、子供にも抗がん剤の話をしっかりとしておこうと決めた。

“お母さんは癌になったから、体に残っているがん細胞を殺すために抗がん剤をつかう。 抗がん剤は化学物質でがん細胞のように早く分裂する細胞をアタックする。でも抗がん剤はどれがいい細胞か悪い細胞か分からないので、とにかく早く分裂するいい細胞も壊してしまうの。 いい細胞とは髪の毛の細胞とか、胃の中の細胞で、だから抗がん剤をつかっているときはお母さんの髪の毛は無くなるし、気分も悪くなる。白血球が少なくなって感染しやすくなるから、帰ったら必ず手を洗ってね。そして大切なのは、髪の毛が無くなるといることはお母さんが死ぬということじゃない。髪の毛の無くなったお母さんを見て、「おまえのママは死ぬ」という子が、必ずいる。 でも、そういう言葉に惑わされないように。“


当時小学校の2年生だった息子がどれだけ理解できたかは別として、抗がん剤のことを説明しておいたのは正解だったと思う。実際、学校が始まってすぐ、息子が涙を浮かべて聞いてきた。
「お母さん、死ぬの?」
私は胸が痛くなったが、平静を装った。
「やっぱり、何も知らないでそんなこと言う奴がいるんだよね。その子がしつこく言うようだったら、その子のお母さんに電話して話しようか?」
息子は言った。「いいよ、電話しなくても。きっとその子のおじいちゃんかおばあちゃんが癌で死んだんだよ。」
「そうよね。お母さんは若いけど(!!!)お年寄りはねぇ~。」

こんなに胸が痛んだことはなかった。誰も癌になりたくてなったわけではない。でも、自分には無縁だと信じきっていた病気が、結局は誰にでもなりえる病気だったりする。
乳がんになってすぐに手にしたパンフレットに“今のあなたの思考は、ローラーコースターのように上へ下へと動揺しているだろうけれど、きっと忘れられる時が来る”というような事が書いてあった。私はこれを読んで「そんなことは絶対無い」と思った。
ところが5年経った今、手術したことや抗がん剤のこと、自分が乳がんになったことさえほとんど思い出さない。日常生活のなかでは、忘れてしまっている。
大変だった時間をすっかり忘れられるくらいに、人間は逞しい生き物なんだと、つくづく思う。



マンモグラフィの受付でもらったおみやげ。 ピンクのキャンディもあったが、食べて袋をすててしまった。


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こんな夏休みでいいの?

2010-07-21 09:53:06 | 日記




5月30日、デュランゴのダウンタウンで行われた自転車のFun Race。 みんな面白い格好をして走っていた。


アメリカの夏休みは長い。
息子の中学校は6月2日に学校が終わったから、夏休みにはいってもう7週間近くになる。
そしてこの7週間、私は何をしていたのかと考えると、先週末にワシントン州のスポケンに行った以外は、ずっとコロラドにいる。 で、コロラドで何をしているかと言うと、週末はバイクレースがスイムミートに行く。
バイクレースは、みんなヘルメットをかぶってサングラスをかけているので、誰が誰だかわからない。 たぶんこれが自分のダンナだという推測のもと「それ行け~、もっと早よ走れ~」と叫ぶ。
スイムミートは、これまたスイムキャップをかぶって、ゴーグルをつけているので、ますます識別がつきにくい。 息子と思いきや、同じチームのよその子に「こら~、もっとはよ泳げ」と怒鳴ったりする。 あぁ恥ずかしい。

私はもっと知的で優雅な夏休みを過ごしたい。 なのに、顔は真っ黒だし、カメラに写っているのは、自転車かスイミングプールばかりである。でも、これらを消してしまうのももったいない。 バイクレースの写真は、アメリカのバイクレーサーに興味のある人にとっては、貴重かも。。。




7月4日、スキーリゾートのBreckenridgeにて。 Forth of Julyのパレードを見に行ったら、パレードの前にバイクレースがスタートした。 前に立っているおじさん、危ないよーー。





Breckenridge 100 Mile Mountain Bike Race のプロの部優勝者、Jeremy Horgan-Koblski 略してJ.H.K すごい迫力でゴールに向かってくる。





7月10日、コロラドスプリングスで開催されたCharmikal International Classic プロの優勝者はBrickenridgeでも優勝したJ.H.K。 右の人は、2位のGraff Kabush。昨年のNationalの優勝者でカナダからやってきた。小柄だけれど強い。 





同じく7月10日。 華氏96度の炎天下で泳ぐ我が息子。 こんな暑い日に限って屋外プールでスイムミートがあった。 必死で泳ぐ息子と、まったく気にもかけずによそ見しているコーチ。いつか証拠写真としてヘッドコーチに見せてやるぞ。





7月17日。コロラドのGranbyで開催されたMountain Bike National Championship.





昨年の男子プロの優勝者、J.H.Kは今年は2位に終わった。





男子プロの今年の優勝は、予想通りTodd Wells。 バイクライダーの町、デュランゴ在住。



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シリコンバレーからの脱出 ⑥ここが腕のみせどころ

2010-03-14 09:16:47 | 日記
ここが腕のみせどころ






5分後、彼はニッと笑って戻ってきた。 日本人クライアントを持つリアリターに、「ワイフはあなたのオファーを取りたいと言っている。 しかし、Greedy(貪欲)なアメリカ人のハズバンドは、一番高いオファーを出した別の人に売りたがっている」と、言ったらしい。 
彼女はすぐ自分のクライアントに電話し、申し出価格を引き上げ、おまけにContingencyも取ってしまった。
「これで、決まり!」
Royceはそういい、書類を片付けはじめた。
私は、しばらく頭がボッーとしていたが、戦友の功績をたたえるべく握手し、別れた。

オフィスを出たとたん、喜びがこみあげてきた。 いままで隠していた感情が、抑えられなくなってくるのがわかる。 ガハハッ、と大声を出して笑いたい。
一年半前に売りに出した時よりも、ずっといい値段がついた。 不動産売買はタイミングが大事だというが、そのとおりだ。 日本のバブル経済時に、不動産をころがして、大儲けした人がいたそうだが、彼らは私たちの何百倍もの興奮を味わったのだろう。
私と主人は建物の陰に隠れ、誰も見ていないのを確かめてから、「やった、やった」と抱き合い、子供のように飛び跳ねた。
とにかく戦いは終わった。 今日からゆっくり家でくつろげる。

ホッとしたら、お腹が空いているのに気づいた。 もう、お昼の時間だ。
私たちは、Palo Altoのこぎれいなイタリアンレストランに入り、ランチを食べた。 いつもより高い目のワインをオーダーし、ほろ酔い気分になった。
レストランを出ると、太陽がまぶしい。 この脳天気なカリフォルニアの気候ともお別れかと思うと、少し寂しい気もするが、私たちのCondo for saleは幕を閉じたのだ。




ステージングをすると、すっきりとしたセンスのいいコンドに早がわり。



家の良し悪しは、飾り方次第?

コンドのステージングで考えさせられたことがあった。 
世の中には、家を飾るのが上手な人がたくさんいるが、私は下手である。 なにをどう飾っていいのかわからない。 そういえば小学生の頃、美術が苦手だった。 私が絵を描くと、家は必ず倒れていたし、人は道にへばり付き、犬や猫は横になって眠っていた。
そして色彩感覚やバランス感覚の欠如に加え、私のせっかちな性格は、家を美しく飾るという作業を不可能にしている。
 
しかし、プロの人にステ―ジングをしてもらうまでは、きれいな家は高価なインテリア用品で飾ってあるからだと信じていた。 趣味の良さもあるだろうけれど、安物をつかってないから美しいのだと。

コンドが売れたあと、ステ―ジングの人に荷物を引き取りにきてもらった。 その時に、間違えて、我が家のランプまで持って行ってしまった。
ステ―ジングの会社に電話すると、「ごめんなさい。 でもどのランプかわからないので、見にきてくれる?」といわれた。 住所を聞くと、家のすぐ近くだった。
私は、ショールームのようなオフィスを想像していたが、ステ―ジングの会社は大きな倉庫の一角を借りていて、そこに貸し出し用の家具や小物を山のように積んであるだけだった。
はっきり言って、ゴミの山。 Kマートより雑っぽい、JCペニーより安っぽい。 ガレージセールに出しても、売れないようなものばかりだと、私は思った。
ランプばかりを並べてあるコーナーへ行って、自分の物を探したが、私のランプが一番高級そうだった。 でも、コンドを飾ってくれたランプは素敵だったという印象があったが。 
要は、飾る人のセンスで高級にも、安物にも見えてしまうということか?
それじゃあ、私が高級なものを買うという行為は、間違っているな。 まあ、買いはしないが。  




ステージングを取り去った後の我が家は、スカーンとしていたが、こちらのほうが生活しやすい?!




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シリコンバレーからの脱出 ⑤こんどは売れそう

2010-03-04 08:12:21 | 日記
こんどは売れそう。





二人目のリアルターは、ちょっと大柄の白人女性だった。
彼女は私を見て、ニッコリ微笑んだ。 
彼女のクライアントは、日本人のカップルだそうだ。
そして、私の目をじっと見つめ、「ワイフもハズバンドも、あなたのコンドをみてFall in love、恋におちたのよ」という。 この言葉は私の心をくすぐった。 うれしいではないか、こんなに気に入ってもらえて。 私だって、このコンドを売るために、いっぱい努力したのだ。  

このリアルターはFall in loveを何度も繰り返し、私を恍惚状態にさせた。 そして最後に、「このカップルにも小さな子供がいて、あなたのコンドミニアムのバックヤードで遊ばせたいんだって。 とっても、とっても可愛い子なのよーー」と言った。
そう、このリアルターは私たちにも小さな子供がいるのを、知っているのだ。 オープンハウスをしたとき、ぞうさんのシーソーをバックヤードに置いたままだった。
小さいバックヤードではあるが、水遊びをさせたり、私にも子育ての思い出がある。 リアルターは私の母性に訴えかけてきたのだ。

彼女が部屋から出た後、Royceは「あのリアルターのFall in loveのパートは忘れた方がいい。」と、アッサリ言った。 しかし、彼女が持ってきたオファーも、私たちの予想を上回る金額だった。



このあと3件きているオファーを開け、そうこうしているうちにFaxで6件目の駈け込みオファーが届いた。
高い金額を提示しているのは、やはりリアルターが直接持ってきている最初の2件である。 Royceは「じゃあ、二人で話し合ってね。」といって、さっさと部屋を出ていってしまった。

私は、日本人カップルに売りたかった。 Fall in loveは忘れろといわれたが、こんなに気に入ってくれているのだし、子供をかかえての家探しはストレスも多い。 さっさと決めて、引っ越して、終わりにしてしまったほうが、気持ちがすっきりする。
主人は、離婚男性のほうが、提示金額が多いのだから、当然こっちだという。
私は、この男性はまだ離婚していないのよ、と反撃した。
「もし、明日にでも“やっぱり、離婚はやーめた”といったらどうするのよ。 離婚するとカリフォルニアは慰謝料が高いし、だいたいアメリカ人なんて、いつ気が変わるがわからないでしょ。」

Royceが部屋へ戻ってきた。 私たちはそれぞれの考えを伝え、彼の意見を聞いた。
彼は、日本人カップルのContingencyが1週間というのが、気にかかるという。 シリコンバレーでは、通常2-3日だそうだ。
Contingencyは、英和辞典で引くと、“偶発事件”と書いてある。 これだとよく分からないが、不動産売買では条件期間とでもいうのだろうか。 この期間ならどんな理由でもキャンセルできる。 次の日、もっとよい物件があったとか、単に気が変わった、でもいい。 「やっぱり、やーめた。」と、ペナルティなしで、白紙に戻せる期間のことをいう。
売る側にすれば、これが一番怖い。 すごろくゲームのように“振り出しに戻れ”といわれれば、すべての予定が狂ってしまう。

Royceは「ちょっと、待っていてね」と言って、ふたたび部屋を出ていった。

<つづく>


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シリコンバレーからの脱出 ④決戦の日

2010-02-20 03:44:49 | 日記
シリコンバレーからの脱出 ④決戦のとき


2001年1月31日(水) 運命の日が来た。 今日は、このコンドを買いたいと思っている人が、Offer(申し出書類)を提出するのだ。
オファーがなければ、家は売れない。 オファーが1件だけなら、提示された金額で売るか、オファーを退け、いい買い手が現れるのを辛抱強く、待つ。 しかし、私たちには待つ時間がない。
もし、数件のオファーがあれば、競合しあうので売り手には有利である。
Royceのオフィスに電話をいれると、5件くらいのオファーがあるだろう、とのことである。




”値下げしました” のサイン。 10年前のシリコンバレーでは絶対に見られなかった。 いまでは値下げは常識(?) どこでもよく見かけるサインだ。 


当時のシリコンバレーの住宅市場は、すでに過熱気味だったが、2000年からの住宅価格の高騰ぶりはすさまじいかった。 家は売りに出すと、1-2週間で売れていく。 それも学校区がよければ、築40-50年の物件に信じられないような値段がついた。

売るほうにすれば、有難い現象だが、買う方は大変である。 週末に物件を見て、気に入れば翌週には決心しなければいけない。 購買能力を示す書類(銀行からのローン承諾書類)や、予約金の小切手も用意する。 それでも何人かと競合になる可能性があるので、どんな手を使うか、どのくらいまで金額を上乗せするか、リアルターと相談しておかなくてはいけない。
 
私と同じコンドに住んでいた人は、どうしても欲しい物件をみつけ、オファーの書類に家族の写真と手紙を添えて提出した。 “私たちには、4歳の子供がいて、この子のためにいい学校区が欲しい。 しかし、いい学校区の家はどれも高くて手がでない。 あなたの家が最後の望みだ、どうぞ私たちに希望の光を…” 
手紙つきのオファーなんて! と思ったが、これで決まりだった。 彼らは他の人よりも低い金額のオファーで、家を手に入れたのだ。





オファーを受け入れるとUnder Contract(契約中)のサインをつける。 契約中は物件のチラシをかたずけ、他の人に物件を見せることもしない。



私たちがコンドを売りに出した当時、シリコンバレーの高成長はそろそろ頭打ちで、ドットコム企業が倒れ、高騰した住宅価格は急降下するだろう、と言われていた。 しかし、住宅の値段は釣りあがるばかりで、いつはじけるのか誰もわからなかった。 新聞には毎月のように、「昨年の同月と比べ、今年の住宅価格は20パーセント上昇した」などという記事が載っていた。

買う方は、早くしないと手が届かなくなってしまう、という焦りもあるのだろう。 シリコンバレーでアパートを借りている人たちは、2ベッドルームに毎月二千ドル以上の家賃を払っている。 いくら高給を取っていても、毎月二千ドルが消えていくのは、つらい。 買ってしまえば、いずれは自分のものになるし、住宅ローンは税金の控除の対象になる。

午前10時、主人と一緒にPalo AltoにあるRoyceのオフィスを訪れる。 こんな日は、アメリカ人でも少しはマシな服装をしていくのだろうが、私の外出着は引越しダンボールの中だ。 近くの量販店に走り、新しいシャツを買い、自分のコンドでコソコソ着替えて、出かけた。




自分で家を売る人は”Sale by Owner"のサインをだす。 リアルターに支払う手数料が節約できるので、最近はSale by Ownerのサインは増えたが、10年前のシリコンバレーでは見かけなかった。


Royceと会い、まず、打ち合わせをした。
3件のオファーが、すでにオフィスに届けられている。 あと2件は買い手側のリアルターが、直接、私たちに手渡して説明するらしい。
不必要なおしゃべりはしない。 売買についての質問に関しては、即答しない。 手短にしようと言われた。 要は、余計な事をしゃべるな、ということか。

一人目のリアルターが現れた。 長い黒髪の、小柄な女性だ。
彼女のクライアントは、もうすぐ離婚予定の男性で、高校生の息子がいるという。 私たちのコンドは通勤に便利なところにあり、2部屋それぞれにバス、トイレがついているので、息子さんが滞在しても、お互い独立して暮らせるので、理想的らしい。 
そうして、「あなたたちのコンドは素晴らしい。 こういう物件をずっと探していた。」と熱弁し、私たちを気持ちよくさせてくれた。
Contingencyは3日。 もちろん、ローンはおりますという銀行からの証明書つき。 予約金の小切手。 申し出価格は、私たちが希望していた価格をはるかに上回っていた。

うわっ、と心の中で驚いた。 が、ポーカーフェイスを守った。 ここは駆け引きだ。 私たちは、勝たねばならない。
リアルターが部屋から去ったあと、Royceは“こんなもんだよ” という顔をチラリと見せたが、彼も表情を変えない。

「さあ、次のにいこう」といって、二人目のリアルターを呼んだ。


<つづく>




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