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先祖を探して

Vol.108 江戸時代に開校していた私塾


当家のご先祖様が生きた江戸時代の沖永良部島は、小さな島でありながら教育熱心な一面を持っていたようです。
和泊町誌歴史編によると、明治8年以前の教育は二派に分かれていたようで、1つは島の文人や医師による教育、1つは遠島人による教育で、この2派は教育の方針や目的が全く異なっていたそうです。
文字の書き方・綴り方及び珠算の習得に関しては本科目として2派とも重きをおかれていました。
この教育文化の中で、当家のご先祖様たちもしっかりご活躍されていました。


2派の指導内容

1.島の文人や医師による教育
和文体の文字を指導し早成を要する。
イロハの読み方と書き方から学習に入り、イロハ歌を使って和文を学習。


2.遠島人による教育
漢文を最初から教授し晩成を期待する。
イロハではなく五十音の読み方と書き方を学習し、20数冊の教科書を段階的に学び、古文の読書から徐々に解釈の仕方まで理解していく。

漢字の習得については、昭和期の「竹 夏再志」という方の始祖となる「竹 夏鼎用」という学者として名高い人が指導にあたっていたそうです。寛永年間(1789年頃)に最初に塾を開いたのが、この夏鼎用でした。鹿児島に留学して漢字を修め、唐通事(通訳)としても活躍した秀才だったようで、彼は与人を務めながら塾を開き、教え子に幕末期の日本を代表する知識人である「操坦晋」がいます。
「竹 夏鼎用」の息子「竹 夏鼎幹」も学者として名高く、薩摩藩の唐通事に任命されていました。この親子は二代に渡り塾を開いていました。 


私塾

世之主時代の城下町であった内城と薩摩藩侵攻以降の政治の中心地となった和泊で主に私塾が始められるようになり、当時の島での知識人たちが熱く指導にあたっていました。

内城
宗 平安統:御薬園掛与人と間切横目。漢方医でもあった。
       Vol.67の記事で紹介したご先祖様です。

・宗 平安隆
・本城 宗悦
・豊山 真粋敏
・甲 文郁

★内城の私塾は全て当家の親族が開講していました。

和泊
・操 坦晋: 医師であり与人も務めていた。坦栽は息子、坦勁は孫にあたる。
・沖島 曽勲:唐通事(通訳)を務めながら、塾を開く。
・栄 寿鳳:医師。江戸時代の沖永良部島の屈指の教育者。門人は百数十人を超えた。
★操坦勁は西郷どんから教えを受けるとともに寿鳳に学んだ。

・撰 玄碩
・安藤 佳竹
・鎌田 宗円

手々知名
・沖 蘇廷良(沖 利有):西郷どんが流刑時の和泊方の与人。
・町 右左則
・龍 真玉橋
・玉江 福村
・矢野 忠正

余田
・今栄 民直:和村の流人「紀 平右衛門」に学び、後に私塾を開く。
・安田 蘇泉


沖永良部の私塾は、先生である彼ら自身は医師や役人をしながら生計を立てており、ほとんどの塾が無償で開かれていたそうです。島民のために奉仕で教育を施す姿勢は素晴らしいですね。
明治以降は教育の島として注目を浴び多くの著名人を輩出し現在に至っていますが、江戸時代よりすでにその土壌は築かれていたようです。
これだけ教育熱の高かった風土は琉球に近い島の位置も関係していたようで、沖永良部島は当時琉球文化圏に入っており、琉球への留学が可能だったことは大きいようです。また奄美や徳之島、喜界島より、薩摩藩の統制が軽かったこと、学識のある流人が居たことなどが考えられます。
因みに、江戸時代後期の沖永良部島の塾の人口1万人に対する比率は、23.1校で長崎の2.5校、大分の9.1校、鹿児島本土の0.24校と比べても抜きんでいたことがわかります。というか、沖永良部の人口は当時も1万人ほどですので、島の規模や総人口から見ても塾の数は大変多いですよね。

教育熱の高かった沖永良部島で、当家のご先祖様たちもその中で私塾を開講しご活躍されていたことは、大変嬉く誇らしいですね。


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