1457年に沖永良部島から伊良部島へ渡った大世之主。池間島を経由してのことだったようですが、単に経由しただけなのか理由があったのか、そこは詳しく分かりません。
池間島をはじめ琉球の島々は漁業が盛んであったと思いがちですが、実は意外にもそうではなかったようです。盛んであったのは本島の糸満地区で、それ以外の地域では農閑期や農作業の合間にリーフなどで自給的な漁業をしていた程度だったそうです。それは、琉球王国時代に首里王府が一貫して進めた農業振興政策にあったようで、明治35(1902)年以前は池間島は農業の“シマ”であったといいます。
琉球王府の取り組んだという農業振興政策そのものについての詳しいことは分かりませんが、大世之主は農業指導を行ったということですので、もしかしたらその政策のために池間島や伊良部島にやってきたのかもしれません。
それから、池間島や伊良部島、宮古島などは早くから交易が盛んだったようです。高い航海術を持っていた人たちがいて積極的に交易をしていたようで、沖永良部島も「おろそうし」などから世之主時代に積極的に交易をしていたことが伺えますので、交易関係で何か繋がりがあったのかもしれません。そうであったとすれば、何か興味深い展開がありそうですが、今のところはあくまでも推測にすぎません。
沖永良部島から渡海した大世之主、大変に興味深いので、ここまでの見解は首里王府が沖永良部島の大世之主を王府の命で伊良部島に派遣したと仮定して時代の情報とあわせて考えられることを書いてみました。
大世之主について現在知り得る情報としては、大世之主は池間島経由で伊良部島に渡り、島で農業指導を行ったという伝承のみです。もしかしたら、単なる沖永良部島からの漂着民かもしれませんし、そこは分かりません。しかし漂着民だったとしたら、大世之主を名乗るのか?本人が名乗ったわけでなく、島で農業指導などをして島民に慕わリーダーとなって島を統治したので、いつのまにかそう呼ばれていたのか?
この大世之主のことは現在調査中のこともありますので、もう少し詳しい情報があれば追記したいと思います。