見出し画像

先祖を探して

Vol.238 古地図から見る歴史 (1)大正14年作成の地図

沖永良部島の和泊町内城にある世之主神社(古城地跡)付近は、昭和の始め頃までは大変に山深く、この神社までの道は人が一人通るのがやっとぐらいの細い道だったといいます。道は木々に覆われ、上を見上げると空しか見えなかったといいます。今では道路が綺麗に整備され、小高い山も取り崩され景観が様変わりしているといいます。そのせいで山深い場所といったような印象はあまり感じられませんが、付近には昔の旧道がわずかに残されていると聞きます。
世之主が城に居城していた1400年頃の景観はどのような感じであったのか?
もちろん地図もなく、写真などもありませんので想像するしかないのですが、今の景観に変わってしまう前の大正14年に作成された地図を見ることができました。軍事用として測量され作成された当時は機密文書となっている地図ですが、現在は公開されていおります。
細かく道路などが書かれた地図としては、私が知っている地図の中では一番古く、世之主が居城していた1400年頃の時代に少しだけ近いイメージを持つことができると思います。

この大正14年の地図と現在の地図や航空写真などを見ながら、神社周辺の様子を紹介していきたいと思います。

まずはその大正14年の地図です。

地図にはこれから紹介していきたい場所のポイントを1~8の番号で書きこんでいます。
赤い線は、当時の道幅1メートル未満の小道です。山間部をくねくねと小道が多くあったことが分かります。世之主神社(城跡)まで登る道は、確かに小道しかありませんし、一直線に伸びた道もありません。
高台になるため眺めが良く、敵が簡単に攻め入ることができない城としては最適な場所への築城だったのでしょう。世之主にこの場所への築城を提案したという大城村の川内の百という者は、素晴らしい提案をしたわけですね。
しかしこんな場所への築城は相当に大変だったと思われます。当時はたくさんの石による城壁もあったわけですからね。築城を命じられた後蘭孫八はさすが築城の名手。島民総出で築城を指揮したのかもしれませんね。

大正14年頃には、付近には「乾田」の記号がたくさん書かれているので、山の斜面にたくさんの水田があったと思われます。

下は国土地理院による現代の航空写真です。大正14年の地図よりたくさんの整備された道が出来ているのと、小高いところが少なくなっているのが分かると思います。



下に大正14年の地図に現在の道路を重ねてみました。
黒いペン書きの線が現在の道路です。少しゴチャゴチャとなってしまいましたが、97年前の道路との違いが見えます。
赤い小道は、地形の変化によって畑となってしまったり、林に埋もれてしまったり、現在の道に作り替えられたりと色々でしょう。




今回はざっくりと大正14年時と現在の違いを地図で見ていきましたが、次回は1ケ所ずつ紹介していきます。



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「地図から見る歴史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事