20世紀を代表する現代アーティストのマルセル・デュシャンの死後公開された作品に、「遺作」と名づけられたものがあります。
正式名称は「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」。フィラデルフィア美術館に設置された環境展示(インスタレーション)で、壁際にある古ぼけた木の扉に空いた小さな二つの穴を覗くという仕掛け。何が見えるかといえば、…少々いかがわしいものです。検索には要注意。
私たちは普段、本音というものを隠し、社会生活を営む上での建前を生きています。
しかし、世の中のためという美名目によって、時には特定の誰かを傷つけるような効果を知りながらも、正義を振りかざすことさえあります。普段は言わぬが花で閉じ込めておいたのに、ふとした拍子に暴力的に怒りの扉を開いてぶちまけてしまうことがある。
先日、自民党の女性議員が月刊論壇誌にLGBTは生産性がないので税金を使ってはならない云々の寄稿をしたことで、ネット上で紛糾を呼んだようです。デモやパレードが勃発し、識者が持論を展開。野党はLGBT差別解消法を立法すると言い出し、総裁選を控えた対立候補までもが問題視するまでに。自民党はとうとう公式ホームページで謝罪を掲載したようです。
LGBTに生産性がないとするのは、たしかに誤解でしょう。
性的少数者でしっかりと働いて納税している人もいますし、養子をひきとる、もしくは代理母出産などで子を養育する同性カップルもいます。税金を使うなという言いまわしがきつすぎてレイシストだと非難を浴びてしまったのも、むべなるかな。ただ、この女性議員の見解はすべてが否定されるものではない、というのが私見です。少子化を憂えるあまりに口が滑ったのでしょう。労働生産人口はたしかに減っていますし、いまや外国人労働者に頼らざるを得ないわけですし。
くだんの寄稿は『新潮45』の8月号。
読んでみたところ、ネット上でのヒステリックな見解とはやや異なる印象があります。そもそも、この号は朝日新聞の衰退を論じたもので、この女性議員は朝日がやたらとLGBT記事を量産していることを懸念している。子どもの授かりにくい夫婦に不妊治療の助成金を出すことや、T(トランスジェンダー)の性転換手術のために保険適用することは推奨しています。いわゆるLやGの(一部の)人が男にも女にもならない、あいまいな性自認のまま、結婚という他人と共生する道を避けている現状に異議申し立てしているわけですね。同性婚を認めたら、機械やペットとも結婚を認めろと言い出す輩がいるからは極論だけれど、いい年の大人がアニメ・ゲームのキャラと結婚したいとか、アイドルやら声優やらと付き合いたいとか本気で言い出されると、やはり周囲に心配されてしまうのではないでしょうか。そもそも、アニメやゲームのキャラは自然人じゃないので法的な契約関係になれないし、入籍できないわけで、どうやって結婚するっていうの(笑)。なぜ、こういう主張が出始めるかというと、結婚していないと一人前でないという世の呪縛があるからなのでしょう。
人間って、好きなモノばかりに囲まれて生き抜いていけるほど強くもない。
実際、経済力がないから、子どもが欲しいから、老後が淋しいから、等の理由でちゃっかり異性婚をするひともいますから。もちろん、末永く、仲睦まじい同性カップルがいてもいいわけです。
性の多様性はあってもいいけれど、性的少数者の声高な利権拡大ではなく、男も女もみんな違ってみんないい的な、パートナーシップ学というものが学校教育や職場でなされるべきではないでしょうか。
ネット上にある異性叩きの風潮にはうんざりしてしまいますし。女性学(フェミニズム)がしばしば、女性のみの幸福ばかり追求して家族関係を崩壊させると揶揄されるのも、結果として同質的な関係で構築された世界は脆いからなのです。渋谷区のパートナーシップ証明書発行第一号になったのに、数年で別れた女性カップルもいましたしね。生身の他人と人生を共にすることは、悲しいことにボーイズラブや百合のめくるめく美しい愛の世界のようなご都合のいい展開にはならないわけです、残念ながら。
論調の一部ばかりが誇張されて輻輳され、それに多くの好奇心が飛びついて、大きくなってしまうことはよくあります。
私もブログ記事で、偏見ありきで書いたことがありますし。自分に不愉快なことがあった場合、その現場を撮影してネット上で上映して同情を募ることは可能だけれども、諸刃の剣でもありますよね。逆に被害者の自分が攻撃される恐れもないわけではない。不機嫌な他人の気分に染められて、自分の日常まで憎悪まみれにする必要もないように思われますが。
マルセル・デュシャンの「遺作」が見せた世界を、ある人は不謹慎だと目を背けたくなり、またある人は生命の神秘の源泉だと感ずるのかもしれません。同じものを眺めていても、世界の認識は異なるわけですが、偏見というものはやはり料簡の狭さからはじまってしまう。憎悪は小さな穴から覗いた世界から生まれるもので、視野を広げてみれば、他者を許して受け入られる(少なくとも直接攻撃せずとも、ドア一枚置くぐらいの)余地はあるのかもしれませんね…。快適な社会を築くために、自分ができることは何なのか考えるのは大事なのかもしれません。