Vol.236・237の記事で書いた沖永良部島から宮古島の側にある伊良部島に渡ったと伝承のある大世之主ですが、その後の調査でこの大世之主と呼ばれた人は王府の命で渡海したわけではなく、沖永良部島から漂流した人だと伝えられていることが分かりました。
それは伊良部島史に書かれていました。
島の西端のできた村は、最初白鳥崎付近に漂着した者たちが(沖永良部島の漂民と伝えている)、岬付近の大竹敷でしばしの仮屋を作って居住したが、生活のわずらわしさや水の不便さをかこって次第に南下し、波穏やかな南西岸にたどりつき、今の嵩平お嶽の元島の地に島立てをしたものであると思われる。宮古島雍正旧記によると、嵩平御嶽の神は男神で大世之主とよみやといわれている。その由来については、昔嵩平山に大世之主神顕われて、沖永良部島の神がこの島へ渡って、氏神となられたとの言い伝えがあって、御嶽を立てて祭っている。またこのお嶽の隣に人々は移って住むようになり、黒浜村の人々と合流して、1686年佐和田村(佐和田はサータ(佐田)と同じく毛作の豊かにできるという意である)を村立てしたのである。
この話では、沖永良部からの漂着民がこの島で生活して、村立てをしたこと、そして沖永良部の神様が島に渡ってきて氏神様となったことが書かれています。
また他にも以下のような話が書かれています。
牧山付近の久貝村は、俗に長山村(ツミアギムラ)ともいわれたらしく、宮古島旧記記によると、野崎の久貝村と長山村は1つの村で(相附)、野崎の人々が出漁によって長山浜の一角に仮屋をたてて住居したのがそのおこりであるらしい。そこへ大和からの渡来人(かねどの)(沖永良部の人とも言われている)によって、台地の耕作が始まった。彼は鍛冶の技術を伝え、自らを持ち渡ってきた鉄塊で鉄製の農具をつくり、それを普及させて農業の上に一大進歩を促した。
この島に鉄をもたらした「金殿」は沖永良部の人であった可能性があり、久貝村の地で鍛冶をやっていたらしいが、その後は長山御嶽の神として祭られるようになったそうです。
沖永良部から渡ってきた神がいたり、鉄をもたらした人が神として祭られたりと、沖永良部の人がこの島に大きな影響を与えていたようです。
沖永良部島と伊良部島は、沖永良部島と与論島のように近距離な位置ではありません。沖縄本島を超えて南下した伊良部島に、このように沖永良部島との伝承があるのが不思議ですね。沖永良部近海で船が遭難すると、潮の流れで宮古島あたりに辿り着くのか?
それとも、以前に書いたおもろそうしで謡われている沖永良部島の世之主の権力がこの島まで届いており、何らかの接点があったということか?
交易の関係で何か繋がりがあったのか?
謎が残る伊良部島との関係です。
伊良部の大世之主は当家のご先祖様とは関わりはないようで少し残念な結果でしたが、沖永良部島と伊良部島は昔に何か関わりがあったことが分かりました。
当家のご先祖様に繋がりそうな情報は、あれこれと考察して記事に書いておりますが、可能なものについてはその後の調査も並行して進めております。詳しいことがわからず保留のままの情報、こうして更に調べた結果可能性がなくなった情報、新たに追加でわかった情報など様々です。
いつかはご先祖様に繋がる有力な情報に辿り着けるのではないかと希望を持ちながら、楽しみながら調査は継続していきます。