つれづれ日記(或いは日々雑感)

40代前半、人と少し違った道を行く筆者の、日常の雑感を綴ります

本村洋さん、夕夏ちゃん

2007-09-22 03:05:23 | 時事
表題の人名を見て、何のことか判る人は、もしかして少ないかもしれない。
或いは、判る人もいるかもしれない。
今現在進行中の、注目される裁判の被害者遺族であり、戦う遺族である人だからだ。
(男性の方ね。子供の名前は、被害女児、男性の娘。)
そう、山口県光市母子殺害事件だ。
今、最高裁から差し戻しとなり、差し戻し審が広島高裁で行われ、昨日、遺族である
本村洋さんの意見陳述が行われた。
その内容で、思ったこと。

この事件や裁判の経緯は、私は結構注目していて、かなりフォローしている。
(これは、私の母の故郷が山口のこの付近であること、私も山口生まれだということもある。)
だから、書こうと思えばかなりの分量書ける。
でも、なるべく避けたいと思う。知りたい人は、自分で調べてください。
概略の経緯は後述する。いろいろ書けるが、当事者にはばかるので書きたくないのだ。

思ったことは、本村洋さんが、“娘には自分の名前の由来すら話せなかった”と
意見陳述で述べたことが引き金だ。
(ちなみに、娘、夕夏ちゃんの享年は11ヶ月。)

ただ、“名前の由来”はもちろんここでは語られていないが、名前からして容易に
推測がつく。
この子が殺されたのは、8年前の4月14日。その時点で、11ヶ月。
ということは、生まれたのはその前の年の、5月の半ばから末頃だろう。
初夏、ということだ。
そして、名前に“夕”の字があることから、午後遅く、夕方に生まれたのだろう。
奥さんが生みの苦しみを乗り越えて、この子が誕生した時、時刻は夕方で、初夏、
美しい夕日が産室に射していたのではないか。
この夫妻は、娘の誕生を喜び、娘の名を、その美しい夕日からつけたのではないか。
多分そうだと思う。

そしてもう一つ、本村洋さんが意見陳述の中で、被告の元少年に対し言った言葉。
“「天網恢々、疎にして漏らさず」という言葉を君に伝えます。”
yahooの辞書によれば、この言葉の意味は、
“天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。
 悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。”
ということだ。
この被告元少年の置かれている状況に、これほどふさわしい言葉はない。

最後に、事件の概略を書く。東奥日報の記事による。URLも記載する。

光市母子殺害事件
http://www.toonippo.co.jp/news_hyakka/hyakka2007/0920_14.html

 1999年4月14日、山口県光市の本村洋(もとむら・ひろし)さん(31)方で、妻弥生(やよい)さん=当時(23)=が絞殺後乱暴され、長女夕夏(ゆうか)ちゃん=当時(11カ月)=も床にたたきつけられた上、絞殺されているのが見つかった。4日後に18歳だった元少年を逮捕。元少年は一審山口地裁の公判で起訴事実を認め、検察側は死刑を求刑した。一審に続き二審判決も無期懲役で、検察側が上告。最高裁は06年6月、「特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない」として二審判決を破棄、審理を広島高裁に差し戻した。

付け加えるなら、被告元少年は、1,2審では起訴事実を認め、死刑が免除される18歳を
少し過ぎたばかりであったこと、年少である事から今後、反省・更生の可能性が
あるとして、情状酌量により無期懲役の判決を下された。
(日本の司法では、総じて2人以上を殺害した場合、死刑が下される例が多い。
しかし、更生の余地が考えられるとして、未成年には死刑の判決を下すことに慎重である。
(18以下は原則、死刑に問われず、18~20歳でもかなり慎重である。)
これらは、かなり以前の永山という未成年(犯行当時18歳前後)の犯罪者が、
4人を殺害して死刑となった判例で示された基準(永山基準と呼ばれる)を使用して
判断される場合が多い。)

しかし、この元少年は、刑務所で知り合った知人に(ふざけの要素もあるが)遺族と事件を
嘲笑する手紙を書き、それが最高裁で“更生の余地、反省の態度があるとはいえない”
という判断につながった。
このことから最高裁は、18歳になったばかりという年齢が、“決定的に酌むべき
事情にあたらない”として、高裁に差し戻した。
高裁での審議が行われる際、弁護士団が変わり、主に死刑廃止論を唱える人々が
弁護団を結成した。(これは、凶悪事件の弁護士の引き受け手がないことにもよる。)
弁護団が変わった後、差し戻し審での被告の主張は以前と全く変わり、性的暴行の意思、
殺意共なく、全ては軽いいたずらによる偶発事であり、死後の姦淫は“死者を
生き返らせようと思ってやった”ことと主張した。また、娘への殺意も否定し、
“遊んでやろうとしただけ”とした。

つまり、敢えて考えれば、新しい弁護団は、“年齢と反省の態度により情状酌量で
死刑を免れる”ことが出来なくなったので、
“元から殺意はなく、事故だった”“事件は被告の、生育環境等による未熟さに
よって偶発的に起こった”→だから、死刑判決は不当であり避けるべき
という戦法で、裁判を争う積りであるのではと考えられる。
 
この元少年の生育環境は不遇である。父親は暴力的で、母は自殺、継母がいる。
だが、この事件は、生育環境で免罪される範囲を超えている(事実が1,2審通り
であれば。多分そうだと思うが)。
知り合いに出した遺族を嘲弄する手紙には、かなり高度な知能が見て取れる。
(少なくとも、うまく言いぬけて罪を逃れようとするずるさくらいは持ち合わせている。)
知能を持つものには、責任が伴う。心神耗弱状態なら仕方がないが、生育環境が
劣悪であることは、罪を逃れる理由にはならない。

この事例は、死刑廃止論や弁護士のあり方、などにもからんでしまうので、これ以上の
詳述は避けたい。
ただ、一つだけ、私の考えとして書かせて貰いたいのは、“弁護士は必要不可欠、
どんな場合でも”ということだ。(一見、上に書いたのと逆みたいに見えるが。)
裁判は、文明以前に、揉め事が起こった際、武器による戦闘(決闘)で決着をつけていた
決着の付け方を、決闘によらず、血を流すことなく解決する手段だ。
つまり、法廷とは、“武器によらない、言葉による決闘の場”なのである。
当然、言葉を武器にする弁護士という味方を、関わるもの全て(原告被告双方)が
持つ権利がある。これは、絶対の鉄則である。
凶悪事件では、弁護士が付きにくく、また付いた弁護士は社会的な攻撃を受ける場合が
多いが、それは間違っている(原則は)。
凶悪事件(例えばオウムの事件とか)では、弁護士をつけることすら疑問視する意見を持つ
人もいる(家主の友人にもいた)が、どんな人にも弁護士に守ってもらう権利がある。

すいません、また長くなって、しかも“語って”しまった。よそうと思ってたのだけど。
これでやめます。多分、判決まではもう書きません。
ただ、私はこの事件について、ずっとフォローしていく積りです。
“福岡海の中道飲酒運転事故(3児死亡事故)”も同様です。

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