Here is

ここに居るよ!

■雑記

2019-01-30 14:32:19 | 愚痴
ブログ更新が不定期なので、気が付くと一週間、一ヶ月は過ぎていることはしょっちゅうである。
それだけ誰かが更新を待っている..との期待や焦りがが無いので、実に自由に気まぐれに記事を書くというブログになっている。
しかし無反応というか、誰ともコメント交流の無いブログというのはつまらない。

その一方で、コメント交流が煩わしかった時も経験している。

今は、物足りないけれどそれなりにストレス発散は出来ているのでそれでいいと思っている。


元々の性格なのか、歳をとったせいなのか、人との交流が苦手だ。
特に、プライベートを聞かれることが嫌いなのだ。
女性同士は少し仲良くなると、家庭や家族のことを聞きたがる。
話したくないことまでズケズケと入り込む人もいるので、そういう人とは境界線を張って入る隙間を作らないようにする...て言うより、付き合わない。
女友達は信用できないので無駄に友達は作らない。
誰にも言わない..はウソで、ダンナや他の友人にバラしている人、いっぱいいる。
それに男は寡黙だと思っているかも知れないが、実はこれもウソで、我が家に来る夫の知り合いなどは奥さんのアレコレを聞きもしないのにバラして帰る。特に飲兵衛には気を付けよう。(笑)

そして何より、自分の夫も信用しないに越したことは無い。

人様に聞かれて困る相談や内緒ごとは、夫にこそしゃべってはいけない。
男って思っているより口が軽いのだ。


いま、年配の夫婦に「家庭内離婚」とか「卒婚状態」が多いのは、男の本質に気付いた妻からの拒否反応だと思っている。
異性が必要な時期をとっくに過ぎた夫婦に残されるのは、身の回りの世話や介護だけで、それも妻が依存される方に回るのが多いことも分かって来た。
最近の若い夫婦、特に父親の協力、分担は昔の男には無かったものだった。
中には積極的に家事育児を助けた夫もいたが、少数だった。
親との同居が多かった昔は、姑が「男がする仕事じゃない」と息子に手伝わせなかったり、孫の世話を喜んで引き受けたりするので、若い父親の家事出番が無かったのだ。

今の若いパパたちは、ゴミ出し、洗濯物干し、料理、掃除、オムツ交換、何でもする、させられる?

核家族で祖父母もいない。
まして義理母(姑)になんぞ助けて欲しくない。
同居なんて絶対イヤ..
育児、家事のストレスは夫に全て吐き出される。

夫は職場で上司からイジメられ、同僚からはからかわれ、家に帰っては家事や育児をバトンタッチされて休む暇も無しだ。


今日は書きたい放題...
娘のいない私は、男の味方だ。(笑)




■過去の人

2019-01-18 16:10:56 | 愚痴
久しぶりに昔の知り合いとバッタリ会うことがある。
買い物中に声を掛けられてビックリ..というのが一番多く、基本、私は他の客の顔など眼中に無く目的のモノを探し回るので、向こうから声を掛けられることになる。
声を掛けられたはいいが、正直、「誰?この人」と思い出せないこともある。

女性は特に、私を含めて年齢で変る。

会ったのが数年も前だったりすると顔はおろか名前も出て来ない。
あまり印象に無い人は特にそうだ。
...で、失礼ながら「誰かしら?」なんて言葉が出る。
すると向こうは自分が間違ったのか?と一瞬ひるむ。

そして恐る恐る「○○さん?」と私の名前を言うのだ。

時間にして数分? いや数秒かもしれない。
やっとおぼろげに思い出して名前が出て来る有様だ。
名前が出るだけまだマシだ。名前すら出ないこともある。
何も用が無いのに電話するような知り合いではない。
久々に会ったからといって話題も無い。
そう、私にとっては「過去の人」だ。


そんな知り合いが増えた。

そういう関係は、もう知り合いとは言えないのかも知れない。


ケイタイ番号を知っている間柄でも、お互いに電話をし合うことがなくなった人も多い。
歳をとれば最小限の付き合いで間に合うのだ。

近況を語り合ったとしてただそれだけのこと。

過去の人は生きている限り増えてゆく。



■雑感

2019-01-18 14:53:25 | 愚痴
昨日も今日も似たような流れで時が過ぎて行く。
相変わらず姑は同じことを朝から何度となく聞いてきて、それに対して、私は感情移入せずに機械的に答えている。
言われたことを本気で捉えると、時間の経過で覆されたり、否定されたり、私が振り回されイラつくので自分に係るストレスを極力減らそうと取り敢えずは否定せずにいるよう心掛けている。
それにしたって当然、限界は来るので、そういう時は出来る範囲で「ひとり」になる時間を作る。

気持を別なところに持って行かないとこっちが参るのだ。
たぶん、こうしてブログで愚痴ってるってことは既に平常心も崩れ始めているのだと思う。
いまのところ、夫や嫁が私の愚痴を聞いてくれるし、夫は実母である姑の言動に落胆し私以上に神経は参っているようだ。
他人である私は、まだどこかで冷ややかな気持ちがあり、冷静に見ることが出来ているが、血縁である夫には見たくも無い哀しい現実を突き付けられているのだ。


年末まで散歩で人と会うことを楽しみにしていたのが、年明け後は散歩にも行かなくなってしまった。
確実に認知症は進んで来たようだ。
90歳近い老人が、この真冬に散歩することが果たして脳や体に良いのか、私にははなはだ疑問なのだが..。
この私でさえ外の様子を見れば歩こうとは思わないのに、体の為と周りが言うから元々行動的な姑は歩こうと思うのかも知れない。
傍目には、この寒空の下、一人でトボトボ歩く様子は何だか哀れに見えなくもない。
歩くのはもっと先、春になってからでも良いのでは?


寒い中、体を寒風に晒して歩くより、温かい部屋で雑談して笑う方が脳にも体にも良いと私は思うのだが...。
体操なら家の中でも充分出来るし、若い人じゃないのだから冬季は適度に足腰を曲げ伸ばすだけで充分だと思う。
なんでもかんでも外を歩くなんて、温かい地方ならともかく、北国では無謀ではないのか?

姑は退屈しているから家に誰か客が来ると喜ぶ。
それが自分の客ではなくても一緒に雑談の輪に入ることを喜んでいる。
ところが、客は姑の投げ掛ける言葉を無視出来ずに気を遣う。
何度も同じことを聞いたりするので返答に困った顔になる。
それが分かっているので、別室に通すこともある。

客を歓迎しているというパフォーマンスをしてお茶を何度もすすめたり、場に合わない話題を振って空気を変えてしまうこともある。
私や夫から見ると、「自分は認知症などではなく、至って普通です」と言わんばかりのパフォーマンスなのだ。
自分が此処に居て良い客なのか、そうではないのか..を読むことが出来ないのに、客が誰であろうと自分が中心になって応対しようとする、ずっと昔の習慣のままの思考は続いているようだ。






■ケアマネは介護者をもケアしてくれる

2019-01-16 15:19:27 | 愚痴
ケアマネの訪問面談があった。
余所の人に顔色が良いのは姑の昔から持ち合わせた長所と言うべきか。
しっかりと目を合わせ問いに答える姑は、何処にも認知症を思わせない雰囲気がある。
一つ一つ、丁寧に、柔軟に聞いて行くケアマネさん。
さすがにプロだと感心する。

その横で私は黙って、時折、頷きながら聞いている。
質問に対して「?」という時にはケアマネさんが私に視線を投げ掛け、「どうですか? 違っていますか?」と質問する。
当人を目の前にして、私は否定的な言葉も正直に言う。
姑は、それが自分にとってマイナス(認知症が進んでいると思われている)だと感じると、急に顔色を変えて「そんなこと無いよ~」と反応し否定する。
そこのところをケアマネさんは敏感に読み取り空気を読むと、姑の認知症状の分かりにくさ、つまり、まだ「まだら呆け」の状態であることを認識する。

私や夫は、日々、同じ家の中で生活しているのだから、変化には真っ先に気付くのが当然だ。

たまに会う人には、まだまだしっかりした、単に物忘れが酷くなった御婆さん程度にしか見えていない。
そのギャップに苦しめられるのが同居家族なのだ。
昔、よく聞いた近所のお嫁さんの愚痴を思い出すと、まるで、そのお嫁さんの被害妄想のように聞こえたものだが、いざ、自分が認知症になった姑と接してみると、毎日がストレスの積み重ねで、何処にもそれを吐き出せないのが現実だ。
それを解消するには他に目を向けることだとよく言われるが、それは違うと私は思っている。

私が訴えたいのは、ささやかで小さな姑の愚痴であって、どこにも行けない愚痴では無いからだ。
買い物や趣味など外に解消を求めたところで、現実は姑の住む家に戻るしかないわけで、いま現在、私が苦痛に感じていることを取り払うことは出来ない。
それを少しでも和らげるのは、愚痴をこぼす人、聞いてくれる人がいるか居ないか..である。

夫であれ、息子や娘であれ、友達であれ、愚痴を思いっ切り言える人が欲しいのが本音なのだ。


体が丈夫で手が掛からないから楽だ..と思われているが、本人も体が丈夫な分、頭の変化を受け入れがたく、まだまだ「まだら」な状態が長く続くと思われる。

認知症は、本当に辛い病気だと思う。

100歳になっても認知症にならない人も居る。

同じ年齢でも年下でも、なる人はなるのが認知症なのだ。


予防に良いと言われて、あれこれ実践したとしても、なる人はなるのが認知症であり、閉じこもり生活を何十年もしていてもならない人はならない..それが認知症という頭の病気なのだ。

はっきり言えることは、加齢による物忘れと認知症は全く違うということだ。

そこを理解しないと、周りは家族の認知症にも気付かないということである。


■同居のツケ

2019-01-09 08:21:49 | 愚痴
夕飯時に「明日はデイサービスよ」と一応言っておく。
それでも忘れているので7時半を過ぎたら起こしに行く。
8時頃に一人朝食、9時頃にお迎えの車が来る。

その間、身支度を整え終わると外に出て待ってると言うので「外は寒いし、迎えの車が来ればピンポン鳴らすから出て待ってなくてもいいよ」と言うが、それでも気になって仕方がないようだ。
30分以上も前から外で待つなんて...高齢者にさせることではない。
何度も家の中に入って待つように言ってやっと家に入る。
この繰り返し、私だって冷え冷えになる。
なんでもないことの些細な行動にイライラさせられる。
これが認知症の介護だ。

姑の乗る施設の車が行ったあと、リビングに掃除機をかけ誰に遠慮するなくバタバタと掃除を始めることが出来る。
家に居ても寝ていることが多い姑の手前、生活音には気を遣う毎日だが、デイの日だけはそれが出来る。
小さなことだがこれが大きなストレスに感じる。

家事をストレスなく片付けられるのは主婦にとって大事なことだ。
家事が一通り終わるころにはお昼近い。
ひとりの昼食は思いっきり手抜をして食後は横になる。堂々と。(笑)



そんなデイの日の翌日は、9時少し前に朝食が終わった姑は30分もしないうちにリビングのソファーに横になっている。
起きたばかりなのにもう寝るつもりだ。
こうしてリビングを我が物顔で占領する姑を見ているとうんざりする。
自分の部屋があるのに、TVだってあるのに...
リビングで見もしないTVを点けたまま横になって目を瞑る姑の頭の中はどうなってるのだろう。
自分では思っていないだろうが、嫁いびりは今も健在だ..と思う。
私には寛げる部屋が無いも同じだ。



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同居なんて所詮、親世代のためにあるのだ。
間違っても子世代が楽をすることなんて何もないのだから、一時の気の迷いで同居を決めてしまうのは止めた方が良い。

今の時代は、子供を預ける機関があるのだし、専門家に委ねる安心もある。
ジジババの古い育児法に頼ることなど無いのだ。
子を持つ母親が、専業主婦であっても自身のために外に出る機会を持つことは必要だ。

ただし、勘違いしてはいけない。
子供を何処に預けても責任は親にあるということを忘れないことである。
何か起きると、特に母親は冷ややかな目で世間から見られてしまうことを覚悟しておくべきだ。
そんな目に負けずに強く生きるためにも自分を甘やかし過ぎるのは良くない。