河岸跡を訪ねるツアー2回目が行われた。
鉄道や陸運が進んでいなかった1655年ごろ、物資の流通は主に「水運」が主であった。
常陸大宮市を流れる「那珂川」は、栃木県の那須地方を水源として現在の那珂湊まで約150kmに及ぶ大河である。
陸運が主流を占めることになった幕末、明治の半ばまで那珂川でも水運が盛んだった。
現在の那珂川の状況から当時の面影を偲ぶことはできないが、わずかな手がかりを求めた。
今日は私の地元「常陸大宮市野口」近辺にあった河岸を訪ねた。
まず「野田河岸」へ

ここは栃木県境の那珂川橋のたもとにあった。
地元では鮎の塩焼きや鮭の販売で有名な「なかのや」の若女将に話を聞くことができた。


ここは「今瀬河岸」とも呼ばれ、洋風の医院を経営していた今瀬家が代々営んでいたという。
長倉河岸に向かう
国道123号線長倉地内の「わいずみ食堂」から農道を川沿いに歩く
あった!
残っていた、「なまこ壁」の河岸だ、補修が行き届いていた。

残念がら当主から話を聞くことはできなかったが、当時をしのばれるものだった。
但し、この場所は那珂川水面から約30mほどの高台にある。

河川敷が低くなったと想像されるものの、河岸としての機能を果たすには困難もあったようだ。
野口河岸跡へ
足を踏み入れるのも厳しい道なき道を進むと那珂川が現れた。

本当にここが河岸だったかと疑問を感じるほどの場所だったが、清流の流れがひときわ見事だった。
軍司河岸へ

ここは約5年ほど前まで「割烹 西村屋」として営業していた老舗があった。
現在もその姿はあるが、戸閉され時代の趨勢を感じた。
ここから遠くに見える朱色の「那珂川大橋」も絶景だ。
小野河岸へ
小場江用水の近くにあった。

現在は那珂川とはほど遠い場所で、本当にここに河岸があったのか不思議だった。

当時の船着き場にあったケヤキの大木が」あった。

この木に船を括り付けたと言われている大木だ。
2回の「河岸跡を訪ねる」で、身近な地元にこんなに歴史を感じる場所を発見した。
歴史への興味深々である。
鉄道や陸運が進んでいなかった1655年ごろ、物資の流通は主に「水運」が主であった。
常陸大宮市を流れる「那珂川」は、栃木県の那須地方を水源として現在の那珂湊まで約150kmに及ぶ大河である。
陸運が主流を占めることになった幕末、明治の半ばまで那珂川でも水運が盛んだった。
現在の那珂川の状況から当時の面影を偲ぶことはできないが、わずかな手がかりを求めた。
今日は私の地元「常陸大宮市野口」近辺にあった河岸を訪ねた。
まず「野田河岸」へ

ここは栃木県境の那珂川橋のたもとにあった。
地元では鮎の塩焼きや鮭の販売で有名な「なかのや」の若女将に話を聞くことができた。


ここは「今瀬河岸」とも呼ばれ、洋風の医院を経営していた今瀬家が代々営んでいたという。
長倉河岸に向かう
国道123号線長倉地内の「わいずみ食堂」から農道を川沿いに歩く
あった!
残っていた、「なまこ壁」の河岸だ、補修が行き届いていた。

残念がら当主から話を聞くことはできなかったが、当時をしのばれるものだった。
但し、この場所は那珂川水面から約30mほどの高台にある。

河川敷が低くなったと想像されるものの、河岸としての機能を果たすには困難もあったようだ。
野口河岸跡へ
足を踏み入れるのも厳しい道なき道を進むと那珂川が現れた。

本当にここが河岸だったかと疑問を感じるほどの場所だったが、清流の流れがひときわ見事だった。
軍司河岸へ

ここは約5年ほど前まで「割烹 西村屋」として営業していた老舗があった。
現在もその姿はあるが、戸閉され時代の趨勢を感じた。
ここから遠くに見える朱色の「那珂川大橋」も絶景だ。
小野河岸へ
小場江用水の近くにあった。

現在は那珂川とはほど遠い場所で、本当にここに河岸があったのか不思議だった。

当時の船着き場にあったケヤキの大木が」あった。

この木に船を括り付けたと言われている大木だ。
2回の「河岸跡を訪ねる」で、身近な地元にこんなに歴史を感じる場所を発見した。
歴史への興味深々である。
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