連載しております宗家一族の繋がりをご覧になった関係者の方から、新たな情報を頂いたりしております。宗家の歴史を探る上でも貴重な情報を頂いており、大変有難いです。シェアできる情報は、また別記事でまとめて書いていくようにします。
41.橋口(出城)豊山家からの別れの家
琉球式のお墓であるチュラドゥール中央から東側は豊山家一族の墓石が建っていますが、その中に橋口家もあります。
以前に橋口家の奥様にお話を伺ったことがありますが、明治の頃に出城(小字名)を出て現在のお住まいに移住されたときに、橋の入り口に住んだので名字を橋口としたということでした。
宗家と直接的な繋がりは見つけることはできませんでしたが、橋口家のご先祖様であり始祖である豊嶺の妻は宗家の娘でしたから、昔から婚姻関係では繋がっている家になります。
①豊光→②梅→③忠博→現代に続く
お爺さまの記録にはこれだけしか情報がありませんが、現代まで続いている家です。
42.栄(池里前)お爺さまの妻であるタケの実家
35番の桂民二の娘であったケサが栄家に嫁いでいます。お爺様の書にはそれ以前のご先祖様の記録が無いのですが、栄家には江戸時代に活躍されたご先祖様がいます。栄寿鳳という人物で、沖縄に渡り中国人学者から医学を学び,帰島してからは医師を開業していたそうです。江戸時代の沖永良部島の屈指の教育者でもあり、私塾には門下生が百数十人を超えていたようです。
九州大学の名誉教授でもあった島出身の医学者であった操坦勁は、島に流刑でやってきた西郷どんから教えを受けるとともに栄寿鳳にも学んだそうで、寿鳳のお墓には操坦勁と門下生が建立した石灯篭があります。
九州大学の名誉教授でもあった島出身の医学者であった操坦勁は、島に流刑でやってきた西郷どんから教えを受けるとともに栄寿鳳にも学んだそうで、寿鳳のお墓には操坦勁と門下生が建立した石灯篭があります。
門下生であった操坦勁は1893年生まれですので、寿鳳はそれ以前の生まれになります。恐らくですが、1830~1850年頃の生まれではないかと思われます。
寿鳳→①寿伯(妻が桂ケサ)→②寿紘→現代に続く
年代を見ると、お爺さまの記録にある①寿伯の父親が寿鳳だった可能性があります。
また、この栄家にはお爺さまの長女であった優子が嫁いでいます。母方の実家に嫁いだことになります。子孫の方も健在ですが、今となってはご先祖様のことは詳しくは分からないとのこと。
1つ気になっているのは、栄姓を名乗っている理由です。琉球時代の1568年に首里大屋子として沖永良部に赴任してきた栄吉久という人物がいます。島には10年ほどいたようで、1580年44歳で島で亡くなっています。
吉久には琉球にも家族がいましたが、島に滞在中に島にも家族がいた可能性があると考えるならば、栄家はその子孫の家である可能性もあるかもとしれないと勝手に考えております。
43.宗(万屋)11番の屋号佐久間の別れの家
屋号はマンヤやマーヤと言ったようで、明治期あたりに内城から仁志という地区に移住した家系です。11番の屋号佐久間の当主であった佐久行の次男であった池継の家系で、こちらのご先祖さまは、屋号上花城の2代目の池悦に繋がります。
この万屋の子孫の方とは、万屋と婚姻などで繋がりが深い沖家の方からの紹介で一度お電話でお話したことがあります。ご先祖さまが池悦に繋がっていることはご存知ではありませんでした。離れ離れになって分からなくなってしまったご先祖さまのことなどお話ができた貴重な時間でした。
佐久田→池悦→不明→不明→生悦→①佐久行→②池継→③池秀→④池弘→現代に続く
44.宗(池行)43番の兄の家
43番の兄の家で、こちらの家も仁志にあるそうです。屋号はソーヌ屋(宗の家)とも呼ばれていたようです。
佐久田→池悦→不明→不明→生悦→①佐久行→②佐久行→③池行→④久一→現代に続く
43番も44番もご先祖さまを辿れば屋号上花城に繋がり、上花城の始祖となるのは佐久田で、その嫡子であった池悦の子孫がこちらの家系です。佐久田や池悦に由来する名前をつけられていたことが分かりますね。
池悦以降不明となっている2名の方の名前が分かるといいのですが。
45.高橋(ミユスエ屋?)
謎の家系です。お爺さまの記録には苗字と屋号しか書かれていません。屋号も文字が判別しにくくて、ミユスエ屋が正しいのかが不明。
どこの地区にいらっしゃる高橋家かも不明です。
「境界性の人類学」という本を執筆された島出身の研究家である高橋孝代氏の家系のことなのか?
皆様の情報をお待ちしています。