コロラド州より、小さな町の小さな物語

コロラドの魅力は小さな町にありました。人気の田舎町への小さな旅と、日々の暮らしのレポートです。

Garden of The Gods  ガーデンオブザゴッド

2010-02-27 04:53:16 | 旅行
Garden of the Gods 神々の庭

シリコンバレー(カリフォルニア)での出来事を書いていたせいか、コロラドの風景を載せたくなった。 朝、目を覚ますと外は真っ白。 夜に雪が降っていたなんて知らなかった。 この雪もお昼ごろには解けてしまうかもしれないと思い、あわててガーデンオブザゴッドまで、写真を撮りに出かけた。





私のお気に入りのお散歩コース。 岩が地面からニョキニョキと這い出し、天に向かって手を伸ばしている。







Garden of the Godsにはたくさんの巨大な岩がそびえたっている。 赤茶色のこの岩は肉眼では亀に見えたけれど、写真で見ると七面鳥みたい。






4-5日前に撮った写真。 誰ですか、そんなところに登っているのは。 ロッククライマーが二人、こちらを見下ろしている。 落っこちないでねーー。



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シリコンバレーからの脱出 ④決戦の日

2010-02-20 03:44:49 | 日記
シリコンバレーからの脱出 ④決戦のとき


2001年1月31日(水) 運命の日が来た。 今日は、このコンドを買いたいと思っている人が、Offer(申し出書類)を提出するのだ。
オファーがなければ、家は売れない。 オファーが1件だけなら、提示された金額で売るか、オファーを退け、いい買い手が現れるのを辛抱強く、待つ。 しかし、私たちには待つ時間がない。
もし、数件のオファーがあれば、競合しあうので売り手には有利である。
Royceのオフィスに電話をいれると、5件くらいのオファーがあるだろう、とのことである。




”値下げしました” のサイン。 10年前のシリコンバレーでは絶対に見られなかった。 いまでは値下げは常識(?) どこでもよく見かけるサインだ。 


当時のシリコンバレーの住宅市場は、すでに過熱気味だったが、2000年からの住宅価格の高騰ぶりはすさまじいかった。 家は売りに出すと、1-2週間で売れていく。 それも学校区がよければ、築40-50年の物件に信じられないような値段がついた。

売るほうにすれば、有難い現象だが、買う方は大変である。 週末に物件を見て、気に入れば翌週には決心しなければいけない。 購買能力を示す書類(銀行からのローン承諾書類)や、予約金の小切手も用意する。 それでも何人かと競合になる可能性があるので、どんな手を使うか、どのくらいまで金額を上乗せするか、リアルターと相談しておかなくてはいけない。
 
私と同じコンドに住んでいた人は、どうしても欲しい物件をみつけ、オファーの書類に家族の写真と手紙を添えて提出した。 “私たちには、4歳の子供がいて、この子のためにいい学校区が欲しい。 しかし、いい学校区の家はどれも高くて手がでない。 あなたの家が最後の望みだ、どうぞ私たちに希望の光を…” 
手紙つきのオファーなんて! と思ったが、これで決まりだった。 彼らは他の人よりも低い金額のオファーで、家を手に入れたのだ。





オファーを受け入れるとUnder Contract(契約中)のサインをつける。 契約中は物件のチラシをかたずけ、他の人に物件を見せることもしない。



私たちがコンドを売りに出した当時、シリコンバレーの高成長はそろそろ頭打ちで、ドットコム企業が倒れ、高騰した住宅価格は急降下するだろう、と言われていた。 しかし、住宅の値段は釣りあがるばかりで、いつはじけるのか誰もわからなかった。 新聞には毎月のように、「昨年の同月と比べ、今年の住宅価格は20パーセント上昇した」などという記事が載っていた。

買う方は、早くしないと手が届かなくなってしまう、という焦りもあるのだろう。 シリコンバレーでアパートを借りている人たちは、2ベッドルームに毎月二千ドル以上の家賃を払っている。 いくら高給を取っていても、毎月二千ドルが消えていくのは、つらい。 買ってしまえば、いずれは自分のものになるし、住宅ローンは税金の控除の対象になる。

午前10時、主人と一緒にPalo AltoにあるRoyceのオフィスを訪れる。 こんな日は、アメリカ人でも少しはマシな服装をしていくのだろうが、私の外出着は引越しダンボールの中だ。 近くの量販店に走り、新しいシャツを買い、自分のコンドでコソコソ着替えて、出かけた。




自分で家を売る人は”Sale by Owner"のサインをだす。 リアルターに支払う手数料が節約できるので、最近はSale by Ownerのサインは増えたが、10年前のシリコンバレーでは見かけなかった。


Royceと会い、まず、打ち合わせをした。
3件のオファーが、すでにオフィスに届けられている。 あと2件は買い手側のリアルターが、直接、私たちに手渡して説明するらしい。
不必要なおしゃべりはしない。 売買についての質問に関しては、即答しない。 手短にしようと言われた。 要は、余計な事をしゃべるな、ということか。

一人目のリアルターが現れた。 長い黒髪の、小柄な女性だ。
彼女のクライアントは、もうすぐ離婚予定の男性で、高校生の息子がいるという。 私たちのコンドは通勤に便利なところにあり、2部屋それぞれにバス、トイレがついているので、息子さんが滞在しても、お互い独立して暮らせるので、理想的らしい。 
そうして、「あなたたちのコンドは素晴らしい。 こういう物件をずっと探していた。」と熱弁し、私たちを気持ちよくさせてくれた。
Contingencyは3日。 もちろん、ローンはおりますという銀行からの証明書つき。 予約金の小切手。 申し出価格は、私たちが希望していた価格をはるかに上回っていた。

うわっ、と心の中で驚いた。 が、ポーカーフェイスを守った。 ここは駆け引きだ。 私たちは、勝たねばならない。
リアルターが部屋から去ったあと、Royceは“こんなもんだよ” という顔をチラリと見せたが、彼も表情を変えない。

「さあ、次のにいこう」といって、二人目のリアルターを呼んだ。


<つづく>




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シリコンバレーからの脱出 ③ Condo for Sale

2010-02-09 04:33:23 | 日記
シリコンバレーからの脱出 ③Condo for Sale


はじめてリアリターのRoyceと会ったのが2001年の1月9日。 壁を塗り替え、新しいカーペットが入ったのは1月15日だった。 すべてのことが順調に、超特急で進んでいく。
部屋に散乱していたダンボール箱も片付き、家の中は随分、すっきりした感じになった。 真っ白な壁、新品のカーペット。 私は「美しい」と思ったが、息子にしてみれば、迷惑な話だった。
ジュースを飲むときは、誰かに見張られ、食べる時も「こぼすな、ヨコ見るな、ホラ、落ちる!」と、つねに脅かされ、壁でも触ろうものなら、「あぁー、手形が残る!」と、叫び声が聞こえる。
シミのついた壁と、薄汚れた茶色のカーペットで過ごした日々が、天国のように思えただろう。

1/24(水) 朝6時22分のフライトで、私たちはコロラドへ飛んだ。 アパート探しが目的だ。

1/25(木)ステージング。 私たちのコンドミニアムはどのように変貌するのであろうか。

1/26(金) リアルター向けのオープンハウス。 すでにクライアントを連れてきたリアルターもいたそうだ。

1/27,28(土、日)  一般向けのオープンハウス。 ドアに“靴を脱いでください”のサインを貼ってもらう。 なんせ、まっさらのカーペットだもんね。 汚してくれるなよ。

私たちは27日の夕方に、サンノゼに戻ってくる予定だったが、コロラドは吹雪きで、飛行機はすべてキャンセルだった。
1月28日、日曜日。 お昼頃、サンノゼの空港に着いた。 この日も、わが家はオープンハウスをしている。 ステージングでどんな風に変わったのだろう。 ちょっと、覗きたい気分だ。





コンドミニアムの横に車を止め、交代で部屋を覗きに行く。 主人が先にいった。
「すごいよー。 モデルルームみたいだった。」と、うれしそうに戻ってきた。 リアルターと話をしたそうだが、反響は上々だという。
私もすぐその後に入っていったが、先客がいて、リアルターと話をしている。 私は、なんとなく居心地が悪く、コソコソっと、大急ぎで寝室とバスルームをチェックした。 タランとぶらさがったトイレットペーパーをきれいに巻きなおして、トイレのふたをしめ、誰とも目をあわさないようにして出てきた。
自分の家なのに、そこにいるのが悪い事のような気がする。 この家はもう、自分の手から離れてしまったような感覚だ。

主人は仕事があるので、夜だけ家に帰って眠り、朝、綺麗に片付けて会社にいく。 もちろん、食事は外。 私と息子はしばらく主人の両親の住むLivermoreに滞在することにした。
物件を売りに出しているときは、人が住んでいる気配を残さない方がいいーーとRoyceに言われたので、私たちは素直にアドバイスに従った。

1月30日(火) 
私も息子も学校があるので、Livermoreからシリコンバレーに通学する。 片道1時間45分。 ラッシュがすごく、疲れる。 しかし、あらためて思う。
一年半前、リバモアに家を買わなくてよかった。 こんな状態で、週5日も通勤したら、それだけで人生が終わってしまう。






授業のあと、少し時間ができたので、またコンドをのぞきにいく。
誰もいないのを確かめて、ドアを開けると、まず目にはいるのが、大きなポスター。 イタリアンレストランにいくと、よくこんな感じのポスターが飾ってある。 ポスターの前には、ガラスのダイニングテーブルと4脚の椅子。 テーブルにはお皿とフォーク、ナイフ、ワイングラス、赤いナプキンがセットされている。 テーブルの中央には30センチくらいの細長い赤のキャンドル。
 
ロマンチックやなぁ。

リビングエリアには、暖炉を囲むようにしてグレーのラブソファとチェア。 しらじらしくストールが掛かっている。 ソファの前には、ガラスのテーブル。 リキュールのボトル( 中はカラッポだった。 空きボトルなら盗んでいく奴もいない?)、洒落たカクテルグラス、いまにも壊れそうな丸いボール(何のためのものかわからない)。 一度くらい、こんな素敵なコンドに住んでみてもよかったかな? いや、ここはわたしのコンドだ。 変な錯覚をおこしてしまう。
しかし、今の私たちは、とてもこんな所に住めない。 なんたって、我が家には3歳8ヶ月の男の子がいるのだ。 5分でみんな、粉々につぶしてしまいそうな物ばかりが置いてある。 バスルームにも、何やら不思議なオブジェや、きれいな和紙につつまれた石鹸、使ってはいけない飾りのタオルなどが置いてあった。






この飾り方は、確かにプロの腕前だ。 見ていて楽しいし、夢がある。 しかし、人間の体温がない。
自分の体の置き場がみつからない。 多少、散らかっていて、無駄なものもいくつかあって、靴下なんかが、ポイッとぬぎすててある部屋のほうが、私は落ち着く。
そう考えていて、はっと気付いた。 長居してはいけない。 いつ誰が来るかわからないのだから。
私は、あわててジャケットとバッグを掴み、逃げ去った。
コンドを売りに出して以来、何度も感じる夜逃げの気分だ。


<つづく>


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シリコンバレーからの脱出 ②三度目の正直、Royceとの出会い。

2010-02-02 03:09:34 | 日記
シリコンバレーからの脱出 ②3度目の正直


あれから、また一年ちょっと経ち、2000年の終わり頃、三度目の試みである。
引っ越すといっても、どこに引っ越すのか? 主人は、やはりコロラドがいいという。 コロラドなら会社を辞めなくても、現地のオフィスに異動という形がとれるし、何よりもこの中堅都市はハイテク産業が急速に伸びている。 (ここ数年、コロラドのハイテク企業は急速に業務縮小、または撤退したが。。。)




シリコンバレーの家の近くにあったスタンフォード大学。 ここに見学にくるだけでも頭がよくなった気がした。



今度はまず、お互いの気持ちを確かめ合った。

私: コロラドには海がない。 ゆえにあなたは、大好きなウインドサーフィンができなくなる。    
   それでいいのか。
主人: ウインドサーフィンはもういっぱいやったので、マウンテンバイクに切り換える。
 
私: シリコンバレーのコンドミニアムを売ってしまうと、もう二度とここへは戻って来られない。 
   それでいいのか。
主人: リタイアしたあと住みたい場所は、カリフォルニアではなく、コロラドのデュランゴだ。

主人: コロラドには日本人ツーリストはあまりこない。 ゆえにキミは仕事はできないかもしれない。 それでいいのか。
私: 子供が生まれて以来、思うように仕事ができないから、どこでも一緒でしょ。

主人: コロラドには日本人が少ない。 ゆえに日本人の友達をみつけるのは難しいかもしれない。それでもいいのか。
私: 大きな家を買ってくれたら、そこから友達に長電話します。

主人: コロラドにはシリコンバレーのように、おいしい寿司屋がないかもしれない。 それでもいいのか。 
私: 日本に帰った時に、一年分、食いだめします。

真面目に話し合っても、この程度なのだ。
主人は運よくコロラドスプリングスでジョブオファーをもらい、さて、今度こそコンドミニアムを売ろう、ということになった。 
 




家を売るときは、まずリアルター探しから。 どの不動産会社の誰に頼むかでも、売り方や結果は違ってくる。



やり手リアルター、Royceとの出会い

2001年のお正月のすぐあと、私たちはリアルターを探し始めた。 この頃、シリコンバレーの不動産マーケットは過熱していた。 街を歩けば、あちこちに For Saleのサインがでていた。
私たちは、この近辺のタウンハウス・コンドミニアム専門の、Royceに連絡をとった。
彼はすぐ、我が家へやってきた。 こういう時のリアルターの応対はすごぶる速い。
Royceは長い間、ハワイでリアルターをやっていた人で、5-6年前にシリコンバレーに移ってきたという。 彼は自分のマーケットを、タウンハウスとコンドミニアムに絞っていた。
不動産売買に関する手数料は、売り手側が売買価格の6パーセントを手数料として、仲介者に支払う。 これを売り手側と買い手側のリアルターで3パーセントずつ分けるのだ。 だから安いコンドミニアムを売るより、何ミリオンもする大きな家にかかわる方が、効率よく稼げる。
しかしRoyceはタウンハウス・コンド専門を自称し、このシリコンバレーで活躍していた。

彼は、私たちに会うとき、すでに分厚いファイルを用意していた。
最初の数ページは自己紹介。 自分が手がけたタウンハウス、コンドミニアムのセールスの記録。 いかに速く、高く売ったか。 過去数年の周辺コンドの売買データ。 これから私たちがやるべき事を明記した日程表。 最後は、自分のクライアントからの手紙の数々。
“ロイスさん、さすがあなたはプロだ。 よくやってくれた、ありがとう。” などと書かれている。
「最後のクライアントからの手紙はちょっとはずかしいけれど、付けといた。」 などと言いながら、徹底して自分を売り込んでくる。




物件を売るときは、まず競合相手を知ること。 すぐ近くにあったこのコンドミニアムは私たちの最大のライバルだった。 こっちのほうがよさそう。



1999年にこのコンドミニアムを売ろうとした時のリアルターは、女性だった。
彼女もまた、「私はこの業界に何年いて、得意エリアはどこで、自分の話し方はとってもソフトだけれど、交渉時は粘り強く、顧客の利益を最優先する」と、はっきりと自分を売り込んできた。
日本のように「できる限りのことをやらせていただきます…」などと不透明な話をする人は、まずいない。

Royceが我が家にやってきた時、私たちはすでに部屋の改装をはじめていた。
キッチンキャビネットを白く塗り替え、カウンターを新品のモダンなものに替え(私はずっと、茶色の木目の古臭いものでガマンしていたのに)、オーブン、電子レンジ、冷蔵庫まで真っ白いものに買い替えた。 洗濯機、乾燥機、食器洗い機も最近買い替えたばかりだから、ここにある電化製品は、ほとんど全部新品である。 これをみんな置いていくのか…。 もったいない。   
これからは、壁を塗り替え、カーペットも新しいのを入れて、完了である。
しかし、私は不満が残る。 私は、このブラウンのカーペットが大嫌いだった。 1994年にこのコンドを買ったときから、ずっとカーペットを替えたかったが、なぜか延ばし延ばしになっていた。 そして、新しいカーペットを入れるときは、売るときである。 キッチンカウンターも台所の電化製品も、私はずっと古いのを使っていたのだ。

壁を塗り替えたり、新しいカーペットを入れたりするのなら、家具やクロゼットのものを片付けなくてはいけない。 それなら、もう引越しの荷物をつくろう、ということになった。
Royceが、「ステージングをしてはどうか?」と、話をもちかけた。
カーペットを入れるときに、ベッドとタンス以外の余計なものをガレージに詰め込んでしまう。 からっぽになったリビングルームには、プロのコーディネーターに頼んで、展示用の家具を入れてもらう。 キッチン、バスルームも飾って、要はモデルルームにしてしまおうというのだ。

私たちは家探しをしていた頃、モデルルームをいっぱい見た。 いちどユニオンシティで素敵なモデルルームを見て感動し、こんな家が欲しかったと、ほとんど買う気になった。 運良く完成間近の同じモデルの家があるというので、中を見せてもらって、愕然とした。
カラーンとしている。 まだ、誰も住んでいないのだから、空っぽで当然なのだが、なにか安っぽく、わびしい感じがする。 あのモデルルームと同一の家だとは思えなかった。
このコンドをプロが飾りつけたら、どんな風になるのだろう…。 興味があった。

コンドを売りに出すための準備が加わり、2001年の1月は慌ただしかった。
よせばいいのに1月1日、お正月そうそう、私はツアーの仕事をした。 これが、私の10年間におよぶ旅行会社での最後の仕事だった。 2日におせち料理を作り、3日に主人の両親、おばあちゃん、お兄さん夫婦を呼んで、新年を祝った。
そして、翌週から、Foothill College でクラスがはじまった。 このドタバタしている時にクラスをとる必要もないのだが、クラスを申し込んだのは、コンドを売ると決める前だったのだ。
朝、息子をPre-schoolにおっことして自分も学校へ行き、授業、宿題を済ませ、子供をピックアップする。 家に帰ればダンボール箱と格闘する、という日が続いた。


<つづく>



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