引き続き1975年の飯田線電車運用を掲載します。こちらの資料は当時伊那松島機関区で頂いたものです。まだトナーを使った乾式コピー機がさほど普及していない頃で、青焼きのコピーです。
当時流電は豊橋機関区McTTMcの30番台運用に就いており、飯田線北部では夜中しか走らなかったので、北部で流電を撮ることは困難でした。またクハユニ56は豊橋機関区に配属され、TpgcMcMcの三連で運用されていました。この三連の電動車にはクモハ42が使われることが多かったです。出力が小さめ立ったこともその理由でしょう。ただそのためパンタを前にしたクモハ42の撮影は非常に困難でした。
また伊那松島にはクハ55改造のクハニ67がいましたし、中部天竜にも小所帯ながら車両の配置がありました。元流電中間車のクハ47などが配置されていました。
残念ながら78年の80系投入でクモハ42や流電一族など、戦前型旧国の多数が廃車になってしまいましたが...
当時流電は豊橋機関区McTTMcの30番台運用に就いており、飯田線北部では夜中しか走らなかったので、北部で流電を撮ることは困難でした。またクハユニ56は豊橋機関区に配属され、TpgcMcMcの三連で運用されていました。この三連の電動車にはクモハ42が使われることが多かったです。出力が小さめ立ったこともその理由でしょう。ただそのためパンタを前にしたクモハ42の撮影は非常に困難でした。
また伊那松島にはクハ55改造のクハニ67がいましたし、中部天竜にも小所帯ながら車両の配置がありました。元流電中間車のクハ47などが配置されていました。
残念ながら78年の80系投入でクモハ42や流電一族など、戦前型旧国の多数が廃車になってしまいましたが...