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重巡洋艦青葉 繋留地跡

2012-05-25 06:07:49 | 遺構 /人間魚雷 回天の島 大津島など

重巡洋艦青葉 繋留地跡

この地に重巡洋艦青葉が防空砲台として繋留されていたが,昭和20(1945) 年 7 月にアメリカ爆撃攻撃で着底。

潜水艦の攻撃で大破した青葉は呉で本格的修理を行う予定であったが、あまりも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず、呉工廠近くに繋留放置されていました。

1945年3月に米軍空母機動部隊よる攻撃が開始されると、青葉も防空砲台として奮戦したが、7月24日に命中弾1至近弾1、28日に命中弾4を受けて艦尾はほぼ切断状態となり、艦内は海水で満水となった結果ついに大破着底しました。

不沈の重巡洋艦「青葉」大破から何度も復活!?生命力にあふれた重巡青葉の最後は…?【梟軍事情報局】

 

そのままの状態で終戦を迎え、1946年11月より播磨造船の手により解体された。現在、海上自衛隊第一術科学校には、青葉の艦首に装着されていた菊花紋章が、大和ミュージアムに青葉の主砲砲身の尾部が展示されています。

青葉は、日本海軍の青葉型重巡洋艦1番艦。三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で建造された。

太平洋戦争開戦以前は日中戦争に出動し、上海上陸作戦の支援などを行っています。

1938年11月~1940年10月まで改装工事を行い、主砲の口径を20.3cmに変更。開戦後は南洋部隊に所属し、トラック諸島方面へ進出、グアム島攻略作戦など中部太平洋の作戦に参加した。1942年2月には海軍従軍作家海野十三が乗艦し、将兵の生活を従軍記にまとめています。海野は青葉将兵の勤務態度に強い感銘を受けると同時に、居住環境の悪さについても言及しています。

1942年5月の珊瑚海海戦、8月7日夜の第一次ソロモン海戦に参加。魚雷発射管への被弾で小火災が発射するが、大事には至らなかった。10月11日、ガダルカナル島砲撃に向った際、迎撃してきた米艦隊との間にサボ島沖海戦が勃発する。「青葉」は米艦隊のレーダー射撃により、二番砲塔・三番砲塔被弾全滅、別の1発が艦橋正面右舷よりから貫通して五藤少将と副長が戦死という損害を受ける。面舵をとって右に回頭したところさらに複数弾が命中、不発弾が多く、修理時に検分した造船士官は仮に全砲弾が炸裂していれば沈んでいたと述べている。大破した「青葉」は、翌年2月まで呉海軍工廠で修理を受けた。

修理後、ソロモン方面へ進出したが、4月3日にメウエパセージ港にて米軍機の爆撃を受け爆弾1、至近弾多数を受けて魚雷が誘爆し大破、近くの浅瀬に擱座してかろうじて沈没を免れた。現地での排水作業に1カ月を掛けて浮揚し、それから「川内」に曳航されてトラックへ帰着した。ここで機関2軸を整備し自力で8月1日に呉へ帰港、11月24日まで再び修理に従事しました。

修理完了後は第一南遣艦隊に所属しシンガポールへ進出、同方面で輸送任務に従事した。レイテ沖海戦では当初、日本軍第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属していたが、第二遊撃部隊に編成替えとなり、第十六戦隊旗艦として後方での兵員輸送を命じられました。1944年10月23日 ルソン島西方で米潜水艦ブリーム (USS Bream, SS-243) の雷撃を受け大破。右舷前部機械室への魚雷命中により右に13度傾斜した。「青葉」はこの状態で軽巡洋艦鬼怒に曳航され、マニラ湾に入港。その翌日にも米軍の空母艦載機による攻撃を受けました。同地での応急修理により5ノットの航行が可能となり、11月6日にサンタクルーズを出港、12月12日にかろうじて呉軍港に帰投しました。


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