さて、クモハ43013に乗車した日、それと相棒を組んでいたのがクハ47116 (静ママ) でした。理想的なかつての関西急電の再現コンビだった訳ですが... 惜しむらくは運転台窓がHゴムされていた点と、幌枠が完全に撤去され関西急電らしくない関東顔になっていた点。とはいえ写真を紹介します。
そしてクハ47に設置されていた便所の写真です。
床下も失礼します。
そして642Mで本長篠に向けて中部天竜を出発した、伊那松島機関区第78運用 (クハ47116+クモハ43013)+第76運用 (クハ68408+クモハ54009)を含む編成 (1976.5)。この写真を見ると緑深い峡谷にこだまするタイフォンの音が鮮明に思い出されます。
さて本車の車歴ですが、
1933.12.26田中車輌製造(クハ58016)→1934.7.30使用開始 (大ミハ) →1950.2.28更新修繕I(吹田工機部)→1950.9.16東チタ→(1951年頃?)東イト→1953.6.1改番(クハ47116)→1954.7静トヨ→1954.7.19WC取付※→1954.9静フシ→1958.5静トヨ→1971.7.31静ママ→[1975-6, 77-6全般検査浜松工]→1978.10.19静トヨ→1978.12.20廃車
資料は『関西国電50年』および『鉄道ピクトリアル』のバックナンバー (一部現車確認) です。
※『関西国電50年』には1950.7.19WC取付けとありますが、WC取り付けは静岡局転出後と思われますので、訂正しました。
伊東線 (田町電車区伊東支区) 転入の時期ですが、後年小野田線で運用されたクモハ42が1951.3に横須賀線から伊東線に転用されているので、おそらく同時期と推定されます。
また、1954年に田町電車区伊東支区から豊橋機関区に転入しすぐ富士電車区に転出していますが、静トヨ転入はおそらくWC取付けや偶数向きから奇数向きに方向転換するために豊川分工場 (推定) で施行するための (更新修繕IIもその時実施?) 一時的な措置だったと思われます。
上にも触れたように完全に幌枠が撤去されているのが残念ですが、これは静ママ転出後撤去されたのでしょうか?それとも静フシにいたとき既に撤去されていたのでしょうか?
本車も残念ながらクモハ43013と共に80系に押し出されて廃車になってしまいました。
そしてクハ47に設置されていた便所の写真です。
床下も失礼します。
そして642Mで本長篠に向けて中部天竜を出発した、伊那松島機関区第78運用 (クハ47116+クモハ43013)+第76運用 (クハ68408+クモハ54009)を含む編成 (1976.5)。この写真を見ると緑深い峡谷にこだまするタイフォンの音が鮮明に思い出されます。
さて本車の車歴ですが、
1933.12.26田中車輌製造(クハ58016)→1934.7.30使用開始 (大ミハ) →1950.2.28更新修繕I(吹田工機部)→1950.9.16東チタ→(1951年頃?)東イト→1953.6.1改番(クハ47116)→1954.7静トヨ→1954.7.19WC取付※→1954.9静フシ→1958.5静トヨ→1971.7.31静ママ→[1975-6, 77-6全般検査浜松工]→1978.10.19静トヨ→1978.12.20廃車
資料は『関西国電50年』および『鉄道ピクトリアル』のバックナンバー (一部現車確認) です。
※『関西国電50年』には1950.7.19WC取付けとありますが、WC取り付けは静岡局転出後と思われますので、訂正しました。
伊東線 (田町電車区伊東支区) 転入の時期ですが、後年小野田線で運用されたクモハ42が1951.3に横須賀線から伊東線に転用されているので、おそらく同時期と推定されます。
また、1954年に田町電車区伊東支区から豊橋機関区に転入しすぐ富士電車区に転出していますが、静トヨ転入はおそらくWC取付けや偶数向きから奇数向きに方向転換するために豊川分工場 (推定) で施行するための (更新修繕IIもその時実施?) 一時的な措置だったと思われます。
上にも触れたように完全に幌枠が撤去されているのが残念ですが、これは静ママ転出後撤去されたのでしょうか?それとも静フシにいたとき既に撤去されていたのでしょうか?
本車も残念ながらクモハ43013と共に80系に押し出されて廃車になってしまいました。
KATOのクモハ53000-クハ47153セットが出た時、同時発売のクモハ42009-クモハ42013-クハユニ56011セットの中間のクモハ42013を、昭和53年3月時点でクハユニ56011と組んでいたクモハ50000に差し替えることを考えて、クモハ53000-クハ47153セットをもう1つ購入したのですが、クモハ50000への加工を決行する前にKATOよりクモハ51200-クハ47102セットが発表され、一部扉窓の加工が必要な以外は中央扉がすでに付いていること等クモハ50000への加工のベースとしてはずっと楽なため、クモハ53000-クハ47153セットをもう1セット購入することに変更して、購入済みのクモハ53000は保留車になっていました。
この保留のクモハ53000の転用先として、飯田線の同形車を探して、クモハ43013-クハ47116の編成に目を付けました。クハ47の方は上記のクモハ50000転用で発生する予定のクハ47102を転用する計画です。
また、保留のクモハ53000と組んでいたクハ47153は流電の中間車のサハ47034に改造することを考えていたのですが、サハ47034そのものが発売されたため、クハ47155へ加工しました。編成相手のクモハ54110は昭和58年時点の編成相手のクハ47069とともに現在製作中です。
かなり前の「我が心の飯田線掲示板」でHゴム窓の寸法が話題になったことがあります。昭和40年ごろから関西の国電で見られたHゴム窓のうち、縦長のものはクモハ73形全金更新車の前面窓と寸法がほぼ同じです。また、ほぼ正方形の窓はキハ20型等の気動車とほぼ寸法が同じです。これよりも前の昭和30年代後半に試験的にHゴム窓に改造されたと思われる車(鶴見線のクハ79202など)は窓が少し大きいことが確認されました。この時にクハ47100台のHゴム窓を話題になり、後の大阪型のHゴム窓よりも一回り大きいことが確認されました。
幌枠なのですが、クハ47100台は多くの車が昭和30年代に流電と組んで飯田線快速運用に入っており、この時は中間に入って「サハ代用」になるため、貫通路を機能させていました。「我が心の飯田線」中で芝生さんが「1950年代の車輌小史」と題して当時の飯田線の車両の動向を記述しているのですが、この中でクハ47116も快速運用に入っています。例えば1959年に芝生さんが観察した豊橋機関区32運用は
52001-47116-47108-52002
の編成で、この時は貫通路が機能していたことは間違いありません。豊橋に残留したクハ47100台は末期まで30番台運用に入っていたために貫通路が機能していた(クハ47114等)ので、確実に貫通路を使わなくなったのは伊那松島転入後になります。このため、幌枠の撤去の下限は伊那松島転属後の早い時期(1974年には幌枠の撤去を確認済み)に行われた可能性が高いと考えられます。
たしか47100代に更新修繕II非以降Hゴム支持の車はなかったと思いますが、それがちょっと残念です。