31.武宮(屋号不明)29番と30番の兄弟の家
宗の本家から分かれた武宮家の初代である平安禮には、男子の子供が3名いたようで、こちらは3男であった惟明の家です。惟明の娘は、宗の本家の嫁となっています。
惟明→英夫→子孫不明
お爺さまの記録が無く、子孫の方が現代に続いているかは不明です。
29番~31番の武宮家の始祖となる平安禮の息子2人には、和泊町誌によればこのようなエピソードがありました。
慶應3年(1867年)に内城と玉城の間の川に自費を投じて石橋かける。
内城の横目:宗悦(本城家)、掟:平安明(平安禮の長男)とその弟である平安良(平安禮の次男)、和村の掟:玖米統(前家)。
内城の横目:宗悦(本城家)、掟:平安明(平安禮の長男)とその弟である平安良(平安禮の次男)、和村の掟:玖米統(前家)。
雨が降ると川の水量があがり、内城と玉城間の行き来ができなくなり困っていたため、宗家一族の家が自費を投じて川に石橋をかけて人々の生活を便利にしたようです。
32.平良(屋号不明)宗の本家3代目の平安統惟次の息子で分家した家
Vol.429の21番の桂家の話で出てきた平安純の家です。Vol.274にも平安純については書いていますが、宗の本家3代目の平安統惟次と妾との子供が平安純だったようです。
①平安純(1715年生まれ・唐通事)→②平安淳(1745年生まれ・津口横目)→③直政→④重照→現代に続く
3代目の直政の姉は屋号:上花城の7代目の佐久田の嫁であり、佐久田の姉か妹であった眞護は直政の嫁です。平良家と上花城とでは嫁の行き来があっていたようです。
33.平(フーナ)32番の平良家の分家
32番の平良家の3代目の直政の弟(三男)であった政清が分家した家です。
①政清→②政行(幼名は五良)→現代に続く
2代目の政行の妻は田皆の新納直秀の姉とあります。
34.宗(キジャイ)宗の本家7代目の平安統惟雄の息子であった平安隆の家系
平安隆は4男であったようです。平安隆の嫡子だった平安徳の娘である竹へと続く家で、その子孫には音楽家であった宗鳳悦氏がいます。
私が先祖調査をしていく中で繋がりができた方もこちらの家系の方ですが、特に音楽や芸術に優れた才能をお持ちの家系のようです。
35.桂(民二宮祢)26番の桂家(東宗)から分家した家
薩摩の武士であった桂民右衛門の養子となった長庵の息子の一人であった民二の家です。
民二には娘が二人(長女:チヨ、次女:ケサ)で、長女のチヨは本城宗佳に嫁ぎ、次女のケサは栄家に嫁いでいます。栄家は幕末の島の医者であった栄寿鳳の家です。この栄家の子孫である竹という女性が、お爺さまの妻となった人ですので、宗の本家の血筋がぐるっと回ってお爺の上花城に繋がっていたことが分かります。
ここまで見てきても、養子や婚姻などで島の有力者の家と繋がっていたことが分かります。
まだまだ整理が進んでいない宗家一族のデータですが、こうしてここに記録していくことで、新たに見えてきている繋がりもわかりますので、一族のデータ整理は貴重であると実感しています。