つれづれ日記(或いは日々雑感)

40代前半、人と少し違った道を行く筆者の、日常の雑感を綴ります

胸に痛いドラマ(大河ドラマ)

2006-11-03 22:35:52 | 芸能
えっと、かなり更新が滞ってしまった。
雅子様のこととか、トールキンのこととか(追伸、実はもう書きあがっている)
書きたいのだが、暇がない(というか、そういうことしてていいのかなという
状況なので、自制したりしていた)。
でも、ちょっと余裕が出たので、最近感じたこと(別件)を少し。

私は結構NHK(ドラマ、ニュース、ドキュメンタリー共)を見る。
ことに、大河ドラマは、惰性もあるが欠かさず見ている。
(まあ、最近あまり“ものすごく面白い”っていうのはないが。)

でも、今やっている「功名が辻」は、特に華々しい話ではないが、結構最近は
面白く見ている。山内一豊とその妻、千代(内助の功で有名)の一代記だ。
尾張の一小領主から、実直無骨単純(純粋)な一豊が、彼を愛する妻の千代の
助けもあり、ついには土佐20万石の領主になるまでの話だ。
つまり、戦国時代に生きた、中堅の実直な成功者(かつ夫婦愛)の話、というか。

でも、最近、そろそろ関が原なのだが、胸に迫るような内容が続いているのだ。
彼ら(一豊の盟友達を含めて)は、戦国時代の三傑(信長、秀吉、家康)に仕え、
かなり翻弄されながら生きた人々だ。
特に、秀吉の没後、関が原直前というのは、豊臣への忠誠か、徳川に従っての
家の存続かで、全大名が悩みに悩んだ時期なのだ。
一豊たち(他友人2人(堀尾、中村))は、特に、豊臣恩顧の旧臣だったので、
悩みに悩む。
性格付けとしては、一豊が一番無骨で実直、つまり素直で単純、いわゆる
”男らしい”タイプ。中村一氏は、どちらかというと計算高く利にさとい
タイプ、そして堀尾は、ある程度腹芸が出来てかつつりあいも取れている
タイプという印象だった。
この三人は、若いころから、よきライバルとして出世競争をしていたわけだ。
(ちなみに、妻同士も仲がよく、寧々とも親しい。)

その3人の、いわば結束が、ここにきて崩れる。
意外にもまず徳川に付くことに決めるのは堀尾で、”家の為”と、一豊に
土下座して謝り、告げる。自身は隠居して、嫡男に参戦させると。
そして次が中村一氏。彼は意外にも、“自分は絶対豊臣を裏切らない”と
言っていたのだが、不幸にして労咳(結核)にかかり、余命いくばくもなくなる。
そして、一豊が領地に来た家康をもてなしているときに、次に(国の並びからして)
中村を訪ねることになっていたところに、家来が“病身に付き参内不可能”であると
家康方に告げ、徳川家臣の不審を招く。
そこに、もてなしの席に(家臣の行動がどういう事態を招くかを察して)
病身を押して訪れ(蓬髪として、咳がひどく、立っていられない状態)、
“弟に参陣させるので、よしなに”(=徳川方に付く)と申し出る。
家康はもちろん嘉納する。

その後の一豊との会話。
“家は、潰せぬ””功名を競った若き日が、もはや夢のようじゃ”
“この先は、おぬし一人で走れ”
そして、家来の肩を借りて去っていくのだが、
廊下の少し先で、一豊を振り返って、言う。蓬髪の頭(髷がざんばらに乱れて
いる)で。
”功名を!”
・・・胸に迫ってくる言葉だ。

この後、一豊も、情勢から(大阪から千代が、毛利家(中国の)の分裂を報告
した)、家存続の為徳川に付くことになる。
他にも千代の内助や機転、一豊の行動などにより、山内家は結構うまく情勢を
乗り切る。が、それは脇に置いておいて(面白いけど)。

そういえば、数年前に大河でもあった前田利家の話(利家とまつ)の利家も、
単純素朴、真面目純情無骨な利家を、妻のまつが内助の功で加賀百万石の領主に
し、かつ死後(秀吉の死後すぐに彼も他界する)、家康の無理難題をいなして
家を守った、という話だ。
これは、利家が秀吉と同輩であったので大大名になったのだが、一豊たちの話の
方が、本当の中堅の苦悩の話という感じで興味深い。


もう一つ、胸が痛い場面。
意外だが、細川ガラシャの死。
石田方の命で、大阪屋敷に人質として残され、城に入るよう強要され、そういう
場合は死を選ぶよう夫に命ぜられていたので、そのようにする。
ただし、キリシタンで自害は禁じられていたので、夫の命を受けた家来の手にかかる。
先に書いておくと、ガラシャはかなり気の強い女性で、こういう結果になったのも、
夫婦の不和の為という説も有力だ。ただ、NHKなので、教科書的に模範解答で
済ませているが。(ついでに言うと、彼女はかの明智光秀の娘だ。)

いや、その死(かなり覚悟の上の、潔く美しい死だが)についても、ちょっと
置いておいて。
ガラシャの最後の祈りが、心に残った(胸に痛い、という程ではないかもしれないが)。
御座の間の向こうから、槍を構え、自分を刺そうとする家来を目前にし、
クルス(十字架のついた数珠)をかけた手を胸の前に合わせ、祈るのだ。
”ガラサ満ち満ちたもう、マリアに、御願いを奉る。
 デウスの母なるサンタマリア、今も、そして死の時も、われら悪人の為に
 恃みたまえ。”
そして、手を下ろし、家来に胸を突かれて最期を遂げる。
(もちろん家来も、用意した白い布をガラシャにかけた後、切腹する。
 また、デウスは、当時の用語で神(キリスト)のことだ。)

いや、長くなっちゃったが、何が心にかかったかって言うと、“ガラサ”という
言葉なのだ。
意味は、聖寵、恩寵という意味である。
そして勿論、ガラシャの洗礼名の由来でもある。“恩寵”という名であったのだ、
彼女は。
何か、胸につまされる話だ。