
私は凝り性ですが、飽き性でもあります。
ある日、三島由紀夫、川端康成、遠藤周作などなどの小説にハマって新潮文庫などの小説を集めたくなり、集めたはいいが読みきれずに本棚の肥やし、なんてことも日常茶飯事。デカルト、ハイデッガー、ニーチェ。勢い込んで買ったのに背表紙をなでるだけで読みきれなかった哲学書も数知れず。読みくだくことできず、売り払ってしまったものもあります。
なので、けっこう新しいものにハマるのに不安があります。
情熱が冷めたらぜったい後悔する。気が狂ったように想いかたむけても、いつかふと賢者ぶって悪らつに非難してしまうときもくる。それでも隕石が落ちたように、まいってしまう作品はままあるもので。
現在、私がモーレツにハマっているのは、NHKで放送中の人気アニメ「チ。―地球の運動について―」。
原作漫画は魚豊(うおと)、講談社のビッグコミックスピリッツ掲載だった青年漫画。2024年10月から翌年3月まで放映、全25話。
原作コミックは全8巻、さらにおまけで第Q集と題打って、各界の著名人からの熱烈な寄稿文があるアンソロジーめいた本まである。このマンガがすごいで2位、さらには手塚治虫漫画賞を受賞するなど、とにかく話題に事欠かない作品。
でも、まあ、そんな肩書は、ひねくれものの私にとってはどうでもいいもの。
大衆が喜ぶものは、過剰に情報操作され、美的な化粧を塗りたくられ、商業的なキャンペーン戦略で乗せられて、時期がすぎればたちまち冷めてしまいがちなもの。
そう思って、最初はぼんやり観ていたアニメ。
第3話で秀才肌の主人公が直面したすえの選択が唖然とする。しかし、驚くのはこれから。さらに時をかさね、朴訥で腕っぷしのいいが希死念慮がすさまじい好青年、連帯感のからきしない鬼才の修道僧、知的好奇心の高い少女、生涯をかけた研究の大成をまえに無念を吐露する老人などなど、魅力的な人物が登場する。悪役でさえも魅力的で、歴史の影に粛清された殉教者も、名も無いホームレスでさえもその存在が光り輝く瞬間がある。
第3章ではやや趣を変えて、ひじょうに現代的な功利主義者の異民族少女が、あろうことか、前章まで必死につながれてきた想いを私欲のために占有せんとする。美貌を損なったがゆえに滋味を増した女性レジスタンスの言葉は霊妙で、力強い。権威におもねって暴虐をつくした審判者きどりの男は、老いさらばえて失った家族の信念に気づいて、死の間際に懺悔をし、おのれが火にくべた犠牲者さながら煉獄のさなかへ。読者はカタルシスを得る――と思いきや、さらに最終章では驚天動地のしかけが明らかに。
知性は人生を開く鍵なのか? 陽のさす場所へと導く光なのか? それとも、身に余るそれは暴力ともなりうるのか? ロダンポーズをとりながら、延々とぐるぐると考え、迷い続けてしまう。実におそろしい作品だ。
とにかく、いろいろなことを瞬時に考えて、妄想があふれだして止まらないわけだ。まさにこれは一つの創造が創造を生んでいく、クリエイティヴィティの所産というべき大傑作としか言いようがありません。
この脳からびっくり箱のように次々と考えが飛び出して、収拾がつかなくなる事態を、私は過去に何度も経験しているわけですが。
たとえば大切な人が亡くなったときも、職を得たり失ったりしたときも。他者に何ごとかを話しかけられながら、うわごとのように自分の妄念にとりまかれて、目を見開いているのに霧のさなかをさまよっている感覚に陥ります。動けなくなるのです。
20代半ば、大学院生の時。
ひとり夜の研究室で研究資料を紐解きながら、ある瞬間、ふとひらめきがあって、論文にできそうな思いつきが、遺伝子解析のデータのように超高速でアウトプットされていくような、そんな心地のよさがあります。いま、10代のほとんどが大学進学をし、教養を身につけるのがあたりまえとされる今、この学んだ気持ちよさを手に入れるのは若さゆえの特権だったのです。
この物語の世界でも、活版印刷で個人の日記を刷り下ろしていく作業がていねいに描かれるのですが、自分の中に棲みついた考えを体系だった文字の羅列におこして、さらにそれが個人の癖の強くない文字におきかえられていくのを見るのは、人間にとってはものすごく快感だったし、偉大な瞬間に思えたでしょう。なぜならば、知性は感染し、増殖し、浸食し、普遍化をのぞんでいくものだから。個人の物思いの種はてんでばらばらに蒔かれ、世界のあちらこちらかで芽吹いてしまいます。もはや、その種を生みなした神が誰なのかすら、問題視されえないほどに。
感覚的な、動物的な欲求が満たされると、私たち人類が望むのは知性による進化であり、理性による人生の統治であります。
思考の自由、流されない感情、たちどまる勇気、ふりしぼりたい叫びと踏み込みたいあと一歩――それは虚構の世界でしばしば尊ばれ、教育界で学術分野で醸成をうながされながら、ときに残酷にも現実の社会では、横並びと規律、効率性を重んじる組織では、コスパの悪い、無益で無体で無能な個人のわがままととらえられ、消しつぶされてしまうものです。
理不尽な権力者の弁に対してノーといえなかった、あるいはむりやりにイエスとこぼしてしまった、あのときの頬の冷たさと唇の堅さを思い起こして、読者はこの作品に、キャラに、テーマに身びいきをするのです。はたして、オタクめいた極限の愛とはこういったものではないでしょうか。
現在も電撃的にハマってしまい、考察があふれてあふれて止まりません。
これは恋ではなくて、魚が呼吸を欲して水面を乱れ飛ぶような、ただの脳のバグなので、惜しみなく出し切ってしまうまで待つしかないのです。
ああ、またつまらないものを長々と書いてしまったな…。
(2025.03.06)