シリコンバレーからの脱出 ②3度目の正直
あれから、また一年ちょっと経ち、2000年の終わり頃、三度目の試みである。
引っ越すといっても、どこに引っ越すのか? 主人は、やはりコロラドがいいという。 コロラドなら会社を辞めなくても、現地のオフィスに異動という形がとれるし、何よりもこの中堅都市はハイテク産業が急速に伸びている。 (ここ数年、コロラドのハイテク企業は急速に業務縮小、または撤退したが。。。)
シリコンバレーの家の近くにあったスタンフォード大学。 ここに見学にくるだけでも頭がよくなった気がした。
今度はまず、お互いの気持ちを確かめ合った。
私: コロラドには海がない。 ゆえにあなたは、大好きなウインドサーフィンができなくなる。
それでいいのか。
主人: ウインドサーフィンはもういっぱいやったので、マウンテンバイクに切り換える。
私: シリコンバレーのコンドミニアムを売ってしまうと、もう二度とここへは戻って来られない。
それでいいのか。
主人: リタイアしたあと住みたい場所は、カリフォルニアではなく、コロラドのデュランゴだ。
主人: コロラドには日本人ツーリストはあまりこない。 ゆえにキミは仕事はできないかもしれない。 それでいいのか。
私: 子供が生まれて以来、思うように仕事ができないから、どこでも一緒でしょ。
主人: コロラドには日本人が少ない。 ゆえに日本人の友達をみつけるのは難しいかもしれない。それでもいいのか。
私: 大きな家を買ってくれたら、そこから友達に長電話します。
主人: コロラドにはシリコンバレーのように、おいしい寿司屋がないかもしれない。 それでもいいのか。
私: 日本に帰った時に、一年分、食いだめします。
真面目に話し合っても、この程度なのだ。
主人は運よくコロラドスプリングスでジョブオファーをもらい、さて、今度こそコンドミニアムを売ろう、ということになった。
家を売るときは、まずリアルター探しから。 どの不動産会社の誰に頼むかでも、売り方や結果は違ってくる。
やり手リアルター、Royceとの出会い
2001年のお正月のすぐあと、私たちはリアルターを探し始めた。 この頃、シリコンバレーの不動産マーケットは過熱していた。 街を歩けば、あちこちに For Saleのサインがでていた。
私たちは、この近辺のタウンハウス・コンドミニアム専門の、Royceに連絡をとった。
彼はすぐ、我が家へやってきた。 こういう時のリアルターの応対はすごぶる速い。
Royceは長い間、ハワイでリアルターをやっていた人で、5-6年前にシリコンバレーに移ってきたという。 彼は自分のマーケットを、タウンハウスとコンドミニアムに絞っていた。
不動産売買に関する手数料は、売り手側が売買価格の6パーセントを手数料として、仲介者に支払う。 これを売り手側と買い手側のリアルターで3パーセントずつ分けるのだ。 だから安いコンドミニアムを売るより、何ミリオンもする大きな家にかかわる方が、効率よく稼げる。
しかしRoyceはタウンハウス・コンド専門を自称し、このシリコンバレーで活躍していた。
彼は、私たちに会うとき、すでに分厚いファイルを用意していた。
最初の数ページは自己紹介。 自分が手がけたタウンハウス、コンドミニアムのセールスの記録。 いかに速く、高く売ったか。 過去数年の周辺コンドの売買データ。 これから私たちがやるべき事を明記した日程表。 最後は、自分のクライアントからの手紙の数々。
“ロイスさん、さすがあなたはプロだ。 よくやってくれた、ありがとう。” などと書かれている。
「最後のクライアントからの手紙はちょっとはずかしいけれど、付けといた。」 などと言いながら、徹底して自分を売り込んでくる。
物件を売るときは、まず競合相手を知ること。 すぐ近くにあったこのコンドミニアムは私たちの最大のライバルだった。 こっちのほうがよさそう。
1999年にこのコンドミニアムを売ろうとした時のリアルターは、女性だった。
彼女もまた、「私はこの業界に何年いて、得意エリアはどこで、自分の話し方はとってもソフトだけれど、交渉時は粘り強く、顧客の利益を最優先する」と、はっきりと自分を売り込んできた。
日本のように「できる限りのことをやらせていただきます…」などと不透明な話をする人は、まずいない。
Royceが我が家にやってきた時、私たちはすでに部屋の改装をはじめていた。
キッチンキャビネットを白く塗り替え、カウンターを新品のモダンなものに替え(私はずっと、茶色の木目の古臭いものでガマンしていたのに)、オーブン、電子レンジ、冷蔵庫まで真っ白いものに買い替えた。 洗濯機、乾燥機、食器洗い機も最近買い替えたばかりだから、ここにある電化製品は、ほとんど全部新品である。 これをみんな置いていくのか…。 もったいない。
これからは、壁を塗り替え、カーペットも新しいのを入れて、完了である。
しかし、私は不満が残る。 私は、このブラウンのカーペットが大嫌いだった。 1994年にこのコンドを買ったときから、ずっとカーペットを替えたかったが、なぜか延ばし延ばしになっていた。 そして、新しいカーペットを入れるときは、売るときである。 キッチンカウンターも台所の電化製品も、私はずっと古いのを使っていたのだ。
壁を塗り替えたり、新しいカーペットを入れたりするのなら、家具やクロゼットのものを片付けなくてはいけない。 それなら、もう引越しの荷物をつくろう、ということになった。
Royceが、「ステージングをしてはどうか?」と、話をもちかけた。
カーペットを入れるときに、ベッドとタンス以外の余計なものをガレージに詰め込んでしまう。 からっぽになったリビングルームには、プロのコーディネーターに頼んで、展示用の家具を入れてもらう。 キッチン、バスルームも飾って、要はモデルルームにしてしまおうというのだ。
私たちは家探しをしていた頃、モデルルームをいっぱい見た。 いちどユニオンシティで素敵なモデルルームを見て感動し、こんな家が欲しかったと、ほとんど買う気になった。 運良く完成間近の同じモデルの家があるというので、中を見せてもらって、愕然とした。
カラーンとしている。 まだ、誰も住んでいないのだから、空っぽで当然なのだが、なにか安っぽく、わびしい感じがする。 あのモデルルームと同一の家だとは思えなかった。
このコンドをプロが飾りつけたら、どんな風になるのだろう…。 興味があった。
コンドを売りに出すための準備が加わり、2001年の1月は慌ただしかった。
よせばいいのに1月1日、お正月そうそう、私はツアーの仕事をした。 これが、私の10年間におよぶ旅行会社での最後の仕事だった。 2日におせち料理を作り、3日に主人の両親、おばあちゃん、お兄さん夫婦を呼んで、新年を祝った。
そして、翌週から、Foothill College でクラスがはじまった。 このドタバタしている時にクラスをとる必要もないのだが、クラスを申し込んだのは、コンドを売ると決める前だったのだ。
朝、息子をPre-schoolにおっことして自分も学校へ行き、授業、宿題を済ませ、子供をピックアップする。 家に帰ればダンボール箱と格闘する、という日が続いた。
<つづく>
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